00:06
おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト1097回をお送りします。
11月27日水曜日、朝7時42分です。
いやー、いきなり暖かくなりました。湿度も上がったしね。昨日大雨降ったんで。
私は元気ですっていうね。魔女の宅急便みたいなことを言っておりますが。
自分は随分元気になったなぁと。全く体調を崩すってことがなくなったんですよ。
これも、7部はグッドバイブスなんですね。今日少しその話をしたいと思うんですけど。
2部が精神分析かな。違うな。7割がグッドバイブス。あるいは6割。まあいいや。大半がグッドバイブス。
いくらかは多分、年を取ったことと関係がある気がします。
それと、年を取ってなぜ健康になるんだっていうのもあるんですけど、本当にそういう気がするんですね。
例えば、母嬰暴食とかできなくなったんですよ。大きいんじゃないかなと思ってるんですよね。
このある種の制限を自分でかけるのが自然になってきたっていうことが。
例えばですね、若い頃は結構僕はそう見えないんだけど、運動をする人間なんですよね。
ポーズファンっていうのは僕の体質にはすこぶる合わないんだけど、でもテニスとかずっと週に、多い時では週3回とかテニスやってましたからね。
あれかなり運動量になりますから怪我するしね。こういうことしなくなったんですよ。できなくなったんですよね。
で、怪我しなくなるじゃないですか。なんかこういう感じなんですね。僕の実は健康って。あとの1割弱ぐらいが精神分析。
精神分析で健康になった分、でかいですよね。なんかとどめを刺したっていうのが僕の中ではしっくりくるんですよ。
健康になってたんだけど、いまいち。例えばグッドワイプスで健康になるっていうのは結構ね、僕の中でやっぱりこう、
ふわっとなっちゃうんですよね。あれは倉園恵同さんという人のすごいところなんですよ。なんか身体感覚に直接働きかけられるみたいな。
僕、グッドワイプス体験っていうのはですね、今後そのうちなんとかこれをうまくまとめようと思ったんだけど、なぜそれができてないかというとテキスト向きじゃないところがあるんですよ。
倉園さんとのワンオンワンを直に聞くっていうのがやっぱり、この辺精神分析で強調されていることなんでね、直に対面で聞くってことに、あれはね大きな意味があるんですよね。
03:03
言われること変わらないですよ。なんなら僕とのyoutubeなりを聞いていただいて、もう内容変わらないはずです。
ただ、やっぱ彼のあの辺は何なんですかね。僕は勝手にそれが彼がボーカリストであることと関係があると思っているんだけれども、そうなんですよ。そう思いますね私は。
なんかこうちょっと違うんですよね。いわゆる僕のカウンセリング体験、これについても後ほどしゃべりますね。
カウンセリングに比較してもですね、違うものがある。カウンセリングってのはやっぱりこうああいう感じではないんですよね。
カリスマのカウンセラーってああいう感じなのかもしれないですね。こんなわけで今日はちょっとその話をしようと思っております。
お知らせは飛ばして、なぜなら今日はちょっと私も寝不足でしてまた寝たいと思ってるんで、まず一旦ですねお知らせは飛ばしまして、いきなり本題だけいきますが、最近あのね
Spotifyのアナリティクスは僕見られないという馬鹿げた状況になってしまってて、スタンドFMだけの方で見てると
激減してるんですよね、リスナーさんが。これはやむを得ないと思っておりますけど、多分タイトルがいけないんですね。あとSNSで僕もう流してないんで
流さなければいけないかなと思ってるんですけど、なんかね、SNSで他から他でやっているものをそこに引っ張ってくるというのが
気が乗らないんですよね。気が乗らないっていうのが本当、僕の最近の一つの独特の方向性で気が乗らないことはしない。
そんなことが許されるのかって言われても、それを許す自分でありたいっていうのもあってですね、気が乗らないなって思ったことは全部やんないんですよ。
結構すごいことになっちゃうんですけどね。でも何にも問題は起きないんですよね、これがね。不満に思っている方いらっしゃると思うんですけど
不満に思う方が不満に思うのは不満に思う自由ですよね。なんかね、これが僕最近すごい
尊重すればいけないって思うようになったんですよね。昔とその辺すごい考え方が、やっぱ年を取ったってことあると思いますね。
グッドライブスの影響って言ってしまえばそうでもいいんですけど、年取ったことも大きいなって思いますね。
人には不満に思う自由があるような気がする。 僕に対して不満を持つものを
人に不満を持たないように僕がこうとすることができる。こうとって僕感じるんですよ。
なんて言うんですかね、外面を良くするっていう表現をしてもいいし、あるいはおもんぱかるでもいいんです。気遣うでもいいですよ。
06:00
でも気遣ってしまうと、つまり気遣われた人は、つまり私に対して率直な気持ちにはなれないってことになりますよね。
炎上というのは僕はちょっと違うと思うんですよね。 人に不満を持たれなくないというお話を伺った時に僕が
あのすぐに用意できないのは多分この点なんですよ。 人は私に不満を持つ自由があると思うんですよね。
僕はやっぱりね、なんかこれは父親の影響だと思うんですけど、やや過剰な自由主義者みたいなところなんですよね。
自由主義、原理主義者みたいな。 だから僕、今はそこまでじゃないけど社会主義国って本当ダメだったんですよ。
なんかよくあんなことを本当やってられるなぁみたいな、いやしょうがないじゃんってのはわかるんですよね。
そんなに簡単に反対制とかやれないですしね、この国でさえね簡単じゃないんだから社会主義国で反対制って命懸けになっちゃいますもんね。
命懸けることのことかよって言われると、もちろんそれはそうは思わないけれども、私なんかはね。
でもあの僕はですね、やっぱり人はその人を自由にさせておくのが、一番その人をパフォーマンスでもなんでもよくするんだみたいなところあるんですよ。
ちょっと新自由主義に寄っちゃうんですけどね、あんまりこれいくと。 でも僕に対して不満を覚える、僕のことを不快に思うということを
私が取り繕って、そうそう取り繕うって言葉が多い。 取り繕ってまで押し留める権利が俺にあるかと言うとない感じがするんですよ。
全くない感じがする。 だから不満に思う自由ってあるだろうと。
不満に思うということは不愉快なんだけど、どっかやっぱり独特の達成感がね、まあこれグッドファイブス的ではないですよ。
でもあの僕はそう思わなくはないんですよね。 やっぱりこう、人には
なるべくその人のまんまであるのがいいと思うんで、僕は自分があるがままであると、このことを不愉快に思うというのはその人のあるがままじゃないですか。
それは良いことだろうなぁ、だろうなぁって思うんですよね。悪いことだとは思えないなという感じがする。
そこを僕があるがままであることをやめて表面取り繕った挙句、 私に対して本来不満を持つはずだった人が、その不満をどこかで止めてしまわざるを得なくなる。
って感じがするんですよ。取り繕ったからって言って愉快にはなんないと思うんですよね。 愉快であることをセーブしなければならなくなるだけなような気がする。
ってことは僕が取り繕うと、誰かの不満を、不快に思うのを止めるように強いることになっちゃうんじゃないかなっていう感じがするんですよ。
この解釈の仕方は異常かもしれないんだけど、 最近は私はそう思うんですよね。
まあまあ、でもこれは個人的な話ですね。この考えを世に広めたいとかは思わない。 ただ喋ってるだけみたいな感じですね。
09:07
本題なんですが、今のは余談ね。 上田克久さん役のトーマス・オグデンの
生を取り戻すを読んでいるわけですが、これいいんですよね。 僕が知りたかったウィニコットの環境としての母親との関係とか、それが破綻するとどうなるのかみたいな話を細かく解説してくれて、これはかなり欲しかった本の一つですね。
こういう話を間近で誰かに聞きたいんだっていうのがあったんで、でもそれは僕には無理なんで、読んでるわけですね。
昨日お話もした人にですね、 上田さんは臨床心理師になりたかったのかって言われて、これは良い質問だなぁと思ったんですよ。
私、臨床心理師になりたくなかったんですよね。 今はつくづくならなくて良かったなって思ってるんですよ。 これにはいろんな意味があるんだけど、なりたくなかったことは確かなんですよね。
僕という人間は、僕自身にとっては結構残念なことでもあるんですけど、 第一の欲望を満たすことは、決して自分の人生に良い結果をもたらさないんですよね。
僕はいつもその第一の人生の一番メインストリートにいる時に、そのセカンドな側面でその後を生きてるんですよ。 これがすっごい良いんですよね。
大変な話なんですけど、今でも思い出すのは、 私大学時代にロストエフスキーの地下室の主義って本にハマったんですよ。
多分一番読んでますね。一番回数多く読んでます。 長説の中では間違いなく。多分全ての本の中で間違いないと思うんですよね。
で、あれの冒頭の一文が私は、冒頭の一文にも惹かれたんですよね。 あれ、僕は病んだ人間だっていう。
まあ訳し方はいろいろあるんですけど、僕は病的な人間だって訳してもらったと思うんですけど、そういう一文なんですよ。
私はこれがですね、あのトンネルを抜けたらそこは雪国だったに、 超えたんですよね、僕の中で。
僕は病んだ人間だっていうのは、これもすごい良かった。 何が良かったっていうと、私小説書くなら絶対このユーニッチ文から始めたって思ったんですよ。
このね、僕は病んだ人間だって、たわみがない感じもするんだけど、
一文目にロストエフスキーほどの作家が、当時すでにあれを書いた時、すでに売れっ子だったはずなんでね。
絶対第一文目に気をつけない小説家なんていないじゃないですか。 素人だって気をつけますよね、第一文目は。
だって第一文目を読んですぐにやめる読者ってめちゃくちゃ多いはずなんですよ。
12:03
第一文目に僕は病んだ人間だを持ってこれるっていうのは、実に良いなと思ったんですよね。
最も大事じゃないですか、第一文なんて。 最終文も同じくらい大事かもしれないけど、第一文以上に大事な文はないと思うんです。
だからトンネルを抜けたらそこは雪国だったのか、我輩は猫であるなわけですよ。
これが僕は病んだ人間だですもんね。 で、僕は病んだ人間だっていう言い方をするってことはね、その人はずっと自分のことをそう規定してるはずなんですよ。
まああの地下室の主人公ってまさにそういうタイプで、あの人自分病んでるなってことを白口中念頭に向いて生きてる人だと思うんですよ。
まさに大学時代の私がそうだったんですよ。 だからそれ以来私はドステフスキーは結局大学時代中に全部5週ずつぐらいはすることになっちゃうんですけど、
そのことをね、大学の恩師、DHロレンスゼミの教授に喋ったことがあったら、君それはダメだろうって言われたんですよ。
そのドステフスキーをそんなに愛読している人間がロレンスのゼミに入っててどうするんだって言うんですよね。
それは確かに最もだなと思ったんですよ。つくづく本当にその通りですって思ったんだけど、
だけど先生、うちの大学にドステフスキーゼミなんてないじゃないですかって言ったら、
まあそれはね、要するにお前学科が間違ってんだよって言われて終わる話なんだけど、その先生がね、そうだなーって言ってそのまま物思いに入っていったのをまだ記憶してるんですけど、
つまり僕の人生ってそうなんですよね。そうだなーにどういう意味があったのか僕には分からなかったんですけど、
僕という人間は前も言ったようにひもてでですね、ひもてって正しくないのかもしれないけど、とにかく彼女が欲しくて全然できなくて、
結局大学にいる間4年間で一人たりともできなくて、だからずっと童貞だったわけですけれども、
その間アダルトビデオばっかり借りて、昼ばっかり酒飲んで、時々ロレンスを読むというわけわからんことをやってたんだけど、
僕にとっての大事な側面はセカンダリーにあるんですよね。あの時はドステフスキーとD.H.ロレンスに会ったんですよ、の全部。
間違いなくあの私が大学時代にもう一人、コリン・ウィルソンっていうね、今では犯罪学者みたいに思われてる人がいるんだけど、オカルトの先生みたいに思われてる人もいるな。
まあいずれにしても僕はあのドステフスキーはコリン・ウィルソンから知ったんでね、知ったわけじゃないですよ、ドステフスキーの名前は。みんな知ってますよね、罪と罰、依頼。
僕はそんなものは読まないんで、あの絶対学校の推薦図書なんて読まない人間なんで、あの死んでしまえぐらいなノリなんで、
あの推薦図書なんてものは家の焼却炉で全て燃やして親にピトク叱られたっていうことがある。家に焼却炉あったんですよ。
寺ってあるんですよ、結構ね。いろいろ燃やすものがあるんで。まあどうでもいいものを燃やすんですけどもね。
15:03
うちなんか、うちの親父が書道とかやってて、アホみたいに書くんですよ。もう迷惑極まりないので、1ヶ月で1000枚ぐらい書いちゃうんですよ。
版紙じゃないですよ。条服みたいな長いやつで1000枚ぐらい書き上がるんで、家中めっちゃ臭くなるんですよ。炭って腐るんですよね、夏場ね。
それ燃やすわけ、ガンガン。その時に僕はね、教科書とか推薦図書とか燃やしましたね。
なんかこう、だからね、おかしいんですよね。全然頭がなんか普通に育ってないんですよ。
家普通なんですけどね。私3ヶ月チャレンジというのをやってて、つくづく思うんですよね。
良かったなと思う面もあるんですけど、うちってまともだよなーって思うんですよ、親がね。
なんで私はこのような感性を持って育っているのかわからないぐらい、うちって随分まともな両親なんだなーっていうのを思うんだけれども、
両親がどんなにまともでもね、やっぱりこう、私はそういう推薦図書を燃やしまくる人間だったし、
肉親は統合主張症だしみたいに、親がおかしいから子供がおかしくなる説は僕は全く納得しないですね。
親はまともだったけどね。で、めちゃくちゃ教育的で強圧的とかってわけでもなかったんですよ。
やっぱり僕はですね、面親的現実って言葉が、つくづく親がまともであることと、その親がまともに見えることはイコールではないんですよ。
私はやっぱりね、親を憎んでたんだと思うんですよね。心の中の親を。もちろんそれは現実の親だと僕は当時、思春期時代は思ってましたけど、
ものすごい私は心の中で自分の親を憎んでたんでしょうね。それがどういう憎しみかもよくわかってなかったんですよね。
だから単純に言って母親をめちゃくちゃレープしたかったんですよね。
精神的にね、これが僕精神的にっていうのがすごい大事なんです。身体的にはほぼ興味がなかった。
だからすごいこう、そういう病んだ人間だっていう自分がね、僕にものすごい電撃的だったんですよ。
はっきり言って地下室の手記って人にお勧めできないです。大した作品だと思うんですけど、僕あれいい作品だとは思わないですね。
やっぱり小説というのは私にとってはなんですけど、トルストイが筆頭で最高峰で、なんでロシアなんだろうね。
でもトルストイが最高峰で一番いいのはあんな華麗になるって僕は思ったんですよ。やっぱり小説の題材に一番いいのは不倫だなって思うんですよね。
あんなね、地下室の手記、ああいうなんかこう、病んだ人のエッセイみたいなものは小説、いかにも詩小説っぽい作品として仕上がりますけど、正直芸術的とは僕は思わないですね。
18:03
ドステフスキーに対してこれを僕が言うのはアホみたいですけど、いいとは思わないです。
僕が思っているのはただ、あの時ドステフスキーっていう作家を読んでたのは全く僕にとってくだらないことだったんですけれども、大変意味のあることだったんです。セカンダリなんです。
ファーストはもちろん彼女を作りに行ったんで、DHロレンスのゼミになんで入ったのって、なんで僕のゼミなんかに入ったんだって言われたんですけどね、その教授に。
だって先生モテるしね、モテる先生身近で見てれば彼女の一人ぐらいできると思ったっていう話をしたら、あの、なんていうのかな、君は見る目が全然ないっていう風に言われたんだけど、僕はそうは思わないんですよね。
いずれにしてもロレンスゼミに入ったことと彼女ができることに何の相関関係もなかったんですけど、でも第一の目標は彼女を作ることだったけど、そこで得たものはでかかったんですよ。
彼女はできなかったけどね。これがセカンダリなんですよ。同じように僕は、今やってることってメインストリームはファスクシュート協会の理事ですけど、セカンダリでやってることは臨床心理崩れみたいな感じになっていて、ここが僕はやっぱり大事だなって思うんですよ。
で、その臨床心理崩れっていうことは、じゃあなんでメインストリームは臨床心理師にしなかったんだっていうポイントに対してはしなくてよかったなって思うんですよ。
まあできなかったなって思うところもあるんですよ。上田勝久さんのなんでさっき性を取り戻すの話したかっていうとですね。上田勝久さんっていう人は、たぶんこれを聞いてる方ならご存知かな。
でもそんなに日本ですごい知られてるとは思わないんですけど、すごい人なんですよ。兄弟の大学院を出ていて、心理学コースで準教授とかやっていらっしゃるんですよ。
いやもうだってね、いかに僕にこういうことができないかってことですよね。僕より6つぐらい年下なのかな。5つぐらいは年下なんですよね。なんかすごいですよね。
なぜこの私のような人間の、さっきの話からするとめちゃくちゃじゃないですか。やってることがもう尻滅裂ですよね。大学も男女比で入ってるしね。でこの大学の女の子と付き合えたらいいなっていう大学以外は大学なんて探さなかったわけですよ。
親の金使ってこれやってるんですからね。本気でやってるんですよしかも。でも一人もできないですよしかも。それで成果が上がればまだマシだけど、何の成果も上がってないわけですよ。そしてやりたくもなんともない興味がかけらほどもなかったDHロレンスのゼミに入って、そこでDHロレンスばっかり読んで卒論書いて、それと就職の関係は何の関係もないですよ私はやっぱり。
21:00
だってその後ドコモサービスがに勤めて、ドコモサービスと英文学に何の関係があるのか全くないですよね。独教大学の英語学科を出なくても出てもドコモサービスにはいけるし、ドコモサービスに行く上で多分全く1ミリも意味のない経歴だったと思うんですよ。
そういう僕の破綻した人生では臨床心理師とかなれないし、京都大学とか出られないんですよ。入りもしないし、そういう人間ではね。
なんでこの上田勝久さんとかね、奥伝とかね、こういうこの社会適応度の高さと、この私のような人間の心理が理解できる病理とどうやって両立させてるのかなというのが不思議でたまらないんですね。
僕は両立しないんで、どうしても社会適応の方を犠牲にしちゃうわけですよ。無理なんですよね。あの公認心理師の、臨床心理師のですけど、テストみたいなのを見たことがあるんですけど、本当こんなの絶対俺無理だわって。でもやってられないわって感じなんですよね。
皆さんにお伝えしたいのは、こういう人間でもサバイブはできますってことなんで。何とか大学は出られたし、何とか食ってはいけてるじゃないですか。ここを言いたいんです。別に母親をレイプするAVばっかり見てても大丈夫なんですよ。何とか社会適応はやれる。少なくとも日本に生きてる限りは無理ではない。
時々一問なしとかになりかねない時があるんですけど、私大学出てすぐはほぼニートだったんで、ほぼ一問なしで。親とかもめっちゃもうね、本当お前ダメだねって感じだったんですよ。いやダメだったけどね。
だって僕は彼女を作ること以外何も口にしなかったし、当時なんか。しかも働く気全くないじゃないですか。4年で出ておいて就職活動してないし、家でただご飯食べてるだけでしたからね。昼になってビデオ屋行ってアダルトビデオ借りてくるみたいな、そういう人間ですから。
僕今でもその人生そんなに違いないんで、それに薄い言わずみを張ってその上でタスク集と活動とかをしてるだけの人間ですからね。なんかね、僕はすっごい自分誤解されてる。まあそれはいい誤解でいいんですけど、誤解されてるだろうなと思って。
でも人には私を、冒頭言った話の通り、誤解する自由とか不快に思う自由って絶対あると思うんですよ。やっぱり絶対あると思ってるな僕はね。ここを取り繕って人に良い佐々木翔吾でいてくださいっていうのは、なんかね、すっごい強圧的なものを感じる。
私を良い佐々木だと思えみたいな。なんかそれって一歩間違うと、なんかもう将軍様を赤目立て祭りなさいぐらいな感じのものを感じるんで。私はそこまでやりたいと思わないんですよね、私のような人間について別に。
24:04
これも別に言われたんですよね。このようなポッドキャストやってて娘さんに聞いたらって心配にならないのかって。僕やっぱりそういう心配しないんですよね。娘は私の等身大を知る権利があるじゃないですか。私そこ思うんですよ。子は親の等身大を知る権利がある気がするんですね。
私がもっとあるべき人であってほしいと娘が思うのは自由だけど、そうじゃないということであれば、そうじゃないという人間であることを知っておいた方がいいと思うんですよね。だってずっと一緒にいるんですから、いずれどうせボロが出るに決まってるじゃないですか。
どんなに取り繕ったところでね。だから私のこのポッドキャストは娘は聞いているんですけれども、時々聞いてるって言ってましたから聞いてるんですけど、今言ったようなことも全部聞いてるんですけど、それによって何かショックを受けるというふうには僕は思わないし、受けるはずがない気がするんですよ。
私だって自分の父母について、あの人たちはちゃんとしてるなって思いますけど、私よりできのいい人間だとは別に思わないですよ。そんなに違うはずないじゃないですか。遺伝子同じで受けた教育は僕の方がずっと良くて、僕よりずっと僕の方が遥かにできのいい人間だとしたらおかしいですよね、それは。
なんか無茶苦茶だと思うんですよ、それこそ。なぜそうなると思うみたいな。だからそうはならないと思いますんで、そのことに僕は違和感は持たないんですよね。
で、それはいいんですが、このオグデンの本の中でですね、今言ったような話は、今日全然オグデンの話してないじゃんっていう、しかもグッドバイブスも出てきもしないじゃんっていう感じがするんですけど、この病んだ部分、自分の中の病んだ部分、僕はそっちの方しか自分にはほとんどないんじゃないかと思ってるんですけど。
非常にいい説があるんで、手元に本用意したんですけどね。今そこを読もうとしてるわけじゃないんだけど、ウィニコットが言ってるのはですね、ウィニコットが言ってる部分をこのオグデンが解説してるのを上田さんが訳してる。超まともな世界だよね。このまともな世界になぜ彼らは関われるんだろう。てかそこに身を置けるんだろうなっていう。で、私は絶対そこに身を置ける気がしないんですよ、自分は。
だからどうしてもアウトローなんだなっていう感じがする。しかもアウトローの中のセカンドな部分が私を根本的に支えてるんですよね。ここで私は一番大事なものを見つけてる気がします。
で、このウィニコットが言ってることはですね、要するに人間ってのは過去について後から掘り損ねた部分を思い出さなければいけないんだみたいな話をしてるんですよ。これがやっぱり環境としての母親の失敗ってことから来る偽りの自分っていう部分から来る、彼が臨床上を目指す一つのポイントなんだなって思いましたね。
27:09
今日は何か重要な話をしてますね、我ながら。ウィニコットがした重要な話を紹介してるだけですけど、しかもそれもオグデンが紹介してるのをさらに僕はただ誠紹介してるだけなんですけど、誠引きなんですけど。僕のこのポッドキャストはほぼ全部誠引きですからね。
あの、あるはずなんですよ。まさにそれを取り戻すある意味、なんて言うんですかね。これは旅だなって感じがするんですよね。で、そこにあるんですよ。どんなことでもいいんだけど、とにかくその、なんていうのかな。
結局、ある過去における体験の、その体験の中の一部分を落としてしまうと。特に養育が難しく上手くいってなくて落とすってことが、でも絶対起きるんですよ。
私、本当にこの3ヶ月チャレンジやっててよかったなと思うのが、いろんなお話を伺うことができる。で、そこの中で、いや、それは体験落ちるよねっていうのを必ず聞くことになるんです。
それだったら、そういうことが起こったなら、その体験を全部拝見し尽くすことは無理だなって感じがするんです。その年じゃ。
どれほど優れていたって。4歳の時にこういうことがありましたみたいな話を聞いて、その人にとってそれはそんなにどこ見せたことじゃないんだと思うんですけど。
それがあったら、その時の体験を全部、精神分析でよく収納って言い方するんですよね。心に収納するって言い方するんですけど。
仕切れない体験ってあるじゃないですか。私でいうと、例えばあれですよ。やっぱ3.11の時の渋谷の最上階体験は全部は収納しきれてないんですよ。
ここ大事だと思ったんですよ。死ぬかもしれないけど大事だと思ったから、なるべく多くを見て、なるべく多くを感じておこうと思ったんだけど、無理なんですよね。
怖いし、あまりにも出来事が極端すぎて、他の出来事との関係が薄いんで、記録を取ることとかはできるかもしれない。
僕は記録をあんまり急いでは取らなかったんですよ。体感がこういう時は大事だと思う。何を自分がそういう恐怖を、恐怖って言っても色々あるし、
どんな恐怖を感じて、自分は何をしようとして何を思い出すんだろう、こういう時ってのがやっぱり多すぎるんですよね。
あまりにもいろんなことを一気に思い出しちゃうし、あまりにもいろんな感覚を覚えてしまうんで、どんどんどんどん取りこぼしていくんですよね。
こういうことがウィニコット流に言うと幼児期に、特に母子関係の破綻において、破綻は絶対するんで。
だって母子密着っていうまま生きてる人いないじゃないですか。でも離れたかった赤ちゃんはいなかったんですよ。
30:05
そこでトラウマをどんな親とでもね、どんなに良い親との関係であっても、そこでトラウマを得たはずなんですよね。
いや、おっぱいとぴったりしてたいよって思うかもしれないけど、50人もなって、お母さんのおっぱいとぴったりして生きていくことは出来ないじゃないですか。
だからその人生の途上のどこかで絶望的な絶縁みたいなものを一回は人間は味わうだろうよって、その時の体感ってのを私たちは覚えてないですよね。
で、それでもよくできた母子関係ならば、そこでこういろんなものをそこで体験できたはずなんですよね。
辛くてもここは我慢するっていうのも、ちゃんとこうなるべく心に取り込む。
だけどできない家だと、もう辛いからそのことは全部忘れるとか、辛いからここはもう身体的に隔離するみたいなね。
不感症みたいになっちゃうみたいな。そういう風になってしまうと思うんですよ。冷感っていうのかな。
あるいはこう、乖離みたいな感じ。もうなんか辛いから私何も感じてませんみたいな。
ヤングケアラーの漫画でね、ユイちゃんって女の子が、私はロボットだということにしたみたいな。
お母さんいきなり殴ったりするから。痛くないのだみたいな。なぜならロボットだから。あれ乖離を招きますよね。
辛い体験は感じないことにしちゃうんですよ。こういうのが僕はやっぱり偽りの事故ってものだと思うんだけど、
あれは確かに非常に厳しい困ったお家だからああなるかもしれないけど、うちだってあったはずなんですよ。
親がちゃんとしてたってやっぱり辛いことは起きるわけで、理不尽なことも起きるわけで、
そういう時にその事故を排除するって言い方するんだけど、自分もそれ感じてないことになりましたとか、
自分はそれ体験しなかったことにしましたとか。私あのめちゃくちゃ臆病な子供だったんで、
小島園であのお化け屋敷行ったことがあるんですよね。ちっちゃい頃に。で全然見られなかったんですよ。臆病だった。
そうやって体験を取りこぼしていくんですよね。厳しい体験は体験しないことにしてしまう。
で、そういうのを後からですね、過去についてなんて書いてたかな、ここに。
なんて書いてたかな。要するに出来事を取り戻さなければいけないって言うんですよね。
患者はまだ体験していない過去の細部を探し続けなければならないって言い方を見に来たらしてるらしいんですね。
患者は探し続けるんですよ。過去をですよ。過去を探すっていうのは記憶の中を探すんだけど、
その記憶の細部はその患者はまだ体験できてないって言ってるんですよ。記憶として持ってる。
こういう考え方が精神分析的だって本当に私は思うし、これをやっぱりやっていかなきゃいけないよなと思うんですよ。
で、こういうことを取りこぼしてしまうから、例えば母親の別離においてですね、母親には母親の都合があるから、
33:00
ここはもうお母さん許すしかないなと。すごい別離は辛いわけですから許せないわけですよね。
それを強いてくるってことが。でも許すしかないなみたいなのはここから育っていくわけじゃないですか。
そういう能力が育たなくなるわけですよ。こういう体験を隔離してしまうと自分自身から、
自分の記憶なんだけど自分から隔離してしまうと、そういうお母さんと離れるのはすごい辛いが、
でもお母さんを離すのはもう諦めようみたいな、そういう感情を育てられなくなるって話なんだと思うんですよね。
だからここにあるんですよ。これはオグデンが書いてるんですね。
自分を深く傷つけた誰かを許せる力かもしれない。これグッドワイブスですよね。
僕はこういう体験を倉園恵都さんはしてきたんだと思うんですよ。グッドワイブスの創始者の人ね。
彼はこういう経験をしてきたと思うんです。だから僕は彼が損なわれていない従前な人って感じを抱いてないんですよ。
そうじゃないからああいう話ができるって気がするんですよね。
僕は彼ほどじゃないかもしれないけどやっぱり、教育環境は悪くなかったと思うんだけど損なわれてる部分が大きいんですよ結構。
だからそれを薬気になって取り戻そうとしてめちゃくちゃ彼女作ろうとするとかするんですよ。
だからデートとかすればそれが取り戻せるとでも思ってるわけですよ。
母親との関係の中で自分が当時体験するには辛すぎた出来事というものを後々取り戻そうとしてるわけですよね。
その刺激としてデートしたりセックスしたりしたい。それが多分ね私の母親関係の再現なんですね。
で私はそのことが大概解決したと思うんですが、やっぱりこれにまつわる怒りが解決できてないんですよね。
母親は相当無理やり母親から私を引き離した時の私の怒り、しかもこの怒りがですね、完全に隔離をしてないんだけど思い出せないんですよ全然。
怒ったという事実をですね、出来事としても感覚としても。
ただ先日奥さんとちょっとイザコザがあった時、相変わらず何か1万回目なのか5万回目か知らない離婚を決意するんです。
離婚の決意を何回俺はするんだろうなっていう今後、この時に身体感覚としての怒りがですね、
呆然とこう上がってきて、もう自分が怒ってないという自覚を持ってるのに身体は怒ってるんですよね。
これが体験できていない過去なんだと思うんですね、私が。
体験できていないからただ現在に身体感覚だけが蘇ってきて、心臓がすごい早くなってくるんですよ。
普通に考えるとこれが怒ってるってことなんだけど、私は怒っちゃいないんですよ。
36:00
だけどこれは耐えられないから離婚するしかないなっていう変な結論が出てくるんですよ。
これが私が思うに一時ナルシシズムに対する許せなさってことなんですよね。
クラウドの慶三さんが言う、自分も他人も罪はないから許しましょうなんだけど、こういう言い方はいけないね、こういう言い方をするといかにこれが無理があるかって話になっちゃうんです。
そうじゃないですよ。これはできるんですよ、絶対に。
オグデンが書いてるくらいですもん。
この自分を含めて深く自分を傷つけた他人を許す力かもしれないしって書いてる。
これはありきたりだよって言ってるんですよ、オグデンに言わせるとね、多分。
だけれども、ありきたりなんでしょうけれどもできないわけですね。
この失われた自己部分を探し求めながら生きている。
失われた潜在的体験を探し求めながら生きているとか。
この辺だよなと思うんですよね。
失われた自己部分っておかしいじゃないですか。
自己部分なんだから自己の一部の中にあるに決まってるんで失われちゃいないはずなんですよ。
だけど取り戻すことができてない。
これを精神分析家と一緒に取り戻していきましょうねっていうことなんだけど、どうやってこれを取り戻すんだろうねっていう。
精神分析受けていない私たちとしてはね。
どうやってこれが取り戻されるのかと。
オグデンはこれを普遍的だって書いてるんですよ。
程度の差こそあれ誰もが皆早期の母子関係に大きく崩れる出来事を経てきていて、
その事態に対して精神病的な防衛を組織化することでしのいできたのではなかろうかって書いてる。
これは万人がって書いてます。
ってことは万人が精神分析受けるしかねえじゃんってことになっちゃうじゃないですか。
でも万人無理じゃないですか。
週5回もね。全然無理ですよ。
受けてる人日本に100人いるんですかねっていう。
100人ぐらいはいるか。
でもやってる人100人いるんですかね本当にって気がしますよね。
だから私はそのこれの真似事をしますと。
だって普通にやれないことだからしゃあないじゃないですかと。
っていうことですね。
普通にできないことしかも提示されてしまったんだからここにこういう形で。
まさにこれこそ私がやりたいことだっていうのがこんなにこれ以上無理なぐらい明らかに明らかに明文化されてるんですよ。
今言ったようなことなんて本当にもうウッドワイブスでも繰り返し繰り返し強調されるってことは容易には成し得ないってことだと思うんですよね。
自分を深く傷つけてくる時に自分と他人を許すっていう話しかもそれがそれをする力って話。
で、それは乳児や子供の時に起きた破綻を生き得なかったために生じる数ある情緒的な制限のほんの一部に過ぎないって言うんですよ。
あのこれ引用をただ喋ってるんでピンとこない方には申し上げないと思うんですけどこれは非常に僕らが万人ってオグデンが言うだけあってもうそこら中で起きてることですよね。
39:12
そこら中でですよ。
今この瞬間にも同時多発的に100万件ぐらい起きてますよ日本国内だけで今言ったようなこと。
でも全部どれもあえて記述する意味がないぐらい大変なことです。
許せないんですよ。
例えばまだ朝早いですからね。
奥さんが何かご主人に何か言ってるんですよね。
今日ぐらい私ほんと生理だし辛いんだから保育園迎えに行ってよとかってそういう話ですよ。
でも夫はなんだよこの時にっていう感じなんですよ。
だって昨日残業してきたし今日も残業かもしれないしそんなことできないよって感じなんですよ。
最もじゃないですかどっちの言い分も最もですよね。
でお互いが許せなくなるってことがあるはずなんですよ。
これは数ある情緒のほんの一部に過ぎないんですよ。
でこのご主人も奥さんもどっちが悪いって話をしますよね。
今の時代ならすると思う。
でその原因はジェンダーの平等とか夫婦カウンセリング的な話に持っていくと思うんですけど。
それはいいんですよそれで。
でもオグデンはそこには持っていかないんですよ。
幼少時代に生き得なかった情緒に持っていくんですよ。
何ですかそれって思うかもしれないけど僕はそれしか答えないと。
その時の僕の怒りというもの。
僕がその身に置いてみた場合の怒り。
僕は会社勤めしてないし奥さんにそういうこと言われたこともないし保育園というものも使ってないけれども。
でもそういう怒りは想像がつくんですがその時の怒りは私は多分身体的な怒りだと思うんです。
第一世の表舞台では確かに残業とか疲れとかなのかもしれないけど違うと思うんですよ僕は。
その時心臓が高鳴るはずだと僕なら思う。
僕の話。
心臓が高鳴るはずだと思うんですね。
心臓はなぜ高鳴るのか。
多分1歳の時に私がおっぱいを吸いたかったのに母が拒絶した時の怒りだと。
そんなことが本当かって言われても私には本当だと思える。
なぜならば怒りってのはどれかと対外に似てます。
例えば私がセックスの時に立たなかった時の私に対する怒りは。
少年野球の時の怒り。
例えば私がセックスの時に立たなかった時の私に対する怒りは。
少年野球の時に絶好球が来たのになぜかバットを振れなかった怒りと似てるんですよ。
バットって言うよね。フェニスのこと。
分かる気がするんですよ。そういう風に。
何かの怒りは何かの怒りに似てる。
だけどうちの奥さんと喧嘩した時の怒りは何とも似てないんですよ。
思い出せるいかなるものとも似ても似つかないんですよ。
42:03
自然なぐらい不釣り合いなぐらい怒っちゃう。
で、もはや怒ってないんですよ。
怒ってないのに心臓だけが高鳴っていく。
心臓発作かよみたいに高鳴る時がある。
それが思い出せないんですよ。
なんで心臓発作みたいに。
俺心臓発作みたいに高鳴る時ってどんな時だろうっていうと。
50メートル走った時とか似てないんですよ。
その時の情緒と奥さんに対して怒ってる時の情緒が。
似てないとおかしいだろって思いますね。
やっぱり似てるはずなんだと思うんですよね。
難しいなあ。この説明は簡単じゃないんですよね。
身体感と情緒と感情と体験は似てくるはずなんですよ。
やっぱり似たものを探せると思いますね。
教習所で隣の教官にウインカー出すところでしょって言われた時のドキッとする感じ。
あれは居酒屋のバイトやってた時に先輩に
ザキお前コロッケ持ってってねえだろっていう時のドキッとした感じと似てて。
そのドキッとした感じは
不意に先生が今日あの宿題プリント集めるからねって言って
そのプリントが手元にない時のドキッとした感じと似てるとか。
あるんですよ。いちいち。
それがないやつがないのはおかしいと思うんですよ。
体感覚として心臓を脳が高鳴らせているならば
それは何かと似てるという信号だと思うんですね。
既に奥さんとの口論では私は怒ってないのに
この口論は怒りに値しない口論だと思ってるのに
脳はそうじゃなくて緊急アラート出してる。
でもこれは何の緊急アラートと
じゃあ緊急アラートって何なのか。
何をしなきゃいけないのか。
分かるじゃないですか。
3.11で渋谷の9階のやや老朽化したビルにいるならば
可能ならば早く脱出する。
脱出が不可能そうならば
なんとかそこにいても死なないところに行くみたいなことが
できるかどうかは別として
頭はそれやれって言って緊急アラート出してるわけですよ。
だからこの時心臓高鳴ったりしても
いやーなんで心臓高鳴るんだろう
建物揺れてるからってなんで心臓高鳴るんだろうとは思わないですよね。
これがもし年前の
私入ったことがあるんですけどなんかビックリハウスみたいなやつ
ぐるぐるぐるぐる回っているように見える家とかに入ってて
ぐるぐるぐるぐる回り出してもそんなに驚かないし
心臓高鳴らないですよ。
なぜかというとそれはビックリハウスにいるってことを知ってるからですよね。
地震より揺れてたって心臓は高鳴らないですよ。
脳はちゃんとわかってるはずなんですよね。
脳が何もわかんないかのようなアラートを出し始めたってことは
45:00
私がそれを体験した昔の何かに由来しているんだけど
その昔の何かがなんだかわからない。
それを私は突き詰めて突き詰めて
途中言いましたよね。母親を療育したいって。
これは母親と性的な関係であるかのようなスキンシップべったりの関係だった時に
起こった私に対する恥ずかしめか
それとも寂しさを強いることか
あるいはその全てだったかみたいなものと関係があって
そんならわかるんですよ。
その時の母親に破壊的な欲望を抱いたっていうことがあってもおかしくはない。
思い出せないんですよ。
その時僕は多分自分の人生を生きなかったんですよ。
これは辛すぎると思っちゃったんだと思うんですよね。
そして寝て忘れるとかしちゃったんですよ。
だからその感情は記憶に入った。
けれどもその感情の記憶を記憶として思い出すことができず
体感覚として思い出してしまうんですね。
それが私にとっては死ぬよりも怖いんですよ。
多分その時の私は死ぬってことを知らなかったから
一歳児だったから
その後観念として死ぬってことはもっと恐ろしいことだと観念としてはわかったんだけど
この順位が逆転しちゃってるんですね。
母親のおっぱいから引き離されることは死ぬことよりも辛いって思っちゃってるんですよ。
私の体感覚。
私の情緒の極めて一番深いところでそういう恐怖を覚えてる。
だから奥さんにちょっとしたことで文句を言われても
今はそういうことは流石になくなりましたけど
奥さんじゃなくてもいいんですけど
若い時には女性的な男性にちょっとしたことを言われるってことが
すごい恐ろしかった時代があったんですね。
なぜ恐ろしかったのか今思うと
その人に殺意を覚えてしまうからだった気がするんです。
そういうことが居酒屋であったんですよ。