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おはようございます。働くメンタルを取り戻す精神分析的ポッドキャスト、第1094回をお送りします。
11月21日木曜日の朝7時16分です。
お知らせはないかな。お知らせとしては、現在ですね、タスク集と手帳といったものを販売中です。
まだ予約を受け付けていると思いますので、もしご興味ある方がいらっしゃいましたら、
多分タスク集と手帳で検索していただくのが一番手っ取り早いのではないかと。
そしてフォームのところに入れていただいて、だいたい2000円弱ぐらいだったと思いますし、
送料もですね、私がお送りするんですけれども、クリックポストという郵送システムを使うので、
非常にお安くなります。ギリギリこれより安くする方法は今のところ、
管理等を含めて考えるとちょっと限界だったので、この辺で手を打つことにしました。
店頭とかに、将来売り出せるようになったら大変素晴らしいわけですが、
まだまだ限定200部という状態ですので、しかも残りはもう本当に30とかになってきているんじゃないかと。
せいぜいあって40ぐらいなんじゃないかと。私もまだ実物の山がね、まだ家には届いてないんで、
現在家に郵送されてこようとしていて、これがまず家に届くっていうのが、
一つのあれだなと思いながらもですね、待ってるわけですよ。
これが来たらガガガガガガガッと作業をしていく。
音はそういう音がするわけじゃないんですけどね。
今日はすいません、ショート収録で短くしようと思ってるんで、
こういう話をいつまでもしている場合ではないので、よろしくお願いします。
本題に行きましょう。
本題はなんだかよくわかんないんだけど、
昨日、あなたの代替えは聞かないんですって話をしたつもりなんですね。
もう半分ぐらいは、7割以上頭から消し飛んじゃってるんですが、
今日は続きをしながら、
私自身のね、そうそうこれも昨日のPodcastの収録中に喋ったんですけど、
この種の話はどうも苦手だって方もいらっしゃると思うんですけど、
別に何の話でも全く同じなんで、具体的な話は特に出さないので、
ちょっと聞き流してほしいんですけど、
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私が性的にはサディズムだって話をしてますね。
これはもっぱら精神的な話なんですよね。
精神的サディズムってやつですね。
なんでなのかっていうのを考えると、やっぱり母親との関係しか考えつかないんですけど、
とにかく精神的なサディズムなんです。
で、この私の詩壁がですね、
そのサンチャレの参加者さんとお話ししているうちに、
そっか、だから犠牲者も加害者も被害者もどっちも私なんだと。
これが私の言いたいことのほぼ全てなんですね。
被害者の、例えば痛い系な少女がいるとするじゃないですか。
それは私なんですよ。
なぜならば、そんな人はこの世の中にいないからなんですよ。
私が今思い浮かべているような、この名もなき少女。
これ非常に名もなきの部分、超大事なんですけど。
名もなき少女の、えーと、名もなき少女ですからね。
で、これの同じ顔の人で名前も本当にない人。
そんな人いない。この世の中に。
そういうことは僕の空想じゃないですか。
で、空想上の女の子が、えーと、空想、非常に難しいところですが、
空想上の私との関係、というのはつまり私の空想であって、
どっちも私じゃないですか。
つまり私が私を痛ぶっていて、私が私に痛ぶられている。
だからこれをやっていると、精神的にですけれども、
精神的には自分が傷つくことになると、やっぱり思うんですよね。
だって、それはどんなに私らしくなくたって私なんだよ。
で、えーと、被劇というものがエンドレスになりがちで、
そこに問題があるのは、このような現実はないからなんですよ。
だからいつまでたっても現実的な満足は得られようがないんですね。
ここで現実的な満足を得ようとしてしまうのは大きな問題で、
ここはですね、私は、えー、それが犯罪であってもなくても、
よーくここを考えていく必要があると僕は思うんですけど、
考えただけで止むのかって問題もあるにせよ、
考えることがこれを止めさせるとですね、私は多分信じてるんですよね。
だから精神分析に割と欠けてるみたいなところがあるんだと思うんですよ。
ここを考えていこうと。
この考えが歪んでいるとか、病的であるといった話よりも、
まずこれは現実ではないんだってところを徹底的に考え抜こうと。
このね、いたぶるというのが果たしてあなたの認識としていかがなものかみたいな話、
これが認知的だとは思わないんですけど、
だから認知療法と精神分析って相は違わない部分も絶対あると思うんですが、
私は行動療法は別としてですね。
行動療法だとそういう可能的なものは読まないとか、
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そっちの方向になっていくと思うんですけど、読まない比を数えていきましょうみたいな。
私、読まない比が実は何日積み重なっても無駄なんだということをちょっと知ったんですよ。
こういうものを遠ざけて、私は200日以上頑張れたことがあるんだけど、
全然意味なかったんですよね。
結局すぐ戻っちゃうんですよ。あっという間に。
200日遠ざけたから、そういう欲求が自分から切り離せるかというとそんなことはないんですよ。
全然ないんですよ。
だから僕はこの種の意味での習慣化、脱習慣化かな。
ほぼ信じてないですよね。
ただ全く効果がないかというと物質依存的な話ならもしかすると効果あるのかなと思うんだけど、
私のように割と根深く精神に食い込んできているというか、精神と一体化してしまっているようなこの種の問題はそんなに簡単じゃないなと。
多分あれ10年続けてても、金欲的にやってても無駄だったろうなって思うんですよね。
全く持って意味がない感じだったんですよ。
禁煙とは話が違うんですよね、ちょっとね。
で、まあそれは良いとしてですね。
この構造を自己愛と僕は言うんだと思うんですよね。
自分で自分を、自分と戯れている感じ。
自分の世界に入って自分を分割して、その自分自身との関係性の関係の中で欲求満たしたりなんだりしていること。
つまり空想世界で戯れていることに近い。
これを僕は自己愛と言うんだと思うんですよ。
結局これは対照関係論だったと思うんですね。
対人関係がここにはないんですよ。
あっちゃ困るんで、ないからいいんだけど、対照関係になってるわけ。
つまり私が痛い系な女の子っていうのは私なんだけど、母親なんですよ。
ただ、母親の中から最も母親らしくない部分だけを取り出した母親なんですよ。
ここがすごくミソなんですよ。
ここが分かりにくい。私にも非常に分かりにくい。ネガポジみたいな話なんですね。
母親の対象ってのは母親らしい部分を抽出するでしょ。
でも母親には母親らしくない部分もあるわけですよ。
ネガって言うの?
影の部分?
なんて言うのかな?
あの、こういうのZoeさんとかが詳しいんだよね。
ANDとORとNORみたいな話なんですよ。
NOT ORみたいな。
分かんないですよ。僕にはよく分かんないんだけど。
NANDみたいな。そういうのあるじゃないですか。
CPUの世界みたいなので。
ここじゃない部分みたいなね。
つまり母親には私が見たところだし、他の人が見たところでもあるんだけど、
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抽象って普通、その人らしいところを引っ張り出してくるでしょ。
例えば佐々木のアバター作るんだったら、私らしいところを取るじゃないですか。
でも私らしいところを取るってことは、その他の部分が残るよね。
私らしくない部分が私にはいっぱいあるわけですよ。
私らしくない部分って言っても人によって意見違うと思うんですけど、
ある人にとっての佐々木らしくない佐々木ですよ。
こいつが対象化してるんだと私は判定したんですね。
だから母の最も母親らしくない部分を私の中で作り出し、
それに向かってるわけですよ。
これはつまり母に対する強いアンビバレントがありますよね。
母のことが大好きなんだけど非常に憎らしい部分があり、
その母に向かっていこうとすると、
例えば、おじけついちゃうとか、愛せないとかいろいろあるから、
母の最も母らしくない部分を抽出して、
そこに向かって愛と憎しみをぶつけると。
私の中のサジズムはきっとこれなんですよ。
ただ、ぶつけている私ってのも対抗させてるんでね。
今の私はそういう気分ないから、
私のぐっと対抗した部分があるわけなんですが、
ぐんと対抗しちゃうと今度は性欲ってなんだかわからないじゃないですか。
だから一歳児まで戻ればそれでこと足りるってわけじゃないですよ。
性欲的なものはあるんだけれども、
そしてそれが発揮はできるんだけれども、
でもそれが変心乱魔に、
ある意味一時ナルシシスティックに、
ものすごく世界に対して預け切ったような、
この言い方だとわけわかんないから、
裸で外を歩けるレベルってことですよ。
裸で外を歩けるレベルだけれども、
性欲というものは一応あって、
母親を対象化している年齢っていうのはほんと微妙ですよね。
ここに僕は繰り返し戻ってるんですよね。
これはエディプス期ですよ。
別に私は父親にいたぶられたとかそういうことはないんだけど、
でもこのいたぶるという表現の中に、
やっぱり虚勢不安がありますよね。
だから私ここのところに同性愛的なものはきっとあると思ってるんですよ。
結局のところ私が私をいたぶるという場合、
男性が男性をっていう部分どっかに絶対あるんですよ。
母の最も母らしくない部分って、
つまり母の男性的部分ってことでもあると思うんですよ。
だから同性愛的なものもあるし、
ここに虚勢不安も見ているし、
つまりいじめられてる私も私ですからね。
そして母親的な部分は、
実にややこしいんですよ。
でも4歳児の考えることって多分そうじゃないですか。
僕これはおそらく4,5歳児であろうと思っているんですね。
その頃ちょうど妹を対象として認識できるようになってたんで、
非常にその辺も絡んでると思うんですよね。
だから一筋縄じゃいかんのですよ。
母子関係といったって、
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母と私しかいないわけではなくて、
明らかに父はそこに一枚かんでいて、
しかも私の場合は妹がそこに関係していて、
私自身の虚勢不安があって、
その虚勢不安に対する長寿が的な、
非常にサディスティックな長寿が的な、
これがサディズムの元だと思うんですね。
母が起こるとなかなか迫力ありましたからね。
そういう家系なんですよね、母方の家系は。
父方の方が実は穏やかなんですよ。
起こると迫力あるようでも、
実は父方はあんま怖くない。
母方怖いんですよ、非常にね。
心類筋見て全部。
私のやっぱり虚勢不安と言いながら、
そのサディスティックな長寿がっていうのは、
非常に母親らしいところがある。
言ってみれば私が私を痛ぶってるようで、
母が母を痛ぶってるようでもある。
そういう状況があったので、
この構図におそらく全体的な素子はほぼないかなと、
最近では思ってるんですよね。
ここまでくればですね、だいぶ、
少なくともそういうゲームの中の女の子みたいなのを
探しに頑張っていくみたいなことはしなくなる。
絶対見つかるわけがないから。
だって母の願うとか、母のポジとか、
そんなものが漫画の中に出てくるわけがないじゃないですか。
もちろん近いものを私が探していくっていう、
私はだからそういう探求の旅をですね、
なんだかんだ言ってそうだな、
9歳か8歳の頃から40代ぐらいまで、
段続的に続けてましたね。
いや、ほとんどもう連続的に続けてましたね。
30何年間、こればっかり探してた気がしますね。
母を訪ねてっていうのは、
いかにもこの文脈ではおかしいんだけど、
このサリズムの対象になる母を訪ねて、
三千里なわけですよ。
でもまあそんなもんですよ。
私は人の情緒ってそういうものだと思うんですよね。
ここに自分が得意だとか特殊だとか、
刺激変わってんねとは全く思わないんですよ。
だって、これは女性は見ないかもわからないですけど、
いなくもないと最近思うんですが、
ファン座とか見ているとですね、
私そっくりの人は間違いなく大多数ではないんだけど、
一定数いるんですよ。
めっちゃくちゃマイノリティーとか、
あまりにも死癖が特殊であるって感じは全くしないんです。
私結構びっくりするんだけど、
こういう世界ってやっぱあるんだなっていうね、
今言ったようなのをほぼ全部包含しているような、
作品作る人もいるわけですよ。
この人はよっぽど少なくとも死癖の部分では、
話し合うだろうなって思うんですよね。
同性愛的な部分、虚勢不安的な部分、
単純にSMチックな部分、
しかし全てが精神的になっているっていう、
そういう作品は探せばあるんですよ。
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ネットだから探せるっていうレベルですけどね。
これの点では私は今の時代に生きていて、
ある意味IP技術の悪用かもわからんけど、
悪用って言われるかもわかりませんけれども、
リアルにこれ探すのは本当にやってられないなと。
まあ見つからないし、探してる時も人目を気にしちゃうし、
結構不動に高かったりしますしね。
本当にこう、
ネットだと楽だなっていうのは感じますね。
簡単にとまでは言いませんが、
まあ見つかりますからね。
一度見つければもう取っておけるじゃないですか。
どこかに隠しておくとかせずにも、
エヴァノートに取っておけるじゃないですか。
非常に楽な時代になったもんだと。
だから分析してられたんですよね。
やっぱりまずこういうものは本能的にっていうのはおかしいな。
前意識的に。非常に前ってのは前ですね。
前後の前ですね。前後の前。
前意識的に。無意識ではないんだけど、
無意識に限りなく近いところで探求しちゃってるんで、
分析するよりやっぱり探しちゃうんですよね。
その欲望を満たしたいと思ってしまう。
そして満たせないということに気づく。
そこに欲打つがあるんですよ。
自分は一生これを満たすことはできないんだ。
生きててもしょうがないやみたいな。
そういうわけわかんない気持ちになってくるんですよ。
これを誰だっけな、哲学者で無通文明を書いた人ですね。
あの方が墜落って呼んでたんですけど、
墜落か。
墜落って書くよりは欲打つって書いてくれた方が
私は良かったかなと思うんだけど、
そんなのは僕の個人的な趣味ですからね。
墜落、どこからか落ちてる気はしないんでね。
私が考えているところの空想上の象徴が
この世に当然いないよねっていうだけですから。
だから私は絶対思うんだけど、
ある種の芸術って生まれるんだろうなって思うんですよね。
この象徴を書いたらどうだろうっていう。
私は絵心が全然ないんで、
一度もこれを書きたいと思ったことはないんだけど、
これで絵描ければ書くよねっていう感じはしますよね。
で、それがどういう作品になるのかわかりませんけれども、
とことん書いていくってことをやると、
すごくアートセラピーっぽさが出てくるだろうなとは思いますね。
これは現実ではないってことを
どんどんどんどん思い知らされていくようになるから。
だからある種の芸術っていうのは
不思議な世界だなとは思うんですよ。
で、これが対象関係論だとするならば、
例えばですね、私が今度、
ちょっとしたお知らせにつながった、よかった。
12月の14日かな、
タスクシュート総決算というのをやるわけですよ。
そのタスクシュート総決算の
例えばですけれども、
リハーサルやるぜみたいになるとするじゃないですか。
で、私そういうことを全然今しない立ちですけど、
リハーサルであるなら徹底して、
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なんなら大橋哲夫さんが探してきてくれた
ユニーク会議室でしたっけ。
ちょっと行って、そこで下見をしながら、
そこに人が来ているのを空想して、
そしてその空想の聴取が、
こう喋ると残念そうだ、こう喋ると
各種喝采だっていうのを一つ一つ想像しながら、
練習しようと。
ものすごい良くはないかもしれないけど、
ある種のビジネス書で推奨されてそうな
やり方じゃないですか。
でも僕これはナルシシズムの世界だと思うんですよ。
自分を自分と聴取に分けて、
喋る自分と聞いている自分に分けて、
その聞いている自分に一つ一つ顔をつけていって、
さすが佐々木さんですねっていう
喋り方ができたと思ったらそれを
当日も喋るようにし、
いやそれちょっと眠くなるなみたいなのは
スルーしていく。
さっきの痛い系な少女と戯れている私と
構図が全く同じだと思うんですよ。
それは違うっていう人もいると思う。
だけど私はその構図を見る。
空想の中で戯れているという、
その構図は何ら変わらない。
これを自己愛の世界って言うんだと思うんですよ。
結局これをやってしまうから
我々は勝手に人の
心の後ろを見るようになり、
勝手にその人の人となり、
私に対する本当に考えていること、
心の底で私のことを超評価している人たち
っていうのはこうやって作り出している
だけに過ぎないと思うんですね。
だから自己愛の苦しみというものは、
自己愛ナルシシズムの病理が進行していくと
人が本当に心の底で
腹の中は腹黒い
みたいな話にだんだんなっていくんですよ。
これを現実の人に投影していくから。
痛い系な少女を
よそのお嬢様に投影してしまうという
問題を抱える人がいるわけじゃないですか。
僕もその予備軍みたいなところがあったわけですよ。
実際にはそういうことは
私は決してなかったと思うんだけど、
なぜならば見て見えなかったからなんですね。
私はやっぱりそこの空想にこだわってたんで、
みんな違うっていうのを強く意識してたのと、
あともう一つ私にとってこういう
安全面的なアドバンテージとしてですね、
ビジュアライズの能力が低かった、絵心がないっていうのは
こう繋がってくるんですよ。
だから人に向かって絵を投影する、
この人は私の心の中の少女そっくりだが、
私の心では起きにくいんですよね。
投影がビジュアルを持ってないんで、
なんか雰囲気みたいなものしかないんで、
私の投影は残念ながら。残念というべきか。
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だから私はある意味他人があんまり恐ろしくないんですよ。
僕は思います。
このような言い方は専門的には許されないかもしれませんが、
私はここを推定でいきますが、
対人恐怖というものは今この構造で
ビジュアライズに人の上に
私自身の長袖というものを
どんどんどんどん置き換えていくと起こる
一つの病理現象だと思うんですね。
もう一回言う必要はないと思うな。
要するに投影していくとはそういうことだということです。
昔セロファンで影って作ったじゃないですか。
セロファンで作った絵を投射するじゃないですか。
ホワイトスクリーン。
他人がホワイトスクリーンになっちゃってるってことなんですよ。
そして私自身が
普段から遊び慣れているこの空想世界を
まんま現実世界の上に
どんどんどんどん置き換えていっていく。
そうなれば本当に思っていることは何なんだろう。
どうしたって現実界は
投影したものとイコールでないってのは分かってるわけじゃないですか。
いくらつまり簡単に言うと
ホワイトスクリーンは何を考えているのかが怖くなるってことなんですよ。
ホワイトスクリーンがあそこにあるよねと。
本当に私を笑ったり
バカにしたりしてるのはあのホワイトスクリーン。
物言わぬホワイトスクリーン。
だから精神病状態にまで
これが発展すると
ホワイトスクリーンがヴィザーレオブジェクト
つまり機械な対象群になってしまうわけですよ。
ATMが私を見張ってるとか
録音機が私を嘲笑ってるとか
いう話になっていくわけですよ。
でもこれは私はそれを人に投影しているか
物に投影しているかの差は大きいと思うけど
人に投影してたって結局同じじゃないかとも思うんですよね。
人に投影している人は正気に近く
物に投影している人は狂気に近いと
我々は自分らの物の見方に合わせて
ここにボーダーを一線を引いて
ボーダーラインとかって言ってるけれども
物に投影している人はあの人おかしいよねって言っておきながら
自分は相手はあの人は私のことを嘲笑っている
腹黒い人だとか言ってるのはおかしいんじゃないかとも思うんですよ。
本当のところその2つの本質的な差は
本質的な差はある。
本質的な差はあるけど
構造的な差はほとんどないようにも思うんですよね。
投影の後は量ですよね。
だから松木邦博さんが
よく対照関係論なんかの本の中でも
大量の投影同一化を
大量の大量のって書くんですよ。
あちらこちらにものすごく
いっぱい投影している人か
必要それをある程度抑え込めている人か
それによって見えてくる世界の像が
がらっと変わっていくよね。
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この時に大量の投影同一化っていうのが
あまりにも煩わしいので
大量の投影同一化なんていうより変異と言ってしまおう
っていうのが先週だか今週
先週かな今週の初投に話していた
変異転移ってやつなんですよ。
ホワイトスクリーンなんですよ現実界というものは
だって仏教でも言うじゃないですか
色すなわち空じゃないですか。色ってものはこの世にないんですよ。
だから世の中が色づいて見えていたら
もう心の中の風景なんですよそれは。
本当はホワイト&ブラックのはずなんですよ。光なんだから。
光ってのはスペクトラムでしょ。色ってのは
ある意味スペクトラムじゃないじゃないですか。
色分けて分かれちゃうじゃないですか。赤と緑は
全然違う色ですよ。スペクトラムなんかじゃないですよ。
赤をどういう風に濃くしたり薄くしたり
光らせたりなんだりしても緑にあるんだから。
それは僕らの心の中にあるんですよね。
脳の側にあるもの。だから
世の中が色づいて見える。最近紅葉が美しくないんですけどね。
温暖化のおかげで。色づいて見えるってことは
僕らがやっぱり心の世界の中に
生きているから。心はホワイトスクリーンなんですよ。
オリバー・サックスという脳科学者が書いてたじゃないですか。
色のない島っていう。あまりにも光が強すぎて
色彩というものをあまり
その島の人たちは認識する理由がないんですよ。
非常に認識も難しいし。
ものすごい光ってるところは白っぽく見える。そうでないところは
影っぽく見える。非常に立体感の強い
だけの世界になるんですよ。月面とかそうじゃないですか。
ほとんど色がない世界ってありますよね。
ほとんど色のない世界に生きている人たちは
色彩感覚に乏しくなるっていうのを
オリバー・サックスはかなり、あの人はそういうのが
お得意の非常に面白い脳科学者さんなんで
そういうことを書いてますね。色のない島。面白い本ですよ。
あんまりお勧めはしないんですけどね。
オリバー・サックスの本で読むんだったら
妻と帽子を間違えた男ですよね。
あれが何千面白い。あれはお勧めします。
というわけで、もうそろそろ
お時間になるのでまとめていきたいと。
珍しい今日こんなこと言ってるよ。つまり
お風呂の中でもお風呂場の中でも
体育館でもいいんですけど、リハーサルをやり
その人たちが笑ったり喜んだり
小バカにして見えるというのは
私はやっぱりこれはナルシシズムの世界なんだと思う。
だから僕はこういうリハーサルは決してやらない。
これをやるということはわざわざ
自分をですね、そっちの方向に向かって
自分を訓練つけるようなもんだと思うので絶対やらない。
結局のところ笑ったり、私を笑ったり
私を評価したりしているその一群の人たち
どれほどそこにリアリティがあって
その人たちの顔が大橋泰三さんに見えようと
その他様々な人に見えようと
27:00
ホリエモンに見えようと
それらの人はホリエモンでも大橋さんでもJでも何でもない。
私の父か母にそういないわけです。
あるいは私の妹、私の娘、私の妻
私の学校のかつての先生
そういった人たち以外のものではあり得ないと思うんですよ。