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2024-08-27 40:57

ゴミに囲まれて生きていきたい時はどうしたらいいのか?【1043】

贅沢な悩みと深刻な悩みのグラデーション。
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サマリー

本エピソードでは、贅沢な悩みについて深掘りし、ビジネスメンタルサポートと正式なカウンセリングの違いや境界線を探求しています。また、タスクシュートの活用法や心の健康に関するアプローチも紹介されています。このエピソードでは、ゴミ屋敷の現象やその背後にある心理的要因について語られており、先送り行動や病院での治療の必要性、精神分析と認知行動療法の関係性についても触れ、聴衆に対して理解を促しています。自己認識と精神的健康に関する問題を探求し、二人での治療方法やカウンセリングの重要性について議論されています。また、非専門家が提供するメンタルサポートの効果や、現代社会におけるストレスへの対応策についても検討されています。ゴミに囲まれて生きることの心理的側面と社会的影響について考察し、個人が抱える感情や問題に焦点が当てられています。

セミナーとタスクシュートの概要
おはようございます。ひくひゃくにちセラピー第1043回をお送りします。
はい、8月27日火曜日の8時51分ですね。
いやー、あの、まもなく7月も終わりますね。
で、えーと、まあいいや、まずはお知らせをしまして、
えっと、9月のですね、何日? 22だったと思うんだ。
えーと、そうだ、その前に、9月の15日に先送りせずに締め切りに間に合わせるタスクシュート時間術という
オンラインセミナーをやります。私の2024年の一つの総集編にこれをしようと。
以降はもうタスクシュート関係のセミナーはできればせずに済ませたい。
総決算というのがあるんで、そっちでいいかなって感じと、
ミニセミナーみたいなのをやってもいいかもしれませんけれどもね、とりあえず今回でおしまいにしようかなと思っております。
なので来てくださいというわけではないんですけど、ここでまとめておかないと多分、私も記録に残さないんで、こういったことはですね、
今の時点ではこうだろうっていうのがあるんですけども、それはあれですからね、この種のことは、
いわゆるIT技術にも左右される話なんで、いずれにしてもこのタイミングではこうだったっていう程度のことであって、
でも自分の中では、大体こういうふうに運用しとけばタスクシュートで仕事を滞らせないという点では、
そのようなことはですね、他にもいろんな方が話しできる話なんですけれども、自分としてはこうだっていうのをお伝えできればいいかなと。
たまたま、本当にたまたまなんですけど、先日カズハルキナさんという方のイラストレーターさんなんですけど、こちらの方と
インタビューさせていただいてですね、なんとなく自分のやり方にも十分確信が得られたので、これでいけるぞっていう感じをですね、
これまでだってそれでやってたんだし、自分でいうと、最近でいうと、一つの成果としてはトゥートゥーリストは捨てていいですね。
あれで一つの成果にはなったと思うんで、別にいいんですけど、やっぱり人がやってるのはですね、それも
プロですよね。プロのイラストレーターさんが運用してる運用の仕方で十分これでまかねますという話は、
非常にこう、援護射撃というのとは違うんですけれども、まあまあ自分の心の中では納得がいったということが大きいので、
4月15日にはこの話ができると思っております。
もう一つ合わせてですね、今私、
キクセラピーというかキク百日セラピー、この中でですね、百日セラピーというものを第8期から解消してやります。つまり3ヶ月チャレンジだったってことですね。
これ不評内容だったら元に戻しちゃいますけど、とりあえずこの名称で第7期か8期だと思うな、8期は行こうと思っていて、
この8期の百日セラピーの予約をお取りいただけます。
予約をした場合、4回のセッションを8期が始まるまでに先払いで行っていただく形にしまして、
2万円になります。8期の申し込みをですね、正式に10月から取った場合、この予約なしでいきなりどうでもいいんですけど、予約をしていただいて、
4回セッションを受けていただいた方がですね、少なくとも損にはならないし、セッション回数増えますからね。
しかもお互い無駄にもならない。これは佐々木と話しててもダメそうだと思ったら、ここでやめていただけば、
お金の節約にもなるし、時間の節約にもなると。私はどっちもお勧めはしませんけれども、でもこれはお互い損にはなりませんから、
ご利用者さんにも損には決してならないのでいいんじゃないかなと思って、今Googleカレンダーの方に予約を、枠の中でですね、空いてる時間の予約を取っていただけるので、
この種の方式は便利だとは思いますので、2、3週間まで枠を15日くらいかな、伸ばしておりますんで、よろしければちょっとチェックしてやってください。
これはノードに書く書く言ってて書いてないんだよね。書かなきゃなとは思っております。
はい、ここのところ全然落としまくっているこの番組なんですけど、やっぱりね、あれですね、
全然関係はないはずなんですけど、スタンドFMにして、勝手が変わったと僕が、なんていうんですかね、それこそ無意識で感じてるんでしょうね。
おかしいな話なんですよ。不便になってる部分は一つもないんで、むしろ便利になってるし、困ってるところも何もないのに、滞ってしまうという。
滞ってるって言っても、いろいろあったんですけどね、病院に行ったり、様々あったんですよ。単に寝坊したりってことも。
ところどころで喋ってますけど、今ゼルダの夢の…夢見る島?夢を見る島?まぁちょっと忘れたんですけど、正式なタイトルは忘れてるんですけど、やっててハマっててですね。
夜結構夜中にやってるんで、朝相当起きなくなっているわけですね。起きたら10時ぐらいのことが半端なく起きていて、そのまま
セッションに11時から突入するみたいな日は、これをやっている余裕はどこにもないんで、夜やればいいんだけど、夜は夜でゼルダをやるから、こういうパターンですね。
間もなくね、多分これはどうせ終わりますんで、ロープレイだからね、最近ペースが上がってきたので、ペースが上がってるということはつまりやってる時間が長いわけですが、
間もなくクリアして、そうすると、これ年を取ったと思うんですけど、しばらくもうロープレイとか見たくもなくなるっていうか、もういいやみたいな感じになる。
だいたいボス戦で3回くらい死ぬと、もうその段階で辞めるというのが、あの50なんだ、あのアラフィフなんですね。
あれがあの10代だった頃には、もうボス倒すまでは絶対やってましたからね、ボス戦3回死んだから辞めるっていうのはもう心理的なものですよね、これね、モチベーションがなくなってしまうので辞めるんですけど、そういう感じで、しかも最近ロッテも負け続けてるし、ほぼ関係ないんですけど、関係しちゃうんですよね、心の中で、こういう心の中の関係がその人の調子を変えていくなってよく思うんですけどね。
まあでもそれは微細な話です。とりあえず本題に入りましょう。100日セラピーをよろしくお願いします。
贅沢な悩みの概念
えっとですね、セラピーの話の続きみたいなもんなんですけど、
えーっと、贅沢な悩みっていうのがこれが将来キーワードになるかどうかわかりませんけどですね、遠畑海人さんが言い始めていて、山崎隆さんにも私は直にその贅沢な悩みっていう概念は大事かもっていう話をちょっとしてもらったことがあるんですね。
贅沢な悩みっていうのは捉え方様々ですけれども、私の捉え方ではですね、ここにいわゆるこう私のようなビジネスメンタルサポート系の人間と言っておきましょう。まあ人によってはノラカウンセラって言うでしょうけど、まあそういう存在と、いわゆる正式なカウンセラー、そこから診療内科へとのグラデーションの話なんですよ。
えーと、例えば、いわゆるビジネス上の悩みって言いますけれども、悩みというものがですね、ニッチもサッチもいかなくなり、これはもうこの悩みで抱えてたら死にかねないぐらいになってしまった場合は、診療内科とか正式なカウンセリングを受けるって方向に向かうわけですね。
これはつまり悩みで悩んでいる程度をある程度表しているんです。つまりこれ病理っていう名前、病気っていう人が言うのはですね、その悩みを抱えていてそのまま生きていくのは無理だっていう話じゃないですか。
体の病気って言っても同じなんですけど、体の病気の場合は、魔法って言うと本当に生きていけなくなるみたいなことがあるわけだけど、それとですね、精神の病の場合も、近いづいていけばですね、体はどこも悪くないってやつですよね。
でももはや気持ちの問題などと言ってる場合ではないわけですよ。
毎日のように機子燃料でオーバードーズしますとかいう話になってきたらですね、交付剤もらってるから100錠飲んでしまいましたみたいな話になってくると、悩みがつらすぎて、適応的どころではなくなってくる。
こうなったら、人が連れてくるか自分が行くかは別としてですね、カウンセリングなり診療内科なりに大急ぎで行かねばならないっていうこれは深刻な悩みですね。
ここにビジネスメンタルサポート系の出番はないわけですね。
じゃあどこからが出番で、どこからの出番がなくなるのかっていうところに線を引く。
この線を引いたところをボーダーラインと呼ばないけど、これは間違ってますけど、ここにボーダーがあるとして、そのボーダーのこっち側を病理、こっち側は贅沢な。
ってことはつまり贅沢な悩みはビジネスメンタルサポートでもいいわけです。
でもいいってことはつまりどういうことかと言いますと、
ビジネスメンタルサポートでもいいものが、その悩みを放置していてもとりあえず大丈夫だっていう意味を案に含んでるわけですね。
でも悩みに程度はないという、これは倉津野圭祖さんがGood Vibesでちょいちょいおっしゃってた言い回しですけど、悩みに程度はないというのはですね、
程度はなくはないかもしれないけど、それははためじゃわからんっていう問題も当然あるわけですね。
そんな悩みって人は言うかもしれないけど、それがめちゃくちゃでかい悩みだということはたくさんあるわけです。
で、この書の人たちにしてみるとですね、正式は、これは正式の人から見るとそれは誤解だって言われるでしょうが、正式は式が高い、ハードルが高いって話になってくるんですよ。
だってその程度の悩みだから。
贅沢な悩みっていうふうに、彼は正式の人ですね。
正式の人が言ってきたってことはですね、ある意味では、そんなものはないですけど取り決めがないからね。
良空審判なわけですよ。
この言葉が出たのは昨日のXでこの言葉がわずってたからですね。
いわゆる、島を荒らすみたいな話ですよ。
急に言葉が荒っぽくなりました。
本当はそんなことはないですよ。正式の人はどこまで行ってもいいんですよ。
あらゆる悩みを抱えていいわけです。抱え込んで。
でも、お金のこともあるし、それこそ大げさだってことなんですね。
そう捉えてしまう。日本人だからなのかもしれませんが、いずれにしもそう捉えてしまう領域というものがありまして、
ここにたぶんボーダーが一つあるんだろうなと。
ここにだから境界があるんでしょうね。ないけどなんとなくあるんですよ。
タスク管理と心の健康
つまりその悩みって、例えばですけど、タスクシュートでですね。
タスク管理でもいいんだけど、タスク管理にしよう。
やらなきゃならないことがたくさんありまして、全部洗い出したんだけど、やる気全くないんですよねっていう人が、別に診療内科行ってもいいんですよ。
なんかそこでの処置は嫌かもしれないけど、行ってはいけないということは何もないわけですね。
でも行かないような気がするんですね。これはビジネスメンタルサポートで良さそうな気がするわけです。
これを贅沢な悩みって言うわけですね。
でも果たしてそうかっていう問題もありますよね。明らかに。
例えば何にもやる気がしないんです。朝から晩までリストを眺めてはぐったりしてベッドからも出られません。
これはどうでしょう。
これはさっきのと趣旨は変わらないわけだから、美容によっては。
だからタスクシュートのなんかよくわかんないメンタルサポート100日テラピーとか受けに行きましたって言って、診療の人がそれはダメですと。
あなたその状態は鬱なんだから、素人に見せちゃダメですって。
これは妥当なのかどうかってことですよね。
僕はこれは妥当だと思うんですけれども、そのためにはある種のリテラシーを要求されてしまうと思うんですね。
ここに一つのまた別の問題があるわけですよ。
そのリテラシーを周知徹底する方向にメンタルグループというのかな、正式な診療の世界は向かってるでしょうかっていうね。
あらゆる悩みは一手に引き受けますと言うんだったらそれはそれでもありなんだと思うんですけれども、その言い回しで十分かもしれませんが。
現実はそうはなってないので、それが打つかどうかを判断する能力がクライアント側に求められるじゃないですか。
だから結局のところ、ニッチも察知もいかなくなったから診療に来ましたっていうのはそれは現状そうなってるし現実的なんですけれども、
ニッチも察知もいかなくなるのがリテラシーが広がると早まるんですよ。
もう無理ですっていう段階が早まるわけですね。
今はすごい収まってるわけですよ。本当に相当ニッチも察知もいかなくならない限り、人は正式などというところにはなかなか向かおうとしない。
いわゆる医学用語で言うところの手遅れってやつですね。手遅れだってやつですね。だからもっと早く来なさいってことなんだけど、早く来させないようにしている面もなくはないわけですよ。
だって僕が思うにですね、そんなことはしてないですけど今はちょっと前も間違いなくありましたから、素人はそういうことに詳しく並んでいいみたいなね。
この問題っていうのはどこにでもあるけれども、診療系のカウンセリングの話では、私はめちゃくちゃ頻繁に見るなっていう臨床例の話を読んでると、
よくですね、めちゃくちゃ詳しい患者さんっていう、なんかもうありえないぐらい詳しいわけですよ。詳しさゆえに治療が滞るっていう話を書きたいんでしょうけど、
詳しさゆえに治療が滞るっていう言い方って実に微妙なんですよね。なぜ詳しくなるかというと苦しんでるからじゃないですか。苦しみもしないのに、
あんなですね、専門家のように読むような論文って読まないんですよ。私これは体の病気の方から知ってるんですよ。
アトピーって長らく放置されてるとめちゃくちゃ苦しいんで、めちゃくちゃ詳しくなるんですよ。詳しくなっても治んないのは確かなんですけど、そこがやっぱり専門値ってことになるんでしょうけどね。
そもそも専門値を読んでるわけだからね。でもそもそも詳しくなるのはあなた方が治してくれないからじゃないですかっていう話になってきてですね。
ここに難しさっていうのかな、その抱え込む人にとっての難しさっていうのがあると思うんですよね。どっちが抱え込むにしてもって意味ですよこれは。診療内科の方が抱え込みにしてもビジネス症、ビジネスメンタルサポート側が抱え込みにしても、
仕事術メンタルの方、いらっしゃるじゃないですかメンタリストさんとかね、いるんですよ間違いなくこういう方々は。別にこれは仕事術だからあるわけじゃないですよ。
夫婦間の問題だったら夫婦カウンセラーっていらっしゃるじゃないですか。学校の問題だったらスクールカウンセラーは正式かもしれないけど、保健室のとかね、いらっしゃったわけですよ。
いないはずがないんですよね、そういうところにそういう方々が。だって正式は大げさだっていう意識がどこにも働いてくるわけだから。
そして悩みというのはあらゆる分野に渡っていくわけだから、この辺のことを一番書いたのが普通の相談という本で、
戸畑海斗さんが錬金術みたいに言って精神分析をですね、批判をしているとは言えませんけれども、ある種やゆってるみたいなところは感じざるを得ない。
そういう本ですね。非常に微妙な言い回しになりましたけどね。
だから例えばなんですが、私たちのそうですね、先送りは典型的ですよね。先送りというのはあらゆるところで、
引っ張りだこと言うのも変だけど、あらゆる方面から誘いかかってきていると思うんですね。
それだけみんなが困ってるし、また困りすぎている事象でもあるとは思うんです。
だから先送りというのを発達障害とか、軽鬱的な、あるいはちょっと前に、これは香山理香先生ですけど、職場鬱みたいな言い方で、
特殊型鬱とかって言ってるんですけども、そっち側からの見立てを取ってきてもいいでしょうし、
あるいは私が繰り返し読んで割と紹介もした、クズの人には訳がある、グズの人には訳がある。
グズじゃない、グズの人には訳がある。リンダサパティンさんが書いたやつですね。
あれは認知効能両方で、でも精神力度も入ってますからね。
で、DSMを先送り診断テストみたいに言い換えてるんですよ。あれDSMがベースだと思いますね。
例えば完璧主義型グズ人間とか言うんだけど、あれはつまり脅迫症のことを言ってるし、
反社会型、こうなってくるとね、反社会型先をグズ人間とか言って、
それ反社会性パーソナリティ障害じゃんって感じだし、
不安型とかね、もうお分かりですよね。不安型とか心肺症グズ人間とかって言うんだけど、
それは不安ですよね。いわゆる不安障害のことを言ってる。
という感じでですね、ジゾイドみたいなのも出てくるし、
6型に分けるんですよ。この6型は全てDSMがほとんどベースだなって、作れますよ。
少しでも詳しい人ならばDSMとかICDだけか何かを使ってですね、
診断基準を使えば、性格分類みたいにして、
私はそれをやるという人がいらっしゃるのに対して、
しかもそれが専門家となってきた場合に、私が云々言うのはあれですが、
非常にあれだなと思うところはあります。だけどこういうものはいっぱいあります。
そもそもDSMっていうのはそういうふうに見えてしまうものですからね。
やむを得ないなとは思うんですけど、
私はあれはやっぱり精神分析に対するアンチ提前として現れたものだろうと、
随所にそれが感じられる気がするんですよね。
習った時もそう思いました。正直言ってね。
しかも面白かったことに、
私がDSMをアメリカで習った時の教授って精神分析家だったから、
ある意味では確実に臨床家ではあったし、
臨床家であって、あのご年齢で自我心理学派でないというのは考えられないことなので、
あの人はそうだったんでしょうね。
そう考えていくと、
そのDSMというもの、
あれはまるで性格分類みたいな、私の性格を診断しましょうみたいな、
性格診断みたいなものに見えかねないわけですけれども、
そっちからのCBT的な認知行動療法から先送りを、当然ありますよね。
先送りをするというのは、あなたはこの先送りしている仕事をどのように認知しているんでしょう。
そしてどうして先送りという行動を繰り返してしまうんでしょうっていう話になるじゃないですか。
素人的に考えても。
そして、
なんでもいいや、このメールがなかなか出せないのは認知が歪んでいるから、
だから本当にそのメールを出すのがそんなに大変なことかとか言っていって、認知の歪みを正して、
そしてメールが出せたら、
そんなやり方をするとは思いませんけど、
近くのおいしい中華料理屋さんでも食べに行って、
自分に褒美を与えて、これを報酬刑としてメールを先送りせずに早く返信するというのを繰り返すように行動学習しましょうと。
絶対にこれはビジネス書だったらこっち書いておいた方が受けはいいのは、私にも100%間違いないと思いますよ。
私がこれに対してお父さんとお母さんとの問題とかね、
メールというものに対するスプリットだと思いますからね、私はね。
スプリットで悪いおっぱいがそこに投げかけられてとか、
不在というものがあってみたいな話をするのでめちゃくちゃ狂ってるじゃないですか。
ほとんど頭のおかしいおじさんじゃないですか、こういうことを言っているのは。
フロイトの本を読んでもそういう印象はあると思いますけれども、
どう考えてもそういう説明が有効だとは思えないというふうに思われると思うんですよ、私だって。
でもこっちの説明を僕は採用するわけですね。
今のように話せば最悪だなと思いますよ、私だって。
今のように話すわけにはいかないですよね。
だから、私はこのポッドキャストで喋れるようになろうというふうに、
ある意味自己訓練している部分もあるわけだけど、
要は私自身で言うとですね、CBDは経験もあるわけですし、
それこそビジネスメンタルサポート系としてやってきたやり方でもやってきているわけですよ、なんだかんだ言って。
認知、リソースとかいう言葉を使ってみたりしてですね、やることを絞るとか減らすとか。
ビジネス側でもこれだけ洗練されてるんだから、CBTは今すぐ洗練されてると思うし、
それによって自分の行動が、習慣が変化するということは当然期待できると思いますね。
当然期待できると思うんですけれども、どうしても期待できない部分が私にとってはありまして、
そしてですね、両方使ってもいいわけじゃないですか。
私はこの言いとこ取り的な話も心の中では釈然としてないんだけど、
でも世の中一般に留守する上では両方使ってもいいと思うんですよ。
自我心理学も最小関係論も認知行動両方も全部ですよ。
診療内科となってくるとさすがに贅沢な悩みかなって感じもしますし、
ここで薬を飲むってことになってくるのは、いくらなんでもちょっとねって気も、私もやっぱりします。
それは偏見だと言われるかもしれませんけど、偏見なら偏見で、そういうふうに私も思います。
先送りで薬飲むってのはどうなんだろうなって感じはしますけれども、
3つ使うってのはありだと思うんですよ。
どっちにしたってこれは必ずしも医療行為ではないわけですからね。
そうそう、こういうことですよね。
医療行為でないということは、周りの人も本人も耐えうる、十分持ちこたえられる状態にあるということです。
その先送りが。
ゴミ屋敷の心理的背景
無理だって言うんだったら、例えば家がゴミ屋敷になってしまいましたみたいな話になったらね、
そしたら、それは半分医療行為に入っていく。
そうすると、当然ビジネスメンタルサポート系からは離れていくってことになるでしょうね。
だけど私はやっぱりそこで起き上がれないという、起き上がれずに、
家電ゴミの日とかをどんどんどんどん過ぎ去ってしまう。
日によってはただめんどくさくて出さないし、日によっては寝坊してしまう。
この寝坊もですね。
昨日そうだ、Jマスザキさんとポッドキャスト始めましたからね。
これも多少は関連してるんでしょうね。
影響を与えてるんでしょう。
これをすっぽかすのに。
いずれ多分すっぽかさなくなる気がします。
これ始まったばっかりなので、3waysってやつね。
多分僕の中で話すない奴が、内的動機が下がったんですよ。
あっちに使われたから。
でもこれは多分そっちでは話せない内容が蓄積されてしまうんですぐ。
すぐにこれは元に戻るとは今思いました。
Jさんと話していて、彼もよく最近言うことが変わったので。
最近っていうのはつまり、2011年の頃に比べればってことですけど。
それは変わりますよね。
だって15年ぐらい経とうとしてるわけですから。
その間ずっといろんな体験をしてきてるのに、言うことが全く変わらないっていうのが、
いいとされるケースもあるんでしょうけど、僕は全然いいと思わないので。
言うことがどんどん変わるというのは、ある程度は諸手を挙げては喜べなくても、
基本的にはいいことだと思いますね。
自己認識と自然な行動
彼が言っていたのがですね。
自然に忘れることを、不自然な介入の仕方をして行動を改めるのは決していいことではない。
まるで違う人から喋ってるみたいだなって思いながら聞いてたんだけど。
あれだとでも私もやっぱり思いますね。
自然に忘れることってあるわけですね。
で、問題なのは自然に100回も可燃ごみの表を忘れてしまうっていうのは、
それ自体も不自然だっていう話。
この自然がやってるんだか不自然がやってるんだか分からなくなってきたら、
少なくともサポートは受けるシグナルにはなると思います。
悠長だけど今の言い方は。
診療内科というのも同じで結局は、
自然にやり忘れたりすることが自然に起こってる限りは、
少なくともその人は社会的には適応できるんだと思うんですよ。
だけどそれが自然に起きていることが、
普通の人の目から見ればすでに不自然ですっていうケースが起こってきたときにはですね、
やっぱり何か手を打ちますよね。
これはよくカウンセリングの本に書いて、時々書いてあるんですけど、
2人で来たら精神病で、1人で来たら神経症っていう目安があるらしいんですね。
私はこの目安は、だからこれはまさにボーダーラインの話をしてるんだけど、
じゃあ間はどうなるんですかっていう、
2人で来ようとしてるんだけど実際は1人で来ちゃってるとか、
1人で来ることはできてるけど本当は2人で来るべきだよねって、
2人でってのはどういうことかというと、
本人の現実見当がすでにおかしくなってるということですよ。
私どこも悪くないからというんだけれども、
医者が見るとどこから見ても統合失調症だみたいな、
このケースは1人では来ないですね。
だから親と一緒に来るとか、
ご両親はこういうわけですよ。
もう家ではとても面倒を見きれません。
なんとか先生入院させてくださいと。
私もそれに近いことを、医者に言ったことがあるわけですよ。
この場合2人で行くわけ。
だから2人で行くときは精神病推准。
1人で来ることができているなら、
1人ってことはつまり自分がどこかちょっと問題あるなってことに、
自覚があるってことなんで、
表識はあるわけですね。
表識があるってことは、
その分現実見当がちゃんとしてるってわけじゃないですか。
だから神経症推准。
健常に近いってことですね。
だから軽いってことでは必ずしもないのが、
また面白いというか難しいというところなんですけど。
こういう意味では私は100日セラピーは、
2人で来るということは受け入れてないんですね。
こういうところに仕掛けと言いますか、
仕組みがあるわけですよ。
ここにいらっしゃることができているということは、
少なくとも1人で来ることができるっていう意味があって、
しかも医療行為でないということを断っていて1人で来る。
だからここにまたねじれがあるわけですよね。
医療行為でないということは、
病識がない人が来るんじゃないっていう話になりかねないわけですね。
私はそうはならないと思っているんだけれども、
絶対とは言えませんよ。
だけどこの1人2人っていうのも絶対的な基準じゃないですからね。
結局は目安なので。
カウンセリングと治療法の考察
ただ2人をOKにするということは、
その分間口は相当広げることになるという話はできると思うんですよね。
だから私は本人は来る気がないんだけど、
ぜひこの人に受けてほしいというパターンは、
一時ちょっとだけ試してみたことがあるんだけど、
お友達紹介制度みたいな、
基本的には避けるようにはなってます。
この辺は意識はしてるってことです。
私は正式ではないし、もちろん診療行為ではないので、
どっちにしたって構わないとは思っているんだけれども、
今のところやっぱりこの2人というのは
間口広げすぎなんだろうなっていうのは少し考えるところではありますね。
というわけで、問題なのは結局、
その問題でニッチもサッチもいかなくなっているときというのはですね、
その人にとっての自然がもはや、
周りにとっては不自然すぎて受け入れられないわけです。
可燃ごみ100回突っ飛ばすみたいな、そういう話ですね。
そして、この時に私はですね、
少なくともその人はすでに周りの人が困るでしょうから、
すでに2人で行くっていうパターンになるでしょうし、
メンタルビジネスサポートの領域は遠くなってしまっていると思うんですね。
しかし、一方でビジネス書に書いてあることもそうだけど、
断捨離とかありますよね。
あるいは先送り対策もありますよね。
なんならメンタルが落ち込みすぎた時の対応策とか、
グサッとした時にグサリと来るような一言を言われた時の
跳ね返す力みたいなのも全部一応あるわけですよ。
ビジネス側にだって。
そして結構それなりに洗練されてきているわけですよ。
蓄念しているし専門値を集合させてるわけですから、
専門値じゃないかもしれないが、
少なくとも集合値っていうものはそこにあるわけですからね。
洗練はされますよね、やっぱりね。
お互い批判もしあうわけだし。
というか対話が起きる。
致説かもしれないけど起きる。致説じゃないケースだってありますからね。
いずれにしても起きるわけです。
で、贅沢な悩みからのアプローチだから、
ある意味安全という言い方もできなくはないわけですよ。
そうした時に、最後に私はでも残ってきてると思うんですよね。
どっちの分野から言っても、
いまいち、いまいち、僕の目にはね、いまいち効果を発揮できてない。
多分ビジネスショーなんていうものでは信じきれてないっていう人も当然結構いらっしゃる。
一方でそれらの人たちの中に贅沢な悩みになっていて、
診療とかに行くには、それこそ敷居が高いか、大げさすぎると考えられている。
でも、本人なのか周りなのかはわかんないけど、
確かに困ってはいる。
っていうような、3つのベンズの中心に来るようなケースにおいてですね、
非専門家によるメンタルサポート
いわゆる非専門家が、それこそマスに向けて打つような、あれじゃないですか、
Xの中であなたがメンタルで本当に困らないための10か条みたいな、あれただじゃないですか。
で、多くの人がいいねをして、多くの人がブックマンをするんだけれども、
あれを10か条をただただ守るってこと自体が、そもそもなかなかリアリティーが、
僕にはイメージしにくいわけですよ。
10か条が間違ってるとか、正しいというよりは正しい感じがするんだけど、
その10か条どうして守れるんだろうっていう、
守れるのに今までは守れないのが自然だったっていうのはおかしいんじゃないかって感じが、
こんな風に分析的に考えませんけれども、
そこのところのギャップがですね、
多分私が今無気になって喋っているポイントなんだと思うんですね。
その10か条を守ればいいっていう、
例えば打つにならないための10か条みたいな、
そこまでストレートに書いてるものがあるかは分かりませんけど、
ストレートに書いていると何かに抵触しそうなんでね。
でもそういうのってあると思うんですよ。
そしてそこに書いてあることは、
打つパンにもありましたね。
日光浴を浴びるとか、いつもポジティブに考えるとか。
ポジティブに考えるのがその人にとっては全然自然じゃないから、
ネガティブに考えてるわけじゃないですか。
そこを習慣付けようと頑張るだけでポジティブにいつも考えることが、
ポジティブにいつも考えることができれば打つにならないというのはそうかもしれないんだけど、
そもそもそれができているならば、
その人はネガティブになんて考えないんじゃないかっていう話はある気がするんです。
日の光浴びたくないんじゃないのっていう話ですよね。
ドラキュラじゃないですけど。
つまりああいう昔話があるってことは昔からいたってことですよ。
浴びたくないという、浴びると死んでしまう気がするみたいなね。
そういうことが全くありえないことでは全くありえないじゃないですか。
変な言い方になりましたけれども。
当然あり得ることです。
だからやっぱり自分が考える、
素人が適用するならむしろ対象関係とかなんじゃないだろうかっていう、
踏み込んでいるとこういう言い方になるんですよ。
素人が適用するからこそCBTじゃないんじゃないかってことなんですよ。
むしろああいったものこそ素人でも今まで間違いなく適用できるでしょう。
行動を変えたらご褒美を与えるとか、考え方の歪みを変えるとかいったことは、
ほぼ確実に僕らは少しでも考えるってことをやり出せば悩んでいればはめしますよね。
だからこそそれを専門的にやることにむしろ意義が深くなってくると思うんですよ。
素人が繰り返しただCBT的なことをやるというのは今までと何も変わらない気がするんですね。
それをリアルの世界で日常生活で仕事の場で適用できないからこそ、
例えばこういつも、いつもではなくてもいいんだけど会合では笑顔で言いましょうって、
その方がいいじゃないですかそりゃ。
パーティーに行ってすごく不機嫌そうな顔で基本的に誰にも話しかけず、
斜め下を向いてコップだけ持ってアルコールをぐいぐい取るっていうのがいいと思えないのは確かじゃないですか。
どういう観点から見ても必ずしもいいと思えないのは別に不思議な話ではない。
けれどもできないってことじゃないですか。
つまりそれは少なくとも認知行動的な行動はパッと素人が考えた程度のいつも笑顔で接するとか、
名刺は相手の顔を見て渡すとかそういうことができるんだったら僕にやってますよね。
そこでもあえてその方法で行くならばその時こそ専門家だという感じがしますよね。
多分対象関係とかはそうではないんですよ。
私たちはそれを素人くさくはまず適用してこなかったやり方だと思うんですよ。
さっきも途中言いましたけど頭おかしなおじさんの言葉に聞こえるじゃないですか。
だからこそ私はですね、やっぱりここでなかったものを手に入れるためにはこの方針、この方向性を探っていった方が結果として面白いんではないだろうかって気がするってことですね。
僕らが何を置き去りにしているかというとやっぱり情緒だと思うんですよね。
つまりこの私たちの生き方全体がここを盲点にしていくような生き方なので、ここから入っていくっていう発想自体がなかったんですよ今まで。
どうしてよく言われる通り精神分析ではセクシャルなことばっかり言い出すのかというとスキンシップみたいなものは最初から除外されてるからという感じが私やっぱりするんですよね。
ゴミを持つことの心理
それって内々のことになっちゃってるじゃないですか。スキンシップに限らないんだけど濃い情緒的なやり取りって、我々はそこを最初からあらゆる検討の観点から除外した上で、その上で問題に当たっていくっていう方針で言いますよね。
どうして100日間はたまたま言ってるだけだけど、可燃ごみの日をスキップするというのが情緒的な問題でないと言えるのか。
でもそれでもですね、私たちはそこで行動的にこの問題を捉えようと従いますよね。間違いなくリマインドをかけるとか、これは行動として忘れるってことだけに焦点が出てますよね。
捨てたくない、ごみに囲まれていたいっていうその人の、本人をする自覚はもちろんありませんけれども、ごみに囲まれて生きていたいっていうその人の気持ちみたいなものは、真ん中から問題にされていないじゃないですか。
大概ほとんど意識もされないし、意識したくもないみたいなところあるじゃないですか。その時にその人がどういう育ち方をしたのかといった時に、お父さんお母さんがものすごく厳格すぎるとか、アルコール中毒だったっていうような依存症だね。
だったら話はわかりやすいんだけど、お父さんお母さんはとても普通でしたみたいなことを本人が言ったり、愛情いっぱいで育てられましたみたいなことを言い出した時こそ、僕はそこに焦点を当てたくなるし、そこの時に何と言えばいいのか分かりませんが、ウェットな部分を除外してしまうということをやると何も見えなくなる気がするわけですよ。
タイマーとか行動の記録といったもの、行動の記録ですからね。そこにたとえ感情の記録を書いたとしても、書くという行為がアプローチになってしまっている以上、感情そのものというものと自分がどういうふうに関わっているのか、大抵苦しいはずなんですよ。
そのゴミに囲まれて生きていたいという感情と一緒になって生きていくっていうのは、社会生活を行う上ではいろんなご不都合がありますよね。やろうと思えばできますよ。やろうと思えばできますけれども、すごい著しい困難というものを抱え込むことになりますよね。
これをどうすればゴミを自分から整理して遠くに置くことができるんだろうというアプローチしか取らないと、見えないはずなんですよね。理屈の上から考えても、囲まれて生きていたいわけです。ただそれをすると生きていけないっていうようなジレンマなわけですから。
普通に考えれば、どうしてゴミに囲まれてなんて生きていきたいのって問うはずじゃないですか。この問いが私たちの中ではですね、なぜか上手いこと消し去られているというか、目に入らないようになっているんですよ。
だからそれを抱えなきゃならない人は、社会の中で見えにくい領域で生きていかなきゃならないことになっちゃっているわけですよ。もちろんこれは社会問題だって言われる人もいるでしょうけど、私はこれをそうは見えなくてもパーソナルな問題だとしておきたいんですよ。
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