2021-11-05 29:56

【GMV 491】自分を犠牲にしない

甘えさせることと自己犠牲の違い
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
若干時間が無くてですね、今日一度試してみたかったのが、
そう、分けて取って繋ぐってやつね。
試してみたいんですよね。
というのは、つまりやり方は分かってるんですが、
このグッドモーニングバイブスに関して言うと、それが出来る気がしない。
でもこれはイリュージョンのような気もするので、それこそね。
出来ればこれをやれると、時々こういう状況の時の幅が広がるかなと思ってやりたいんですけどね。
とりあえずちょっとやってみようと。
昨日も言いましたけど、来週の土日にオンライン合宿をやります。
今週の土日はリアル合宿なんですけど、
普通合宿はリアルですけどね、オンライン合宿をやりますので、
コミュニケーショントレーニングということで、
僕の言葉を使って一言だけで説明するならば、
相手を甘えさせればコミュニケーションは上手くいくということになります。
甘えさせるという言葉がいけないんだろうなと思いながら、
私は本の中でですね、実はあそこに迷いがあったんですよ。
あの本にはいくつか迷いがあって、そのうちの一つがこの甘えさせるという表現。
甘えを満たすと書く方がどっちかというと、
どっちにしてもダメかもしれませんが、非難を招きにくいと思うんですね。
でも私は甘えを満たしていきたいといった方が、
座りはいいよなと思うんだけれども、
私自身の経験からしても、
ウッドフェイブスも本当は段階はないと思うんですけど、
学んですぐのところに比べて、今の方がこなれてくるんですよ。
初期の頃は甘えを満たすと言われて、果たしてそれができたかなと思うんです。
甘えさせるぐらい、やや私益同士って言うんですかね。
自分に強制力を持たせる表現を取らないと、
あの時だったらできなかったというか、
なかなか踏み込めないかもって思ったんですよ。
会社とかだとましてやそうで、甘えさせるには、
本当は甘えにもヒエラルキーはない。
上下関係はないんですね。
親の子に甘えさせるものでしょうって思われるかもしれませんが、
間違いなく親は子に甘えるっていう局面もいっぱいあるし、
実際には甘えさせるということと、甘えが成立するということと、甘えるということは全部同時なんですよ。
甘えさせるって言った時は親が子供って感じ、つまりこっちが上って感じが残るんですよね。
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これを利用したいなって思ったっていうのがあります。
これを利用しないと会社で上司がすげえキレてる時に、
しかも自分が悪くて上司が自分に怒ってる時に、
甘えさせるじゃないと踏み込める気がしないんですよね。
上司の甘えを満たすだと他人事みたいになってしまって、
全然甘えの方までいけないんじゃないかなって思ったので、
あの表現を取ったと。
つまり私が上だよっていう、本当は上下ないんだけど、
一時的にでも自分の方が上、この感じを私は使って、
妻との関係をだいぶグッドバイブスの方に持ってきたので、
やはりそういうちょっとテクニカルなものに頼るということも
必要なんじゃないかなっていう含みがあれにはあります。
もう一つ頼んだというのはついでに言っておくと、
自分を甘えさせるのが先か、人を甘えさせるのが先かっていうやつなんですね。
あれは非常に社会図式的に捉えられるように書いておいて、
人を甘えさせれば甘えというものが許されることになり、
自分も人に甘えられますと。
こういうと非常に簡単な話のように聞こえますよね。
そう読んでいただいていいわけなんですけど、
この番組で盛んに言っているのはちょっとだいぶ違うところもあるじゃないですか。
だいぶ違う話を実際はしたいわけですよ。
この甘えさせれば自分も甘えられるようになる、
なぜならば甘えが許される世の中になるからみたいなのは、
結局マクロなんですよね、ものすごく。
現場で上司にパワハラされてますみたいな、
その時はもっと生々しくてややこしいので、
こんなふうには当然いかないわけです。
ただ意識するべきことは同じで、甘えさせようというふうに思うだけでいいんですよ。
これを本気で思えれば必ず自分を甘えさせるという結果に、
自分の甘えを受け止めるという結果になるはずで、
そうなれば怖さというものはうんと少なく見積もっても半分以下には絶対なるはずなんですよ。
本当はほぼなくなっちゃうというところまで言いたいんだけれども、
うんと少なく見積もっても半分にはなるはずなんですよね。
そのカラクリについては何度も何度も喋っているつもりなんですけれども、
多分今後も何度も喋ることになるだろうと思いますので、
今日はですね、中でもややこしい、このややこしいのあと15分くらいではどうにもならないからやっぱり継ぐことになるな、
アダルトチルドというやつ、あれはどうしてややこしいのかということを考えながらお話ししたいんですけれども、
要するにですね、甘えの問題で甘えさせるといったときに、
一番最初にまず引っかかってくるというか、ほとんど私に寄せられている反論は全部、
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私が犠牲になる言われはないよという話なんですね。
で、自己犠牲と甘えと自己犠牲といえば、これはもうアダルトチルド連なんですね、私が頭に浮かぶのは。
実際その言葉は避けましたけど、あの本の中ではずっとそれは定流っていうのかな、
定流ではないですけどね、念頭に置いて書いてました。
大部分でアダルトチルド連という問題は意識しつつ書いてました。
やっぱりそういう非難は来るに決まっているので、来るだろうと。
先日倉園圭祖さんに、これは庵に励まされてなんですけど、
世が世ならこういう話をすると火破りになってもおかしくないんだからっていう、
つまりそういうことなんですよね。
やっとある意味では世の中でHSPとかADHDとかいうのが市民権を得つつあって、
そういうサイコパスみたいな人からは距離を取りましょうという、
こういう気響がやっと盛り上がってきたと、そういうふうに思っている人もいると思うんですよね。
そういう取り乱して怒り狂うようなやつはみんな排除して、
なんなら隔離しておくとはいかないまでも、
社会的に存在できないようにするべきだという気響が盛り上がってきたところに、
真逆のことを言うなよと言われるのは当然なんですが、
僕は話はそこまで持っていく前に、
これはだいぶ前に確実に議論された話だと思うんです。
ACというアダルトチルドレンというのはそういう議論だったと思うんですよ。
あれは両親がいつも喧嘩していますと、
子供がそれを気をもみますと両親の喧嘩を見て、
このままでは家庭がまずいことになるというので、
例えば自分がピエロ薬を買って出る。
甘えているのは両親ですよね、この構図の中で。
子供が頑張って甘えさせると。
母子のユニットという言い方をすると、母子が逆転して、
母子が逆転するのはしょっちゅうなんですよ、実際には。
甘えさせるという時には自分が甘えることになるので、
同時に怒るはずなんですけれども、子供が親を甘えさせて、
子供が親をひょうきんなことでも言ったりやったりして笑わせると、
そして喧嘩を収めるという、けなげな子供像と言うんですよね。
こういう人はしょっちゅうカウンセリングで登場するんですけど、
これをこの図式の通りに解釈しても、あんまり子供の心は晴れないというか、
その人はもう大人になっていますけど、それだけでは済まないんですよ。
やっぱりもっとパーソナルな話がどこかにあるはずで、
今みたいな話は抽象的なんですよね、結局。
一見非常に具体的だけども、抽象的なんですよ、所詮。
お夫婦喧嘩といったって、お母さんが強いのかお父さんが強いのか、
どういう喧嘩なのか、一つ一つは全然違うんで、
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パッとそれだけを言って、このけなげな子供が大変だったねって言われるだけでは、
多分済まないと思うんですね。
このACの問題、こういうふうに家の危機を救う、頑張る子供の姿というのが、
4種類か5種類、今みたいにひょうきんなみたいなのとか、
あるいはお母さんを慰める役になるとか、いろいろあるんですけど、
それは良いとして、大づかみにするとこれは甘えの話ですね。
間違いなく甘えだと思うんです。両親が甘えていると。
夫は妻に甘えているし、妻は夫に甘えているし、
夫は自分の甘えを自分で受け止めようという気がないので、
相手にぶつけてしまうんですよね。
これがいわゆる避難を招く気のゆった感じで言うと、
外から見て甘えている、ダメだというふうに思われる甘えです。
これを許せばいいんですけどね。
この喧嘩を見て子供はやきもきをし、親を甘えさせる。
つまり子供が母親になっちゃって、両親は子供になると。
笑わせて、母親を甘ませると。
頑張るという感じですよね。
その時に子供が犠牲になるという話ですよね。
これが甘えさせることの最大の問題だというのが、
例えばAmazonの1で、私が1をつけられたポイントの1つあるんですよ。
パオハラの上司とかサイコパスの人とか、どうするんだと。
彼らを甘えさせて布さばらせて、こっちが犠牲になって、
そういう不正義なことでいいのかということなんですね。
これはさっきのACの図式と同じで、両親が甘えていて子供がそれを面倒見るような
そういう親子関係でいいのかという話なんだと思うんですね。
この自己犠牲の甘え的に見てまずい点は、
グッドバイト的に見るといろいろまずい点はありますが、
そんなこと言ってもダメなんですけどね。
子供にとってはしょうがないんで、そうなっちゃってるわけですからね。
そこに私が介入していっていい話ではないので。
ただこれの甘えというポイントから見てまずい点は、
子供の甘えたいというのはどこへ行くんだということなんですよ。
放置されてしまうんですね。
しかもこれを自己犠牲と言うわけですよ。
子供には甘えたいというニードが間違いなくある。
これは全員にあるんですね。
実際これ全員にあると認めてもらえればですね、
サイコパスというものは存在しないと言えるんですけれども、
その話は飛んじゃうんで置いといて。
子供は甘えたいというニードを持っているだけれども、
親の甘えを受け止めてそこを甘えさせる方向に向かっちゃったから、
子供の甘えはスルーされてしまう。
それは誰も受け止めてくれないし、誰もケアしてくれない。
親は自分の甘えを受け止める方法を子供に伝えることができていない。
大体親は自分の甘えを人にぶつけてますからね。
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つまりいわゆる歪んだ甘えというのが、
鳥さんの表現で昨日再確認しておいたんですよ。
歪んだ甘えって言うんですね。
素直な甘えと歪んだ甘え。
歪んだ甘えというものを外に出してしまっているから、排出してしまっているから、
受け止め方を親は知らないに等しい。
知らなくはないんですけど、少なくとも伝えることには知らない。
子供はそういうふうに育っているから、
自分の甘えを受け止めるということは、
よみうめ気がつかない。
人の甘えを受け止めることばかりに熱心になってしまうわけですね。
という自己犠牲を繰り返していると何が起こるかというと、
甘えられない子供がそこに大きくなっていくわけですよ。
そうすると、その子は甘えられないので、いずれかの方法をとります。
一つは甘えをスルーする。
一つは甘えを抑え込む。
一つは甘えを人にぶつける。
いずれも、いわゆる歪んだ甘えになってしまって病理を生む。
たぶんですけれども、例えば会社に行って全くやる気がしないとか、
自分は何のために生きているのかさっぱりわからないとか、
すっごい空虚感があると。
時々そういうことを言う人がいるんですね。
大学とかにもいました。
人をすっごい和ませて笑わせてくれるんだけど、
私は本当はすっごい目の暗い人間で、
家に帰ると全くやることがない。
ほとんど1日中休日は寝ているみたいな。
でも、会ったときは常に人を笑わせてくれて、やたら明るい感じなんですね。
典型的にACっぽいタイプっていう、アダルトチルドレムっぽいタイプ。
余談ですが、私はそういう女の子に惚れるという悪い癖があってですね。
必ず言われることが、
佐伯くんは私の本当の面を知らないとやたら言われるんですよ。
私その頃からACの本は結構読んでいたんで、
わかんないわけじゃないんですよ、そういう話は。
だけれどもそういう人にしてみると、
自分の表面しか見ていないっていう、
この人にとっては常に全ての人がそう見えるんですね。
両親の面倒を見まくってるから、
私の本当の気持ちを両親は気づいていないということを、
実はあらゆる人に訴えているんですよ。
本人はそういう意識はないですけどね。
これが自己犠牲という中で、
自分の甘えというものが無視されていく病理。
病理なんだと私は思うんですよ。
この子が親になった時、
当然この問題が出てしまうんです。
頻繁に私は何のために子供を育てているんだろうと、
何のために子供の機嫌を取っているんだろうと、
あやしているんだろうという、
その悩みが尽きなくなってきます。
こういう親を罰心するってナンセンスだと思うんですね。
この親に罪はないじゃないですか。
この子供が一生懸命両親のご機嫌を取って、
家をケアしていたということが罪じゃないならば、
それが悪いことだとは人は言わないと思うんですよね。
けなげな子供というぐらいですからね。
その人が親になった時に子育てに空虚感を覚えることが、
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どうしても悪いことだと、
全く連続して考えてみるとですね、
全然悪いことじゃないと思うんですよ。
全てこのからくりだと僕は思うんですね。
それがどういう表現になっているかは分からないけれども、
自分の構えを受け止められないという一点においては、
何にも変わらないと思うんですね。
サイコパスっぽくてもパワハラっぽくても。
たぶんそのACの子供を受け止められないという点においては、
自分の構えを受け止められないということは、
そういう家庭で育ったんですよ。
だから夫婦の間でぶつけ合っちゃうんですね。
この両親にも罪はないんですよ。
ここを見ようとしないんですよね、僕たちは。
両親には罪がある。
だけど子供には罪がないと言いたがるんですよ。
どっちを先に発見しちゃうかの問題でしかないんですよ。
私のレビューにしてみても、
例えば私がこの補修位置をつけた人はよく分かっていないと、
私の本の意味が分かっていないというふうに見ようとするならば、
その人も過去を無視してるんですよ。
たぶんその方もずっと幼少時代からですね、
自分の構えを受け止めるというのをうまく伝えられてると思うんですよ。
何らかの形でおそらくですけれども、
自分の甘えというものをおそらく犠牲にするという形を
しばらくの間取ってきたまま大人になっていると思うんです。
そうしたところで会社とかに行くとですね、
非常にやっぱりきついわけですよ。
自分の甘えをおそらく抑え込むというのが日本では一番難しいんですよ。
スルースルーが表現もしないように頑張るということをしてきた。
そこに非常にサイコパスめいた上司とかがやってきてですね、
何かわけ分かんないことを言うわけですよ。
つまり非常に甘えたことを言うわけですね。
そうすると、あるいはですね、自分がどんな人でも甘えてそこまで
自分の甘えを抑え込むというのが、
そうすると、あるいはですね、自分がどんな人でも甘えて
外に全く出ないというわけにはいかないので、
その人自身が何かしら自分の甘えを受け止め損ねてですね、
会社でミスをする。ミスというのは私は自分の甘えを受け止め損ねた時に出ると思うんですね。
これをフロイトが失策行為と名付けたんだけれども、そういうことだと思うんですよ。
それに対して怒られると。だけどその怒り方はいかにも動向していると。
ミスしたのは自分だけど、こういうふうに起こることはないというふうに相手は甘えているし、
こっちも甘えるわけですよ。ミスしたのは自分ですからね。
で、この甘えをお互いが全く受け止めないというのはですね、
当人の責任とは言い難い気がするんですね。
だってそのやり方を知らないまま育ってきているんだから、
そして甘えというのはダメだというふうに世の中では言われてきているんだから、
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しょうがないですよね。自分の甘えというものを受け止められないし、
認められないという人がどんどん周りに登場するというのは、
しょうがないと思うんですね。苦しいかとは思うんですけれども、
そういう必然性は起こると思うんです。
で、この考え方の行き着くところには、やっぱり甘えてはいけないってあるからして、
ちょっとでも甘えを出すということがパージされるという、
バッシングされるということから考えると、
ある意味ではすぐ人はサイコパス呼ばわりされちゃうと思うんですよ。
サイコパスというのは言ってみれば、甘えを野放しにするという態度なんですね。
自分では全く受け止めないし、気が付きもしない。
多分やっている当人が、だって罪悪感がないとか悪いと思っていないということが、
むしろ攻撃対象になっているわけじゃないですか。
それはどういうことかというと、甘えなどというものは自分の中にはないんだと思っているわけですよ、恐らく。
これほどまでに自覚がない。自覚がないというからには、
私はサイコパスの人だって甘えたいと思っている。決まっていると思っているんだけれども、
全く自覚がない。全く自覚がない場合もはや、
外に出ていて、それが甘えですって言われるのは非常に心外ですよね、その人にしてみれば。
甘えは自分はないわけだから、外に出るはずもないんですよ。
だから相手が言っていることは全く違いだって態度になるわけですね。
私が見る限り、知る限りではサイコパスという人たちはみんなこういう態度を取りまくっていて、
みんながビビっているわけですよ。みんな少しずつ自分は甘えたいという自覚があるから、
甘えが外に出ちゃったということを指摘されると気づく。
自分の甘えだったということに指摘されると気づくんですよ。
だからサイコパスの人の言動は非常に異様なものに見えるんですけど、
そもそも甘えは悪いものだというふうに考えられていて、
ちゃんとした人は甘えてないというふうな世の中の捉え方だから、
サイコパスという人が登場するというのは無理からぬことなんですよね。
一番いいのは自分で自分の甘えを受け止めるということなんで、
受け止めきれない甘えって必ずあるからそれは外に出して、
人に受け止めてもらうなり、人に何か満たしてもらうなりするんですよ。
この構図を認めないんだったら、全部自分の中で消化するとか、
外には甘えは一切見えてこないのがベストなんだというものを
押し進めていくならば、サイコパスの人の態度というのは
実に理にかなった態度のはずなんですよね。
甘えはないんだから、私は完璧だということになるわけですよ。
他の人たちがそのことを指摘するということは、
ほぼ彼の耳には届かないということになっちゃうと思うんですね。
この構図は一番やばい状態だと思うんですよ。
ある意味ではお互いが犯罪しまくっても罪悪感は一切ないみたいな、
そういう世界。
21:01
実際にはそういう世界が成立することは決してないんだけれども、
この世界というのは、なぜか昨日出てきた
哲学的ゾンビだけがいる世の中みたいな、そういう感じなんですね。
ただ、これはリアルには多分ないと思います。
だから私は世の中に甘えたいと思ってないという人はいないと思うんだけれども、
つまりサイコパスという人はいないと思うんですけどね。
という人が登場したときに、アナルド・チルドレンな私は犠牲になってしまうんです。
という話ですよね。
誰にも罪がないと思うんですよね、そういうことであるなら。
アダルト・チルドレンには当然罪はないわけですから、
その人が大人になって子育てのときにお前を伝えられないとしても、
それは罪ではないと思うんですね。
ということはですね、星1をつけても罪ではないし、
つけられた私も罪ではないわけですよ。
私はこういうことをすべて一応勘案しつつ書きましたけれども、
勘案できなかったとしても、つまり読者にもっと甘えていたとしても、
別にそれは罪だとは思わないんですよね。
あと残るのはどういう問題かというと、
それによって本の売上が下がるとか、出版社に迷惑がかかるとか、
こういう議論は二次的な議論だと僕は今しゃべっていても思いますけど、
こっちが大事なんだよっていう話をされますよね。
僕はこっちの方が大事だとは思わないんですよ。
やっぱり人を甘えさせる方がはるかに大事だと思うんですね。
このお金の部分って大事ですけれども、
こっちの方が甘えよりも大事なことなんだと、
上位に持っていこうという話になってくると、
結局ですね、さっきのサイコパスの話に戻っていくと思うんですよね、最終的には。
甘えはない方がいいって話になっちゃうんですよね。
私は甘えはあって当然な上に、
気づいた人から満たしていく努力をするのがベストだと、
いう理屈なんですよ、これは。
だから残るは私の中ではですね、
先に自分か先に相手か、
本当はどっちをやっても同じになるんだけれども、
それでも書く順番としては、
5章でそっちを書くか、6章でそっちを書くかって話に出てくるので、
現に出てきたのでね、
私6章は一番ある意味では上手くいかなかったなって思うんですけれども、
あれライフハックっぽく多分受け止められるんでしょうね。
ぬるみを見つかるとか、ラベンダーの香りを何とかとか、
あれで効果がゼロだとは思わないんですけれども、
あれは自分の体に訴えてしまうんですよ。
体を甘えさせるというのも、
今のような状況では大事だと思うんだけれども、
これ情緒の問題なんで、
実は体に投げつけてしまわなければ、
この問題は最初から起こらないんですよ。
っていう部分も含み、色々あるんですけれども、
要するに一番最初に話を戻していきますと、
24:02
自己犠牲という話なんですね。
ここが問題になっているんだと思うんです。
サイコパスとかパワハラ上司の犠牲になってしまうと。
犠牲になってしまうということは、
自分の甘えを無視しているからそれが起こるんです。
自分の甘えを無視しているから、
自分の甘えを無視しているからそれが起こるんです。
自分の甘えを先に満たすか、
相手の甘えを満たす中で満たすかっていうのは、
あるとしてもどっちをやるにしても、
自己犠牲になってはダメなんですよ。
自分の甘えというものを無視してはいけなくて、
これを受け止めるのが第一の目的でゴールですから、
必ず上司に怒られたときは、
その人が本当に哲学的ゾンビとかでないならば、
上司に怒られたときは、
理不尽だ、もっと自分を大切に扱ってくれというニードが
必ず発生すると思うんですね。
こいつを受け止めてあげればいいんですよ、自分で。
そうすると、もう結論は出るんですね。
この甘えが受け止められるということは、
自分を大切に扱ってほしいという願いを
自分がケアしてあげれば、
自分が大切に扱われることになるはずなんです。
というか、なるんですよ、これは。
上司に大切に扱われてないじゃんって言われるかもしれませんが、
そういうことではないんですね。
自分を大切に扱ったり、犠牲にしたりできるのは自分なんですよ。
アダルト・チルドレンの例がいい例だと思うんです。
自分を犠牲にしちゃうのは自分なんですよ。
罪はないんですよ、やり方を知らないんだから。
だけれども、自分を犠牲にしちゃうのは自分なんですよ。
ということは、自分をケアできるのは自分なんですよ。
だけれども、それがやり方がわからない上に、
やり方を習ってもこず、
甘えというものはそもそもないかよくないものだという風に考えている人は、
甘えている人をパージするという形で、
甘えている人に攻撃をかけるという形で、
自分を甘えさせてしまう。
自分の甘えを外に出してしまうんですね。
そうしたら、そのことがわかっている人が
そのケアに走るというのが一番いいんです。
その時に犠牲にならないためには、
自分で自分の甘えは自分で受け止めればいいわけです。
だけれども、これ実は相手の甘えをケアすると
同時に本当は起こるんです。
相手の甘え、つまり上司が攻撃してきたという、
この上司を落ち着かせるということに全力を尽くせば、
つまりそれは自分を大切に扱っているという結果になるじゃないですか。
その上司の怒りを収めるということに
総力をあげればいいんですよ。
そうすると、そのことは結局自分が望むことですよね。
怒られたくないんだから。
100%そこに力を注げば、
それでも上司の怒りは収まらないかもしれないとか、
そういうふうに書かれていたわけですけれども、
上司の怒りが収まるかどうかは関係ないじゃないですか。
この場合、上司の怒りを収めようと全力を、
これ他人がやってくれていると考えれば、
27:02
わかりやすいと思うんですよね。
他の人がまあまあと一生懸命やってくれたら、
その人は私を甘えさせてくれている結果になりますよね。
多分その人にすごく感謝すると思うんですね。
これを自分でやったらいいんですよ。
だから結局上司を甘えさせるということになるわけだし、
それによって上司の態度がもし変わらなかったとしても、
自分は自分を大切に扱ったということになりますよね、
結果としては。
これをただただこれをですね、
自己犠牲という観点で捉えずに、
自分で自分を大切に扱ったと、
これを後に私は書いたんだけれども、
自分で自分を大切に扱ったと自覚することができれば、
自分と相手を同時に甘えさせたということになるんですよ。
多分この自覚は後からきます。
やっている最中にはすぐには気づかないことがほとんどだと思いますが、
後からこの自覚が来るはずなんです。
自覚しようとさえ思えば、
これを自己犠牲だと思って、
自分の甘えを受け止めるという部分をスルーしてさえしなければ、
必ずこれは自覚されるはずなんですね。
これを一回自覚してしまえば、
外に甘えが出ているとはどういう現象なのかが、
全て目で見ていて分かるようになるんですね。
その時には人の顔色をうかがわないと怖いという理屈は、
全然成り立たないはず。
そういうふうに最後までしゃべりきっちゃいましたけど、
つまり10分オーバーしているんですけれども、
成るということを私は本の中では一応念頭に置いて書いてきていて、
ここが一番ある意味というか、
つまりアナログジルドレン的な構図が一番ややこしい。
あれはやっていることとして両親を甘えさせているのに、
自分を甘えさせているという事実そのものがスルーされている。
なぜなら子供だから。
それについて自覚をするというのがまだまだ難しい。
しかもそういう両親に育てられているために、
そのことについての自覚が最初から乏しいと。
どうすれば自分を甘えさせられる、自分の甘えを受け止められるのかということを
全然習ってこないから、そこにぽっかり穴が開く。
そういうところのややこしさなんですよね。
普通はああいうふうにはなかなかならないんだけれども、
実際にああいう事例があって、
どうしてもこの場合私たちは先に子供のけなげさを見、
先に親の喧嘩をしているという悪い部分を見るから、
親に罪があり子に罪はないというふうに考えるくせに、
その子が親になって同じようなことをすると、
親に罪があるように思う。
でもそれはやっぱり理屈として成り立たないと思うんですね。
だから上司に罪はやっぱりない。
字幕視聴ありがとうございました。
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