00:06
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1130回をお送りします。
1月31日、最後の日ですね、1月。えー、金曜日、7時22分です。
ちょっと早い。ちょっと早くてもいけないのが精神分析ですが、えー、早いという日が来るとはあんまり思ってなくて、
まあまあ、来るかもしれませんけれども、やろうと思えばこの時間にできるんですけど、
まあ普通の日は無理ですよね。まあ今日は普通の日なんですけどね。本当にたまたま全てが、えー、そうなったというだけであって、
まあこの時間にやることはそんなないんじゃないかなと思いますけれども、今日は早かった。
で、ですね。まあ疲れてますよね。金曜日は本当に疲れていて、
トークもきっとキレがなくなるであろうと、まあ先に言い訳をしているわけだけど、
いつもキレてるわけではないんですが、それにしても、やっぱ金曜日はですね、
辛い。これはもうサラリーマンの方はお疲れ様ですよねというところですね。月曜日が一番元気で、
金曜日は厳しくなります。早朝は特にですね、厳しいなという感じが致しますね。
はい。で、あの、まあどうでもいいことを喋っているなぁと思っておりますけれども、
んーと、
ホホのWWWニューモンって聞いたことありますかね。あの昔のこれは本当にインターネットというもののある一つの、
なんていうんですかね、あるべきとは言わないまでも、非常にある種の理想的なモデルだなと思ったものの一つなんですね。
で、とはいえ、これ今日はネットの話をしたいわけではないんですが、このトホホのWWWニューモンというのはですね、
あの、インターネットという、まあホームページですね。ホームページを自力で作るにあたって、
初心者が引っかかっていくであろうところを、まあ自分が引っかかったところなんですよ。要するにトホホさんというのがホホホな本人の話で、全然トホホ的な人ではないんだけど、
この人がまとめていった、自分が得た知識をですね、少しずつまとめてそこに置いておくと。これは大変やっぱり、あの、
何と言うんですか、やっぱり理想的なモデルの一つなんだ。今見てみたら、面白いことに、あのトホホの映画、トホホママの映画なんとかとかもあって、
要するに自分が興味を持ったり、いいと思ったものをそこに集約しておき、共有しますよと、そういったものですよね。
03:06
で、2つこれを見て思った、まあいくつか思ったことがあったんですけども、そんなことはどうでもいいことなんだけど、
一つは、これがなぜこの文化ですね、トホホはまだあるから、やっぱりそこがインターネットという技術の偉いところだなと。
原則介護官をずっとこう保ってきたことによって、ああいうことが可能になるわけですよね。今後もずっと可能になるのかは知りませんけど、
見られ続けるんではないですかね。 今は映画が見られるのにインターネット上で、一方でああいう素朴なホームページも、
まあ素朴と言ったって当時あれを作るのは結構大変だったんですが、あの素朴なホームページも今でもちゃんと同じブラウザを、同じじゃないけど、ブラウザというものを通じて見ることもできますよね。
まあiPhoneでも見られるんですよ。これやっぱりインターネットの書籍などに通じていくすごいところだと思うんですね。書籍って古い本でも読めるじゃないですか。
同じようにして読めるじゃないですか。これに限らず近い、IT技術としては珍しい出来事のような気もある意味するんですよ。
IT技術っていうのか、そのデジタル技術ってのはどうしてもやっぱり介護官というのを見捨てていくと言いますか、捨てていく傾向は強いのであって、例えば今はアナログのテレビって見られませんね。
これはちょっとある種の何かを感じるんだけど、そういうことになりやすいものではありますよね。
この投稿後のWWWにも見て、ホームページは何で廃れたのかがわかる気がするというのも、廃れたというか、ブログが登場したために実質的にほとんど一時は消滅の危機を迎えて、今また少し戻ってきている。
少しですけどね、本当に戻ってきた感じもちょっとあるんだけど、ブログブームが終わりましたから、やっぱりブログブームっていうのがホームページにとっては、ある意味形式を大きく変えることになったと思うんですが、
単純に言って、あのホームページという形式を少しずつ更新して維持するというのは大変難しいものがあるんですよね。
あれがブログだったら非常に容易にできると。ただしブログはどうしても日記形式というのを取るので、少しずつ更新するにはとてもいいんですけれども、今度はですね、テーマごとにまとめるというのが非常に面倒くさくなるんですよ。
ここのところで一部マニアックな、要するに知的な、知識を集約するということに一生懸命マニアックに頑張っていらっしゃった、しかもかなりボランティア精神に富んだ方はですね、ここのところで悩んだんですよね。
自分がテーマごとにまとめると言っても、そのテーマを最後まで付き合うほどそのテーマをまとめていきたいかどうかはやってみなくちゃわからないんですよ。
06:02
トホホママも最初はWWW入門だけだったんだけど、そのうち展示入門とかが登場したり、他にもなんとか入門があって、それって展示とWWWの間に何も関係はないじゃないですか。
ただトホホさんがどっちも好きだったという、自分がだから何が好きかっていうのが結構ブログでは盛んに議論されたのもそういうことだったのだと思うんですよね。
展示でまとめようと思ったけど展示途中で飽きちゃったってことはあり得るわけじゃないですか。普通の人がやってるわけだから。
そこでもう一つが金銭的インセンティブって話になったわけですよね。映画が好きなら映画、食事が好きなら食事でまとめるにはそれだけのインセンティブが欲しいってことになりまして、だんだんある意味プロ化していくわけですね。
ブログによってはそれで稼いだり食べたりしていけますよね。だって現実に評価ってのはそれに近い立ち位置で食べたりしているわけですからね。そこで一周してるわけですよ。
ブログはそれでいけるはずだったんだけど、実際には人はそのような素人知見なのか、ある意味ノンプロ知見のところまで来ていたとしてもですね、同じものを見るなら動画の方が便利なわけですよ。
特に後発の人からしてみれば動画は作りやすくなった上に見やすくなり、そもそも文章を読むという習慣のある人より動画を見る習慣のある人の方が数が多いので、少なくともマネタイズという意味ではですね。今だってだからブログって作れないわけじゃないじゃないですか。ただ流行ってないだけであって。
トホホのお食事レシピ、夕飯レシピって作ったとするじゃないですか。それはもうWWWで作るよりはブログで作った方が、ブログだってWWWですけどブログで作った方が手っ取り早いし、それを見る人にしてみればいやそれ動画の方がありがたいよねということに当然なりますね。
そこにお金が入ってくればですね、動画が一気に流行るということになったんだと思うんですよ。
そういうことを考えさせられるホームページなわけです。
で、8分もかけて何の話をしているのかというとですね。
いきなりここで旋回しますが、私は精神分析がわからなかったんですね。
で、ああいうものをまとめようかどうしようか今よくよくしょっちゅう考えるんですよ。
実際しかし、例えば松木さんが編集されている、あれは全部松木さんが書かれたのかも。
だからこれがプロの仕事ってやつなんですよね。
松木さんは精神分析用語入門みたいな対象関係論を中心にしてますけど、そういうものを売ってるわけですよ。
あれはWWW入門なわけですよ。松木の精神分析入門なわけですよ。
09:04
ただし2万円くらいするし、それに値するんですよ。
あの辺がやっぱりプロなんだよなって思うんですよ。
だからプロとアマの課金はですね、今非常に低いんですよ。
ここの本だって確かあったような気がしたんだよね。
なかったとしても本にあれはなりますからね。
閉鎖を整えて、紙に出して。
だけどここでまた面倒なことがあって、精神分析の方は紙に出すのは結構じゃないですか。
でもWWW入門はネット上にあった方がいいに決まってるじゃないですか。
ところが変な話なんですが、ネット上にあるとお金は取りにくい。
たとえ松木さんの書いた精神分析用語の辞典だったとしても、精神分析用語辞典みたいなタイトルだったと思うんですけど。
違うタイトルなんだけど、趣旨はそういうもんです。
あれネット上にあったら2万円ではなかなか売れないと思うんですよね。
でもこれ不思議な話ですよね。ネット上にある方が便利なのに、なぜかネット上にあると無料であっていいような気がしてくるというね。
これはネットにあるから無料だというよりは、やっぱりネットというものは金銭のやり取りをするのが非常にやりにくいという時期が長かったせいもあると思いますね。
あと無料のものの海の上に有料のものが漂ってるとですね、そこだけ入れない場所になっているっていうのはすごくケチ臭く見えちゃうという。
これは本は全部有料だから原則として、フリーのパンフレットもありますが原則有料なんで、有料の海の中にたまたま無料のものが入ってるっていうのを人はお得だって感じるんだけど、逆はそうは感じにくいということがいろいろあるんだと思うんですよ。
いずれにしても東方のWWWニューモンが本になっていれば、例えば少なくてもそうだな、700いくらとかなら割と普通に買う気にみんななると思うんですね。
でもあれがネット上に700円だったらほとんど誰も見向きをしなかったんじゃないか、特に当時はね、思うんですよ。
でも絶対ネット上にあった方が有用な便利なんですよ。
だってその時必要な知識だけが出てくればいいわけですから。
これが今AIにとって変わられつつあるんじゃないかという感じがして、私はですね、この精神分析的な知見をまとめるというのは、無料だったら意味がなくはない仕事なんだけど、私がやる意味はあんまりないような気がする。
ここら辺で、いわゆるネット市民的なものの感覚がまだ僕の中に十分は根付いてないんだろうなっていうのが一つ。
もう一つは、とはいえ実際ね、プロの人がまとめちゃってるわけだから、それを私が改めてまとめたって、要はそれのコピーみたいなものになるよねってのが一つ。
でも一番の問題はですね、そういうことではなくて、私が一番本当はまとめるべきところはですね、精神分析の何がわからなかったのかをまとめておけばいいんですよ。
12:04
これはないからですね。こういうものは本にはなりにくいんですよ。非常によほど精神分析が流行っていれば別でしょうけど、本にするにはですね、精神分析とはどうすればわかるのか、あるいはどこが勘どころなのかは本になりますが、特にそれを分析家が書けばなりますが、精神分析の何がわからなかったのかというのは普通、よほど精神分析という文化が浸透しない限りは、それは本にはならないものなんですよ。
で、ここをネットに残せばいいんだけど、これが難しいんですよ。何がわからなかったのかがわからないんですよ、依然として。
もっとわかればわかるようになるのかもしれないし、もっとわかるといよいよわからなくなるのかもしれないんだけど、確かにこうは言えるんですよね。
以前は全然わからなく、今はわかるような気がする。そこの間には何かがあるんだけど、何があるのかがまだよくわかってないんですよ、私自身ね。
で、これをまとめるのはありだなと思うのと、そもそもこれをクリアにするというのは必要だなと思ってはいるんですね。
で、最近、この辺から、さっき頃あたりからトホホを長く引っ張った上で本題に入るわけですが、
もう一回トホホのお話しさせてもらうとですね、何であれでホームページが流行らなかったのかというと、もう一つはですね、その時使ってそこで離れてしまうからなんですね。
エヴァノートとかああいうものは何のためにそもそもあったのかというと、ああいうトホホみたいなものをクリップするという、したいよね、取っておきたいよねという意識の現れだったと思うんです。
しかしよーく考えてみるとそれっておかしなことで、だってエヴァノートっていうのはある意味WWWの世界をローカルに置いてるだけとも言えるわけですよ。
それをある意味、より完全に再現できればできるほどいいんだけど、それっておかしいじゃないですか。だったらインターネット見に行けばいいじゃないですか。
昔テレ放題とかつまり繋ぎっぱなしだとえらいお金がかかった時代は、ローカルに取っておくということには意味があったんですが、今は全くありませんよね。
重量課金でインターネットやってる人はほとんどいないと思うんですね。そうなってくると、エヴァノートにコピーを置いておく。しかもそのコピーは少しずつ古くなっていき、探しにくくなっていく。
それでは何の意味もないんですね。インターネット上に同じものがあるんだったらそっち見に行けばいいだろうってことになってしまうわけですよ。
ウェブクリップをするという発想は、紙と一緒に取っておくということによって初めて意味を成したんです。だからそういう意味では私は精神分析の方がよっぽど紙しか出回ってないものが、こうやって精神分析につながってきてるんですよ。
僕の頭の中ではね。紙にしかなってないものが多いんだから、これをネット上に上げておくのはやっぱりありはありなんだよなとは思っているんですね。
15:03
で、なんで私がどこが精神分析で分かってなかったのかというのを考えに考えていくとですね、いやそうじゃないような気がしてくるってことになるんですよね。
これはですね、私が分かってなかったのはメラニー・クラインの方だったと思うんですね。
私が分かっていなかったのはメラニー・クラインの対象関係論であって、私は精神分析は多少なりとも分かってた気がするんです。
アンナ・フロイトの自我心理学は全然分かってなかったわけではない気がするんですよ。
よーく考えてみると、よーく思い出してみると。
ただし、つまらなかった。私にはですよ。興味を引かれなかったんですね。
だから精神分析ってさっぱり分からんという、何がいいのかが分からんってことがここにはあったんですよ。
今でもよく分かっていないところはいろいろあるんだけれども、今は全然違うのは、面白いと思えてるってことなんですね。
で、面白いと思えてるのは相変わらず、自我心理学は全く面白いと思えてない。
前よりも面白くなくなってきてるんで、読むのにすっごい苦労するんですよ。読んでるんですけど、物によっては。
でも苦労するんですよ。対象関係論が面白いから、対象関係論を読みたいんですね、私はね。
この気持ちの差だなと。こっちには魅力を感じてて、あっちには魅力を感じてない。
だけど昔は精神分析って全部、私は自我心理学とイコールだと思ってたから、だから私は精神分析が分からんと思ってたんだということが分かってきたんですよ。
で、そうやって思うとですね、いやいやちょっと待てよと。
メラニー・クラインって本当に精神分析なんだろうかっていう疑問がですね、最近ふつふつと上がってきてるわけですよ。
あれ、確かにフロイトの発想の延長線に間違いなくあると言えるかというと、私最初そのことは疑問に思ってなかったんで。
いやだってフロイトに直接学んだ人だし、博士でもなければそもそも学士でもない人がフロイトのおかげで精神分析家になれたんだから、それは精神分析の人に決まってるじゃんと。
ずーっとあんまり深く考えもせずに飲み込んできたんですけど、先日ちょっとですね、一番僕の中ではこれは難しいとはそれほど思わないという、
戦亡と感謝。難しいんですけど、読みにくいという意味ですよね。難しいわけじゃないんですよね。戦亡と感謝を読んでいて、これはフロイトの、僕ここがですね、自分力では無理なんですよ。
フロイトの考えと言えるだろうか言えないだろうかを判断する能力はもうないんですよね。どう考えても。でも微妙な気持ちにはなるんですよね。
やっぱりアンナフロイトの方がちゃんとフロイトを継いだって言うだけのことあるんじゃないだろうかと。ただフロイトの考え方の中には、というかかなりの部分、対象関係論に発展しておかしくはないようなものはいっぱいある。それは間違いない。
18:09
だけれども、普通に延長して普通に発展していけばアンナフロイトの自ら心理学になっていくのが当然じゃないだろうかっていうふうには思うんですよね。思えばですね、私よくわかってはいないんですけど、ハインツコフートっていう有名な人がいて、これは日本では和田秀樹さんという精神科医の方がね、ものすごく広めたんです。
ハインツコフートの自己心理学って言ったかな。これがね、ハインツコフートはものすごいフロイトに多分傾倒していて、フロイトのためなら死んでもいいぐらいに考えてそうな時期があったんですよ。ドイツにいた頃は多分。ヨーロッパにいた頃はね。
だけど彼はその後アンナフロイトの自ら心理学と相連ずなくなり、精神分析学会の会長かなんかやってたはずなんだけれども、結局独自路線に行ってしまうという、ちょっとウィニコットを連想させる。いや、だいぶ違うんだけど、てか全然全く違うんだけど、でもウィニコットを連想させる。
要するにフロイトの娘2人に反旗を翻したというか、翻しそうな性格をしてない感じがするのに、翻しちゃってる感じがする人が、メラニクライに対してウィニコットで、アンナフロイトに対してハインツコフートって感じが僕はすごく適当なモデルを頭の中にでっち上げてるわけですが、あるんですよ。
あれは、まあ確かにフロイトから出てきた、ハインツコフートもフロイト大好き、人間のような気がするんで、フロイトから出てきたことに間違いはないんだけど、でもアンナフロイトと相入れず、事実上精神分析の世界から追放されたので、自己心理学になったと思うんですよね。
つまり違うものを作っちゃったって話になってるわけですよ。
思えばユングがそうですけどね、ユング心理学ですからね、あれはね、違うものを作っちゃってるわけですよ。
力道系ではありますよ、いずれもね。
大きく見れば精神分析の流れの中にあって、ユングも力道系だし、ハインツコフートも力道系ではあると言えると思うんですね。
そういうのかどうか今知らないですけど、ウィニコットは間違いなく力道系ですよね。
だけれども、とにかく精神分析ではないんだと。
ウィニコットはギリギリイギリス独立学科という独特の名称の中、なんとか分析の中に収まってるわけだけども、
だからメラニー・クラインとしては認められないが、フロイトの要するに間接的な弟子ではあることは認められているみたいな、そういう位置づけだと思うんですけど。
やっぱりどうしてもズレるっていうことはありますよね。
で、やっぱり私はウィニコットは面白いと。
正直、少なくとも扇望と感謝のようなものよりは面白いことを言ってるように思うんで、つまりこういうことなんだなと思ったんですよね。
21:03
私は対象関係というものに惹かれるから、そういうふうに精神分析というものが分かったような気がしてきているっていうのが大事なので、
分かったような気がしてくることによって前より分かるっていうね。
これをね、私は素人考えってよく言うじゃないですか。
でも侮ってはいけないと思うんですよ。
分かったような気がしているうちに分かってくるってことって世の中にはいっぱいあるんですよ。
思うにタスクシュートが僕の中でそうなんですよ。
分かったような気がしたのは、使ってすぐではないんですよね。
でも使ってすぐは面白かったんですよ。
そのうちに分かったような気がしてきたんですよ。
そしたらもう知らないうちに分かってたんですよ。
最初に分かってたような気がした時と分かった今とでは、同じように考えてないのは確かなんだけど、そこにはどこかで切ることのできないような連続性があって、
分かってきたような気がした時はもう入ってる感じがするんですね。
だからこの分かった気になるというのは、一般にアカデミーの世界では評判悪いんだけど、本当に分かってないということをテストしてやるみたいなことになりやすいんだけど、
私はやめたほうがいいっていつも思うんですよね。
ここは多分議論の余地はあるんですよ。
大抵の人はプロとして生きていくわけじゃないんですよね。
例えばスキーなんかがそうですよね。
私スキーはインストラクターやってた時代があったんで、いつも子供とかに教えるときは特に滑れるような気がすることができればもうそれで十分だって気がしてたんですよ。
そのうち滑れるようになるまで滑るから、そういう人は。
滑れるような気がしない子が一番問題だったんですよ。
そういう人は別にスキーやらなきゃいいんですけどね。
学校でやらされるとか色々ありますから。
結局滑るような気さえしちゃえば滑るんですよ、ああいうものって。
そういうもんなんですよね。
これはスキーで食っていく人はダメですよ。
そりゃあそのレベルでは絶対に。
でですね、ちょっとここで途切れちゃったんだけど。
何の話をしてたか。
つまり対象関係論というものに惹かれるようになってから、色々と細かいところでですね。
音楽は確かにフロイトに違いはないんだろうけども。
今では僕の感覚って自我心理学で考えてた時のこととは全く相入れないというか、全く関係がない方向に向かっているような感じがするんですよね。
例えばSと超自我みたいなのは自我心理学でものすごく大事じゃないですか。
ある意味この葛藤を何とかするために防衛規制というものが出てくる。
その話によく似てはいるんだけどでもSも超自我も全然なんかこう僕の中で重要性を重要だとは思いますけど。
24:00
前はほとんど登場人物そこに限るぐらいだったのに、今ではもうなんかそれは大事だったよねみたいなノリでしかないんですよね。
もっとこうややこしいこと言うと、昨日小動物って話をしましたよね。突然ですけど昨日したんですよ。
ある人が隙間というものが問題で、隙間なく包まれていたいのに隙間ができてしまったり、隙間があるところではくつろげないみたいな。
の藤山直樹さんがたまたまねその人の様子をよくよく観察するうちに、この辺がカウンセリングでどっちかというともそれはやっぱ転移ってことになるんだと思うんですけど。
いずれにしてもその私自身その読んでいて小動物ってよく出てくるなって思ったんですよね。
よくって何?ここでどうして小動物を連想できるんだって意味ですよ。どうしてここで小動物が連想されるんだろう。
それが突破口になって言ってるんだけど藤山さんの分析の中ではね謎だって思うんですよ。
これが突破口になるってその必然性がわからんと。
だけど昨日言いましたが藤山直樹さんという人の臨床例ではよく小動物という言葉が出てくる。
昨日も言いましたけど全然違う女性についてセロリをかじるモルモットっていう。
モルモットもまた小動物ですよね。よく似てますよね。ネズミとかモグラとかモルモットとか。
こういう動物がひしめいているというのか穴蔵に閉じこもっているみたいなイメージを藤山さんが持ちやすいのか、
来ている人たちが持たせやすいのかって意味ないじゃないですか、あんまり。
何が言いたいかというとですね、我々の言語の象徴作用による言語のやり取りというものは、
相当程度随意でいい加減というか恣意的なんですよね。
だから自由連想って言うんだと思う。自由連想ってとっぴなことが出てくるわけじゃないですか。
で、改めて考えてみると統合失調症の人っていうのとのやり取りがなぜややこしいのか。
彼らが言うことがとっぴに聞こえるからですよね。
でもそれって自由連想でやることと変わらないわけじゃないですか。
自由連想ってとっぴなことが出てきちゃいますよね。
自由連想、つまりそのとっぴさの中に、
私たちが意外と持ってしまっている法則性のようなもの、
法則とは言い難い。
法則に類似したものが連想というものじゃないですか。
小動物というものを、その隙間を気にしている男性から
27:04
小動物を連想しなければならない理由はないんだけど、
小動物と言われてみるとなるほどだと思う人が、
例えば10人中2人ぐらいはいるかもしれない。
そうすると人間の無意識にはそういうものを連想させる、
この辺ユングが発想したことに近づいてくる気もしますけれども、
そういうことがあるのかもしれないじゃないですか。
連想ゲームというゲームが成り立つためには、
連想していることが、自分はそういう連想をしないにしても、
その連想をするのは最も大事だというふうに思える必要があるじゃないですか。
ここに東映同一化というものが働いていく、
可能性のようなものを考えることができません、
私は思ったということなんですね。
そういうことは、自我心理学を勉強しているときには、
一切考えなかったことなんですよ。
私はあれを連想だ。
つまり、自我心理学って連想じゃないところで、
結構簡単に考えられてしまうところがある気がするんですね。
何か事件とかが起きたときの犯罪者の分析とかを言っているときの、
それが特に力動的だった場合、そういうことがさもできるような気がしちゃうんですよ。
我々ちょっちゅうテレビで見てるじゃないですか、
この犯人は昔なんかひどかったんで、
病理の名前を出してきて、
なんとか性のようなところがあるみたいなことを、
ワイドショーみたいなところで割と平気で言ってたんですよ。
でも、対象関係論ってそういうことがとても不可能で、
絶対不可能だとは言わないまでも、
すっごくそれは無理があるっていうのが分かる考え方なんですよね。
なぜなら、自分がいるのと自分がいないのとでは、
相手の態度は相手の人格が異なるはずだっていうような認識が、
それはつまり臨床にすごく近いっていう意味なんですけど、
つまり同じ、例えば犯罪者なら犯罪者だったとしても、
その人がどこにいるのか、誰といるのかによって、
その人はもう違う人なんだぐらいの感覚があるので、
その人とはどういう人なのかについての言及は不可能なんですよ。
そういう分析って無理なんですよね。
私はだからその自己分析っていうものには、
今は意味を認めてないんですね。
事故が分析することほど無意味なことはないような気がするんですよ。
それはその時のあなたでしょっていう感じなんですよ、まず第一に。
しかも大概分析を必要とするのは他人といる時の話をしてるわけじゃないですか。
事故をどんなに事故だけでいる時と分析しても、
その人は、例えば私の場合は事故をどれほど私はこういう人だとか、
ちょっと臆病なところがあるとか一生懸命考えようとしても、
それは臆病なところがあるのは、
母と例えば一緒にいる時の話をしてるわけじゃないですか。
30:00
自分一人でいる時に臆病もへったくれもないじゃないですか。
自分が実質で黙っていて臆病なところがあるって言ったって、
別にその時は何かに怯えてるわけじゃないし、
普通にくつろいでいて全然臆病なところはないわけですよ。
臆病なところがあるのは、私が他の人といる時の話をしてるのであって、
つまりそれは自分一人でいる時にはいくら分析しても、
あくまでもそれは記憶を掘り出しているに過ぎなくなってしまうわけですね。
こういうことを対象関係論ほど考えさせられるものはなくてですね、
どうしてもやっぱりカウンセリングっていうのは一般的に見ても、
性格分析とかに走ってしまうわけですよ。
あるいは人格の傾向を捉えようとするんですよ。
それはその人の行動を見てれば一定の傾向は出るかもしれないけど、
それはあくまでも他人と一緒にいる時の話をしてますよね。
その人の性格が、その人はそういう性格としてそこにいるんですって話とは、
それは別の話ですよね。
だって我々は人を前にすると全然違った振る舞いを取る人いっぱいいるじゃないですか。
特に演技生の人とかはそうじゃないですか。
一人しかいないのに演技してもしょうがないわけなんで、
演技生というのは人を前にするからすることを言っているんですよね。
この辺のことっていうのはさっき言ったように、
自由連想といいますか、無意識が何を連想しがちであるというようなことと、
深く絡まってくると思うんですよね。
そしてそれは法則のようなものを持っているからこそ、
同じようなことをし始めるというのが出てくるんだと思うんですよ。
その法則っていうのはしかし、他人にはなかなか計り知れないところがありますよね。
ある人が赤色を見て何を連想するか、黄色を見て何を連想するか信号の話してるんですよ。
分からないじゃないですか。
でも同じような連想してくれないとある意味困るわけじゃないですか、社会ってのはね。
人というものはこれを見たらこういうふうに思うだろうっていうのが、
サインっていうものの形を決めていくわけですよね。
よくあるじゃないですか非常口、非常口4種類とか5種類ぐらいあるんだけど絵がですね、絵ですよ。
この辺を見たらこっちに走りたくなるよねとか、矢印っていうものを見たらそっちに何かがあると思うよねとか、
人間ってそういうもんだよねっていうのが多少はあってくれないと矢印って何の意味も持ちませんよね。
だから矢印を置いといても動物は出口あっちって言っても火事が起きても動物はやっぱりそんな矢印とか見てる場合じゃなくて逃げていくんだけど、
それは動物的なやり方で逃げてるわけですよね。
我々は矢印とか走ってる写真みたいなものというのを手掛かりにして逃げようと頑張るんですけど、動物はそんなことしませんよね。
たとえそれが見えても意味がわからない。まさに意味がわからないんですよね。
意味ってのは、だから人間にはこういうふうなものを連想させるはずであるとか連想するべきであるっていうのがあって、
この法則がぐんと緩んだところでもなお何らかの形で働くんだっていうような前提に立つんですよ。
33:09
私昨日ですね、たまたまなんですけど、100日チャレンジ、今盛り上がっております。第10期。
面白いと思ったら参加してみてほしいんですけど、私100日チャレンジの昨日は0の付く日ということで30日だからね。
イベントやってるんですよ、0の付く日ごとに。
10日、20日、30日と3日あるわけですが、0が付く日はね。
そこで私の本の話をされてたんですけど、その本の話をされている人を見ていて、話しているのを聞いていて、
画面越しに見てるわけだけど、ああ、対象関係論って教えてくれること多いなって思ったんですよ。
別にその人がどんな人かがわかるとかはないんですよ。
その人はどういう人なのか、性格がこうだとかがわかるってことはないんですよ。
そうじゃなくて、この人がこういう時にはこういうふうな振る舞いを、なぜ今瞬きをしたのか。
なぜ瞬きをしながらこれを喋り、これを喋る時は瞬きしないのかっていうことが意識されてくる。
意識されてくるんですよ、これが。
意識したからなんだってことはないですよ。次に何言うかがわかるとかでもないです。
そうではなくて、なるほどということがあるんですよ。
なるほどと、その人にしてみればこれはまさにそうするべきだし、確かにそうしているその人のやり方というのかな、
表情の作り方には理にかなったものがあるっていうのが、なんていうんですかね、ものすごく伝わってくるんですよ。
これは以前私は全く理解できていなかった。
まあそれこそジェイ・松崎さんぐらい親しくしてればわかることなんですよ。
でも初めて見る、拝見する方でも、こうする、なぜそうするのかがわかるっていうのがわかるんですよ。
これは連想ってことと深く関係がある。
言葉を発していて、この言葉は、私はその言葉からそれを連想しないけど、
例えば、ソファーで隙間を作って、よっかかれないってことなんですよね。
そこが小動物を連想させるっていうのは私にはわかんないけど、
でも小動物をくじ山さんが連想するのは一理あるって思えるじゃないですか。
小動物っていうものはもっとよっかかるよねと、ずろいでる時には、
っていうことを連想するっていうのは理にかなってるじゃないですか。
でも隙間を背もたれによっかかれない男の人を見て、
小動物を連想しなければいけないという理由は何にもないじゃないですか。
しかもそれは多分ですけど、
藤山直樹を前にするからよっかかれないんだっていうことも何となく、
それは藤山直樹がお父さんとしての威厳を持ってるみたいな話なんですよね。
36:00
そういうことも連想じゃないですか、やっぱり。
そういうことを自由連想という中で、
自由連想っていうのは言葉の自由連想なんですけど、
やっていくということに意味があるんだっていう感じがつかめてこないと、
やっぱり精神分析って意味がないんですよ。
何やってるのかわけわかんないってことになってしまうと思うんですよね。
自由連想させて、お父さんとお母さんのセックスを見ちゃってとか、
何やってるんだお前らはって感じになっちゃうんですよ。
これをただ何をやってるのかがわからずに読んじゃうと。
でもこれが何をやってるのかがわかってくるとですね、
何か少なくとも何をやってるのかの見当がついてくると、
これは人間って確かにそうやって生きてるわと。
ある時にはここで連想するべきは止まれだとか、
ここで連想するべきは注意しろだとか、
ここで連想するべきは逃げろだとか、
非常にこううるさく統制されている場面もありますけど、
一方でははいくつろぎましょうみたいになっているところでは、
サインによって人はくつろぐことができたりもする。
これは我々人間というものがすっごいやっている特殊な行為の中には、
でもなんていうんですかね、綿密に綿密に織り込まれていて、
例えば地図を見ればそれがもう一発ですよね。
地図にはいろんなデフォルメと象徴、敬語が様々に散りばめられていて、
でもそれを見れば目的地にたどり着けるわけでしょ。
シマウマが目的地の水飲み場にたどり着くようにたどり着けるわけじゃないですか、
人間は象徴を使って。
異常なことじゃないですか、ある意味では。
天気予報とかもそうじゃないですか。
シマウマだってライオンだって3日後の天気どうなっているのか分かるものなら知りたいと思うんですよ。
だからいろんな能力を駆使して結構天気予報してると思うんですよ、彼らなりに。
嗅覚とか使ってね。
でも我々はよくわからないアイコンを見て、
あ、3日後雨ね、みたいな。
ちなみに日曜日雨のち雪の関東も予報になってるようなんですけれども、
雨のち雪ですよ。
それが雪だるまと傘のマークでわかっちゃうんですよ。
すごいじゃないですか。
で、これはこれを見たら何を思えというのが決められてるわけでしょ。
そしてそれを我々は、あ、もちろんそれは受け入れられるよねと思ってるわけじゃないですか。
全然受け入れられないじゃないですか。
雪だるまが降ってくるわけじゃないですし。
そういうことが人々のやり取りの中ではのすごく頻繁にやり取りされていて、
介入されていて、解釈されているわけですよね。
その流れの中でいつも同じことをしてしまうのが息苦しさなんですよ。
こういう綿密に織り込まれているものの中で目線とか表情とかが物語っていると、
自分が思いやすい連想をして、
例えば私たちが、何でもいいんですけどね、確定申告みたいなもの。
39:05
この数字を見て、このレシートを見て、
これをホッチキズで止めておくという行為によって、
相手はイラッとするかもしれないと。
イラッとした時の表情というものは、
私が子供の時に母親に朝6時に間違って目覚ましを鳴らしたら母親がしていた表情とか、
そういうものを連想したり空想したり想起したりしているうちに、
自分の行動の中の何かが変転して気がつくと、
ファンザ見ているんですよ。気がつくと。
それはもう1758回目だったりするわけですよ。
1759回目もきっと同じことをしては、
何か余計なことを起こし、何か余計な時間を使い、何かがうまくいかなくなる。
これを息苦しさと呼んでいるわけですよ。
やめりゃいいじゃんって言うんだけど、
綿密に織り込まれすぎていて、どこでやめればいいのかが分からないんですよ。
想起をやめればいいのか、空想をやめればいいのか。
母をデジタルウォッチが大好きだった時に、
デジタルウォッチの音を1時間おきに鳴らして、
あの怒られた記憶を思い出さなければいいのか。
それともレシートのホッチキスの止め方を変えればいいのか。
そもそもそれを経費として出そうという意識を持たなければいいのか。
経費として出なくたってする損失なんてたかが知れてるんで。
でもそういう損失は絶対したくないって人もいっぱいいるわけじゃないですか。
1円でも税には損したくないとかね。
その気持ちはどこから来てるのか。
綿密に綿密に織り込まれていて、
いろんな連想をするべき連想、するべきでない連想から、
いろんなものを人と会うたびにこう考えてみたり、
ああ考えてみたりして、
気がつくと同じことをしてしまうんですよ。
反復してしまうんですよね。
これはフロイトが言ったことですね。
対象関係論というのはフロイトが言ったことの延長線上にあるんですよね。
それがわからなかったんですね私はね。
何か対象関係じゃなくて、
その人が独立した何かを持っていて、
独立した自分の中のSと長時間の戦いみたいな、
その話がどうしても私は面白くなかった。
多分それは受け入れらがたいなと思ってたところがあるんだと思うんですよ。やっぱり。
自分一人でいる時には自分の性格なんてものははっきりしない。
ほとんど意味のないものなんですよ。
よく一人でいたいって人いるじゃないですか。
でもそれは一人でいる時に思うことじゃないですよ。
人がいっぱいいたり、人に無理やり関係させられていたり、
一緒にいさせられていたり、
人とずっといて疲れてきた時に、
私は一人が好きだって思うんじゃないですか。
その人は一人きりでいる時に私は一人が本当に好きなんだって思うのとそれは違うってことだと思うんですよ。
もしかして100日間ぐらい一人きりにさせられると、
42:02
人と会いたくてしょうがない人になるかもしれないじゃないですか。
そんなことはザラにありますよ。
全然驚くようなことじゃないですよ。
力度が動いてしまうんで、
その人の性格がそれを決定しているわけじゃないっていうようなことなんですよ。
でもそれはだからといって、
人と一緒にいないから孤独になるのが嫌だから人といたくなるし、
人がいると山嵐のジレマみたいな話をしているのとも違うんですよ。
やっぱり一人になりたがる人と一緒にいつもいたがる人っていうのは異なるところがあるんですよ。
ただそれは性格がそうさせるわけではなくて、
どっちかというとその連想の仕方、
それを性格っていうのかもしれないんだけど、
そうじゃない気がするんですよね。
その連想のさせられ方と連想の仕方、
それは対人関係の中にあるものでもあるし、
無意識の中にあるものでもあるし、
自意識の中にあるものでもあるし、
空間の中に実際に言語としてあるいはサインとして散りばめられているものでもあるし、
そのうちにこっちこっちこっちこっちこっちっていう矢印に、
その都度その都度は理にかなったところ、
その人にとっては実に現実的に正しい方向へ正しい方向へと行くんだけど、
気がつくといつものところに戻ってきて嫌な思いをするという話なんじゃないかなというのが対処関係論なのかなと思っているわけですね。