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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
グッドバイブスでも基本的な話として、好きを仕事にするっていうのがありますよね。
今では別にグッドバイブスだけで言ってる話でもなんでもないですけれども。
好きを仕事にするということになると、必ず疑問が湧いてくると思うんですよね。
先日もですね、不安ゼロで生きる技術という知的生き方文庫さんから出した本にも、私の疑問として挙げているんですけれども。
第2章でですね、人の依頼を中心に進めていくのに、好きなことを仕事にするというのは矛盾していないかというような話を出しているんですね。
私はそれなりにこの話は納得した上でこの疑問を発しているんですが、
例え依頼を中心にこなすとか、人からの依頼を最優先にするという話をしなくてもですね、
好きなことを仕事にしてしまったら、その仕事をやっているとき楽しくなかったり辛かったりしたとき、それはどうなのかという問題というのか、疑問ってあちこちで上がってきてるんですね。
そもそも好きなことを仕事にしてそれで食べていけるのかという問題もあったりしますよね。
で、これ私もよく思うことなんですけれども、好きなことを仕事にしているということと、それが非常に楽しいということとは必ずしもというか、ほとんど一致しない、
全く一致しなくはないですが、ほとんど一致しないような気がする。
その辺の話も、お、クラザの慶忠さん書かれてますけど、私が一番感じるところもそれですね。
ダスクシュートのことを本に書いたり私はしますが、それは好きでやってることだし、幸いそれで食べてもいけてきたんだけど、
ダスクシュートのことを本に書くということは常に楽しいというふうに言えるのかというと、何とも言えない。
何でなのかを説明するのは難しいんですけれども、例えばただダスクシュートを使っていれば済むようなことをですね。
例えば自分がただダスクシュートを使っていれば何にも問題なくやっているようなことでも、いちいちそれを問題視しているものとみなした上でそれに答えるみたいな。
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なんかですね、実際にそういうダスクシュートというものに対する疑問を投げかけられてそれに答えるということをしたから、
完全な自作自演じゃないんですけど、やっぱり本を書いているときにまさにそのタイミングで疑問を投げかけられているわけではないので、
私に投げかけられた疑問の通りに引用するというのも変なので、やっぱりダスクシュートというのは、
例えば長期の締め切りに関しては向かないやり方なのではないかという質問を要するに練り上げるわけですよね。
それに対してそうではなくてこうこうこうなんですって答えるんですけど、非常に自作自演感ってどうしても出るんですよね。
本って絶対にこの種のことはあると思うんです。小説だってあるし、私のようなライフワーク系だの技術系だの方は絶対こういうなんとかという点はどうなのでしょう、答えみたいな。
その質問をしているのも私なら答えるのも私だという。これが好きで楽しいのかという話になるんですけど、好きなんですよ、そういうことをするのも。
でも、しなくったっていいようなことをわざわざしなきゃならないっていうことは仕事だとあるわけで、どういう形式がベストなのかっていうのは当然暗中模索感があるにせよですね。
暗中模索感があるということはすでに幸せいっぱいというわけにはいかないですよね。暗中模索なわけですからね。そういうことって仕事だと出てくるわけですよね。
で、先日ですね、全然違う話のようなんですけど、おしみしゅうぞうさんという方、私この漫画家好きなんで、「血の和太刀」という本の最新刊が出て買って読んだんですね、Kindleで。
したらですね、すっごい気持ちが悪くなったんですよ。すごい悪くなったんですよ。経験したような話ではなくて、おしみさんの本が明るいということはあまり期待できないにせよですね。
あれほど落ち込むという作品も、読んでて気分が暗くなるというのも珍しいなと。そんなに、例えばそうですね、かなり話題になった作品、何だったっけな、タイトル忘れるんだな。
悪の花だったかな。いいんですけれども、そういう作品に比べてもそれほど真っ黒けっけってわけではないと思ったんですけど、どうにもこうですね、すごい言ってみれば暗いなっていう感じの話だった。
でも、暗い話は私は、フィクションは暗い話の方が読むぐらいなんで、慣れっこだと思ってたんで、まさかこんなに自分がこれでずんと来るんだなっていうのに、むしろ新鮮さを覚えたぐらい来たんですよね。
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体調のこともあったんでしょうね。で、思ったんですよ。好きでやるということと気持ちが良くなるということがイコールなわけじゃない。もちろん気持ちの良くなるものを書くという、しかしないという人もいると思うし、気分がわざわざ暗くなるようなものは読まないという人だっていっぱいいると思うんですが、
少なくとも私に関してはですね、好きと気持ち良いは一致しないんですね。ということは漫画を読んですらそうなんだから、仕事は増してやるなと思うんですよ。好きな仕事をしているということと、常に気分が爽快であるということとの間の相関関係は、僕に関して言えば、そんなに強いはずがない。
よくよく考えてみればですね、ゲームをしている時だって、漫画もそうですし小説を読んでいる時だって、好きなことをしているという時と気持ちが良いということとが一致していないことはたくさんあると思うんですね。
むしろ一致しているという時の方が稀かな。一方違いとそうなりますよね。私は例えば温泉とか入ると気持ちいいんですけど、好きですけれども、好きなことをやる時に常に風呂入っているわけじゃないんで、静香ちゃんじゃないんで、そういう意味ではよくよく考えてみると、
好きなことをしている、好きなことを仕事にするということと楽で気持ちがいいということはイコールではないですよね。いい時はありますけれども、そうした方が。というか、その方がいいんですけど、好きでもないことを仕事にするよりは。なぜかというと仕事をする時間が長いからだと思います。
好きでないことをやるということは当然あるんですよね。それを延々、毎日毎日長い時間やってられないところもあると思うんですよ。これも簡単な話じゃないんですけどね。なぜなら好きじゃないと思っていたものを人は好きになるんで。
私野球とかすごい見るのはともかくやるのはすごい嫌いだったんですけど、中学の頃にはもう草野球を自分でやりに行くチームを作るぐらい好きになってましたから。いい加減ですからね、人の好きか嫌いかというのはすごく。
というふうに思ったのが、第2章の感想をいただいた。感想ではないんですけど、第2章を何度も読み返しましたというのをいただいて、そっか、何度も読み返すということは好きを仕事にするというところは、私たちにとっての一つの大きな課題なんだなということを思ったわけです。
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私にとってももちろん、当然そういうことはあるわけなんですが。
とにかく好きを嫌い…好きを嫌い…好きなことを仕事にするということにはそういう部分があるんですけれども、
この話はどうしても時間の話と、今そもそも長い時間だからって言いましたが、時間の話と絡みまして、毎度おなじみタスクシュートなんですけどね、小橋哲郎さんの仕事の。
時間というのを得しようと私たちがしたときに必ずその問題に実は直面しているんですよ。
時間を得することってできないって話は昨日もしたんですけどたまたま。
例えば1時間かかるはずの仕事を30分で終えられると、私たちはつい30分得をしたと思うんですよ。
このときに少なくともまずその仕事は好きじゃないっていう感覚を持ってしまっていると思うんですね、一つ目に。
仮に仕事が好きだったとしてもその作業は嫌だ、仮にその作業が嫌じゃなかったとしてもそのときはやりたくなかったっていうのはあると思うんですね。
代わりにその30分得をして好きなことをやれるって思うじゃないですか。
いつもこの問題が僕は絡んできてるなと。
だから自分はですね、特にタスクシュートの話をするときについ、あらゆる人にこれをセットで言う必要は本当はないんですけど、
つい言いたくなるのが全てのタスクを10日に扱うか、10日に扱えないんだったらそのタスクはもう扱わないことにする。
つまりリストから追い出すという話をするんですよ。
時間の使い方っていうのは、時間の使い方という言い方を本当は正しくなくて、行動なんですよね、全部。
行動というものは、それに対して行動の名前を伴った行動っていう言い方をするんですけど、何て言えばいいですかね。
簡単なんですよ。食事とか言うのは食事だし、休憩は休憩だし、睡眠は睡眠。名前をつけてる。
そういうふうに名前をつけるということは区切りがあるという認識がどこかにありまして、それらの勝ちづけは等しいはずだっていう理屈なんですね。
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この勝ちづけが等しくなくなったときに、時間の損得って発想が出てくるわけじゃないですか。
じゃないとおかしいですよね。全ての行動の価値は100である、MAXであるってなったら、
何をする時間を減らして何をする時間を増やしても損得が発生しないですよね。
100の行動を10分減らして代わりに100の行動を10分増やしました。
10分得しましたっていうのは絶対おかしいと思うんですよ。
ここで損得の感覚が発生しているということは、この行動の価値は90だが、
仕事のある作業なんでもいいですけど、メール返信という価値は50だが、
映画を見るのは100であるっていう、そういう感覚があって初めて時間の損得って発想が生まれるわけじゃないですか。
メール返信は50だって話をしたときには、その仕事は好きじゃないっていう部分が出てきてると思うんですよ。
じゃあでもその仕事を最初に選んだときその仕事は嫌でその仕事を選んだのかっていう問いも立つと思うんですね。
それよりも何よりもですね、自分はタイミングとその時の文脈が非常に大事になってきていて、
例えばそのメールを書くのはですね、このメールをこの1時までに書き返さないと破滅だみたいな、
まあそういうことは最近ないですけどね。
そういうふうになったとするとですね、15分前に書き上がったということの意味が全く変わると思うんですね。
15分得をしたという感じはサラサラになくて、間に合ってよかったという感覚しかないと思うんですよ。
その時に破滅だけれどもか、その前に最新刊の清水蔵さんの漫画が出たからそっち読むかって、
そういうことをする人はいないと思うんですね。
つまりタイミングが非常に大事なんですよ。
そのメールを100日前に書くとなるとですね、15分早く終わってラッキーだったってそういう発想にもなると思うんですね。
つまり眠たいときは眠ることが最も価値が高いですけど、お腹空いてるときは食べることが最も価値が高くなるように、
時間をかけることの価値っていうのはあらかじめ客観的に決まらないんですよね。
この話も何度もしてますけれど。
お金を使うんであればですね、これも金額に比例しないけれども、
100円ショップに売っている100円のものに比べて100万円の車は10日じゃないですよね。
価値は高いとみなしますよね。
そうは言っても車に乗らない人とかもいるんで、結局価値って極めて恣意的なところがありますが、
100万円のものと100円のものならば、普通は100万円が一般的に上とみなされてしかるべき理由は持っていると思うんですよ。
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でもこれは100万円を一度にかける、100円を一度にかけるってことができるからであって、
時間ってそういうことできないので、
10時間かけるものの価値は1時間かけるものの価値より常に10倍高いですってことは絶対ないんですよ。
結局それをやりたいかやりたくないかがほとんど全てになってしまって、
しかもそれをやりたいタイミングかどうかっていうのがまさにほとんど全てなんですよね。
10時間寝ることの価値は1時間デートすることの価値よりも高いかみたいな議論、意味がないと思うんですね。
野口幸男さんというですね、超セリフ法で有名な人が書いてましたけれども、
新婚旅行でヨーロッパの中に行ってはいけないと。
夜になっても前後不覚になってすぐに寝てしまうっていうふうに書いてあったんですけれども、
要するに時差がひどいということとやることがいっぱいありすぎるという話をされているわけですね。
そういう話なんですよ、これは。
つまりそのタイミングで一番したいことを人はしちゃうんですよ。
嫌でも大でもってこともあるわけですよね。
新婚旅行で夜になってとにかく寝たいっていうことは日本にいる間考えられないかもしれないけど、
現地に行ってみるとそうなるんですよね。
それはタイミングとそれまでの行動の文脈がその人の何をしたいっていうのをはっきり決めてしまうかであって、
どっちも価値が高い云々とかいう話に意味ないと思うんですよ。
だから時間を損得っていう観念は、実はその時何をしたいのかでただ揺れ動いているに過ぎなくて、
15分節約するっていうことは本来できないことで、
そうするとそこから考えていくとやっぱり全ての行動の価値は等しいと思っておくしかないと思うんですね。
そうすると全ての時間のかけ方の価値は等しいと思っておくしかないと思うんです。
ここに上下をつけるということは、その上下が客観的に決まるように思うんですけど、
決まったためにはないはずなんですね。
すっごい重要な会議で、すっごいトイレに行きたくなったら、
下痢とかし始めたら、トイレに行くことの価値の方が絶対上に行きますよね。
で、行けないとなったらもう非常につらいじゃないですか。会議どころじゃないですよね。
って話になると思うんですよ、どうしても。
で、これはお金の場面では起こりにくいけれども、
時間の場面ではしょっちゅう起こっていることのはずで。
だから割とやることの順番って大事だったりもしますし、
私の最近のGOOD VIBESの影響を受けてからは、
依頼された順っていう言い方をする。
ここに他人からの依頼プラス自分の身体からの依頼というのをプラスするんですよ。
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そうすると多分最適な順番とできることの数っていうのは自ずと決まってくるはずで、
あとはもうその人の身体的な性質、つまり個性ですよね。
とその人がこれまで関わってきた人たちとの兼ね合わせの中でですね、
決まってくることだと思いますね。
順番とかけるべき時間の長さみたいなものというのは、
これは24時間に収まるようになっていて、
しかもそれぞれを誠実に話していって悪い結果にはならないと思うんですよ。
しかもそのことを私たちは好くんじゃないかと思うんですよね。
好むんじゃないかと。
お腹空いてる時に物を食べるのを好みますよね。
好きを仕事にするというのもそういう側面があるはずなんですよね。
非常に抽象的に野球をするのが好きみたいな話とは違って、
多分その人がそれまで生きてきた文脈というものを色濃く反映するわけじゃないですか。
食べ物だってそうだと思うんですよ。
アボリジニでしたっけ、食べられるアリサンのお腹がすっごく密で膨れている、
ああいうご馳走みたいな、私たち食せないじゃないですか、大半が。
それは日本に生まれてきたという文脈があるせいですよね。
以前、南アメリカだったと思うんですけど、サバンナに暮らす、
ちょっと褐色の感じの部族みたいな人々の生活っていうのをテレビでやってたんですけど、
可愛い女の子が猿の手とかを食ってるんですよね。ご馳走みたいなんですよ。
あれ、極めて日本人が見ると、これは口にするの難しいなって思う人多いと思うんですけど、
でも鶏肉だったら似たような形状のものを平気で食べるじゃないですか。
そういうのって結局文脈で全部決まっちゃってることで、
私たちの生理的な要求さえも文脈で決まってるんで、
まして仕事に関わる要求っていうのは文脈で決まるんですよね。
文脈で決まっているということは、自分の生まれながらにして、
心の底から好きなものが独立して発生するかというと、そういうことはあり得ないですよね。
なぜ鶏肉だったら平気で食べれて、しかもフライドチキンはうまいと思ってるのかというと、
日本で生まれたからですよね。
こんなようなことが仕事の好き嫌いも絶対あると思うんですよ。
そうしてみると、依頼中心に回していくということと好きを仕事にするということが
矛盾しなくなってくるはずなんですよね。
もちろん細かな調整は必要になると思うんですよ。
日本の中といっても広いので、北海道と沖縄では食文化違うじゃないですか。
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当然食べ物の好き好き変わるし、とはいえ北海道に住んでいながら
沖縄の食べ物の方が好きって人はいて当然なんですよね。
そういう調整あると思うんですけど、ただそのこと自体も、そういうことですらも
文脈と独立して発生しないことだと思うので、
私たちの要求というのは意外と文化的であって、
そのことを考えてみるとますます自動的に好きが決まるっていうのは
おかしなことではないんですよね。
そうすると自動的に好きなことを仕事にするんだけど
自動的であるというのもおかしなことではないんですよね。