2021-11-02 46:08

【GMV 489】自己愛が傷つけられて爆発するとき

他人のでも自分のでもニードを否定しない
00:00
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
先日もちょっと、昨日か、昨日もお話ししたんですけど、
倉園圭造さんがですね、ワンオンワンのセッションをやっています。
私がこれを時折お勧めしているのはですね、いろんな意味があるんですよ。
例えば今日しゃべるような文脈で言うと、やっぱりこう、身近にないっていうものが一つ問題だと思ってるんですね。
僕が一生懸命ちょっと無理してても、無理してるんですよ、この精神分析の。
しかもここのところずっとやっているイギリスの対象関係論の話をするというのは、かなり無理をしている。
聞いたことない人の方が普通だと思うんですよね。
つまり全然全く日本では主流じゃないし、世界でもあんまり主流じゃないんです。
やっぱり世界の主流とはアメリカですからね。
アメリカに精神分析のメインストリームがはっきりあって、
まだまだ対象関係論はちょっと前よりはだいぶいろんなところで盛んになりつつあるけれども、
まだまだやっぱりど真ん中にいるとは思えないんですよね。
そういう感じはしないんですよ。
僕、正確な統計データとかは持っているわけじゃないですけど、
多分データを見ると、もっとまだ圧倒的に自我心理学っていうのかな、
の方がアンナフロイトが創始者なんですけど、こっちの方が主流だと思うんですね。
こっちだって、でも日本ではあまり聞かないじゃないですか。
アンナフロイトって誰だっけくらいな、フロイトの奥さんだっけくらいになりかねないところだと思うんですよ。
娘さんなんですけど。
で、この話を、例えば簡単に扱うのは危険だみたいな話は、
昔からあるんだけど、そこには一つの矛盾があって、
簡単に扱うのが危険な話が、なぜみんなが知ってるんだっていうのもあるわけです。
これは絶対僕は矛盾してると思うんですね。
例えば、かわいいはやおさんが、こういう考えを安易に扱ってはいけないと言っていても、
本が200冊くらい出てたりするし、みんな読んでるわけじゃないですか。
みんな読んでないですけどね。
甘えの構造もミリオンセラーなわけですよ。
物書きをしている私からすると、この数の本が出るっていうのは、
もう偶然の数字だなって思うレベルなんですね。
で、エリック・エリクソンの、あれは日本人ではないにせよ、
モラトリアムとかだって、みんな言葉を知ってるじゃないですか。
みんながその言葉を知るのはあまり良いことではないとか言っても、
なんか変じゃないですか、それ自体が。
そんなことを言っておきながら、だったらその人が日本中の人を治療すればいいわけですよ。
っていうぐらい非現実的な話になっちゃうわけですよね。
だから、この人のことは僕は必要とされていて、
しかも供給はほとんどないみたいな状態がずっと続いていると思っていて、
そういうところをですね、同じでは全くないんですけど、
03:00
グッドバイオスと精神分析は。
グラゾノさんがされているようなセッションというものが、
明らかに誰かが連れてこないとそこに行けませんみたいな人のためのものとは言えないけれども、
自分で受けられるような人には良いと思うんですよね。
で、自分で受けられるような人の場合でもなかなかですね、
キッキンそんなに自分はメンタルで困ってないっていう風に感じると思うんですけど、
それは、そのほうが良いに決まっているわけですよ。
キッキン常にメンタルで困ってますっていうのは問題ありますからね。
ただ、困ることはあるわけじゃないですか。
ここに、この問題は人で考えちゃいけないと思うんですよね。
困っている人がいるっていうよりは困っている時があるんだと思うんですね。
今日はそういう話をちょっとしておきたいんですけれども、
時があったらあんまりやたら困らずにそういうものが受けられると良いと思うので、
私は無理なく進められるところをお勧めしておきたいと思うんですね。
こういう精神分析の考えがあるんだけど、
イギリス行かないと受けられませんではほぼ役に立たないと思うんですよ。
英語でやらなきゃならないしっていうだけでダメじゃないですか。
でもイギリスに行くまでに心の傷とか治っちゃいそうですよね、普通の人の場合。
それでは意味ないと思うので、この話をCMが照らしているというわけです。
何をつまり、人がいるんではなくて時がある、困っている人がいるというよりは困っている時があると言いたいかというとですね、
先日電車ですごいことが起きたじゃないですか。
それがちょうど私の出版記念セミナーの日だったわけですけれども、
あまりこの種の時事ネタを取り扱いたくないという事情もあるし、
ああいう話も取り扱いたくないんですけれども、
ちょっとですね、いろいろとタイミングが合っているのでお話してみたいなと思ったわけですね。
要は些細なことだったんですよ。
仕事でうまくいかなくて、この報道されている話をある程度信じるならばですけど、
仕事でうまくいかなくて、友達関係がそこでまずいことになったということがいろいろあって事件を起こしたという話なんですよね。
すっごい距離が広いなって、あの種の話を聞くたびに僕は思うんですよ。
その間に何十段階もあっていいはずじゃないですか。
仕事がうまくいかなくて、人間関係で少しいざこざするっていうことはもうそこら中にありますよね。
06:08
それで事件がその都度起きてしまったのでは、それほどの大事件じゃなかったとしてもですね、
割と溜まったもんじゃないですよね。
ところが私たちは自分のことだったらきっとそうは思わないんですよ。
仕事で上司にめちゃくちゃ怒られて、友達との関係もなんか今までないほどひどいことになったわからないですけどね。
そういうことだったのかどうかわからないんですけど、そういうことがあったとすると結構もう死んだ方がマシだみたいになるじゃないですか。
この間って人が図手に聞くとですね、えらい距離が広いなと思うんですよね。
そんなことで死ぬ必要全然ないじゃんって思うわけですよ、他人ごとだと。
ところが自分ごとだともうほとんどすぐ死んでもいいような心理状態に入るわけですよね。
これがですね、僕は甘えの構造じゃないや。
私の顔色をうかがう本の中で、人が顔色をそれほどまでに慎重にうかがっているおそらく最大の理由だと思うんですね。
つまりこの心理状態ってきついんですよ。どういうわけかね。
肩で聞くと大したことには聞こえないんですけれども、これに自分がはまり込むとめちゃくちゃきついんですよ。
みんな思ってるんですよ。自分の心の傷がつくことは絶対に耐えられないと。
でも人の話を聞くと、それで事件を起こしちゃうのって尋常じゃないって思うはずなんですよね。
ここにこの非対称性が、つまり甘えというものだと思うんですよ。
私たちは日頃はそんなに自覚する必要はないわけです。
自分が甘えてるということを自覚する必要はないんですけれども、甘えられてないときには必ず強烈に自覚するように、たぶんそういうセットがあるんですね。
僕はこれをフロイトが一時的ナルシシズムって言ったのは実に正しいと思うんですよね。
一時的かどうかはともかく、これはナルシシズムっていうに違いないと思うんです。
そういう感じするじゃないですか。
私の心が傷つくのは絶対許せないけど、人の心が傷つくのはOKだっていうのはものすごくナルシスティックなものを感じると思うんですね。
ナルシシズムって自己愛と訳されてるし、今では自己愛でいいんでしょうけれども、
ここの番組で昨日も言ったかな。
時々言ってるのはナルシスの中に、ナルシスは人の名前なんで、自己がないのと愛もないという感じがやっぱりするし、
これをイメージするときに一番僕がパッと思いつくのはやっぱりマスターベーションなんですね。
09:04
はっきり言葉に出してしまいますけど、これが一番ナルシシスティックだと思うんですね。
そうするとたぶん人類の大半を知っていると思うんですよ、僕の考えでは。
人類の大半は今では男女問わず普通だと思うんですね。
ところがこれを人がするのは非難がもしいですよね。
人がしてるのを見るなんてとんでもないという感じでしょうし、見られるのもとんでもない感じなんですよね。
でも誰もがしてると思うんですよ。
これって非常に甘えと似てるんですよね。
誰もが甘えてるにも関わらず他人の甘えを見るのは許せない訳ですよね、ある意味。
甘えてる奴は罰に値するってことになる訳ですよ。
マスターベーションって似てると思うんですよね。
誰もがしてるに決まってると思うんですけど、私は。
してるということが判明するとそいつは罰に値するみたいになっちゃうんですよ。
たぶん昔は本当に罰せられたんじゃないかと思うんですね。
これって一体何なんだろうって思いません?
私これ非常におかしな話だとは思うんだけども、
でもこれは当然のことだということになってるんですよ。
ちょっとセックスに似てるんですよね、これとね。
誰もがしてるに決まってるどころか今では
するように明らかにあからさまにめちゃくちゃ推奨されてるように思うのに
少子化対策ですからね。
家の中ではしてはいけないからどっかホテルに出かけなきゃいけないんですよ。
これちょっと日本の特殊事情もあるんですけれども、
これって相当奇妙な話だと思うんですよね。
ぜひしてほしいことを人がしてると許せなくなるというのはどういう話なのかと
これを甘えと言うんだと思うんですよね。
これを包括しても甘えだと思うんですよ。
みんなで甘えてると思うんですよね。
一言で言うと自分がするのは当然であり、
当然していいことだし、
するべきことなのにもかかわらず時々はですね、
というかもう自然としてしまうにもかかわらず
するのは許せないみたいになってるんですね。
で、傷つくという話もこれとよく似たところがあるんですけど、
そもそも見られると傷つくじゃないですか。
見るなの禁止っていうのも精神分析にはあるんですけど、
これはまああれですね。
そのうち、この話私あんまり得意じゃないんでできないんですけど、今のところ。
そのうち夕鶴、鶴の恩返しのような日本ではよく出てくる話なんですけども、
あれとかにある話だなと思うんですが、
今日はそれよりはもっとナルシシズムの話に。
つまり彼は変装していましたよね。
僕らはなんでナルシシズムに傷つくんだろうってのを考えるんですよ。
傷ついてると思うんですね。
私は他人のナルシシズムに。
人はナルシスティックに振る舞う権利まではいかないまでも、
普通に振る舞ってるにもかかわらず、それをバッシングすると。
12:03
これをバッシングするということをやるということは、
ある意味では何にもできなくなりかねない。
よっぽどうまくやらないと。
よっぽどうまくやるってことがすでに間違ってると思うんですね。
セミナーでお話しした通り、
私たちは満たされている限り甘えは多分人目につかないし、
満たされている限り甘えはほとんど自覚せずに済みますが、
満たされないことは頻繁に起こりますね。
そのために少し傷つくんですよ、実際のところ。
その上で甘えていること、うまく甘えられなかったところを人に見られると叩かれ売るんですよね。
それが傷をますます助長する感じがある。
ここのところの難しさだと思うんですね。
だから他人が甘えているのを見ると叩いていいと思っている人も結構いるんですよ。
恥ずかしいことだっていうふうにしてね。
ところが自分が甘えているのは、
密かにやっている限りは大丈夫っていう感じのところがあって、
すっごく全体的にやましいものを抱え込むことになるんですね。
これを全部公にしても大丈夫なようにしようっていう話は全然現実的じゃないんですけど、
これをここまで叩かなくていいことにしようというのは、
僕は相当現実的だと思うんです。
グッドバイブスというのは多分一つの提案であって、
これを別に強制しようというような話ではないと思うんですよ。
人を甘えさせましょうっていうような書き方を僕はしちゃいましたけれども、
文脈上こういう表現を取らざるを得ないなっていう感じがあったんで、
本当のところはですね、
人が甘えを満たすことを、
なんていうんですかね、
悪く取らないようにしましょうぐらいなんですよ。
こう書いておいた方が、
今みたいな、
あの本の読みにくさ、飲み込みにくさみたいなものは、
言わずに済んだと思いますね。
ただ、この言い方に終始していると、
多分内容が相当一段とまた伝わりにくくなるだろうと、
ちょっと率直に書いてしまわないと、
無理があるだろうなという感じがしました。
あの事件なんですけれども、
その点については誰もが知っているにも関わらず、
基本的には目をつぶるか目をつぶっておかないと、
よろしくないとでも思う人もいると思うんですが、
要は彼は傷ついたわけですね。
甘え損ねたわけですよ。
甘え損ねるということは、
さっきも言った通り、
ただそこら中で頻繁に起こるわけですね。
誰もが甘え損ねる瞬間というのはあります。
15:02
甘え損ねると、
自分がナルシシズムに走るしかなくなるんだと思うんですね。
私の考えでは、
上司に怒られるとか、
異性に笑われるとか、
そういう目にあった人は、
家に帰ってDMMを見に行くと思うんですよ。
これがナルシシズムなんだと思うんです。
ナルシシズムというのは、
現実にとって変わって、
現実を作り出し、
その中で自分を甘えさせる。
つまり、現実は甘えさせてくれなかったので、
昨日の言葉を使うならば、
現実は自分のニードですね。
何を満たしたいのか分からないんだけれども、
満たしたいものがあり、
それはしばしば性愛だったりするんですけど、
愛されたいという願いみたいなものですね。
自分が愛されたいという願いを持って会社に行くわけです。
これは意識していません。
全然意識していないんですよ。
自分が愛されたいという願いを持って会社に行くんだけど、
会社の上司は理不尽なことを言ってめちゃくちゃ怒り出すと、
自分が愛されたいという願いは、
完全に否定されるんですね。と思っちゃうんですよ。
実はこの自分が愛されたいという願いは、
自覚していないものだから、
否定されたように思ってしまうんですね。
もちろん意識の上ではですね、
書類に書いた数字が4000のところを4万と書いてしまったとか、
そういうミスが起こられていると思うんですけど、
実際には違うんですよね。
そのようなことで傷ついているわけじゃなくて、
自分が愛されたいという願いが真っ向から否定されたということが、
その人にとって強い重荷になるというか、
現実に生きていく気がしなくなるわけです。
現実に行っても、
何ら罪のない人に愛されたいという願いを持っているという、
この願いを否定されてしまうので、
非現実に行くしかなくなるわけですね。
非現実に行けば優しくしてくれる女の人が、
自分の好みの格好をしてくれたりするんですよ。
でもそれはバーチャルですからね。
リアルにそんな人がいるわけじゃないんですよ。
でもバーチャルでも、
リアルに行けば自分は否定されないじゃないですか。
自分のニードが否定されない。
ニードというのはつまり願いですよ。
受け身的な願いですね。
自分を愛してくれるということが、
自然と叶ってくれるという願いが、
そこで満たされるわけですね。
これが甘えの世界なわけです。
この世界はリアルにはないということになったので、
アンリアルな世界に行かなきゃいけないわけですよ。
アンリアルな世界に行って、
行けばそこで満たしてくれる存在が、
存在は存在していませんけれども、
18:00
映像があります。
ここで満たすと。
つまりこれを外から見てしまうと、
ここの世界に没頭している様を外から見てしまうと、
自分が否定されたとその見た人は思うわけです。
自覚心はしませんけれども、
VRですっかりそっちのけになって、
2人付き合っている人でも見ればすぐ分かりますよね。
彼氏が彼女の前で平気で、
VRをつけて、
すっかりそっちに没頭する。彼女は面白くないですよね。
自分が完全に否定された感じがする。
これを私たちは、
多分あかの他人のそれを見ることはまずないので、
近しい人がそれをやっているのを見るのは面白くはないわけですよね。
こうして傷つくわけです。
つまり、
傷ついた人は、
まったく同じ気持ちを持っているわけですよ。
彼氏が
会社で傷ついたからといって
VRの世界に行っちゃうと、
つまり現実の自分というものはそこにいていないものとされるわけですね。
これが嫌なんですよ。
だからナルシシストというのは、
ナルシシスティックな人の振る舞いというのは嫌がられるんですよ。
その場にいる人を無視しているか、
少なくともいないものとされてしまうから。
その人はほとんどバーチャルな世界に入っちゃうわけですね。
VRつけてなくても。
だからそれを見た人はですね、
自分が現実にいるのに
相手にされていない。
でもこれはどういうことかというと、
自分を甘えさせてくれていないという意味なんですよ。
ここでも願いが否定されているんですね。
彼氏なんだから、
現実の自分を愛してほしいという願いを持ってそこにいるのに、
それを無限にされるということですよね。
同じ構造なんですよ、これは。
ナルシシズムというものが、
自分がお互いのナルシシズムの中で傷つき合うんですね。
傷つけ合っているわけじゃないんですよ。
彼氏はなぜVRに入っているかというと、
現実が傷つくから引きこもっているわけじゃないですか、
ある意味では。
もう少し積極的に引きこもっているんですね。
ただ引きこもっているというよりは積極的に、
現実世界を否認する形で、
アンリアルの非現実の世界に
引きこもるというよりは、もう映っちゃっているわけですよね。
このことが人を傷つけるわけですよね。
これは、そうして傷ついた人というのは、
つまり、彼氏に何かを言われたとか、
そういうことではないはずなんですよね。
ただ、現実が自分の願いを満たしてくれないという、
現実というのは現実の彼氏ですけど、
その人がアンリアルの世界に行っちゃって、自分の願いを満たしてくれないという、
その事実によって傷つくわけだから、
やっぱり誰かに傷つけられているわけではないんですよ。
21:01
そしてその人が、
今度、家に帰って、私帰るって言って帰って、
スマホをずっと見ているということになると、
この人も同じなんですよ。
自分の慰めが満たされないことによって、
ナルシシズムの世界に入っていくわけですよね。
傷つけられた自分というものが、
つまり、現実には否認された自分というものに、
慰めるというのか、
その願いを叶えてくれる現実を、
別途作り出すわけですよね。
こうすることにより、
現実に否認された彼女さんは、
例えば、家にお母さんがいるとか、
そのお母さんは多分無限にされるんですよ。
こういうことなんだと思うんですね。
こういうことだということはですね、
これは倉園さんがフットファイブスでよく言うことなんですけれども、
他人は自分を傷つけないんですよ。
自分で自分を傷つける。
必ずそういうことになる。
もう一つが、
誰も悪くはないんですよ。
これは私がそう思うんですよね。
誰も悪いようには見えないんですよ。
だって、現実に願いを持つこと、
甘えさせてほしい。
だって、この願いが満たされなかったら死んじゃうんで、
まず間違いなくこの願いを持って生まれてくるわけですよね。
この願いを持つこと自体は、
甘えさせてほしいという、
自分の甘えが満たされてほしいと願って生まれてくるのは、
生き物として当然のことであって、
これが満たされるのを願うというのは何ら罪はないんですよね。
これが否認されましたと。
否認されたときに起きたことというのは、
決してこれを否認しようという意図はどこにもなかったんですよね。
おそらく最初の上司にもなく、
VRをつけて非現実に没頭している彼氏にもなくて、
それを見て家に帰ってきた女の人にもない。
どこにもないんですよね。
悪意は。
ただ、それによって
扱われなかった現実というものが
常にその都度傷ついているという連鎖が起こるんだけれども、
別にそこに悪意はなかったわけですよ。
で、なんですけれども、
2つありますよね。
まず2つあるというのは、
1つは、VRに行ったということは、
今ここにはいたくないということなんですよ。
ウッドバイブスが提案している、
今ここを愛するというのか、
今ここで損なわれていることのない自分に気づくというのは、
全部、
アンリアルな世界に行った瞬間に
ほぼ完全に無視されるわけです。
特に、ここにはいないですよね。
これがすごいポイントかなと思います。
24:00
ナルシシズムというのは、
今ここの中でも、どっちにもいませんが、
特にここにはいない、ここにいたくないという表現なんですよ。
だから傷つく人が出てきちゃうんですね。
ここが否定されるということは、
自分以外の全現実が否定されることになるので、
だってVRの世界に入るというのはまさにそういうことですよね。
自分以外の全現実はあってないものとすると、
そういう宣言に等しいので、
これによって周りの人が傷つく。
つまり、ここにいないというところが大事なんですよ。
で、もう1つが、
2つ言えたのは珍しいんですけど、
自分ではないということなんですよね。
おそらくVRを見ている人は、
自分は自分だって思っているかもしれませんが、
そうじゃないですよね。
あるがままの自分が現実にいるだけでは、
上司によって否定されるだけですから、
自分は自分ではないわけですよ。
アンリアルな世界に行くだけでなく、
アンリアルな自分になるわけです。
これをするってことが、自分を傷つけるってことに間違いないと思うんですよ。
さっきVRの世界に没頭されて、
彼女さんが傷つく。
彼女はスマホの世界に没頭することで、
例えばお母さんが傷つく。
つまり、現実ではないものとして扱われた現実の方が傷つくわけですね。
そうすると、
同じ構造でアンリアルな自分になってしまった、
つまり、自分じゃない自分になってしまったという人によって、
傷つけられるのは現実の自分ですよね。
このようにして、
多分、私たちは傷つくんですよ。
だから、人は自分を傷つけているわけじゃないんですよね。
そして、今ここにいなくなるということは、
現実の全部を傷つけるということになっちゃうんだと思うんですよね。
要するに、現実は否定されるわけですよ。
そして、自分は自分ではないものになってしまう。
アンリアルという言葉を今何で使ったかというと、
ルサンチマンという、
花澤慎吾さんかな、という人が書いた漫画が
まさにこういうテーマなんですね。
ひもての、要するにキモいおじさんが、
アンリアルな世界でかっこよい人になって、
ラインハルドとかになって、
女の子にイチャイチャしてもらうと。
そういうところが、
そういう設定でスタートするコミックなんですけど、
私は結構好きで、
何回か読み直したんですが、
アンリアルという言葉が出てくるんですよね。
まさにああいうことなんだと思うんですよ。
現実には誰も優しくしてくれない、
キモいおじさんである自分だから、
自分自身をも変えて、
アンリアルな、それこそ世界に行っちゃうと。
そうすると現実の側は傷ついていくんですよ。
そういうさまが漫画で描かれていくんですね。
ああいうことをでも私たちは別に、
27:01
アンリアルな世界というものを、
あれほど大掛かりに作らなくても、
もうすでにしょっちゅうやっているわけですよね。
という事件があれだったんだと思うんですよ。
慶応戦の。
つまり彼はジョーカーになってたじゃないですか。
あれは私たち子供の頃は、
みんなやっていることなんですよね。
大人になっても結局やるんですけど、
あれをミニコットが意向大将とまさに呼んだものだと思うんですね。
意向というのはつまり、
独立への意向期なんですけれども、
意向期というものは何かと危ないです。
それまでお母さんが物理的に抱きかかえていてくれた、
ホールディングですけど、コンテーニングでもいいんですけど、
物理的に抱きかかえていてくれて、
基本的には全部やってくれていた。
そこからでも意向しないわけにはいかないですよね。
ずっとそうしているわけにはいかないので。
ポイントは、物理的にそれをやるようにはだいたいなれるので、
ポイントはですね、
情緒的にそれがやれるようになるかどうかだけなんですよね。
だけれども最初は情緒的には難しい。
お母さんがずっといてくれたのが、
時々しかいてくれなくなっても、
同じような心理状態を保つのには困難がある。
だからお母さん代わりのぬいぐるみを持ったりするわけですね。
これを意向対象というわけです。
男の子は、
小道具をいろいろ使って、
大丈夫だという気持ちになるための小道具を使うわけですよ。
おもちゃのピストルとか、そういうやつですよね。
この辺のことは、
お好み刑護さんは自己営人間で、
がっちり書いているんですけど、
例えば男の子はライオンになったような気持ちになると、
時々吠えたりする男の子もいると、
そういうのを見られるのは恥ずかしいじゃないですか。
この恥ずかしさというのは、
さっきのナルシシズムの恥ずかしさと全く変わらないんですよ。
現実を否認しているという自分を見られるのは、
実はうんと幼い頃から既に気づくんですよ。
恥ずかしいことだと。
現実を否認して、自分はライオンだということになっちゃうわけですよ。
ライオンキングとかになっちゃうわけですよ。
そういうのは恥ずかしいことなわけですよね。
でも我々はみんなこれをやっているはずなんですよ。
リクルートスーツを着たりして。
これをすることによって、そこに行っても大丈夫な自分というものを
擬似的に作り出すことによって、
つまり部分的には現実を否定することによって、
現実に突きつけられる難しい問題というものを
何とかするわけですよね。
アンリアル感というものを活用して。
完全にアンリアルに行ってしまうと、
現実は完全に否定されなければならないわけですよ。
でも人によっては、現実を完全に否定してやりたいという気持ちを持って、
だからこの重度のナルシシズムって
本当に言うのは微妙な言葉だと思うんですよね。
30:00
重度も軽度もないんだと思うんだけれども、
重度のナルシシズムに入ってくると、
もはや人は人ではなくなるわけですよね。
電車は電車ではないわけですよ。
劇場みたいなものになってしまう。
それはVRの世界だと思うんですね。
自分は自分ではないわけです。
もうバットマンの悪役になってしまうわけですよ。
そういうふうにすると、
私たちは必ずそれを見て、
なんてとんでもないことになったんだろう、
というふうに思うんですけれども、
つまり人が甘えるという状態を許容すると、
そいつは突き上がってとんでもないことをするんじゃないかという、
私の本に寄せられがちな批判もそれなんですけれども、
でもそもそもの発端はですね、
その人を甘えさせなかったことによるんですよ。
で、私たちの中での
自分の中での自分の中での
自分のお魂になりたいことによるんですよ。
私たちだって、同じなんですよね。
自分のナルシズム、
自分のニードが満たされないということが
強烈になった時、
例えば会社に行くのはやめるとか、
就業時間と同時に風邪のように消えるとか、
現実は否定されている訳ですよね。
あるいはなんかコスプレをするとか、
なんでなのかということですよね
つまり
私たちはやっぱりニードが満たされないと
生きていけないわけじゃないですか
しかもこのニードは多くの場合
飲食物とかだと思われてるんですけど
そうじゃないと思うんですよね
情緒的な問題だと思うんですよ
その方がよっぽど人を早く
破滅に追いやるように見えるんです
情緒的な甘えが難続的に満たされない状態が続くと
すぐその人は
破壊的な発想に至ってしまう
ナルシシズムという
ナルシシズムというのは
途中私が言った通り
VRゴーグルをつけて
一人遊びに突っ走るわけですよ
最ミニマムでも
どういう問題があるかというと
言った通り
現実は否認される
自分という現実が否認される
これが重大なんですけど
もう一個ありますよね
本当は
これはそれを目的としてるんで
それを問題だと言っても
ダメなのかもしれませんけど
何にも生産的なものは
そこからは生じないということも
あります
これはだから
破滅的なものなんですよきっと
一人で
いくらやってても子供は生まれませんよね
これは物理的な話ですけれども
つまり現実と交わらない
ということの問題は
現実と交わらないんだから
現実には何も生み出しはしないんですよ
昔グッドバイブスのセミナーを
渋谷で行ったとき
倉園圭都さんがこのことを
ちょこっとだけお話しされたことがあるんです
何にも生産的なことのない
33:00
いかなる人の依頼にも
応えていない
ただそれだけの時間というような表現を
されてたんですけれども
まさにそういうことになるんですよ
仮にDMMでなくても
昨日そうだったの
昨日じゃない事件がそうだったんですよね
何にも生産的なことが
起きるわけにはいかないんですよね
そこはもう
バーチャルな空間になってしまったから
そうは言っても
被害を受ける人はいるので
そういう意味で
ナルシシズムというのは怖いんですけれども
でも
ナルシシズムというものに
私たちがしばしばはまり込むのは
自分のニードルが
満たされないという思いに
苛まれた時なのであって
ということは
結局
自分のも人のも
ないと思うんですね
自分のでも
人のでもニードルを満たせば
いいんですよ
ニードルを満たそうとしないということを
言う権利は
ある意味ないと思うんです
だって自分のニードルは
絶対満たしてくれないと困るわけですからね
生まれた時からそうだった
生きてるってことは
ニードルを自分は満たさずに
済ませられるんだという権利は
そして結局
人は自分のニードルは
アンリアルな世界を作り出してでも
満たそうとするわけですよ
愛されたいという願いは
たとえバーチャルな
擬似的な現実を作り出してでも
満たそうとする
一歩間違うと
電車の中に火をつけてでも
満たそうとする
これほど満たそうとしている
ニードルを満たさないという
権利をですね
たとえ人に対してでも
自分に与えてしまうということが
アウトだと思うんですね
僕の多分本で一番受け入れられてないのは
ここですが
グッドバイブスでもそういう感じってありますが
攻撃しないということや
攻撃するということはつまり
自分のニードルは満たすが
人のニードルは否定するってことなんですよ
上司の怒ったってのは
そういうことになります
非常に怖い思いをしたと
4千と書くべき
4千万と書くべきところを
4億って書いちゃったみたいな話
例えばすると
上司はめちゃくちゃ驚しくなる
ニードルが発生します
自分は愛されたいという願いを持って
生きていると
真っ向からそれが否定されるわけですよ
部下のくだらないミスによって
その部下について大して
部下を猛烈に怒るということは
攻撃するということは
自分のニードルを
何としても満たさなきゃいけないという
切実な思いをぶつけているわけだけれども
その時相手のニードルは
真っ向から否定される
これはOKだってことになってるんですよ
この権利を自分に与えてしまうと
人のニードルに
それを否定するという
権利を与えてしまうということは
36:00
必ずその力を
自分は保持することができて
しまうじゃないですか
ニードルは否定していいものだと
ニードルは許されないというタイミングがあって
いいんだと
そうするから
自分自身のニードルを
現実では否定するという力を
与えてしまうんですよ
こうして人は現実を
否定して
現実の自分を否定して
完全なナルシズムみたいな
世界に入っていくわけです
自分が自分でなくなるわけですよね
この力ってのは
多分人のニードルを否定した時に
作られたものだと思うんですね
その人の中に
だから人を甘えさせていては
つけやがるってこの言葉は
もうなんか決まり文句みたいに出てきてるんですけれども
ダメだと思うんですよ
そういうことを言っては
これを言ってしまうと
自分のニードルを否定するっていう日が
多分近々にやってきちゃうと思うんですね
私が最近ずっと楽に
生きられるようになったっていうのは
人のか自分のかは関係ないんで
大体人と自分の領域というのは
オーバーラップしてますからね
私たちは
かなり西洋流に生きるようになってから
自分と人というのがはっきり分かれるという
大きなイリュージョンを
持つようになったんですけど
多分そんな瞬間は一瞬も来たことがないです
自分と人というのは
どこか必ずオーバーラップしている
はずなので
人のニードルを否定するという時には
いくらか必ず自分のニードルも
一緒に否定してるんですね
自分の甘えだって許されない
許されないと思っているじゃないですか
多くの人はなぜならば
人の甘えを許さなかったから
法律みたいなものであって
この種のことって超自我的なものといっても
いいですけれども
ある種の法則を自分の中で
作り出すと必ず自分にも
それが降りかかってくるわけですよね
人のニードも
自分のニードも他人のニードも
自分のニードもなくてニードを否定する
ということがいいことだということになると
きんきん必ず
必ず自分のニードが真っ向から否定される日が
来ちゃうんですよね
自分によって
それが一番ひどい時が
自分自身が否定される時だと思うんです
さっきも言った構造で
誰も他人の
リアルを
本当の意味で傷つけたり
拒否したり否定はしてないんですよ
必ず自分が
自分で自分の
リアルを否定する
これしかできない
まして自分自身という
現実の自分自身つまり
自分の今ここを否定するということは
自分以外には誰もできない
自分の今ここって
自分にしかないんですから
この自分の今ここを両方とも
まとめてバサッとやってしまったら
死んじゃいますよね
自分の今ここが否定される
ということは
自分の置きどころはどこにもなくなるんで
オアンリアルにでも行くしかないわけですよね
そして別人になってしまって
別世界に行ってしまう
おそらくそうするとですね
39:03
現実から否定されるんですよ
本当は僕はこれをやるべきではない
と思っているんですけれども
そうは世論が許しませんよね
現実から否定されますよね
隔離は少なくともされるんですよ
そして
その事件が
理解に苦しむものであればいい
これが冒頭で言った
理解に苦しむという風にみんなが思うから
精神分析というのはもっと
人口に感謝しなきゃいけないと思うんだけれども
グッドバイブスでもいいんですけれども
実際そうなってないから
あれが何度も何度も何度も
テレビで報道されるわけですね
そうすると
久しぶりに行動経済学の
言葉ですが
利用可能性ヒューリスティックというものがあって
人が何度も見たものは
記憶の中に定着し
それを何度も思い出すことが
要因になるわけです
思い出しやすいことは起こりやすいことだと
みなさんも思います
それは昔はそうだったから当然なんですよ
思い出しやすいということは
しょっちゅうあるってことなんで
しょっちゅうあるから思い出しやすいわけですよね
でも今テレビがあるので
同じ画像を繰り返し繰り返し
見せることができるので
思い出しやすいけどそれがしょっちゅうあるかどうか
大いに疑わしい
でもそれはしょっちゅうあると思っちゃうわけですよね
今は誰が
隣に乗ってるか分かったものじゃないから
怖い時代だっていう
よく分からないことになってしまうんですよ
昔から隣に誰が乗ってたかなんて
分かった試しはないわけなんだけれども
なんか今だけ突然そうなったような
感じがしちゃうんですよね
そして
ごくごく稀にしか起きない
そのようなことは人生で
多分一度も遭遇したことのないこと
なのに
頻繁に起こることのように
思えてくると
一つのイリュージョンであり
つまりバーチャルなんですよ
私たちは好んでですね
バーチャルな世界に逃げ込むんですね
何のために逃げ込むのかというと
現実によって
傷つけられるからなんだと思うんですね
非現実の世界に行くんですよ
この非現実の世界を
みんなで共有していれば
安心だっていうすごい不思議な
感覚があるんですね
多分現実を傷つける
悪いところから
隔離された現実だという
思いを抱くためなんだと思うんですね
もちろん怖いもの見たさ
っていうのもあると思うんですけど
多分大して意味は違わないような
気がします
こういうことが起きるたびに
何かやることになるんですよ
荷物検査とかね
何かやることになるんですよ
こうして
私たちは何か不思議なことにですね
アンリアルな
イリュージョンによって
新しいリアルというものが
作り直されてしまうんです
その前の現実は
本当にそんなにまずかったのか
ということは度外視されていくんですよね
0コンマ
0何パーセントぐらいしか
ないような出来事が
42:01
7パーセントぐらいの確率で
起こるような気になってくる
甘えている人を
つけあがらせると
場合によってはこういうことになる
という甘えを自分に許しちゃうんですね
で、そうでありながら
誰のニードも全然満たされない
わけですよ
ニードは
普通に安心して愛されて
生きていたいということを
願いたいということなんです
願いたいということなんですよ
愛されているというところとか
安心してというところが
実現されなくてもいいんですよ
生まれてきた時は
そうだったはずなんですよね
願ったんですよきっと
で、この願いは無視されているじゃないですか
一見
安全な現実が作り出されているように
見えるんですけれども
みんなの荷物が検査されるということは
そうじゃないということですよね
あの画像を何度も見せつけられるというのは
やっぱりそうじゃないということなんですよ
結局この願いは
ニードが多くの部分で無視されて
甘えは許されないという
ぼやーっとしたメッセージが
みんなの上に降り注いでくる
わけですよね
そして人のニードを満たすことも
自分のニードを満たすことも
なんとなく悪いことのような感じに
感じだけが残って
また少し進んでいく
ということになっちゃうわけです
これを何とかするためには
人のニードも
自分のニードも
無いはずなんですよね
三つあるんですよ
他人のニードを否定しないということ
つまりそれは現実を否定しない
ということだと思うんですけどね
自分のニードを否定しないということです
これを否定してしまったら
もう今ここ共に否定する
ということになってしまうので
たまにVRを見るのがいけないとか
スマホを見るのがいけないという話ではないんですよ
これはキュラゾノさんが
前のセミナーでおっしゃった通り
行動規範ではないですからね
大事なのは
甘えを否定しないということなので
仮に否定することが
あったとしても
その後で取り戻せばいい
という話なのでいつでもできるんですよ
人のニード
自分のニードを満たすという方向に
目を向けるということはいつでもできるんですよ
これをやったら
自分がつけあがるとか
そういう風に考えて
甘えを根こそに否定しにかかる
ということさえしなければ
ああいったことにはならないと思うんですよね
だから私は距離があったと思うんです
何十段階も距離があったと思うんですよ
間に
セッションしてくれる人が
グッドファイブズじゃなくてもいいんですよ
セッションしてくれる人が
なぜセッションがいいかというと
秘密にできるからなんです
これは昨日もお話ししましたが
集団で話を聞いている中では
出せないんですよ
本当に重要な人に
秘密にしておきたい甘えは
スタビレーションを見られちゃいけないという話なんですよ
究極的には
でもセッションなら
できるんですよ
45:01
全く力がないとダメですけれども
いろんな程度の訓練を積んでいたり
何らかの形を持っているものならば
多分できるんですよね
話聞けばいいわけです
外では出せないような話を
でもその人が外で
出せないと思っているだけですよ
多くの場合は上司に怒られて傷がつきました
って言っているはずなんですよ
それから
そう逸脱していないと思うんですね
この話を何遍も何遍も
聞いてくれる人が
例えばお金を取ったとしても
そこに行って話すという気になるということが
できたならば
多分あれは起こらないと思うんですね
僕はどっちがいいかというと
絶対話を聞く方が
いいと思うんですよね
このような話をずっと聞いてやって
自分の時間がもったいなくて
甘やかしていると
つけあがって
ろくな大人にならないということに比べても
それが全部本当だとしても
あの事件よりは
マシだと思うんですよ
と他の人が思わないとは
僕は思わないんですけどね
これは僕の甘えなんですけれども
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