1. シュウとショウの未知の理への道のり
  2. 主語が大きく断定的への違和感..
2024-05-28 22:35

主語が大きく断定的への違和感~ホントは感想しかない?

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しょーまさんの近況的な話が終わり、シュウのターンに

前々から思っていた、抽象的な話の時に主語が大きくなって

物事を断定的に話す流れが多いと感じて気になっていて…


収録日:4月16日


#樋口塾

#シュウとショウの未知の理への道のり

#未知のり


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サマリー

シュウとショウは、主語が大きくなって断定することに対する違和感について話しています。彼らはメタ認知や感想について議論しています。主語が大きく断定的への違和感~本当は感想しかないのでしょうか?

主語が大きくなるという違和感
シュウとショウの未知の理への道のり
この番組は無事通り、シュウとショウの気が向いた時に
適当に好きなことを話しながら、まだ知らないことはあり
つまり、未知の理を探していく道のりを描く番組です。
下手をしたら、二人の無地不利を探すだけの気のままな旅
ゆるくお付き合いいただけたら嬉しいです。
前回からの続き
今ので大丈夫であればという感じですけど
音響とかに関してはそんな感じですかね
そうですね、僕も相変わらずメモしといて
自分でも何が言いたいかよくわからないようなのがちょいちょいあったりして
さっきのアウトプットがさっきの社会のアイディア出し的なのを
バンバンやっていくっていうのも全然いいんですけど
なんかどっからでもそれに絡みそうだなとかいうのも思ってたりして
最近…最近というか前々から結構思ってるんですけど
なんか
抽象的なお話をするときに
なんかこう主語が大きくなって
なんか大きいことこうだよねみたいに断定することに対する違和感みたいなのを
ちょいちょい僕感じて引っかかるんですけど
主語が大きくなるというと
例えば普通はとかそんな感じですか
まあまあ普通もそうですし
ちょっと具体例があんまりあれですけど
まあ人間はとか
主語は何でもいいんですけど
これはこうだみたいな言い方に
なんかまだまだなんかなりがちで
それがすごく耳につくなーって僕は思っていて
なんかここでいっぱいいろんなこと話してきたみたいに
メタ認知と感想の関係
まあ全部程度問題だったりバランスだったりとか
陰があれば陽があって光があって影があるみたいな
相対的なもんでしかないみたいな感覚を僕が持っているから
そう感じるんだと思うんですけど
なんか自分のエピソードを話すっていうのは
なんかありだなって思うんですよ
だからこれ本当うまく言えないんですけど
なんかこれこれこういうことがありましたっていう
過去形で話をするのは
OKというかなんか基本的に
本当はそういう話しかできないんじゃないかなみたいな感覚があって
やっぱ具体例をなんか持ってこないとダメですね
言わんとしていることはわかりますけど
その具体例があった方が伝わりやすい
じゃあちょっと最近聞いたポッドキャストの中で
ちょいちょいあちこちで聞くんですけど
メタ認知もよしよしだよねみたいな話を聞いたりするんですよね
とか逆にメタ認知をしない方がいいっていう話にもあったり
そういう面があるっていう表現だったらまだいいんですけど
それって本人の話してる背景には
自分の体験談が何かしらある
もしくは自分が体験してないけど人から聞いた話を元に
そういう考えを言ってるっていう感じがするんですけど
それにはいろいろと主語とか前提が抜けがちで
主語も大きくなりがちだな
僕も主語大きくなりがちだから全然人のこと言えないんですけど
そのなんていうのかな
見てる視点が
俯瞰することによって視点が高くなるっていうのとは
なんか別で主語が大きくなりがちっていう気がしてるんですよ
全然うまく言えない感じ
主語の大きさと社会の影響
ピントきてないですね
ピントきてないですよね
逆にメタ認知すべきだよね
それこそべきって入ってるから引っかかれると思うんですけど
メタ認知した方がいいもん一緒ですよね
一緒ですよね
それはよしよしだよねと同等に気になるって感じですよね
そうですね
だから体験談まで行くとあれだけど
その近況的なスパンの短い話だけに聞こえるかもしれないけど
僕で言えば自分がビビリであることが原因で
その対策としてメタ認知が有効って感じることが多い
みたいなことを僕は普段言ってるつもりなんですよね
主の話すラジオとかで
ここでも言ったりしますけど
それはあくまで僕という視点の源みたいなのがあって
そこから見た景色だったりそこから感じることとして
個人の範囲が広くなりがちなんですけど
自分と自分の周りの人たちがうまくやっていくために
メタ認知を挟むことが有効になる場合が多いなみたいに
そういう話をすることが多いんですけど
自分にとってはだったり
そういう主語がない話を耳にしがちだなって思うんですよね
ふわっと人間が
それこそこういうこと自体があるかもしれないですけど
僕は今の話を聞いて
あくまで僕の主観として
人間を何かしらをカテゴライズしたりだとか
説明したがるものかなっていう風な印象を持ってて
そういうところから説明的、断定的に聞こえるような話し方
この社会自身が
意見というのかな
理に何かしらの理屈に基づいた意見みたいなものを
漫然と求められているような感じを受けるから
そういうことになりがちなのかなっていう風に
ちょっとなんか思ったんですけど
今の話を聞いて
イメージ的にしゅうさんがおっしゃりたいのが
あの人、誰だ
ひろゆきさん
ひろゆきさんの言葉で
それってあなたの感想ですよねみたいなのあるじゃないですか
あるらしいですね、あまりちゃんと文脈知ってないんですけど
しゅうさん的には全てが感想だよねっていうことを
言いたいんかなと思ってて
感想
感想っても主体が思ったことじゃないですか
その事実とかそういうのを踏まえた上で
全ての事柄ってそれでしかないのかなっていう風な
理屈、そういう理屈があってその事実から自分がこう思うとか
それでしかないから何かしらそこを客観的な理屈に基づいてだとか
統計的にこうだとかで何か説明的にする必要性がないけど
社会的に見えない圧力じゃないけど
そういう雰囲気があることによって主語が大きくなった形で
自分の感想じゃなくて何か説明しようとしちゃうみたいな
そんな感じのことを言いたいのかなっていう風に感じたっていうところですね
ちょっと何かずれてますかね
いやいやずれてるか分からなくてちゃんと理解できてるか分からないんですけど
その理由は僕は逆に分かってなかったんですよ
何でみんなが主語が大きくなるか
それも僕が分かってるってわけじゃなくて僕がそうなのかなっていう風に思ってるだけなんですけど
そうなのかなが昇馬さんがおっしゃったのが分かったような分かんないようなっていう感じかもしれないです
僕今のところはまだ
でも何か分かんないけどそういう主語が大きくなりがちで
それは気持ち悪いというか僕からしたらやっぱりビビリが発動してるんだろうなって思って
どっかそれは危険だなって思ってるんだと思うんですよね
その意味で言うとちょっとひろゆきさんがその発言だけが使われるじゃないですか
それってあなたの感想ですよねっていう
文脈知らないからあんまり安易に僕は言いづらいんですけど
ただその言葉から推測する文脈で言うと
確かに途中で昇馬さんがおっしゃってくださったみたいに
基本的にはあんま感想しかないんだよなって思ってるっていう気分で今日も喋ってるところはありますね
このお題を
あんまり詳しく知らなくて僕その文脈しか知らないぐらいなので
文脈がその言葉なので
しゅうさん同様あんまりそれに関して研究はできないんですけど
おそらく何かしらのコメンテーターとかの
コメントに対して日に来る感じの時に出る言葉だとして
そういう言葉があるけども
そのフレーズだけ聞いとった時に
実際はそれこそ感想でしかない
違和感の理解
全てのことが本当は感想でしかないというか感想でいい
そこが逆に
そこが僕は完全に使われる文脈分かってないからあれですけど
おそらく想像するにそこでだから感想
ダメだよね議論にならないよねみたいな
印象を受けるんですけど
そういう言葉自身がバズってること自体もだし
そういう風に言われる
世の中みたいなので言うと
ただ感想言うだけじゃダメなんだっていう
暗黙の雰囲気が生まれているようで
だからこそ自分の感想みたいな感じ
事実に基づいた自分が思うことじゃなくて
何かしらパブリックに説得力のある意見を
言わないといけない議論しないといけないみたいな
雰囲気があるがゆえに
主語が大きくなりがちなバイアスがかかるんじゃないかなっていう風に思ったって感じですかね
しょうまさんほど具体的には多分思えてないんでしょうけど
ふわっと不安があるっていう感じなんで
でもそんな感じだと思いますね
本当に感想じゃない
何に対してひろゆきさんは言われたんでしょうね
パブリックにみたいな表現がしょうまさん途中で使っていただいたんですけど
パブリックに出すことっていうほど本当は
これってこうだよねって言えることなんて
あんまりない気がしてる
そうなんでしゅうさんがそういう風に思われてるんだろうなっていうのがあったので
その時にリンクしたフレーズがそうだったんですね
それはそういう意味で使われたわけじゃないんですけど
とは思うんですけど
その言葉に絡めて言うなら
しゅうさんの言いたいことは
それって感想ですよねじゃなくて
別に感想でいいし感想でしかないことのことが
みたいな話なのかなと思ったんで
ワードを出したっていうだけなんですけど
哲学的な問いに対する違和感
そんな感じだと思います
なんか今喋りながら聞きながら思ったのが
そう僕が思うってことは
哲学的な問いってあるじゃないですか
愛とはとか
それが全部
もしかしたら違和感なのかもしんない
それを楽しみの意味で
ゲーム的に哲学的な問いを
一人なり複数人で楽しむ分には
いいのかなと思ったんですけど
なんかそれって答えがないからずっと
突き詰め続けるみたいなのがありますよね
それってそもそもゲームなんじゃなかろうかとか
今思い始めました
そう思いますよ
遊びですよね
楽しいからやるんだと思いますし
何が楽しいんでしょうね
これだって思ったときの納得感みたいなのが
周りもそうかもしれないみたいに
奨励されたときが
報酬系が働くんですかね
僕もそう言いながら
ついついそうなってるときもあるし
ある意味この番組って
哲学的な番組っていう気もしないでもない
どの口が言うとんねんって言われても
しゃーないなとか思いながら今言ってたんですけど
言わんとしたいことはなんとなくあります
哲学の問いとかが
何かしら
答えを求めちゃう
本当は答えが見つかるはずないけど
これが答えだっぽい発言に聞こえると
だから違和感が出る
出ますね
かなり前から気になってはいて
今日も全然うまく言語化できなかったというか
うまくしゃべり始められなかったんですけど
前も切り出し方が分からなくて出せなかった
けど結構前から気になってたんですよね
それをいつか言いたいなみたいな
言いたいというか表現したいなみたいな
そうですね
自分の今の生き方がすごい変わってるから
いろいろツッコミどころ満載な暮らしをしてて
ちょっと他の番組とかでも言ったんですけど
ある意味
他の一般的な暮らしの方に比べると
ちょっと危険味の強い暮らしだと思うんですね僕
秋水を汲みに行ってそれを2ヶ月間飲んでて
っていうそのペースだったりとか
すぐ隣の田んぼにイノシシが出るとか
それで
なんか
そこにスポットがめちゃくちゃ当たる
当たりがちなんですよね
まあまあそういうことを僕が言うからだと言われたらそれまでなんですけど
それが危険であるかどうかにスポットが当たって
そこが議論の的みたいになっちゃうんですよね
でも僕ちょっとこれもまた今もうまく言えてる気がしないんですけど
さっきの哲学的な問いに対してもそうだし
討論とか議論とかディベート
っていうものにそもそもちょっと違和感があって
それには全部その感想しか本来は
言えないはずなんだけどなっていう気分が僕いつもあって
今僕じゃなくて一般的な生活をしている人から見たら
僕の暮らしが危険に見える
次回へ続く
22:35

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