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2019-10-27 1:04:42

2019/10/27:神に祝福された人生の法則21(15)赦しの法則

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2019/10/27 聖日礼拝

尹善鎬牧師

マタイの福音書 -35

00:00
改めて皆さん、おはようございます。
皆さんに祈っていただいて、先週の土曜日、これから日曜日の東京の玉川キリスト教会、この前の台風で玉川がニュースによく出ましたけれども、
教会の場所は川から離れていましたので、何の支障も悲哀もありませんでした。
本当に皆さんに祈られて支えられて、私のような本当に取るに足らない者、何者でもない者が、しかも、パフェスト教団の教会で放射させていただきました。
一言で言うならば、その教会は本当に素晴らしい教会でした。
群れは、礼拝は40、45人ぐらい集まる群れですけれども、多くの方々が集まって、この集会のために40日、日曜日除いて毎晩4時半から連鎖祈祷会が開かれて、
その時にしかも聖霊のメッセージを先生がするんじゃなくて、神父さんが講題でメッセージをつけて、祈る素晴らしい教会で、本当に精霊に至されていて、子供から大人までですね、
85、86歳の方々もおられましたけれども、90歳の方、おばあちゃんもおられました。
小学校、5年生、6年生の女の子は、競技場にさっきも出ましたけれども、礼拝の土曜日も日曜日もすぐ私の後ろに座ってですね、賛美もすごく賛美していて、
詩の祈りも、人心経もですね、ちゃんと唱えていて、私のメッセージもですね、40分、50分のメッセージでしたけれども、大人しく座ってちゃんと最後までいてですね、しっかりした女の子でしたね。
また青年もよくいてですね、いろいろ全部言うと時間が結構かかりますけれども、不思議な縁というかつながりがあったんですね。
その教会は福岡に同じ教団の福岡神聖教会という教会でありますが、私が福岡にいる時代にいろいろ交わりさせてもらった教会ですが、その教会ともほぼ姉妹教会みたいな教会であって、
その福岡の教会が武田先生、広志先生ですが、その先生の長女さんが今回その教会で会いましたけれども、またその姉妹が清香さんという姉妹ですけど、
三原姉妹の亜佑美ちゃんがアメリカで留学したときに、同じ教会でバンドっていた姉妹であるということとか、その教会には今、多摩教会には西洋の教会の女性伝法師先生の息子さんが音楽の勉強で、
03:10
そこにいて今、留学中の男の子もいたりですね。いろんなつながりがあって。もうすでに、またその主任博士は女性の先生で、末森桜子という女性の先生ですけれども、
5年前、来週から私が行かせていただく、西洋の教会の日本牧会社シンプルセミナーのときにお会いしたんですね。
もう命令も交換したり、何かあったらお呼びいただけたら光栄です。そういうふうにお交わりさせていただきましたが、その後から私は知らなかったんですけど、
この妙谷教会の私の説教をですね、よく聞いておられて、また他の方もよく聞いておられて、すでに私は全然知らないけれど、私のことをよく知られているような教会であって。
しかも私たちの教会はこのメッセージの前に挨拶するでしょう。この教会の先生も何か交わらせたらいいのかなと思ったところ、
ユン先生を真似て、パクッて挨拶をつけますみたいな話もしたり、本当に離れていて全然何も知らないまま行かせていただきましたけれども、
本当に御像も御代もよく祈って精霊に満たされている素晴らしい教会でした。
秋特別聖書講演会で、いわゆる特別伝道集会でしたけれども、明確な求道者の決心はなかったんですが、でも神様は無駄にはされないんですよね。
神道さんへの、神道向けのメッセージだけではありませんが、不思議に神道一人一人、また日曜日はメッセージなどに再検診のお招きもしたときに、
多くの神道さんがみんな検診しますというふうな、悔い改めと決心をする、起立していただいて、そういう素晴らしいところがありました。
日曜日のお昼のときには、いろいろな交わりとお分かしをしていただいたときに、本当に一人一人恵まれて、隣の求道者もおられましたけれども、
その方々もこれから主が必ず救いに導いてくださると信じております。
その後は日曜日の夕方と月曜日は、皆さんに祈っていただいて、あるいは検診をしていただいて、東京で一人は川崎市、一人は新宿のあたり、
一人は小平市という教会で、私のように日本の教会で勃起している先生たちといろいろ交わりをしながら、
大変いろいろある先生は20年、ある先生は25年ぐらいいて、大変苦労の中で乱発で勃起しているんですけれども、
06:05
そういう交わりも皆さんの祈りと近畿によってできました。本当にありがとうございます。
では、いつの間にも周りの方と合言葉をしましょうか。
子どものお話をしますので、子どもをちょっと呼んでくださいますか。
一言お祈りします。
あなた方もそれぞれ心から兄弟を許さないなら、天皇私の父もあなた方にこのようになさるのです。
神様感謝します。神様に無限の許しをいただいている私たちとして、
私たちも主を愛し、兄弟姉妹を愛し、許し、受け入れ、愛するまで、
われわれがイエス様の神聖に見たまの身のような神聖人格行いを持つ者として、
われわれを知り、主よ、作り上げてくださいますよ。新しく生きてくださいますようにお願いをいたします。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
では今日は、久しぶりというか子どもたちがいるので、
見てね、ノア君、トワ君、師匠も前のほうをご覧ください。
ストーリーは同じストーリーですので、皆さんも聞いていただいたら助かるかなと思います。
ある日、ペケロがイエス様にこう聞きました。
イエス様、なんか私に悪いことしたいと、何回まで許したらいいんですか?
7回ぐらい許したらすごいでしょ、みたいにね、イエス様に聞いた。
そしたら、イエス様が言いで、私は7回とは言わない。
7回を70倍許してあげなさい。
7回を70倍したら、全部何回なの?
490回。
この話は、490回まで許して、491回からは許さなくていいんですよ、話に。
ではないよね。
これは、もう完全に許してあげなさいね、ということ。
そう、今許す話をしていたから、許さない。
09:01
さあ、それでイエス様はこんな話をしました。
ある王様がいました。
その王様にお金を借りた人がいたんですね。
その人は、一万タラントというお金を借りました。
一万タラントがどれぐらいなのか、後からお話をします。
この人はこれを返すことができない。
それで王様は、もう時間をもらえませんか。
そしたら、ちゃんと返しますので、どうかもう許してください。
時間を下さい、みたいにお願いをしたんですよ。
そしたら、王様が、もうこの人はかわいそうなので、
そしたら、もうお前の私への借金は、借りたお金は全部ゼロにしよう。
もう無いことにしよう。あなたはもう自由だ。
そしたらこの人は、やったー!やっほー!
それでね、その王様から去って町に出たのよ。
そしたら、さっき一万タラント、すごく多くのお金の借金借りを免除してもらったこの人に、
たった百でなり、百でなりがどれぐらいか後でしますね。
本当に少ないんですよ。一万タラントに比べたらね。
そのお金を借りた仲間に会ったのよ。
お前、この前俺に百でなり借りただろ。返せ!お金返せ!
いや、今お金が無いから後で返すから。
いや、もう嫌だ。今そこで返しなさい。
お金が無いのよ。もう時間をくれない。
としたらね、この一万タラントを免除したこの右の悪いやつが、
そしたらお前もね、どうやらね、監獄に入れてしまった。
そしたら、この噂を聞いたある人が、さっきの免除してくれた王様に、
王様、実はあなたに一万タラントとそういう相当なお金を免除してもらった人が、
自分にたった百でなりの借りをしたものをもう土屋に投げ入れてしまったんです、と話をした。
そしたら王様は怒ってね、あの一万タラントを免除してもらった人をもう連れて来なさいと。
それで連れられて王様に来ました。
王様は言いました。
お前は私がお前のあの一万でなりという相当なお金を免除して、ゼロにして許してあげたのに、
あなたはなんでそんな小さなものの人を許すことができないのか。
それでこのものもね、牢獄に投げ入れられた。
さあ、この時に一万タラントと借りながらどれくらいなのかがピンと来ないので、
12:05
ここに表で作ってみました。
一でなりは、一日の休業が入った話。一日の休業。
一日バイトしてお金をもらうから。
今風にしたら、一時間千円にしましょう。一日八時間働くとしたら、八千円くらいかもしれない。
今風にしたらいいですよ。
さあ、百でなりは、百日分の休業だ。
ところが一タラントは、六千日分の休業だ。
つまりそれは十六年間。
でもこの人が免除してもらったお金は一万タラントと言ったよね。
一万タラントは、だから十六万円間の給料になるわけです。
お金をするとしたら、大体百でなりは八十万円くらいかもしれない。
一万タラントは四千八百億万円くらい。
相当なお金を免除してもらった人が、たった小さなお金を許すことができなかった。
その時にイエス様はこういう話をしました。
私があなたを許したように、あなたも人のすべてを許しなさい。
もしあなたが人のことを許さないと、私もあなたを許します。
許しはイエス様の愛のことです。
その人を許す、人を受け入れること、人を愛することがイエス様の教えです。
兄弟喧嘩しますか?友達と喧嘩しますか?ずっと憎んでいるんですか?
あの子は嫌だ。お母さんは嫌だ。お父さんは嫌だ。先生は嫌だ。
それで心の中にうーんとしていますか?しています。
いませんか?していなかったら嬉しいんだけど、
イエス様のお話はどんな人も許して、受け入れて、愛する。
それは私たちはイエス様に許されているから。
さあ、子供の話はここまでしたいと思います。
このストーリーは皆さんも覚えておいていただけたらと思います。
さあ、今日もこのシリーズのメッセージに戻りましたけれども、
神に祝福される人生の法則21の15回目。だいぶ来ていますね。本当に感謝いたします。
15:00
今日はタイトルにありますように許しの法則ということで、
このように一つ一つこの信仰の法則、御言葉の法則を知っていただいて、
信じていただいて、また実践していくときに、我々の人生が神に祝福されると信じます。
最近、私は信仰とは一体何なのか、神様を信じることとは一体どういうものなのか、
イエス・キリストを救い主として信じて、信仰生活、教会生活をすることは一体どういうものなのか、
改めて深く考えさせられているところであります。
今日はその点について一緒に考えていこうではないでしょうか。
キリスト教信仰、この信仰というものはただ一つの宗教なのか、
あるいは日曜日になったら教会に行って牧師のお話を聞くことなのか、
あるいは亡くなって地獄には行きたくないから、とりあえず救われていようということなのか、
神様を信じること、イエス様を救い主として受け入れてその方に従っていくということを、
いろいろな言葉で表現できるかと思いますが、私は今朝こういうふうにお話をしたいと思います。
それは、肉の願いを打ち砕いて御霊の願いに従って生きること。
肉の思い、肉の欲を打ち砕いて御霊の思い、御霊の願いに従って生きること。
これが神様を信じること、信仰生活でありイエス・キリストを救い主として受け入れて生きること。
その御霊の精霊様の思い、願いに従うこと、実際的に具体的にいろいろあると思いますが、
その中の一つが今日のテーマであるゆるきということです。
皆さん、私たち人間は本質的に、本能的に救われましたけれども、罪許されましたけれども、
18:08
罪の性質を持っている本能が、本質が我々にある。
だから、許すより憎みやすいんです。
恨んだり呟いたり掛け口をしたり、あるいは無関心になりやすいんです。
愛することより許すことより受け入れることより、そっちの方がある意味で本能的なんです。
隠れていてわかりませんが、多くの匿名の統計アンケートに、少なくないクリチャンの結婚者の中で別居している夫婦が意外と多い。
あるいは親を恨んでいる子供、子供を恨んでいる親、信者でありながらですよ。
あるいは信者でありながら、にもかかわらず誰かを許さなくて、受け入れなくて、祝福されないままの教会生活をしている信者、あるいは仏会者が少なくないということ。
もしかしたら皆さんの中にはそういう方がおられるかもしれない。
皆さん、信仰生活をする時につらいかもしれませんが、私たちは本当に自分自身の罪あるこの本性を直視しなければならないんです。
自分の罪あるその本性に直視して向き合う時に、自分の実体をもう関ならに裸にされて、わかって、そしてそこで悔い改めて、そこでイエス・キリストの真性を見上げるようになる。
そして、肉の思いに肉の欲に従って生きるんじゃなくて、御霊の思い御霊の願いに従う生き方をするようになる。
イギリスの作家で、キリスト教勉強家で有名なヒエス・ルイスという先生がいますが、許しについてこういう話をします。
クリシャンであるとは、許しがたい人々を許すことである。神があなた方の中にある許しがたいものを許してくださったからである。
21:19
もう一人、スイスのクリシャンの心理学者であり、お医者さんだったフォール・ツルニエ博士は、後からもう一つお話しますけれども、
心配や思い患いを解決する最も有効な方法を挙げていますが、その中の一つが、心の苦い水、すなわち憎しみをなくすことであると言いました。
この生徒の話をもう一度、大人向けで話していきましょう。
ペテロはね、イエス様に、イエス様、何回許したらいいんですか?7回ぐらい許したらもう十分でしょう。
ペテロはね、わかりませんが、イエス様に、よくも考えたな、ペテロさん、すごいねと褒められたかったかもしれない。
でもイエス様は、7度までなどとは私は言いません。7度、70倍するまでと。
聖書に特に、もう全部ではありませんが、ほとんどの場合、7という数字は完全を意味しますね、完全性。
だから、7度を70倍するから、それほど完全にもね、許してあげなさい。
皆さん、完全に許すということはどういうことなんでしょう?
それは、神様がこう言ってくださったように、人の過ちや罪、あるいは自分に嫌なこと、気に入らないこと、
そういった全てをなくして、無いものにして、そしてそもそも全てを喜んで、受け入れて、愛することなんです。
そこまでいくことが許しなんです。なぜでしょうか?イエス様がそういうふうにしてくださったからなんです。
とてもシンプルに、まず結論から申し上げます。
誰かに対する憎しみ、妬み、粗悩み、躊躇、恨み、つぶやき、駆け口を、もし私たちがしたことがあるならば、たぶんあったと思うんですね。
24:00
私はいつでもそんなことをしたことがないという方おられますか。手を挙げてみてください。いらっしゃらないでしょう。
ところが、もし私たちが誰かの駆け口をしている、見えないところで、つぶやきをしている、誰かを恨んでいる、憎しんでいる、あるいは上の目線でまたにしている、
にもかかわらずそれを適当にうやむや時間の流れで流されていて、それに対して神様の前に真剣に徹底的に悔い改めていないならば、私たちは人を許さない一万タラントを免除してもらったものと同じであるということです。
そして、私たちが誰かを許さないままいるならば、憎しみ、妬み、つぶやき、駆け口をしているにもかかわらず悔い改めていないならば、その人は今日の三十五節の御言葉から申しますと、家様に許されません。
家様に許されないならば、救われないことになるかもしれない。
皆さん、許しというものは、私たちにとても素晴らしい祝福と精霊十万とリバイバルをもたらしてくれる素晴らしい恵みのことです。
しかし、許さないまま、妬んで憎しんでしているならば、病や呪いはもたらされるよ。なぜでしょうか?
家様が、神様が、私たちをそういうふうにしてくださったから、罪をないものにしてくださった。息子を娘に受け入れてくださった。永遠に愛してくださったから。
これが信仰生活であり、これが家様についていくことであり、これが恵まれた迎拝する人が歩むべき道なのです。
たたきは、許して正しく知って、そして、頭で知るだけではなく、それを徹底的に実践しなければならない。
その時に、病気が癒され、人間関係が軽くされ、祝福され、支援性が低くされ、その境界が…。
それは聖書の教えなんです。そうでないと、私たちの体も心も、病気や呪いから、祝福されないところから、もう抜け出ることができない。家族は救われない。
27:15
このように、許しというものは、信仰において本当に大事なことなんです。
1万トランというものは、16万年働いて、1円も使わないで、それを貯めないと返すことができない、お金の金額のあれじゃなくて、それはもう無限の言葉を許し上げた。
面倒してもらったんですね。誰がですか?私が、皆さんが、あなたがなんです。
今日の御言葉、よく皆さんご覧ください。今日の御言葉は、1万トランと狩りをした者に、その王様は27節、27節、もう一度一緒に読みましょうか。
しんちゃん、前出してください。27節。不思議ですね。同じ牧師が世挙していても、向こうの教会は誰も寝る人、眠りする人は一人もいないんだけどね。
27節、一緒に読みますよ。
しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を許し借金を免除してやった。
かわいそうに思って、彼を許したんです。そして借金を免除してやったんです。
もう返すことのできない、とんでもない専門学的な、そういった狩りを許して、免除してもらった。ゼロになった。
そのしもべは、十の実になったわけです。これが完全な許しなんです。
だからこの一万たらんと狩りをした者は、もうこれ以上この王に囚われて縛られていないんです。この借金というものに縛られていないんです。
十の実にされたわけなんです。
ここに許しのとても大事な意味が出てくるんです。
許しというものは、もし私たちが誰かを憎んでいる、受け入れていない、妬んでいる、恨んでいる、つぶやいて駆け口をしているならば、
自分がやっているそれらの呪いの鎖に縛られているということなんです。
しかし誰かを許して、受け入れて愛するということは、それらの呪いの束縛に鎖から解き放たれて自由にされることなんです。
30:09
皆さん、今まであるいは今、誰かを恨んでいますか?憎んでいますか?誰に対して駆け口をしていますか?
誰かを許さなかった時があったんですか?その時どうですか?
自分の心が、魂が天国みたいに晴れるや、喜びに満ち溢れているのでしょうか?
自分の生活、身体、健康、魂、人間関係、恋愛、神との関係がすべて、憎しみとか恨みとか、そういった呪いの鎖にぐるぐる縛られて縛られて、
サダンの奴隷のままになるはずの奴隷になっているままなんです。許さないと。
しかし誰かを許して、本当に受け入れて愛する、あるいは和解をするならば、その人はその呪いから、その鎖から自由にされるんです。
心だけではありませんよ。身体も、その人生が、人間関係が、境界生活が、将来が自由にされ祝福されるんです。
ところがどうでしょうか?聖書の話に戻りましょう。
この返すことのできない、無限のあの狩りを面倒してもらったこの人は、そこから出て、自分にたった百でなりを狩りをした者に、たまたまであって、返せ!
百金を返せ!と言ったら、この仲間が卑劣をして、もう少し待ってくれ。そうしたら返すからと言って、頼んだんですね。自分と同じく、もうお願いします、頼むわけなんですよ。
ところが、こんなにも許されたにもかかわらず、この者は三樹説を見ると、彼は招致せず連れて行って、百金を返すまで牢に投げ入れたわけなんです。
もう積極的に彼を連れて捕まえて牢に投げ入れたわけなんですね。
これが許さない人、憎んで、恨んで、呟いている人の行動、罪の行動なんです。
でもこれをね、王の耳に変えました。
33:01
それで王が、主人とも書かれていますが、三樹三説にこうあります。三樹三説一緒に見ましょうか。
三樹三説。
こいつらに、はい、私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではないか。
皆さん、この御言葉は神様が、イエス様が今日、皆さんに私たちに語らせる天のお声として聞いて受け止めていただきたい。
今度は例え話ですか。あとイエス様は三樹五説、もう一度一緒に読みましょうか。三樹五説。
あなた方もそれぞれ、心から兄弟を許さないなら、天皇私の父も、あなた方にこのようになさるのです。
皆さん、聖書の言葉はその通りに私たちは受け止めなければならない。
自分の都合のように解釈してはいけない。
もし私たちが誰かを許さないなら、どうですか。神様もイエス様も私たちを許してくださらないです。
許されないものに祝福はないわけです。救いはないわけです。リバイバルはないわけです。
では私たちはどういう信仰を持って許せばいいのでしょうか。またなぜ許さなければならないのでしょうか。
第一、この一万タラントの狩りを免除してもらった人のように、決して許されない罪、免除されない罪を持った私たちが全て許されたから、
皆さん、罪を告白して、悔いを改めて、洗礼、パクテスモを受けて、信仰生活をするということは、この真理を、この事実を信じるということなんです。
皆さんもそれを信じますよね。許されない罪とかを、この無限の罪を神様に、イエス様の十四時間の執拗によって、死によって許されたことを信じますか、皆さん。
あまり信じません。答えがないとか、どういうことなんでしょうね。聖書はこう言います。ローマ人はこう言います。八節、九節、十節に。
しかし私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしてやられます。
私たちがまだ何であった時ですか。罪人であった時です。九節にはまたこうあります。もし敵であった私たちが、何?敵だった私たちが、御子の血によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼の命によって救いに預かるのは、なおさらのことです。
36:23
かくてやさしゃくは、神の前に罪人でした。敵でした。罪ととばのゆえに、死んだものでした。聖なる神様に、絶対に受け入れられない、許されない、罪人、神の敵だったんですよ。
その状態では、救われることができない罪人だったんです。受け入れられない、愛されることができないものだったんです。
誰がこの事実をみなさん認めますか。そして信じますか。この事実を認めるときに、そこから本当の救いが始まります。
生命を救っても、教会で生活をしていても、何十年何百年していても、この事実を認めないなら、もうゼロから再出たとしなければならない。
こんな敵だった私たち、こんな罪人だった生んでいた私たちが、自力では何もできない私たちが、神様の無限の許しによって、すべての罪が許された。
受け入れられた、愛された、神のことされた、世界にどこにこんな恵み、愛があるんでしょうか。どこにこんな許しがあるんでしょうか。
誰がこんな風に受け入れてくれるんでしょうか。
この恵みを、ご好意を受ける何の資格も値もない私たち、虫けらのような私たち、敵だった私たち、呪われた私たち、信じようと思わなかった私たちを主は信じますという深刻告白をただそれで、主に許して、受け入れて、息子娘にしてくださった。
この世に私たちは許されたんですよ、皆さん。
許されて、許されて、受け入れられて、愛されている、一万タラントの仮を念頭して許された下手のような。
この神の許しを知っていて、分かっていて、大切に信じるものならば、周りのどんな人も、許して、受け入れて、愛するべきではないでしょうか。
39:10
そしてこれを実践しなければならないんですよ。
頭の知識の理解だけでは、人は変わらない。
思いに過ぎないから。
その御言葉を自分の生活に、自分の言葉に、思いに、もう実践の現場にそれを実践して、もうね、適用しなければ。
皆さん、許しの人は、神の許しの恵みを知って、信じて、体験して生きる人です。
教会の中に、このように神の許しを知って、信じて、体験する人が多い時に、その人によって許される、受け入れられる、恵まれる、その教会に希望がある、恵みがある、リバイバルが起こるということです。
皆さん、私たちは、今日の三十五節の言葉を真剣に受け止めていただいて、誰かをまだ許していないなら、あるいは恨んでいる、憎しんでいる、駆け口をしている、忠誠している、
嫌だから、この教会が嫌だから、あの教会に移ろう、この僕しか嫌だから、もういいや、みたいに、あの巨大が嫌だからいいや、みたいに、うやむやに悔い改めないまま、時間が経っていても、その人は神様に祝福されません。
徹底的に神の御前に、この誤解を悔い改めていなければならない。そうしないと、我々の信仰は全て一割である。神様自分を欺いているだけにすぎません。こんなにも許された私たちなんだからなんです。
神様、イエス様に許されたこの罪とかの重さ、大きさを考えるならば、私たちは神様の前に決して高慢に旗を挙げることはできないでしょう。そして、誰かを許していない理由はどこにもないわけなんですね。
神様の人は許しの人です。だから皆さん、許してください。神様の人は喜んで受け入れる人です。だから受け入れてください。神様の人は愛する人です。だから愛してください。
42:11
これを実践するとき、あなたの人生に本当の癒し、回復、祝福が起こる。
二番目、私たちが許さなければならない理由は、サタンの奴隷として歩まないために。皆さん救われましたか?イエス様の神聖の子供として歩みたいでしょうか。
そうしたならば、サタンの奴隷として生きることも強くそれを拒否しなければならない。
そのためには、神様は忌み嫌われる。しかしサタンは喜ぶ。そういったものを、罪を切って捨てなければならない。
憎しみ、妬み、中傷、陰口、悪、そういった類のもの。皆さん、神様に忌み嫌われる、神様に憎まれる品性を捨てて悔い改めなければならない。
この憎の思いを断ち切って捨てなければならない。これを切って悔い改める人は救われる人である。
しかし、教会に通っていても、霊の目が開かれていないまま、気づいていないまま、悔い改めないままいるならば、本当に祝われる。
皆さん、今考えてみてくださいよ。憎しみ、妬み、陰口、中傷、悪、そういったものは美しいと思いますか?
皆さんの、本当に美しくして自分の家の中に、心の中に、鞄の中に、車の中に、いっぱい満たしたいですか?したくないでしょう。
そうであるのに、なぜ誰かを憎んで、恨んで、妬んで、高ぶって、急所して、駆け口をしているんでしょうか。
それが罪でありながらも、なぜ私たちは、サタンの奴隷として、もてあそばれているんでしょうか。
自分自身の魂のために、本当に気をつけていなければならない。
ローマ書を開きたいと思います。ローマ書1章、29節、31、32のところを読みたいと思います。
45:04
ローマ人への手紙、第1章、29節から32節まで290ページです。
ちょっと長いですけれども、一緒に29節から読みたいと思います。
3次。
どうですか、みなさん。
私たちがうやむや、悔やめないまま、あるいは、やっていることは、このローマ人の御言葉によると、32節の死罪にあたるもの。
何がですか、むさぼりか、悪意か、妬みか、殺意か、争いか、欺きか、悪巧みか、賭け口か、死罪なんです。
だから私は、こういうものを好んで、あるいは無意識中にやっているならば、サタンにもてあそばれているわけです。
神の御手にあると思っているんだけれども、実は神の御手にあるじゃなくて、サタンの御手でもてあそばれているわけです。
これらの鎖に縛られているんです。
もしも、私を含めて、ここに書かれている、こういう死罪にあたる罪を犯したことがあるならば、いや、今、そういう中にあるならば、早く悔やらためてください。
私たちの人生に、生活に、言葉に、思いに、何かの企みに、神に憎まれるものがあるならば、早く悔やらためなければ。
48:02
悔やらための時に平安が来ますし、悔やらための時に、心の病気が、精神の病気、体の病気が癒やされ、歓喜が快くされ、家族が救われるんです。
皆さん、高ぶるものを、妬むものを、賭け口をするものを、欲しるものを、神様が喜ばれるでしょうか?
喜びません。
神様が喜ばれないとの祈りを、神様は聞いてくださるんでしょうか?
聞いてくださらない。
家族が救われません。
人を憎しみながら、賭け口をしながら、妬むながら、許さないながら、祈る祈りは、神様の今に届かないんです。
イエス様はおっしゃいましたね。
誰か恨んでいる、仲が悪い巨大があれば、神の前に捧げる前に、まずそれを分かってから捧げなさい。
神言一括を開きたいと思います。
旧約聖書の神言六章、十六節からです。
神言の六章、十六、十七、十八、十九節。
旧約聖書の1064ページです。
この十六節から十九節、一緒に読みたいと思います。
十六節から三回。
主の憎む者が六つある。
いや、主御自身の忌み嫌う者が七つある。
さかぶる眼、偽りの舌。
罪のない者の血を流す手。
邪悪な計画を細工する心。
悪へ走るに早い足。
まやかしを不意調する偽りの性に。
兄弟の間に争いを引き起こす者。
どうですか、皆さん。
これら者は、神様に忌み嫌われるんです。
主に憎まれる者なんです。
そうすると、その人は祝福されないんです。
だから私たちは、これを改めて、
許して、受け入れて、
愛するところまで進んでいかなければならない。
自分の本能を、その罪ある性質を、
身霊によって打ち砕かれて、打ち砕かれて、
いかなければならない。
なぜなら、私たちは、神の子、
イエス・キリスの命が代価として出現して、
51:01
救われた、尊い神の子とされた者だからなんです。
神様が言われました。
私が正義あるから、あなた方も正義であります。
この御言葉の前に、私たちは、
自分の衣を裂くように、
これを改めて、清められなければならない。
これが成果であり、
これが本当の、本物の信仰であり。
一つだけお話しさせましょう。
今回、玉川イエス教会にいた時に、
日曜日のメッセージをさせていただいて、
神道無形の最先進のメッセージをさせていただきました。
その先生方もお願いがあったわけですが、
本当の信者になりなさい。
偽り、みだらな罪を悔い改めて、
十分の一献金をしていない罪、
神のものを盗んだ罪を悔い改めて、
憎しみの罪を悔い改めて、
改めて信仰生活するように、
今この通り、もと長かったんですけど、
最先進のメッセージをさせていただきました。
その時に多くの信徒さんが、
涙しながら、悔い改めながら、
最先進をしておられました。
私は応答を期待したわけではありませんが、
あれくらい多くの人が、
切り捨て応答することは、
私も予想できませんでした。
私たち様ではない、神様が、
聖霊様がなさったことでありました。
その後、献金があり、
献金の感謝祈祷を、
私の見た目では、
八十以上の老姉妹が、
祈られました。
その祈りの中に、
こういうふうに仰せました。
今日のユン先生の話を、
私の説教を聞いて、
今まで自分の、
六十年間の信仰生活は、
何であったのか、
深く反省し、
悔い改めますと、
真剣に祈っておられました。
私はその境界で希望を見ましたね。
ああ、神の御言葉に対する応答がある、
悔い改めがある境界だなと。
皆さん、私たちは、
サタンのおもちゃみたいに、
もてあそばれていてはいけないのです。
聖霊の人、イエスの人、
御霊の人として、
豊かな実を結んでいかなければならないのです。
許しは選択できるものではないのです。
それは必須なのです。
三番目、
許しは、
54:00
私たちに天の祝福をもたらすものだからです。
さっきお話しさせた、
ポール・トゥルニエという、
スイスのクリシャンで、
内科医者で、
また後から心理学者になる方が、
彼はね、
人間の体の病気とか、
精神の病気は、
必ずこれは、
霊性と深い関係があるということを、
いろんな臨床実験やデータを集めて、
それをたくさんの本を書いていただく。
つまり簡単に言って、
精神の病気、
それが鬱であろうが、
何であろうが、
体の癌であろうが、
病気であろうが、
それは、
決してただの病気じゃなくて、
その人の精神、
霊と深い関係があるということを、
このポール・トゥルニエは、
長い間臨床で研究して、
本を出して、
それを主張した方ですけど、
こういうエピストがあります。
ある病院に、
整形外科なんですよね。
右の手のここかね、
肘のところが折れて、
治療に行った男性がいました。
ところが、
ギフトをしても、
治るはずなのに、
骨がくっつくはずなのに、
くっつかない、
治らないんですよ。
それで、
お医者さんが患者さんに、
少年に、
普通だったら、
これぐらいだったら、
それが治るはずなんだけど、
何で治らないんですかね、
と話をしたら、
お医者さんの旦那さんが、
こう言ったんです。
いや、先生、
そうかもしれませんね。
実はね、
これが折ったのは、
自分が、
もう自分の妻が、
もう嫌で、
もう殴った時に、
自分の腕が折れてしまったんです、
と言ったんですね。
そしたら、
そのお医者さんが、
整形外科の先生ですよ。
そしたら、
あなたの奥さんを、
今度一緒に連れてきてください。
そして、
そのお医者さんの前で、
あなたの奥さんを、
許してあげてくださいと。
少年は、
本当に、
普通に治るはずなのに、
何ヶ月経っても、
これがくっつかない、
治らないかと不思議に思って、
その人はもう謙遜な人ですね。
そのお医者さん、
言う通りに、
自分の奥さんをね、
整形外科に連れて行って、
そこで謝って、
ばかよしだ。
その後からは、
ものすごい速いスピードで、
それが治った。
それを臨死を結果として、
そのゴールツリーには、
自分の方に書いてあった。
そして、そこで一言、
こういうふうに言ってました。
病気と罪には、
深い関係がある。
病気と罪には、
深い関係がある。
57:01
もちろん、
全ての病気が、
全部罪の結果ではないでしょう。
でもね、
福音書をよく読むとですね、
イエス様が、
何かの病人を癒やした時に、
38年のあの病気の人にも、
最後に、
これ以上悪くならないために、
罪を犯さないようにしなさいと、
何にも、
イエス様が言われたことがあります。
皆さん、
実は多くの場合に、
我々の罪のゆえに、
心の病気が、
体の病気が来るんです。
もちろん、そうでない。
たくさんね、
夜中、
12時、1時までも、
チキンや油っぽいものを、
たくさん食べたら、
もう当然ね、
肥満になる病気に来るわけですけれども、
例的に言うならば、
多くの場合、
罪のゆえに、
悔い改めない罪のゆえに、
病気にかかる場合が、
多くあるんです。
一箇所説明していただきましょうか。
真言の十四章三十節。
1075ページです。
真言十四章三十節。
一緒に読みたいと思います。
穏やかな心は、
体の命。
激しい思いは、
骨を蝕む。
ここにですね、
この新科学は、
激しい思いは、
他の聖書、英語とか言語を見れば、
これは妬みとなっているんですね。
皆さん、激しい思い、
つまり怒りみたいなもの、
鬱憤みたいなもの、
妬み、
そういったものはどうしますか。
自分の骨を蝕む。
簡単に言って、
骨を腐らせるということなんです。
一つ恥ずかしながら、
私の母の話をしたいと思います。
大体今から、
私は結婚する前の話ですから、
23年前の話です。
母のですね、
元気でしたけれども、
へその上に何かおできができちゃいました。
でもそれがね、
どんどんどんどん、
穴みたいに深くなって、
血も出るし、
うみも出るし、
病院に行っても治らないんです。
痛みもどんどんあってですね、
もう薬を飲んでも塗っても治らない。
もっと白くなる。
もう少しで腸が見えるほどの深い穴になってしまった。
最初は小さなおできから始まったんだけどね。
もう痛みもどんどん酷くなって、
そして何を食べても評価不良で戻って、
頭痛があって気分が悪くなる、
もうなっている死病が続いていました。
1:00:02
病院に行っても何もなく薬を飲んでも治らない。
その時にお母さんが神の前にじっくり祈っていました。
その時に神様が私の母に罪を思い起こしてくれました。
それはそのおできができる前に母が行っていた教会は、
長老派の教会の中でものすごい保守的な教会なんだけれども、
日本もそうですが長老教会の場合に女性は執事、
ちょっと歳をとったら選挙で官司を立てるんですね。
男性は執事、それから安所執事、長老ね。
選挙で立てるわけですけれども、
その教会は聖書には官司ということが、
使徒の働きにはないから、
執事と長老は立てるんだけれども、
この教会は官司を立てない。
もうそれはルールなんですね。
ところが母は、自分がよその教会に行っていたら、
年も年だし、よくやっているから官司に選ばれるはずなのに、
この教会を官司にしてくれない、立ててくれない。
その小さなこの気持ちがどんどん恨みになって、
そしてもう僕先生のキム先生ですけれども、
私夫婦、結婚の指摘をしてくださった先生ですけれども、
それが恨みになって憎しみになって、
嫌な気持ちになって、教会に行きたくない。
説教を聞いて心に入ってこない。
それでもう帰都会も休んじゃいかない。
もうつぶやく、なんでそうしてくれないんだろう。
あの人にこの人に毒を撒き散らすみたいにね、言っていた。
それで自分がこの病気ができたこと、
これは決して神様に喜ばれることではないことを分かって、
自分の信仰が本当にダメになっていることをもう気づかされて、
それで母はものすごく神様の前で悔い改めた。
神様は二度と主の姉妹を恨みません。
つぶやきをしません。もう監視に選ばれなくていいんです。
このまま神の娘でもう天国に行くようにしてください。
私のこの傲慢の裁きの罪を許してください。
先生に対する悪い思いをもう全部捨てます。
もう取り除いてください。もう本当に悔い改めたんです。
それで私があの椅子で暮らしていたから分かるんです。
その時から不思議に悔い改めてから、
もう何を塗っても何を飲んでも治らなかった、
この穴にポコンと穴ができたからですね。
それが不思議に肉ができて、不思議に治って、
肉もなくなって、消化もよくできて、
そして教官に行ったらもう先生が家様のように見えてきて、
喜んで礼拝できるようになったということを私は傍で見ていました。
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その時に私の母が、私が牧師になる前の話ですよ、
こう言いました。
何があっても先生、牧先生を恨んだり憎んだりつぶやいて、
早口をしてはいけませんよ。
母があの病気を君も見ただろう。
神様は徹底喜ばないことですよ。
神様はたった一つの質問目なんだから、
いつも家様にするようにしないといけないんだよとね、
私が牧師になる前の話なんです。
今は自分が牧師になって、
誰から愛されるか、誰から憎まれるか、
みたいな立場に立っているんですね。
皆さん、許しというものは、
我々に神の祝福をもたらす、救いをもたらす、
教会のリバイバルをもたらす、
神の恵みの通らない。
ところが私たちは、それを向き合って直視しないといけない。
許して、受け入れて、愛するときに、
本当の癒しが、本当の救いが、
そうから起こるんです。
なぜでしょうか。
神様に憎まれることを、
私たちは持っていてはいけないからです。
好んではいけません。楽しんではいけません。
うやむなにしてもいけません。
悔い改めるものがありますか、悔い改めてください。
そして、祈っていただきましょう。お祈りです。
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