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2020-04-26 21:10

2020/04/26:わたしたちが信じて、告白すること(9)神の恵みのゆえに、信仰によって救われる

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2020/04/26 聖日礼拝

尹善鎬牧師

エペソ人への手紙 2:8-9

00:01
本日は、わたしたちが信じて、告白すること、9回目、説教題は、神の恵みのゆえに、信仰によって救われる、です。
今日は、救いについてお話ししたいと思います。
まず、この信仰告白の部分をお読みいたします。
私たちは、神の恵みにより、ただキリストを信じる信仰によって義徒され、罪を許され、神と和解し、新たに生まれて神の子とされました。
この部分は、救いに関する部分ですが、今日は改めて、わたしたちがどのように救われたのか、また、わたしたちが救われた根拠は何であるかについてお話ししたいと思います。
救いに対してお話しするにあたってですね、まず、神様と私たち、人との関係がどういうものなのか、確かめる必要があると思います。
皆さん、神様はどのようなお方なのでしょうか。
神様には罪がありません。
神様は、永遠から永遠まで、聖なるお方です。
だから、神様は、義なる方、正義、公義の方です。
そして、その正義によって、罪を裁かれるお方です。
同時に、神様は、私たちには計り知ることのできない、愛と憐れみのお方です。
神様の中には、私たちには知ることのできない方として、罪を裁かれる正義と愛と憐れみが共にありますし、これが衝突しないで、ただに完全にあります。
神様には、正義も100%で、愛も100%です。
不思議な形なんですよね。
一方で、私たち人間の状態は、どういうものなんでしょうか。
アダムから話をしていきますと、
アダムが、善悪の知る木の実を食べた後から、全ての人は、罪の中に生まれました。
03:10
これは、厳罪というものですよね。
それで、全ての人は、生まれつきの罪人なんです。
だから、人は生きている中で、いろんな罪を犯します。
聖なる神から見れば、罪人でない人は誰もいません。
人は、罪の中に生まれて、罪を犯しつつ生きながら、そして死にます。
これは、聖書の教えです。
そして、全ての人は、必ず神の裁きを受けることになっています。
裁かれて、神と共に住むか、永遠の滅びに行くか、別れるようになっています。
それは、神様の定めなんですよね。
ところが、神様は、愛と憐れみの豊かなお方ですから、人を救うことを願っておられることです。
人が、罪のゆえに死んでしまうこと、永遠に滅ぼされることを、神様は願っておられません。
神様は、私たちを許そうとしておられます。
罪を許すことを願われません。
そして、私たちが滅ぼされることを願われません。
私たちを救おうとしておられる、神の熱い愛があるんです。
これを、私たちが求める遥かに前から、世の初めから、神様は心の中に、この救いの願いを持っておられました。
さあ、ですから、私たちを救おうとしておられる神様、そして罪人である私たちがあるわけなんですね。
ところが、この神様と私たちの間には問題があります。
それが、罪というものです。
神様と私たちの間に、この罪があって、この罪を解決しないでは、神様は聖なるお方でありますから、その罪のあるまま受けることはなさらないということです。
06:02
でも、神様は救うことを願っておられます。
そして、神様の方法は、イエス・キリストをこの地にお救わしになって、
イエス・キリスト様が人の罪の代わりに、背負ってくださって、十字架で死んでくださって、神の罪に対する裁き、それをイエス・キリスト様が十字架で満足させてくださいました。
すべてを上手にしてくださいました。
それで、神様と私たちの間にあるこの罪が、イエス・キリスト様を十字架に乗って取り除かれました。
そして、神様はイエス・キリスト様の御の義の衣で覆われた私たちを罪許されたものとして受け入れてくださって、憐れみを与えてくださいました。
ところが、この罪の許しと救い、神様の愛と憐れみは誰に与えるものでしょうか。
それは実は別の問題であるということなんです。
イエス・キリスト様が十字架の上で死んでくださったこと、罪を許してくださったこと、神の断されたことは、既に成就された、なされた神様の御業です。
だからといってみなさん、世にいる誰でも何をしなくても、あるいはキリスト教に少し関心を持ってさえいれば、あるいは教会に何回か行ったことがあれば、みんな自動的に救われるのでしょうか。
特に何もしなくても罪が許されて、あの家様の十字架のあらないが、自動的に何もしなくても与えられるのでしょうか。いただけるのでしょうか。
決してそうではありません。
イエス・キリストの救いは、何もしなくても自動的に与えられる、ゲットできるものではないのです。
例えてお話をさせてみましょう。
ある家に家族が3人いるとしましょう。
奥さんの方が先にイエス様を信じて救われて、洗礼を受けて神の子供になりました。
残りの夫と息子がいるとしましょう。
この家は、お母さんが先に救われるので、お母さんの救いのおかげで、お父さんも息子さんも特に何もしなくても、お母さんが代表で救われるので、みんな自動的に救われるのでしょうか。
09:17
何もしなくても、信じなくても、イエス様が救い主であろうか何なのかよくわからなくても、みんな自動的に救われるのでしょうか。
そんなことは起こらないのです。
これは私の話ではなく、神の言葉の聖書のお話なのです。
大和御会の手紙、10節にはこう書かれています。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを使者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
主とは心に信じて、義と認められ、口で告白して救われるのです。
皆さん、主とはどのようにして救われるのでしょうか。
この御言葉を見ますと、あなたの口でイエスを主と告白して、あなたの心で神はイエスを使者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、
信じるなら、あなたは救われるからです。
そして続いて、人は心に信じて、義と認められ、口で告白して救われますと。
自分が罪人であること、神様を信じなかったこと、知ろうとせなかったこと、生まれながら罪人であることを認めて、
イエス様が救い主であることを信じて、なことも神様は唯一の救い主おかたともお一人しかないことを信じて受け入れるときに、人は救われます。
これら、人が救われる唯一の道です。神様が定められた道です。他にはありません。
神に行く、救われる神に行く道は、イエス・キリストによらなければ行くことができないのです。
人は信じて、罪を悔い改めて救われるのです。他の方法はないのです。
ここで、救いに入って、たまに誤解しやすい聖書の御言葉があると思います。
12:03
使徒の働き16章31節です。
この御言葉は、たまに勘違いしやすい御言葉かなと思います。
前後をよく読んでほしいのですが、パオルタ氏がこの町の牢屋に入れられていました。
そして大地震が起きて、みんな囚人たちが逃げた。ところがパオルタ氏は逃げていなかった。
そして、そういう話があって、その監修にパオルタ氏が、「主よ、イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」と言いました。
確かにこう言いました。
この御言葉は、監修、そのお坊さんがイエス様を信じれば、他の家族、奥さん、子供が何かいたとしました。
あるいは、その家のしもめさんがいたとしましょう。
彼らは何をしなくても、お父さんが救われたから自動的に救われるのでしょうか。そのための御言葉なのでしょうか。
決してそうではないです。
その後の32節、33節、特に34節をよく注意して読んでほしいのですが、
さあ、私はこれを読みますね。
32節、そして、彼とその家の者全部に主の言葉を語った。
33節、監修は友よ、時を移さず、二人を引き取り、その内地図を洗った。
そしてその後ですぐ、彼とその家の者全部が白鉄の受けた。
34節が大事ですよ。
それから、二人をその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族揃って神を信じたことを心から喜んだとあります。
さあ、この34節を言語をよく活かして、そのまま直訳した英語の聖書を日本語に変えますと、こういう意味になります。
彼とその家族は今や神を信じていたので、喜びでいっぱいになった。
わかるでしょうか。
彼とその家族は今や神を信じていたので、喜びでいっぱいになった。
15:04
これが言語を直訳した意味になります。
皆さん、このストローサガキは教理をまとめた話ではなく、歴史書である。
つまり、ドラマチックに話を書かれているわけなんです。
だから彼らはパウロの話を聞いて、家族がみんな信じた、そして神を受けた、これをこのストローサガキは劇的に表現している。
絵を描いていて、聞いた、そして発誓を受けた、彼らはみんな神を信じた、こういうふうに描いているんです。
救われる人がね、人がどのように救われるのか、その順序を記録しているものではないんです。
この順番を言語にして、ドラマチックにこの人が救われたこと、あの地震の中で監視とその家族が救われたことを、映画のように、ドラマのように描いているわけなんです。
まとめますと、人は霊在学、救いに対しては徹底的に個人的です。
私が罪人であることを悔い得らされて、私がイエス様を救い主として信じて、私が告白して、私が罪を許されて、私が救われます。
そして私が神の子供になります。
徹底的に神様と自分と一対一で行われることです。
自分が信じなくても、聞かなくても、悔い得らされしなくても、家族の陰で、友達の陰で、自動的に救われることは起こりません。
神様は愛と憐れみのお方です。
その愛と憐れみは、私たちはわからない、破壊できることもできない。
そして人の救いは、もう全く神様の主権によるものです。
神様が誰を救われるのか。
それは私たちに、私たちの行いや努力にかかっているものではないのです。
神様にかかっているものです。
だから今日の御言葉の徹底的な手紙2章8節に、あなた方は恵みのように信仰によって救われたのです。
それは自分自身から出たことではなく、神からの様なのです。
18:05
行いによるのではありません。
誰も誇ることのないためです。
救いは神様の恵みのゆえに、ただ神様の一方的な恵みのゆえに、信仰によって救われるという言葉が当たっています。
神様は私たちには計り知ることのできない愛と憐れみをもって、
罪を悔やらされ、イエスを主だと受け入れる一人一人を救ってください。
神様が人々を救うことをお定めになり、その救いをイエス様が十字架で成就してくださって、
そして聖霊様がその救いを一人一人に適用してくださるのです。
そして私たちにも、不思議に神の憐れみのゆえに恵みによって信仰が与えられて、
その信仰という手段で神の救いをいただく、救いに預かるということであります。
ですから、信仰も救いも全ては神様の、もう全く神様の恵みなんです。
ですから救いは最初から最後まで全て神様の主権と神様の説理によるものであります。
皆さんどうでしょうか。自分自身も考えてみると、なぜ自分が救われたのか。
なぜ自分が神のことをされたのか。その理由をいくら考えても救うことができません。
自分が救われたのは、自分が救われたのは、ただ神様の恵みであると。
神の恵みなりと歌うしか理由がないのです。
この救いのお恵みに感謝して、まだ救われていない人々、その人々が、
イエルスは罪だと信じて、私は罪人ですと罪を告白して、
唯一の神は救い主なる神他にはないと信じて受け入れて、一人一人が救われました。
御言葉を述べ伝え、また鳥立の祈りをして、全ての人が、一人でも多くの人々が救われますように、
この福音のめぐりをお伝えして、述べ伝えていこうではないでしょうか。
21:07
お祈り致します。
21:10

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