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2023/09/17:愛を軸として

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2023/09/17 聖日礼拝

加藤満牧師

申命記 6:4-8


サマリー

今回のエピソードでは、大阪女学院での聖書のメッセージや神様を愛するという意味について話されています。心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして神様を愛しましょうという教えが述べられています。また、神様を愛することは他の人々を愛することと切り離せないと強調されています。私たちは神を愛することはできませんが、神は私たちを愛してくださっています。神様の愛は私たちの存在そのものに向けられる愛であり、その愛に応えることは人間には不可能です。しかし、私たちは神様の愛を受け入れて主を愛し続けるよう努力することが求められています。私たちは神様を愛することで命の輝きと平和を得ることができます。私たちの歩みは主の愛を表すものになります。

00:02
皆さん、おはようございます。
暑さが少し落ち着いてきたでしょうか。
むしろ夏の疲れも少し残っているような季節かもしれません。
ぜひお互いにお体を大事にしながら、この日々を過ごしていきたいと願っています。
一言お祈りをして、メッセージを一人ずつあげていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
また私たちを主の御前へと、あなたご自身が招いてくださって、
あなたを仰ぎ、礼拝ができる時を与えてくださり、感謝をいたします。
主よ、私たちは本当に様々な痛みが、また弱さがあるお互いですけれども、
しかしそのような弱さをおいてなおも、神様あなたご自身は、
私たちの愛を全く変えることなく、
あなたが私たちと共にいてくださることを心から感謝をいたします。
私たちの罪の深みまで知り抜き、しかしその私たちのために、
御子イエス様があの十字架で命を捧げてくださいました。
その流された血潮によって、私たちの罪がもはや完全に許され、
神のことされ、それだけではなく、復活の命、永遠の命を私たちへも与えてくださり、
永遠なる主と共に結ばれ、主と共に死をも超えて生き続ける、
そのような幸いな命を私たちに与えてくださったことを心から感謝をいたします。
あなたはもはや自分の足だけではない、私と共に、私の恵みによって歩みなさいと、
あなたを招いていてくださることを感謝をいたします。
神様どうか、私たちは本当に様々なことに揺れ動きやすいものです。
しかし心を騒がせずに、ただあなたを仰ぎたいと願います。
あなたからの力をいただいて、あなたのことされている恵みを覚えて、
あなたの本当に助けによって、一つ一つのことを乗り越えていきたいと願っていますから、
主が力を与えてください。
あなたが生きておられることを、その中で知ることができるように導いてください。
お願いいたします。
施設におられる方々、またCDでこの音源を聴いて礼拝を守っておられる方もいらっしゃいます。
どうかそれぞれの兄弟姉妹を主がなおも覚えてくださり、
置かれているところで信仰を強めてくださいますようにお願いをいたします。
また世界において様々な災害、本当にその中で多くの方々が命を落としています。
戦争も続いています。
神様その痛みのうちにあなたが寄り添ってくださり、
どうか天雷の慰めを主がなおも注いでくださいますようにお願いをいたします。
御言葉に聞こうとしています。
どうか主御自身が立ってくださり、
あなたの命の言葉を私たちに教えてくださいますように。
小さきものをどうか主が用いてください。
お願いいたします。
これからの時をお枝根をして、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
大阪女学院での聖書のメッセージ
先週の金曜日のことなんですけれども、
私は大阪にあります大阪女学院という学校にお招きいただいてですね、
聖書のメッセージをさせていただいたんです。
学校が定めるその伝道習慣というのが学校にあるそうで、
そこで特別礼拝の一コマをお話しさせていただきました。
実は学校で聖書の話をするというのは結構難しいんですね。
というのは私自身は実は関西学院大学というミッション系の学校で何年もお世話になった人間なんですけれども、
何回かそこのチャペルで説教をする機会があったんですね。
その時に聖書の十字架の話であったりだとか、
ダイレクトな伝道の話をすると終わった後に、いやいや困ります。
ここは学校であって教会ではないので伝道しないでくださいということを言われたんですね。
ああそうか、そうなんだよなと思いながら仕方がないなと思いながら、
けれども私自身その後も何度か大学のチャペルに立たせていただく中で、
どこまでギリギリ福音を語れるかなみたいなことをチャレンジし続けてきたんです。
悩みながらそのようなことをしてきました。
けど今回大阪女学院に呼ばれた時にですね、最初のオーダーが先生十字架を語ってくださいと。
救いについて語ってくださいということをはっきり言われたんですね。
本当ですかと、そんなことしていいんですかと言いながらそう思いつつも、
高校1年生から3年生の870人の人々の前で、私自身の救いの証と十字架の愛についてお話をさせていただきました。
ただやはり語り終えたら少し怖くなってですね、司会をしていた校長先生、
実は日本養子の神戸さんなんですけど、校長先生のところに行って、
いやちょっと話しすぎたんじゃないでしょうかと、大丈夫でしょうかということを聞いたら、
先生がこういうことをおっしゃってくださったんですね。
加藤先生が言っていることはよくわかります。
確かに他の高校ではここまではっきりと福音を語らせないでしょう。
反対意見も出るかもしれません。
けれども私は学生たちがせっかくミッション系の学校に来て、
本当に大事なこと、本当の神様の愛を知らせないまま卒業させて本当に良いのか、
そのことを私自身思っているんです。
私もこの高校に神様に召されてきたと思っています。
僕がいるうちはしっかりと福音を伝えたいと願っているんですとおっしゃられたんですね。
私は校長先生のお話を伺って本当に感動をしました。
この人も神様の召しに立って、そして置かれた場所で神様を仰いで愛そうとしている。
自分の使命にまさに生きようとしている。
この姿は別にこの先生だけの話じゃないなと思ったんです。
私たち一人一人の歩みではないかなと思うんですね。
それぞれ私たちが召された場所があるんですよ。
それぞれ置かれている場所は違う。
でもそれぞれ置かれている場所で神様を愛していく。
コツコツと忠実にそのことに取り組んでいく。
その姿勢がやはり大事なんだなと改めて再確認させられました。
今朝ご一緒に見ていきたい聖書の言葉は、特にこの6章の4節5節の御言葉なんです。
もう一度読みしますと、こういう言葉です。
聞け、イスラエルよ。主は私たちの神、主は唯一である。
あなたは心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして、あなたの神主を愛しなさいという言葉です。
この聖書の言葉というのは実はユダヤ人の方々が今でも朝に言うに祈るシェマーという祈りの言葉です。
朝に言うにユダヤ人、ユダヤ教の方々は朝に言うにこの言葉を絶対に祈るんです。
聞きなさい、イスラエルよ。
神は唯一であり、そして私たちは神を愛するんだということですね。
彼らは今でもこの6章の8節にも書いてますけれども、これを印として自分の手に結びつけ、希少として額の上に置くと。
まさにこのシェマーの祈りの言葉を書いたメモを入れた箱を、彼らは成人式になったときに男の子にくくりつけたりだとか、
礼拝のときにそれを今でもかぶるんですね。
そういうことをしています。
私はいいなと正直見ながら思います。
それは忘れないんですよね。
私は一体何のために生かされているのか。
ああそうか、私は今日も神様を愛するために生きているんだなということを、何かそのことを確認させられるんですね。
神様を愛する意味
今朝の聖書の言葉はシンプルに私たちを招くと思うんです。
それは何かというと、神主を愛しなさいということです。
今朝私たちに語りかけられるのはその言葉です。
神主を愛しなさい。
ただ思います。
じゃあ神様を愛するって一体どういうことなのと。
そのことを少しまず確認をさせていただきたいと思います。
そしてまたこの聖書の言葉は、愛しなさいというだけではなくて、この5節に書いていますが、
あなたは心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして、あなたの神主を愛しなさいと言われます。
この尽くして尽くして、この言葉をどう受け止めたらいいのか。
そのことをご一緒に二つのことを見ていきたいと願っています。
さて、神様を愛するということは一体どういうことなんでしょうか。
第一に神様を愛するということは、読んだらその通りそうかなと思わされるのは、神明記の言葉が言う通りです。
主は唯一である。その神を愛しなさいという、単純にそういうことでしょう。
主だけが神様であり、他の神々は神様ではない。
神になびかず惑わされず、その神様だけを見つめて愛しなさい。
そういうことでしょう。シンプルに読むならば。
ただ、そう言われるならば、私たちは神様を愛する、
神様が喜ばれるような神様に捧げ物をするだとか、神様に一生懸命祈るだとか、
そういうことを思い浮かべるかもしれませんが、しかしそれだけではないんですよね。
この言葉、この6章の4節5節に、この聞けイスラエルよという言葉が置かれていますが、
この箇所が置かれている位置にもちょっと注目しなきゃいけないなと思うんです。
簡単にざっくりこの付近の話をしますと、今まで神明記では、
孟子が過去の開古といいますか、昔を振り返るということを続けてきました。
それは4章の43節まで過去を振り返っているんです。
4章の44節からは孟子は、今目の前にいるイスラエルの民に向けて語るんです。
あなたたちはだから今これを守りなさいと言われる。
最初に彼が確認したのは5章にある実会の言葉ですね。
党の言葉を彼は確認をしました。
そして6章に行くと、6章の1節にありますが、
これはあなた方の神主があなた方に教えよと命じられた命令、すなわち起き手と定め。
簡単に言うと神様が何回も起き手と定めを守れとここまで言うんですけれども、
じゃあその起き手と定めって一体何ですかということが6章から書いてあるんです。
でもこの6章から起き手と定めが書いているんですが、
その一番最初にこの言葉があるんです。
聞きなさいイスラエルよと。
神は唯一であって、そしてこの神を愛するんだよということが一番最初に出てくるんです。
それは何を言っているのかというと、
神を愛しなさいというのは、
神様だけに何かこれをしなさいということを言っているというよりも、
神様を愛する教え
むしろあなたたちはこれから言われる定めを神様を愛して行いなさいと言っているんです。
神様を愛してこれら以下のことを行いなさいということを言っているわけ。
実はこのニュアンスはもうちょっとこの6章の4節5節に近い言葉で書いている箇所がもう一箇所あるので、
ちょっと開きたいんですけれども、
神明記の10章の12節というところも、実は似たような言葉で語り直されている言葉ですね。
神明記の10章の12節からというところを読みしますと、こういう言葉があります。
イスラエルよ、今あなたの神主があなたに求めておられることは何か。
それはただあなたの神主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し心を尽くし命を尽くしてあなたの神主に仕え、
あなたの幸せのために私が今日あなたに命じる主の命令と掟を守ることである。
そういうことが書かれています。
何が言われているかというと、ここに主を愛しなさいということと並べていろいろなことが書いています。
主を恐れることである、主の道に歩むことである、主に仕えることである、そして主の命令と掟を守ることである。
主を愛するというのは、ただその単品だけではなくて、主を愛するということはまさに具体的に主に仕えることであって、
掟を守っていくことなんですよということが言われる。
じゃあその掟とは何でしょうか。ちょっと一部だけ引っ張り出しますと、
この10章の次のページを開いていただいて、10章の17節から20節を読みしますと、こういうことが書いてあります。
あなた方の神主は神の神、主は主、偉大で力があり恐ろしい神。
えこひいきをせず、わいろをとらず、みなしごややもめたちのためにさばきをおこない、
既留者を愛して、これに食物と衣服を与えられる。
あなた方は既留者を愛しなさい。あなた方もエシプトの地で既留の民だったからである。
あなたの神主を恐れ、主に使えなさい。主にすがり、皆によって誓いなさい。
ここで何が言われているのかと言いますと、まず神様の姿が、本当に不思議な神様の姿が書かれている。
神様はえこひいきをせず、わいろをとらず、みなしごややもめ、既留者を愛する神である。
これ普通じゃ考えられないんです。前も言いましたけれども。
当時、かろんじられている人々を、神というお方は愛された、大事に扱われる。
そして、十九節で言われるのは、だからあなたたちも既留者を愛しなさい。あなたたちも奴隷だったから。
簡単に言いますと、何を言っているのかと言いますと、ここで言われているのは、このようなみなしごややもめ、既留者という人々、
神が愛されるのだから、あなたたちもこの神に倣って愛しなさいということです。
神様を愛するということにつながるわけです。
簡単に言うならば、神様を愛するということは、神様が愛する人々を愛するということにつながるんです。
神様を愛するということ、そういうことです。
人々を愛すること
新約聖書でも実はこのことは書かれているんですね。
ちょっとだけパラパラ開いて申し訳ないんですが、
今日何本か見ると思いますが、第一ヨハネの4章、新約聖書の後ろの方の第一ヨハネの4章20節から、ちょっとお読みします。
第一ヨハネの4章20節から、新約聖書の484ページになります。
新約聖書の484ページですね。
ちょっとゆっくりお読みしますから、追っていただければと思いますが、
神を愛すると言いながら、兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。
目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。
私たちはこの命令を神から受けています。
イエスがキリストであると信じる者は皆、神から生まれたのです。
生んでくださった方を愛する者は皆、その方から生まれた者をも愛します。
このことからわかるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子供たちを愛するのです。
神の命令を守ること、それが神を愛することです。
神の命令はおもにとはなりませんと、非常に具体的に書いてくれています。
神を愛するということを聞くと、私たちは神様になにかと思うんですけれども、
実はそうだけではなくて、神を愛するというのは、兄弟姉妹、
目の前の人たちを愛していくということと避けることはできないんですね。
神様を愛すると言いつつも、目の前の人を大事にできていないのであれば、
それは神を愛しているとは本当は言えないということを言っているわけです。
これは神明記と同じですね。神様が愛した、神様が生み出した人々を愛していくということ。
神様を愛するとは実に、目の前の人を愛することとは切り離されない。
これはイエス様が実にバランスよくまとめてくれているんですね。
イエス様ご自身もこう言われました。
立法において一番大事な教えは何ですかと言われるときに、
イエス様は、これはちょっと読みますけれども、マルコの12章の30から31節というところでこういうことを言いました。
有名な箇所なので聞いていただいてもいいと思いますが、こう読みます。
あなたは心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神主を愛しなさい。
第二の今しめはこれです。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。
これらよりも重要な命令は他にありません。
イエス様のすべられたバランス感覚ってこういうところですよね。
二つのものをちゃんと結び合わせている。神様を愛する。
でもそれはあなたたちの隣人やあなたたちの周りに人を愛することとは切り離されてはいけないということを言うわけです。
そしてこの二つが立法の最も大事な教えだと言われました。
少しだけいろいろとイエス様のことを長くしゃべってあれでしたけれども、
ただ少し考えなければならないなと私自身ちょっと反省させられるところがあります。
それは誤解を恐れずに申し上げますと、これは明大に教会の話ではないんですけれども、ただ思わされるのは、
もしかしたら私たちの文化にある教会の中で、
この二つを切り離す傾向がもしかしたらあったんではないかなと反省させられるところが正直にあります。
それはちょっと如実な表現かもしれませんが、
私は家族よりも神様や教会を愛しますという時が、恐らくそういう時代があったかもしれない。
神様を愛することの意味
家族よりも教会や神様を愛します。
あの人を愛し、あの人に寄り添うということよりも、
言い方が難しいですけれども一方的に、
いや神様はこうなんだからということを何かを押し付けてね、
それで終わってしまうということがあったかもしれません。
教会は神様を愛してきた、それは誇ってよいと思うんです。
ただ同時に問われるのは、教会は本当に人を愛してきたのか。
私はこれは何かずっと問われています。
神様を愛する人というのは、家族を愛する人ですよね。
神様を愛する人は、何か参上で聖なる生活を送るのではなくて、
神様の清さをもってこの世の闇の中に突入していく人のことを言うと思うんですね。
神様を愛するとは、家族が皆さんから愛を感じるということなんじゃないでしょうか。
神様を愛するとは、あなたが仕事で誰かを笑顔にするということなのではないでしょうか。
神様を愛するというのは、目の前にいる人が日々うろいをもって生き生きと生きられる、
そのような状況に仕えていくということなのではないでしょうか。
実は私たちは、これは私自身の弱さでもありますけれども、切り離しがちなんです。
いや、神様があるから、教会があるから、
でもそれで目の前にいる大切な人を笑顔にできていないんだったら、
やっぱりそれは私自身は反省させられなければいけない。
そう思うときに、私たちは改めて問われるような気がします。
神様を愛しているでしょうか。
おそらく、私は思うんです。
愛していないと卑下する必要は、皆さんの中には過度にはないと思います。
皆さんは神様を愛していると思うんです。
確かにうまくいかないことはあるでしょう。
家族のことならなおさらです。
でも日々コツコツと家族を愛し、目の前の人を神様が愛されている一人として愛していく。
そのことに私たちは大なり小なり取り組んでいると思うんです。
そういう自分のことを絶対に卑下しないでいただきたいんです。
私たちは神様を愛しているんです。
でもその中で途上なんですよ。
その中で苦闘していく。でも忘れてはいけない。
私たちの苦闘というのは、日々神様を愛していくという歩みの中にやはりあるんですよね。
そうだ、私は神様を愛して、神様が愛する人々を愛している。
それは今日も明日も、私は神様を愛していくんだ。
そういうことが励まし合えるのが教会として大事かなということを思わされております。
さてもう一つのことを見ていきたいと思いますが、
さてこの6章の4節5節に戻りますと、
ただこの神様を愛しなさいという教えは、
こういう言葉ですよね。
あなたは心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして、
あなたの神主を愛しなさい。
そういう言葉なわけです。
この心を尽くし、尽くし、尽くしという言葉、どういう意味なのか。
高橋秀典という先生の本からちょっと抜粋しますと、
こういう説明がなされていました。
心を尽くしとは、心情とも訳せる言葉で、
真心からというばかりか、
腹の底から湧き出る情念全体で死を愛せよという、
そういう言葉だそうです。
腹の底から、腹の底から死を愛しなさいということでしょうか。
精神を尽くし、すみません、命を尽くし。
この命というのは、魂とも訳される言葉ですけれども、
まさに命の息を吹き込まれて人になったという、
創世紀の歌手がありますから、その言葉と一緒なんですね。
人を人として成り立たせる根本的なところを指すのが、
神様の愛とは理由ない愛である
この命という言葉です。
だから言い換えるならば、
つまり命がけで死を愛せよという言葉だと言えると、
高橋先生はおっしゃられました。
そして力を尽くしというのは、
この力というのは非常にとか大いにという言葉だそうで、
まさにこれは、言い尽くせないほど死を愛しなさいという言葉なのだそうです。
つまりこの言葉をそのまま受け止めるならば、
きっとそれはその時々計算してだとか、何か頭で考えてだとか、
そういう月明け場的な愛というレベルは、
もう超えてしまっているような気がするんですね。
腹の底から死を愛しなさいということですね。
何か自然とそれがあなたの血となり肉となっているかのように死を愛しなさいという、
何かそういう言葉ですね。
思います。本当にそんなこと可能なのだろうかと。
むしろ私たちにおいては、神様を愛する、
先ほど祈っていただいて本当に真摯な、その通りだなと思います。
神様を愛する、それが簡単にできたら苦労しないわけですけれども、
そこに私たちは苦闘があるわけですよね。
ただそのようなある意味大きな愛、神様への愛を持つにはどうすることが必要なのか。
聖書の中ではっきりと書いてある箇所が一箇所だけあるのでお読みしたいと思いますが、
すみません、先ほど読んだ第一ヨハネの四章なんです。
第一ヨハネの四章の十九節というところ、すみません今日はペラペラ開きますけれども、
第一ヨハネの四章の十九節というところをお読みしますと、こういう言葉があります。
第一ヨハネ四章の十九節をお読みいたしますと、こういう言葉です。
私たちは神を愛しています。
神がまず、私たちを愛してくださったからです。
私たちがもしも心の底から神様を愛せるとするならば、その可能性は何か、神様に愛されているという事実をしっかりと受け止めるしかないんです。
実は今日新明紀の6章を読んでいただきましたが、実は1ページめくって7章の7節から10節というところには神様の愛について語られているんです。
ちょっとお読みしますけれども、こういう言葉ですね。
新明紀の7章の7節から10節。
主があなた方を主体、あなた方を選ばれたのは、あなた方がどの民よりも数が多かったからではない。
事実あなた方はあらゆる民のうちで最も数が少なかった。
しかし主があなた方を愛されたから、またあなた方の父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなた方を導き出し、奴隷の家からエジプトの王ファラオの手からあなた方を贖い出されたのである。
あなたはあなたの神主だけが神であることをよく知らなければならない。
主は信頼すべき神であり、御自分を愛し御自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。
しかし御自分を憎む者には一人一人に報いて彼らを滅ぼされる。主はためらわず御自分を憎む者を一人一人に報いられる。
この主はあなたを慕いましたという言葉があります。
とても素晴らしい言葉ですね。
神科学第三版では主があなたを恋したってという表現だったんです。
その方が好きですね。主があなたを恋したって。
この箇所で強調されているのは何かと言いますと、神様が私たちを愛されるために理由はないということです。理由はないということです。
私たちがあなた方が愛されるための理由はない。民がどの民族よりも多かったからであったり、これは9章の3節から5節にも同じようなことを書いているんですけれども、あなた方が正しかったからあなたは神に愛されている。そんなふうには考えるなと言うんです。
なぜでしょうか。それは神様の愛を誤解するからです。
聖書が語る神の愛、それはあなたにこういういいところがあるから私はあなたを愛しているんだよというような、理由があるから愛しているというような小さな愛ではないんです。
私たちは想像していただいたらわかるんですが、理由好きの愛ってわかりやすいですよね。理由がありますから。
その理由があるときに、例えば私たちは立派な主にちゃんと従ってきたんだという理由があるから、人数が多いから、そういうことがあれば民は誇ることができるわけです。
ああそうだ、だから私たちは神様に愛されているんだ。一方で逆にそれがどこかで失ってしまうならば、それが失われてしまうならば、ああ私はあんなこともできなくなったんだからもう神様に愛されるわけがないということを思ってしまう。
愛される理由を失ったからです。しかしこれは両方とも神様の愛を小さくしてしまっているんですね。
神様が私たちを愛されるのは、私たちの側に理由などないのです。神様が私たちを愛されるのはただ一つです。神様が私たちを愛したいと願われたからです。理由はそれしかないんです。理由はすべて神様が持っています。
だから一方的な愛と言われるんです。そしてそれ上に私たちは神は愛であるという言葉ほど実は本当に理解ができていない。理由づけのない愛とは分かりにくいんですよ。これだからあなたを愛してますよ、でもそうじゃない。
あなたが何も持ち得なかったとしても私を愛していると言われるときに分からないんです。なんで?でも分かりにくいんですよ。神様の愛って大きすぎるから。神様の愛は私たちに理由を求めません。神様の愛は私たちの存在そのものよと向けられる愛です。
イエスキリストの愛と命の捧げること
そして何よりもこの心を尽くし命を尽くし力を尽くして愛しなさいと私たちに要求を神様されますが、実は実際にこのように生きてくださったのは聖書の中では一人だけなんです。十字架に向かわれたイエスキリストだけなんです。
罪人を愛しそのためにまさに心情全体をかけて命がけで言い尽くせないほどに罪人を愛された神様。その愛の通りにイエス様は十字架で命を捧げられました。
パウロはこのことを指してこう説明しましたね。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられますという。
理由もないばかりか、実は罪人であることを知ってなお、イエス様は心を尽くし命を尽くし力を尽くして愛してくださった。そして神ご自身が御子を捧げるほどまでに、新明記に書いてある通りですけれども、心を尽くし命を尽くし力を尽くして神がまず愛してくださっている。
神様を愛せない私たちを神は愛してくださっている。神の愛を受け入れられない私を神がまず愛してくださっている。実はそのことが聖書が語っていることですね。私たちが戦わなければならないのはむしろ、私は何々がなければ神様に愛されないだとか、私はこういうことをしているから神様に愛されているというような誤解です。
それと戦わなければならない。違うんですよ。神様の愛はそんなちっぽけなものではない。神様の愛を小さくする思い込みと戦わなければならない。あなたは心を尽くし命を尽くし力を尽くしてあなたの神主を愛しなさい。これは難しいことを言っているんじゃないです。神様があなたをこれだけこれほどまでに愛しているんだから、あなたも神様をこのように愛しなさいという説明。
ただ、この大きすぎる神様の愛に完全に応えるなどとは人間には不可能だと思います。生きているうちにこの愛に見合うほどに神様を愛することは私たちはなかなかできません。
だから、むしろ本当に愛されていることに憩い切りながら、ある種神様の愛の広さ高さ深さ、人知を遥かに超えたキリストの愛、それをより深く知らされていきながら、私たちは置かれた場所で可能な限り主を愛し続けていく。
昨日よりも今日、今日よりも明日、体を伸ばしながら神を愛するという技にコツコツと使えていく。その命が尽きるまで愛し抜いていく。そういうことなのではないでしょうか。
ちょっと長くしゃべりすぎているような気がしますが、ただ一つだけ証をして終わりたいと思います。敬老感謝だからというわけではありませんが、一つのお証をします。
私が東北にいたとき、東北の使わされた教会で中心的に奉仕をしていた一人のご夫人の方がいらっしゃいました。私が行ったときにはすでに80代後半の方で、でも電動自転車に乗りながら30分かけて教会にやってくるんですよね。
もともと農家で育った方なので、先生私はこの足腰が私の自慢なんですっておっしゃられていた方でした。でも私が赴任してから半年ぐらい経ってからでしょうか、その方が事故に遭われるんですね。
タクシーに乗ってて段差にガーンと上がったときに足の付け根を複雑骨折するんですよ。先生からはもう歩けないだろうと言われてしまいました。でもそれだけじゃないんです。とにかく痛いんですよ。痛い痛い。
鎮痛剤を打つんですけど、鎮痛剤が効きすぎて鎮痛剤を打ったら1日意識が朦朧として毎日が過ぎていってしまう。だからそれは嫌だから薬を打たないでおきたいんだけど打たなかったら激痛が走る。先生痛い痛い。祈って。連日教会に電話をいただきました。私もその度に祈るし、そしてまたその方のところに訪問に行くんですけれども、正直どうしようもない状況が続きました。
しかしあるときその姉妹からお電話をいただいたわけです。それは何かと言いますと、開講一番こう言われました。先生勝利しました。先生御言葉が来たんですって言うんです。
それは、「今より我は主なり、我を行わば誰がとどむるをえんや。」という、居鞘書の43章の13節の文語訳の言葉なんです。今より我は主なり、我ことを行わば誰がとどむるをえんや。
実は正直に告白なさっていました。何で神様はこのけがを与えたのか。このけがに苦しんでいる間、私は神様を憎みましたし、正直、元気に訪問に来てくれる人たちのことを本当に憎みました。
でも、そのような憎しみに捉えられる私の枕辺に主がおられて私に語られたんです。今より我は主なりと。ああ、ここに主がおられて、私のすべてを把握してくださっている。そのことがわかって、委ねる信仰を得ましたということをおっしゃられたんですね。
私はそれに驚いて、改めてその方のところに行きましたけれども、本当に落ち着いているんですよね。もう不満を言われなかった。そして施設をその先移られて、その後の施設にも訪問に行ったんですけれども、本当に穏やかな生活をされていて、こういうことを姉妹がおっしゃられるんですよ。
神様への愛
先生、施設の人との関わりの中で、私、御言葉が響いてくるんです。それは、この小さき者の一人に冷ややかなる水一杯にても与える者は、必ずその報い失わざるべし。
そして私がその御言葉に励まされて、その人にしてあげたいと思うことをすると、不思議とその人も喜ぶのだけど、してあげた私の方が心の内に言いようもない平安が満ちるんです。
先生、私、何かおかしいでしょうかと言われました。私は言いました。何もおかしいことはないですよと。あなたがここで神様を愛しておられるんですねと。そうすると、聖書の言葉がこんなに身を結ぶのかと、こんなに命を豊かに輝かせるのかと、私こそ学ばされていますと、ありがとうございますと、そういうやり取りをしたことがありました。
その方も数年前に滅されてしまいました。でもその最後の日々の歩みを、私の目にはやっぱり焼き付いています。
ああ、この人生のこの最後の時において、ああ、それでも置かれているところでコツコツと神様を愛して生きていく歩み、何と豊かなんだろうかということをその時に教えられました。
あなたは心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして、あなたの神主王を愛しなさいと。今朝私たちはご一緒にこの御言葉を受け止めさせていただきたいのです。
命の火の限り、私たちの命の火の限り、神様を愛するということをさせていただきたいと思うんです。
それはあれ尽くしてこれ尽くしてというとなんかハードルが上がりますけど、そうじゃない。尽くして愛されていることを受け止めて私たちが置かれているところで、神様を自分のできるところで愛していくんです。
それは誰の評価でもない、私ができる神様の愛する、その愛意味でいいわけです。
でもそのうちに私たちは主の豊かな愛を表すものになるのではないでしょうか。
主に愛され、主を愛していく、そのような愛を軸にした歩みにこそ、ある種この世界を越えた命の輝き、平安があるように思います。
私たちは永遠に残るものに使いさせていただきたいと思うわけです。
この御言葉にご一緒に取り扱われてまいりたいと願っています。
一言お祈りをさせていただきます。
42:33

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