1. 名谷教会
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2012-04-29 47:54

2012/04/29:聖日礼拝(旧音源)

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2012/04/29 聖日礼拝(旧音源)


00:00
ご着席ください。 本日の聖書朗読をしていただきます。
聖書箇所は、 マルコの福音書
2章13節から17節までです。 新約聖書の67ページをお開きください。
では、和紙をしまい、よろしくお願いします。
イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。
すると、群衆が皆、身元にやって来たので、彼らに教えられた。
イエスは道を通りながら、アルパヨの子デビが主税人に座っているのをご覧になって、「私について来なさい。」と言われた。
すると、彼は立ち上がって従った。
それからイエスは彼の家で食卓につかれた。
主税人や罪人たちも大勢、イエスや弟子たちと一緒に食卓についていた。
こういう人たちが大勢いて、イエスに従っていたのである。
パリ裁判の立法学者たちは、イエスが罪人や主税人たちと一緒に食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。
「なぜあの人は主税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか?」
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。
「医者を必要とするのは丈夫なものではなく病人で、私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
では続きまして、聖歌体に賛美をしていただきます。
賛美をしていただく曲は、新聖歌151番です。
その後、内田牧師によりイエスは誰を招くのかと題してメッセージをしていただきます。
イエスは誰を招くのかと題してメッセージをしてメッセージをしていただきます。
03:20
朝の朝 朝の朝 日の光で輝く朝
朝の朝 朝の朝 日の光で輝く朝
朝の朝 朝の朝 日の光で輝く朝
朝の朝 朝の朝 日の光で輝く朝
朝の朝 朝の朝 日の光で輝く朝
06:21
おはようございます。
今日も皆さんと共に礼拝をお捧げできますことを感謝しております。
今日も御言葉をいただきますが、一言お祈りをさせていただきます。
時が満ちた。神の国が近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。
天の神様、主の復活を記念しての日曜日の朝の礼拝を心から感謝をいたします。
精霊に導かれて今日もこの御堂へと昇ってまいりました。
ここに主はおられて、私たちに神の愛を表してくださっていることを覚えて皆をあがめます。
それぞれの歩みは異なりましたけれども、また一度このところに集めてくださって、
皆をあがめて賛美を捧げ、祈りを捧げ、また御言葉を通してあなたの御旨を教えてくださるこの幸いな時を感謝をいたします。
今日もまた御言葉を通してあなたを仰ぎ、またあなたが今日も生きて私たちの主であられることを心から覚えて皆をあがめることができますように。
どうぞこの礼拝の最初から最後まで伴ってお導きくださるように、
霊の眼をもって鮮やかに主なるお方を仰ぎ見ることができるように私たちを助け導いてください。
今日ここに来れなかった兄弟姉妹方、夜明けを覚えている方々にどうぞあなたが今その場に臨んで下さいますように、
また来たる時ともにここで礼拝を捧げることができますように。
日本中の教会で持たれている礼拝、世界中の教会の礼拝が祝福されますように、
そこで福音が大いに語られて、その御言葉をもってまた救いに入れられる民が起こされますように、
全てを委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今週からゴールデンウィークということでありますが、私たちはいつもこの礼拝をもって迎える週、これをゴールデンウィークと言います。
ですから今週もこの礼拝をもって一週間を始めさせていただき、この幸いなる一週間をまたそれぞれの場において導いていただきたいと思います。
09:06
そのためには、礼の糧である御言葉をいただかなければなりません。
あるいは精霊の導きを祈って待ち望まなければなりません。
私たちは教会の今年度の一つの方針でもありますので、もう一度基本に変えましょうということで、
私たちの主なるお方、三味一体のうちの主イエス・キリストというお方がどういうお方で、そして何を語られて何をなしてくださったのか、そんなことをもう一度覚えて聖書から導いていただいて、
すでに知っている方はそうだったということを再確認していただくのも幸いですし、また新たなる発見をしていただいて、そういうことだったのかということで、また目が開かれる、それも幸いだと思います。
そこで先週からマルコの福音書を読んでおります。
イエス様の生涯、その前半の部分といったらいいんでしょうか、ほとんどに近いぐらい隠れた生活をなさっておった、人目にあまり触れないなざれのそういう村で家族で過ごしておられたと言われています。
しかし、御言葉にありましたように、時が満ちた、神の国は近くなった、食い改めて福音を信ぜよと、そういうお言葉を持って民衆の前に現れなさって、そこからこのイエス様のいわゆる後生涯、公の場に現れたその歩みをなさっていかれた。
マルコの福音書は、その老いたちとか、なざれの町でどういうことをなさっていたのかを書かずに、この民衆の前に現れなさった、そのところからこの筆を進めておるわけです。
そのマルコの福音書の1章、あるいは今日の2章のところに、ずっと目をとめていきますと、どんなことをイエス様はなさったのか、そんなことを知る鍵が書かれてあります。
例えば、1章の21節には、街道に入って教えられた、このイエスというお方は、街道、それはユダヤ教の人たちのシナゴークという、今でいう教会の教会道のようなところですが、
12:16
そこに入っていかれて教えられた、このイエスというお方は教師でもあるということで、ここからわかるわけですが、それは立法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられた。
今まで民衆が教えをいろいろ聞いておった、その立法学者、あるいは長老の方々、宗教指導者、そういう人たちが教えていた、その教え方ではなくて、教える内容ではなくて、その教えておられるそのお方そのものが違うということを彼らは感じたんです。
このイエスがいろいろ教えてくださる、その中に権威というものをみんな感じたわけです。権威ある者のように教えておられたというのが、みんなの感想であるわけです。
あるいは一節の二十五節、二十六節で、穢れた霊を叱るとその霊は出ていった。このお方は穢れた霊を追い出すことのできるお方。
こういうふうにして一つずつ、民衆もこの私たちの前に現れなさったこのお方がどういう人なんだろうかということを興味があり、またもっと知りたいとそう思ったわけですね。
ですからイエス様の行くところをどこでもついていって、どんな教えをなさるのか、何をなさるのか、何を言われるのか、耳をそば立てて、そういうふうにして聞いておったわけですね。
その中の一つで穢れた霊を叱るとその霊は出ていった。こんなこともなさるんだ。そしてイエスの評判はガリラやゼンドに広まっていった。
あるいは熱病の指紋のシュート目がこのイエス様によって癒された。このお方はこの病の人も癒すことのできるお方。医者だろうか。いや、医者でもない。
悪霊を追い出し病人を癒す。そういうことをなさるお方。私たちも福音書を読んでいくにつれて、一体このイエスというお方はどういうお方なんだろうか。何のために人々の前に現れなさったのか。それが私たちの目的でもあります。
15:03
その一つの答えとして、このようにイエス様は言っておられるわけです。一章の三十八節。さあ私たちは福音を知らせに行こう。私は福音を知らせるために来たのだ。民衆にとっても私たちにとってもここで一つの答えを見るわけです。
イエス様というお方は、教えもなさり、悪霊も追い出し、病を癒す。それが目的でみんなの前に現れなさったのか。すると、もちろんそれもしますけれども、私は福音を知らせるために来たのだ。これがイエス様がおっしゃった一つの答え。それじゃ福音とは何だろうか。
私たちはこの福音というものを、例えばマタイの福音書を通して、あ、これが福音なのか。マルコの福音書を通してここに福音というものがある。ルカ、ヨハネもそうですね。福音書を通してイエス様の言われた、私は福音を知らせるために来たのだというその福音とは何か。それを私たちはこれからさらに深く広く見ていくわけであります。
2章に入りまして、多くの人たちがイエス様のところに集まってきて、2章の2節、戸口のところまで隙間もないほどになった。そしてこの人たちにイエスは御言葉を話しておられた。御言葉を通して教え、また導いておられたという。イエス様の行くところどこへでも人々はついていった。
そして3節からのところも1人の中部の人が4人の友達に担がれて、そしてイエス様のところに癒してもらいに来たわけです。ところがたくさんの人のためにイエス様のところへ連れて行くことができない。
そして考えた挙句、「そうだ、この屋根の上に登って、そして穴を開けて中部の人を寝かせたままそのとこをイエス様の前にちょうど来るようにそのようにした。」そんなことをされたこの家の人はたまったものではありませんが、それは問題ではなくて、5節の言葉、2章の5節の言葉が問題であります。
イエスは彼らの信仰を見て、中部の人に、「こよ、あなたの罪は許されました。」と言われた。
18:04
この言葉の中に、また1章には出てこなかった私たちにとって初めて見る言葉が書かれてあるのに気づきます。
1つは、イエスは彼らの信仰を見て、この信仰ということがこの2章から出てくるんだな、そのように私たちは気づくわけです。
それと、「罪は許されました。」この罪という言葉もこの2章から出てくるということを私たちはもう一度思い起こすこともできるし、そのように私たちは学ぶことができます。
これは大きな福音書の中でも大事なところであります。
私たちはこれからこの福音書を読んでいきます。あるいは聖書というものを読んでいくわけですが、もう一度確認しておきたいことがあります。
何度も言いますが、基本のことですから、もう既にわかっていますとおっしゃる方も聞いていただきたいし、初めて聞かれる方もそうだったのかということで、また一歩そこから歩み出していただきたいと思うんですが、私たちが今読んでいるこの聖書。
この聖書は日本語訳であるということ。旧約聖書は原文ではヘブル語で書かれて、新約聖書はギリシャ語、コイネギリシャ語といわれる当時のギリシャ語で書かれています。
それを日本の聖書翻訳委員会とか、あるいはその委員の先生方、あるいはそういう専門の人たちが訳された、それが私たちが今読んでいる日本語の訳の聖書であります。
ヘブル語の聖書、ギリシャ語の新約聖書を見ておられる方、おられますか。いないですね。私たちが見ているのは日本語訳の聖書。
日本で今一般にこの日本語の訳の聖書、どのような訳の聖書があるかといいますと、交互訳聖書、そして共同訳、あるいは新共同訳聖書、そして新改訳聖書、そのほかにもいろいろあるんですが、だいたいこういう聖書、翻訳の聖書を私たちは読んでいるわけです。
21:05
最初に日本にこの聖書が来て、あるいはそれを見た、読んだ日本人、あるいはそれを伝えた宣教師の人たちは、当時はこの簡訳聖書といわれる漢文をもって翻訳をしたというふうにいわれています。
その後は文語体の聖書、何時は何時というやつですね。そういう形で翻訳も変わってきておりますし、また翻訳の聖書、いくつか種類があるということです。
それは当然といえば当然ですよね。ただ私たちが覚えておかなければいけないのは、日本語訳の聖書であるということ。
この翻訳にあたって、それじゃあその原文に書かれた元の言葉、それを翻訳する際に、おそらく翻訳をなさった方々は大変なご苦労をなさったと思います。
それは何かというと、その言語の持つ意味とかニュアンスをそのまま日本語に当てはまる場合はいいんですが、なかなかその言葉が見つからないときにどうするのかということなんですね。
特に今日は三つの言葉をあげたいと思うんですが、一つはエロヒイムという、これはヘブル語なんですが、エロヒイムという単語が聖書に出てくるわけです。最初の方からね。
このヘブル語をご存知の方、そういう人たちはエロヒイムというと、もうイメージできるわけです。それは唯一絶対なる、天地創造なるお方という、これがエロヒイムなんですね。
それを日本語聖書として訳すときにどう訳せばいいのか。翻訳された皆さんは大変ご苦労なさったと思うんですが、それを神と訳したわけですね、神。
そして私たちはそれを知って、日本語訳ですから日本の人々にそれを伝えていく。私自分自身もそれを見て、聖書に書いてある神、これもいわゆる私たち日本人が教えられた八百須の神の一つ。
そういうふうにとることも可能であるわけですし、私たちがエロヒイムとしての神を伝えたつもりが受け取った人々が、キリストさんの神様ですかというね、私たちもこういう神様を信じているんですよ、そういうふうになっていくわけですね。
24:23
ですから私たちがこの日本語訳聖書の神と見るときは、それはエロヒイムであったりギリシャ語のセオスという、そういうものであるというか、それは聖書を通してでしかわからないものですよね。
もちろん誤解が生じる、十分にエロヒイムセオスを表す言葉としてなかったのでしょうし、どうしても日本の人に伝えるためにそれを神と置き換えて読んでもらおうという、そういう思いがあったわけですから、それはそうとして私たちも受け取り、またそれを人々に伝えていく。
もう一つはアガペという言葉、これもギリシャ語ですが、ギリシャ人の人たち、ギリシャ語を理解している人たちにとってアガペというのはそういうものだというのは理解できるわけですが、
彼らには例えば憎しんの間に生じる愛とか愛情とか、それはそれとしての言葉があるんですね。あるいは友人間の間で、友達の間に生じる友情とかそういう愛情、それもまた違う言葉があるんですね。
それとは別に、神が表してくださった人間に対する愛、それがアガペという言葉なんですが、それが聖書に出てくるわけですね。
それを日本語聖書の中でどのように訳したらいいのかということを考えなさって、それを愛という漢字を持って翻訳したわけですね。
それが私たちが読んでいるこの新約聖書の中に出てくる愛、アガペなんですが、あるいは英語ではラブといいますが、私たちが持っていたイメージ、愛とかラブとかいうそういうものももちろんアガペの中に含まれますけれども、
アガペという、それは愛という言葉で十分表しきれているだろうかということを常に覚えながら、私たちが聖書を読んでいくとき、日本語聖書を読んでいくとき、これはアガペというものを愛と訳しているのだ。
27:15
だから私たちはこのアガペというものをこれからずっと見ていくわけです。
ただ日本語訳としてその愛というものが当てはめられているということさえ、まず私たちは覚えておきたいと思うんですが、それともう一つはハマルティアというギリシャ語。
このハマルティアという言葉も新訳聖書の中に出てくるわけですが、それをどう訳せばいいのかということをおそらく悩まれたと思うんですね。
ハマルティアというもともとの言葉は、的から外れているということなんですね。
それを当時のギリシャ語を理解する人たちは、その的というのは神様である、あるいは神ご自身、神の御心というものが的である。
それに対する人間がその的から外れている状態。
これをハマルティアとしたわけです。
これを日本語訳ではどういう言葉をはめたかというと、罪という言葉、あるいは漢字をはめたわけですね。
それではこのハマルティアという神様というお方、神様の御心という的から外れている状態、それを罪として十分得ているだろうか、あるいは誤解は生じないだろうかということを覚えながら、
このハマルティアあるいは罪というものを見ていかなければなりませんし、その外れている人たちを罪人というわけです。
私たちもこの聖書を読んだときに最初、あなたに罪がある、私に罪があるだろうか、あなたは罪人です、私は罪人、私は警察の厄介になるようなこともしていないし、裁判にかけられるようなそんな罪も犯していないし、
なのにあなたは罪があり、そしてあなたは罪人だと言われたときに、一体これは何を言っているんだろうか、あるいは私たちがやがて外に出て人々に罪のことを伝えるときに、その人はまた自分が感じたと同じようなことをおっしゃるに違いないと思うんですね。
30:09
私は罪など犯していません。犯罪も犯していません。そんなことを言うわけですが、この罪というのは、ですから、もともとのギリシャ語ハマルティア神様の御心、神様が、その神様の御心ということも私たちはこれから学んでいきますし、見ていくわけですが、
神様が良しとしないもの、そういうものの中に私たちがいるならば、それはハマルティアであり、そういうものを持っている罪人なんだということですね。
でも、このハマルティアを罪、罪ではなくて、こういう感じを当てたということは、私はあながち間違ってはいないし、これはよくわかると思うんですね。
神様が願っておられないことを私たちがするしないに関わらず、そういうものを持っている。神様が嫌だなと思うことを人間どもがそういうものをうちに、人々にはわからないけれども神様にはわかるそういうものを持っている。
それが罪なんだということを知ったときに、この罪という感じはわかりやすいな、いわばこういう虫が私の中にいるんだということですね。
ちょっと書いてみます。こういう罪という感じ、こういう虫が私の中にいるんだろうな。やはりこの虫がいたら、私たちはこれを誰かに取っていただかなければならない。そんなことを思うんですね。
こういうものをある限り私たちは的から外れた、そういう罪を持っていますし、そういう罪人なんだということ。それがもう一度私たち今日確認しておきたいことであります。
私たちは原文を読むことはできませんので、日本語訳に頼らざるを得ません。ですから神にしろ、愛にしろ、罪にしろ、私たちは本当の元の言葉の持っている意味とかニュアンスをちゃんとわかるようにまた聖書を読み進んでいけば、それは深まっていくでしょうし。
33:08
何よりもやはりこの精霊が、三玉子自身がどんな漢字を当てられても、私たちは三玉によって書かれた聖書は、私たちの三玉によって読んでいくとき、それはわかるんです。
ですから聖書に神と書かれてあっても三玉がそこに働くならば、私たちはもうすでにエロヒムというお方を背していますし、セオスというお方が私の神である。そこには決して八百万の神も偶像の神もそういうものは一切入り込む余地のないほどに、精霊がそれを守ってくださる。
愛と記されている、それはアガペイなんだ、そういうことを精霊様は私たちに示してくださいますし、私たちがそれを人に語るときも、その人も精霊によってその愛と言われているのはアガペイなのだということがわかるわけです。
この罪も決して私たちが何か悪いことをした、そして犯罪を犯した、犯していない、そういうものではない。ハマルティアという神様の御心に沿わない、神様が喜ばれない、神様という的から外れている、そういう心の状態、そういう魂の状態。
それがハマルティアであり、また聖書の言う罪なのだということを精霊が示してくださいますし、導いてくださいますから恐れるに足りないわけです。
そういう中でイエス様はこれから人々に現れ、そしてこの神の国を説いていかれた。その中の一つに十五節からのところですが、イエスは彼の家で食卓につかれた。
その前に十四節ですが、イエスは道を通りながらアルパイオの子レビが集税所に座っているのをご覧になって、私についてきなさいと言われた。
この集税所という、それは税金を取り立てる役所のようなものですが、当時はローマがこの土地を支配しておりましたし、その民衆を支配して税金を取っておったわけですが、民衆もその税金に苦しめられていた。
これはいつの時代もどの国でも税金には苦しめられます。そしてその集税所に座っているということは、このレビという人物は税金の取り立て屋であるという後の方に出てきます。
36:12
主税人というものだということがわかります。
この主税人であるレビという人は、ローマの雇い人、手先として同じ同胞のユダヤ人から税金を集めていたというよりも、せしめていた。
あるいは時には搾取しておった。少し税金をごまかして取り立てていた。税金を払えませんというと、このローマの権威をもってそれを罰するというような。そしてローマにこびってそれを代わりに収めておったわけですね。
当然、人々はこの主税人たちをどういうふうに言うか。やつらは罪人だというんです。
要するに民衆当時の人たち、特に出てきます立法学者、パリ裁判の立法学者、あるいは妻子、あるいは長老、宗教指導者、その人たちにとったら、こういう連中は神様から遠く遠く離れた。
それこそ神様の御心から遠く遠く離れた者たち、ハマルティア、その中にいる罪ある人たち、罪人だというレッテルを貼られておったわけですね。
そういう主税人にイエスがそこを通られるときに、私についてきなさいと言われた。すると彼は立ち上がってイエスに従っていった。
これを見ておったパリ裁判の立法学者たち、彼らにとっては、今や人気絶頂、イエスという教えもし悪霊も生い出し、そして権威あるそのようなお方、そして病も癒してくださる、
みんなが慕っていく、そういう人、そして神様の御心を行う、そういう人であると見たイエスが、なんと自分たちは口も聞かない、一緒にお茶も飲まない、食事もしない、
そのような主税人、罪人と言われる人に声をかけて、私のところについてきなさいと言って、一緒に食卓についているではないか。これを見たときに彼らは大変驚いたわけです。
なぜイエスが、あのような神様から遠く離れた、罪あるハマルティアの人たちと一緒に食事なんかするのか、あるいは親しそうに話をするのか、それはもう考えられないということですね。
39:16
今日私たちは、ここにこのイエスというお方がどういうお方なのかということを見るわけです。このパリサイ派の立法学者たち、長老たち、宗教指導者、彼らは自分たちは神様の的の中にいる線を引いて、
こちらが神の側とするならば、そちらは神から遠く離れたハマルティア、罪人の者たち、そして私たちは神の側という、そういう者たちだ、正しい人、儀なる者たちという。
ですから線を引いてますから、私たちはそういう向こうの罪人たちと交わることなんかしないし、一緒に食事なんかとんでもない。ですから当然イエスも私たちの側、神の側の人たちだと彼らは見たわけです。
ところがそのイエスは、そういう線を越えてというか、このお方にはそういう線引きなんかないんだということを、この立法学者たちは見たわけです。そこにいる人たち、それが主税人であろうが、誰であろうが、声をかけては私についてきなさい。一緒に食事でもしようじゃないか。
これはパリ裁判の立法学者たちにとっては大変な驚きであったわけです。
その答えが、今日のこの十七節の言葉。
医者を必要とするのは病人です。自分に熱がある、あるいは毒素が痛い、あるいは自分が気づかなくても誰かが、あなたちょっと具合悪いんじゃないの、医者に行ってごらんなさいと言われると、確かに隠れたところに病が見つかった。
42:13
そういう人がやはり医者を必要とする。だから医者はそういう病人のためにあるのだという例えを持ってこの世に行ったんですね。
私イエスは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。特にこの私は罪人を招くために来たのです。
この罪人が例えで言えば病人です。心に魂に神様を悲しませる、そういうものを、罪というような虫を持っている、そういう罪人なんです。
だから私はそれを取っていただきたい、そこを癒していただきたい、そういう人が医者であるこの私を求めて、そしてついてくる。それは当たり前じゃないか。
私もそういう神様から離れて、そして悩み苦しみ、そして痛み、そしてみんなからのけものにされて、罪人のレッテルを張られて、そして中には誰もお茶も飲んでくれない、食事もしてくれない、孤独に苛まれている、そういう人たち。
そういう人たちのところに行って、その人たちを慰め、癒すのが私の務めでありますし、私はそのために来たのです。
それが私は正しい人を招くためではなく、これはイエス様流のひとつの皮肉を込めた言い方ですね。
立法学者たち、パリサイ人たち、あるいは祭司、宗教指導者、長老たち、あなたたちは自分は正しい、丈夫な人だ、私には医者は何かいらない、私を正しいに導いてくださる人は必要ありませんと言っておられる。
そういう人には私はそれじゃ御用はないですね。でもこの人たちには私が必要なんです。私もその人たちのためにこうしてここにいるのです。
それがイエス様の答えであります。
ですから、今日の説教題のイエスは誰を招くのか。それはこの罪人を招く。イエス様は罪人を招いておられる。
45:08
そしてイエス様はこの主税人に代表されるような神様から遠く離れたそういう人たちをお招きなさるのですね。
でもイエス様はさらに言いたかったのは、パリ裁判の立法学者たちよ、あなたたちこそ本当は神様からもっともっと遠く離れている。
私は正しいのだ。私は神様の見心通りにやっているのだ。そして立法を全て守っている。こんな主税人や罪人どもとは違うんですよと。
あなたの心こそ神様は一番お嫌いになって、そしてあなたこそ的外れの罪人、そういう罪人であるパリ裁判の立法学者たちをあなたも私は招いているのです。
すなわちイエス様が招いておられるのは全ての人です。これがイエス様のお答え。そしてもう一度私たちはこのイエス様の声を聞いて、きょうここに招かれたことを感謝したいと思います。お祈りします。
イエスはこのように言われた。医者を必要とするのは丈夫なものではなく病人です。私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。
めぐみ深い天の父なる神様、私たちはこのイエスというお方をさらに深く、そして礼で知りたいと願っております。どうぞ福音書を通してこれからも教えてくださいますように。
見前に減り下って見言葉の中に隠されているその真理を私たちにこれからも教えてくださいますように。そしてこのお方が私の主であり、また私を導いてくださるお方であり、そしてこのイエスを学ぶことは私たちがどう生きていけばいいのかという生き方を学ぶことなのだということをどうぞこれからも教えてくださいますように。
この見言葉を聞かれたお一人お一人が豊かな祝福を受けられることを信じて主イエスキリストの皆によってお祈りいたします。アーメン。
47:54

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