1. 名谷教会
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2025-01-12 31:10

2025/01/12:主の勝利を頂く

2025/01/12 聖日礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 4:1-11


サマリー

このエピソードでは、イエス様の使命と悪魔との対峙について語られています。特に、イエス様がイスラエルの民の誘惑と苦難を引き受け、真の王として平和をもたらす様子に焦点が当てられています。マタイの福音書を通じて、神の言葉の重要性が強調されており、日々の糧としての神との関係が語られています。このエピソードでは、イエス様が悪魔の誘惑をどのように克服されたかについても触れられています。特に、イスラエルの民の過去の試練と真の神に対する信頼について考察されています。イエス様が悪魔の誘惑に打ち勝ち、十字架での勝利を通して人々に救いをもたらされたことが伝えられています。人々はその勝利を覚え、神の子としての生き方を実践することが求められています。

イエス様の使命
それでは、今朝はこの箇所から、主の勝利を頂くと題して、御言葉を取り継がせて頂きます。
本当に今年は、今の時期に寒さが来ております。皆さんお体大丈夫でしょうか。
だいぶ寒さに、体も心も疲れを覚えるということが私たちはありますので、
ぜひお大事になさって頂いて、礼拝の時も楽な姿勢でいて下さればと、そう願っております。
今年は、12月の頭のアドベントからそうでしたが、私たちは順にマタイの福音書に聞いていきたいと願っております。
他の福音書もそうなんですが、マタイの福音書は特に、イエス様ってどういうお方ですかということを表すのは、
これは旧約聖書の常珠なんですよという形で語る、そのような書簡です。
これまで見てきましたけれども、マタイの一章の経図がそうでした。
イエス様は、アブラハムのあの祝福の基である。
イエス様は、あのモーセとヨシワのようなものであり、
イエス様は、そのモーセとヨシワが率いたイスラエルの使命を担う真のイスラエルのようなお方であり、
イエス様は、ダビデ契約が約束した永遠の王である。
このお方は、この世界の暗闇を照らす誠の光であり、
前読んだ3章のところには、このお方は正しいことをすべて実現するお方である。
そしてこのお方は、神の愛する子、神様の喜びである。
様々なイメージがイエス様に集約していますが、イエス様はそれをすべて実現されていく。
それがマタイの福音書が語っていることです。
このイエス様が活動されることの大きな目的は何かと言いますと、
それは一言で言うならば、この世界が癒され、回復していくということがイエス様の目的です。
このことは旧約聖書において、父なる神様がこの世界に実現したかったことなのです。
悪魔との対峙
なので父なる神様はアブラハムを選び、アブラハムの子孫であるイスラエルを選び、
彼らにこの世界を回復させるという使命を与え、彼らに立法を与えました。
立法は彼らを神様を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛することを教えて、
そのような世界を通しこの世界を回復させるというのが神様の大きな目的でした。
しかし私たちはよく知っています、それは実現をしませんでした。
そしてそれが実現しなかった大きな原因、行く手を阻むもの、
それは彼ら自身の中にある罪であり、悪魔の誘惑でした。
ですから今朝のお菓子をご覧いただくならば、実は今やイエス様はイスラエルの使命を引き受け、
世界の回復をここから始めていかれるのですが、
その最初に避けられないところへとイエス様は向かっていかれる。
それは何かというと、悪魔との対峙です。
あらのでの40日40夜の断食というのは、私たちにイスラエルのアレノの40年を彷彿とさせるものです。
イエス様はかつてイスラエルを落とし入れ、神様のご計画をとんざさせたあの悪魔と向き合われ、
そしてそれを乗り越えるということを最初にされる。
以前も少しそういう話をしたかもしれません。
私たちは悪魔を信じているでしょうか。
神様を信じると同じくらい、私たちは悪魔の存在もまた信じなければならないのだとも思います。
悪魔の誘惑というのは今も現実的な課題です。
この世界を見渡すときに、悪魔の所業にしか見えないということを私たちは目にいたします。
それだけではなくて、キリスト社の間にまさに信仰を持つあの人、あの先生がまさかということを私たちは目にすることがあります。
人間の弱さを利用して今も悪魔は働きます。
破滅へと私たちを導く脅威です。
しかし今朝私たちがご一緒に見るのは、その悪魔にイエス様が立ち向かわれるというその光景です。
なぜイエス様は立ち向かわれるのでしょう。
それは、誠の王であるイエス様は、イスラエルの民の出会う誘惑も苦難もその身に引き受け、それを乗り越えることによって民に平和をもたらす王様だからです。
その道筋を今朝ご一緒に見させていただきたいと、そう願っております。
パンと神の言葉
さて、今日の歌詞を見ていただくならば、2つのポイントで挙げさせていただきます。
1つは、悪魔の誘惑というものはどういうものかということです。
この今日の4章を読んでいただくときに、ここには3つ悪魔の誘惑があったということが書かれていますけれども、
この1つ1つの誘惑を見ていくときに1つ気づくのは、これは旧約聖書のイスラエルの民に課せられた、
イスラエルの民を誘惑したあの誘惑と、まったく同じものがここで課せられているんですね。
まさに悪魔によってイスラエルが神としての召しを失っていったように、
悪魔はイエス様に与えられた、あなたは私の愛する子、あなたは私の喜びであると言われた、
あの神の子として歩む召しを悪魔は揺さぶっていきます。
第一の誘惑は4章の3節でした。
3節。
すると心を見る者が近づいてきて言った。
あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。石をパンに変えなさい。
空腹であったイエス様には、とても魅力的な提案であったことでしょう。
私たちも思い出したいのですが、イスラエルの民はアレノの中で、
今日明日食べるものがないという恐怖に襲われました。
彼らは言いました。
ああ、エジプトにはパンが満ち足りるほどあったのに、我々はこのアレノで死んでしまうと、
何度も何度も出て行く時で彼らはうめきますね。
しかし、この叫びというのは、彼らは実はパンが満たされたら水がない。
水が満たされたら次何がない、何がないということが繰り返されていくことを私たちは気づきます。
この叫びはこういう叫びだと思うんです。
私が食べるパンが、服が、家が、仕事が、立場が、何かが私を生かすものであり、
これがなければ死んでしまうというものを、私たちは叫びとして持っている。
これがイスラエルの民の叫びであり、私たちの叫びであったかもしれません。
だから、石を、何でもない石を、もしも神様の力によって、
これがなければ死んでしまうという、あなたが心から必要としているものに変えられるのであるならば、
こんなにいいことはないじゃないか。さあ、今すぐ神の力で変えなさいという誘惑。
ただイエス様はこの誘惑に、アレノの言葉、まさにイエス様のお答えは先に言っておきますが、
これ全部神明の言葉でイエス様はお答えになります。
アレノが与えられた言葉で答えられます。4章の4節。
イエスは答えられた。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きると。
これは神明記8章に書かれている言葉です。そんなにパラパラしすぎないように今日は気をつけますが、
しかし神明記の8章をちょっと読ませてください。神明記の8章の2節から5節というところをお読みいたします。
神明記8章の2節から5節というところをちょっとお読みいたします。
こういう言葉が書いてあります。神明記8章の2節から。
あなたの神主がこの四十年の間、アレノであなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。
それはあなたを苦しめてあなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心の内にあるものを知るためであった。
それで主はあなたを苦しめ、植えさせてあなたも知らず、あなたの人たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。
それは人がパンだけで生きるのではなく、人は主の身口から出るすべての言葉で生きるということをあなたに分からせるためであった。
この四十年の間、あなたの衣服は擦り切れず、あなたの足は腫れなかった。
あなたは人がその子を訓練するように、あなたの神主があなたを訓練されることを知らなければならない。
アレノという場所は、私たちもイスラエルの民の夢を思い出すならば、何もない場所ですね。
炭も水もない。
彼らは叫びました。何でこんなところに私たちを導いたんだ。
けれどもこのアレノという場所は神様にとっては大事な目的がある場所でした。
それは何かというと、アレノという食べ物も水もないこの世界の中で、神様ご自身が豊かに彼らの食べ物も、衣服も、安全も、すべてを担われる。
そのような神は恵み深いお方なんだということを、彼らが知るための旅路だったんですね。
それを教えるための旅路でした。
ですから、パンが不要だなんて言ってないのです。
仕事の糧は求めなければならない。
けれども、人がパンだけで生きるのではない。
むしろ大事なことは、パンも衣服も安全もすべてを担うほど、彼らを生かし支える恵み深い神がおられるということです。
だから日ごとの糧を神に私たちは求めようと招かれる。
それを知る場所でした。
イエス様お答えになります。
まさに、人はパンの実で生きるのではない。神の御口から出る一つ一つの言葉で生きる。
これがなければ死んでしまうというものは、パンではない。
パン以外の何物でもない。
日ごとの糧をただ恵みによって備えてくださる、父なる神様の言葉。
もっと言うならば、父なる神様との愛の交わりこそが、
無くてはならない、たった一つのものだとイエス様は言われるんです。
これをわかっていたのはマリアでしたね。
主のもとにジーッと、イエス様の言葉だけ。
でも無くてはならないものは、ただ一つだとイエス様は言われましたよね。
このことを思うときに私たちも、不当誘惑がないか、そして私たちはどう答えているかと問われるような気が致します。
これが無くてはならないというものは、私たちの中にはあるでしょう、きっと。
イエスの第一の誘惑
それも否定されるべきものではないかもしれません。
ただ、一つ思い出さなければならないのは、それをも与えておられる神がおられるということです。
そして私たちは、何者かのものではなくて、誰かではなくて、それをも備え与えている神様というお方との交わりこそが、
無くてはならない、たった一つのものだということを、やはり確認しなければならない。
そう思わされます。
そして第二の誘惑がありました。
第二の誘惑は四章の五節から六節です。
すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせてこう言った。
あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。
神はあなたのために御使いに命じられる。
彼らはその両手にあなたを乗せ、あなたの足が石に打ち当たらないようにすると書いてあるからと。
二つ目の誘惑は神を試せというものでした。
御言葉にもそう書いてあるではないかと。
悪魔は巧妙です。イエス様が御言葉を通して答えるということがわかった途端に、彼らは御言葉を通してイエス様を誘惑し始めます。
ただそれは実にずるいやり方です。
悪魔が引用したのはこれは詩編の91編の言葉。
本当のニュアンスは、だから神は信頼に値するという言葉ですよね。
でも悪魔はその意図を巧妙に切り替えます。
本当に神は信頼に値するんですかという問いかけに、かえってイエス様にそのことを投げかける。
実は私たちも思い返すならば、イスラエルの民も神を試すということがありました。
開くと長いので開きませんが、出エジプト記の例えば17章の1節から7節というところには、
あらので民が水を求めるというシーンがあるんですね。
水がない水がない。そしてモーセに水がなければ死んでしまうと叫び。
そしてモーセはなんで私や神を試すのかと言って、結局モーセが石を打って水をそこで流れ出させるということがありますね。
その時に聖書に書かれているのは、このことを通して彼らは主が私たちのうちにおられるかおられないかを試したということが書かれてあります。
主を試すというのは先日めてそうなのでしょう。主が私たちと共におられるかおられないかを試しなさい。
そしてそれを力が表されるかどうかで試しなさいという誘惑ですね。
注意しなければならないのは、一見これは信仰的に見えます。
現代も力が現れるところ、身業がなされるところに神様がいると私たちは考えます。
そういうことで、だから身業が現れているここが本物で、そんなことが起きていないあなたたちのところは偽物ですみたいな話も私たちはよくしがちです。
ただ忘れてはならないのは、聖書は悪魔も奇跡を起こすと書きます。
何かの印を持って神への信頼を試せというのは、言い方を変えるならば、あなたは神を試さなければ神を信頼できないということを告白しなさいという誘惑です。
何かの力がなければ何かが表せなければ神はあなたは信じられないんでしょうという誘惑ですね。
ただイエス様はこのことにも答えます。4章の7節。
あなたの神である主を試みてはならないと書いてある。これは新明紀6章の16節の言葉です。
またこれもパラパラになって申し訳ないのですが、ただ新明紀の6章これも読みます。聞いていただけたらと思いますが、6章の16節にはこういう言葉があります。
あなた方がマサで行ったように、あなた方の神である主を試みてはならない。
マサというのは、まさにさっきの出江敷月記の17章の箇所の話です。
水が出るかどうかで神がいるかいないかを試してはならない。
なぜでしょうか。その前の箇所の新明紀の6章の10節から12節にはこういう言葉があります。6章の10節、12節。
あなたの神主は、あなたの裾をアブラハム・イサク・ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てたのではない大きくてすばらしい町々、あなたが満たしたのではないあらゆる良いもので満ちた家々、
あなたが掘ったのではない堀戸、あなたが植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与えて下さる。
それであなたは食べて満ち足りる時、気をつけてエジプトの地奴隷の家からあなたを導き出された主を忘れないようにしなさいという言葉があります。
力が表されるかどうかで神がそこにいるかどうかを確かめなさいという悪魔の誘惑がある。けれども新明紀は全く別の次元の話をします。
私たちがむしろ意識をしていなかったものが、私たちがむしろ植えなかった、建てなかった、私たちが何も欲しいとも思う前から、神というお方は私たちのすべてを満たされてきた神である。
そのような神様であるということを思い出す時に、ここのところに神様がおられるかおられないかということは明らかに愚問ですね。
私たちが主を意識しないそのところにすら神はおられる。私たちが願わないところから神はすでに私たちの願いを知り働いておられる。
そのような一時すらも一日すらも私たちから離れることのない神こそが神であるから忘れるなということを新明紀は語っている。
試みるということ自体が明らか的外れである。試みるまでもなく神はそこにおられる。神様を信じるために私たちは試みてはなりません。
ちょっと乱暴な言い方をするならば、信じなければ神様はわかりません。だから信じるということが大事だと思うのです。
そしてこれらの二つの誘惑、一個目の誘惑も二つ目の誘惑も共通する言葉があります。
それはあなたが神の子であるならという言葉が両方ともその誘惑に出てくるのです。あなたが神の子ならと。
この二つの誘惑は明らかに3章の17節にあるあなたは私の愛する子すなわち神の子として神様に愛され主と共に歩み始めたその道筋からイエス様を外そうとするそのような試みでした。
それはあなたを生かすのは神様以外のものでもいいでしょうという誘惑。
あなたの神を本当に信じるに値するお方なんですか。それを確かめたらいいじゃないですかという誘惑。
そのどちらもが神様とイエス様の愛の交わりを歪めるものでした。
しかしイエス様は神様との愛の交わりを中心においてその誘惑を乗り越えていかれる。
イエスの第二の誘惑
そのようなことが書かれているのです。
そして二つ目のポイントに行きますと、二つ目はまさに下がれサタンということです。
三つ目の誘惑はまさにあなたが神の子ならという言葉はもう入ってきません。悪魔はついにその本性を表します。イエス様に襲いかかります。
最後の誘惑は4章の8節ですね。悪魔はまたイエスを非常に高い山に連れて行き、この世の全ての王国とその映画を見せてこう言った。
もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげようと。
すべての王国と映画を見せるあなたを豊かにするものを私はすべてあげるから、神ではない私を拝みなさいというそのような最後の誘惑です。
あなたが欲しいものはすべて、それを支配する力も所有する力も私は与えてあげるから。
だからその結果、神ではないものを拝みなさい。イスラエルの民の中に何度も起きてきた偶像崇拝の誘惑ですね。
これがアレノの40年の中で最も神様とイスラエルの関係を痛めたものでした。あの金の格子がまさにそういうものであったでしょう。
食べ物がない、食べ物が欲しい、神様はそれに答えてパンとうずらを与えました。
パンとうずらが満たされたら今度は私たちは自分を守ってくれる国が欲しい、王様が欲しい、再現のないそのようなものがあり。
土地を所有したい、他国を支配したい、それらに心が奪われる中で、イスラエルの民は目に見えて自分たちをわかりやすく助けてくれる王よりも、神よりも、
自分たちの支柱に収まるような自分たちの願いをわかりやすく叶えてくれる神様を求め始める。
ただ、誠の王であるイエス様はどうされるのでしょうか。
すべての王国と映画を見てイエス様は心が踊ったでしょうか。
イエス様はこれらすべてを支配し所有する王様になりたいと願われたでしょうか。
そうではないですね。
イエス様がお答えになったのは十節です。
そこでイエスは言われた、
これは神明記の6章の13節と、神明記の10章の20節という2つの箇所の合わせ言葉です。
神明記10章の20節の後にはこういう言葉が続きます。
神明記の10章の21節には、
神明記の10章の21節には続きます。
この方こそあなたの賛美、この方こそあなたの神。
この世界の神は賛美を受けるべきお方は、
このお方の前にまさに4章の10節の
あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ使えなさい。
それこそが神の子として歩む私たちにとって一番大事な飯ですね。
何かを所有し支配することが大事なのではない。
イエス様ご自身が求めてこられたのは、神様を礼拝し神様に使えることでした。
そのためにイエス様というお方は、何かを所有しようとするのではなく、
自分の立場、神である在り方を放棄し、
人々に使えられるためではなく、使えるためにこの世界にいらっしゃいました。
この世界を支配するために来たのではなくて、
この世界を回復させるために、まさに神の御業に使えるために、
人々に使えるためにイエス様はいらっしゃった。
最後の誘惑に対するイエスの反応
このイエス様の姿、神様との愛の交わりにいき、
神様の言葉によって悪魔の誘惑を振りほどき、
神の子としての飯である主を礼拝し主にのみ使えるという生き様こそが、
実は神の子として召されている一人一人にふさわしい姿である。
それこそがおそらく神の子であり、神の民の生き様、
誠のイスラエルとしての生き方、
それがまさにこのイエス様の誘惑に応える姿の中に現れている。
この誘惑を超えてまさに、イエス様は4章の16節にありますが、
暗闇の中で輝く世の光としてこの世界で輝き始めた。
そしてその方がこの世界を照らし始めるというのが、
マタイの福音書で起きてくることです。
さて、もう終わりますけれども、
この悪魔にイエス様が最終的に勝利された場所はどこだったでしょうか。
それは十字架、十字架です。
イエス様はボロボロになるまで傷つけられます。
骨が見えるほどまでに鞭打たれ裏切られ、
茨の冠をかぶせられ、手足を釘で打ち抜かれて、
あの十字架で死なれる技というのはまさに悪魔の商業です。
そこに悪魔の御手が誘惑があったでしょう。
暗闇の時をイエス様は生きなければなりませんでした。
悪魔の誘惑は、神様の使命を無視して他人を救わず自分を救いなさいという誘惑が常にあの十字架の場にはあったでしょう。
しかしイエス様はその誘惑にその場で完全に打ち勝たれました。
自分を救うのではなく、罪人を救うために私は命を捨てる。
最後まで誠の王として神の御胸に従い切りました。
十字架は茨の冠、イエス様がつかれた王座は十字架。
けれどもそのところに完全に悪魔に勝利し、罪人を救う神の御技が完成をする。
私たちはそのイエス様をよく知っているはずです。
御自身を死にまでも従い尽くしたがゆえに、悪魔はイエス様に何一つ勝利することはできません。
イエス様は悪魔に完全に勝利されたのです。
神の子としての生き方
そしてそのイエス様の裂かれた体と血をいただくことは一体何を意味するのでしょう。
それは私たちもまたこの主イエス様が勝ち取ってくださった勝利を生きるものとするということです。
私たちはいつも覚えなければならないでしょう。悪魔の誘惑は現実的です。
私たちは本当になぜあの人がこんなことをということに出会います。
けれども私たちはいつも思い出さなければならない。
私たちはかつてのイスラエルのように無力なのではない。
もはや無力ではない。
イエス様が悪魔の誘惑に勝利されたならば、
精霊様は私たちのうちにイエス様を築いてくださる。
まさにその勝利を得させてくださる。
私たちはどうか悪魔の誘惑が、
あなたは神に喜ばれている、神に愛されている子なのだという確信を揺るがすような誘惑が私たちにあるのであれば、
私たちはそれを無感覚ではなく、自覚することができれば幸いであると思います。
そしてそのことに気づきながらも、もしも誘惑を覚えるならば、
このあれので悪魔に勝利をされた種を、私たちはいつも胸に覚えなければならない。
そして精霊なる神によって、私たちはこのお方の勝利に連なるものにされているのだということを覚えなければならないと思います。
私たちに勝利を与えるべく、ボロボロになりながら、
先んじて誘惑を超えた種の言葉を、今朝はしっかりと私たちを覚えておきたいと思うのです。
さがれサタン、さがれサタン。
あなたの神である種を礼拝し、種にのみ使えなさい。
私たちは心の中で誘惑を覚えるときに、この言葉を覚えたいと思います。
私たちは本当に何者であるのか。
神の子であり、神の子として生きるとはどういうことなのか。
種を礼拝し、種にのみ使える。
そのような意味を、私たちも互いに気づかせていただけたら幸いであると思います。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
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