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2018-12-30 27:33

2018/12/30:言い尽くせない神の恵み

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 2018/12/30 聖日礼拝

尹善鎬牧師

詩篇 23:1-5

00:01
今日は、開かれています新編の23編のところから、言い尽くせない神の恵み、言い尽くせない神の恵みを主題にして、
横丁の恵みをお伝えしたいと思います。
それでは、メッセージの前に、久しぶりに帰省された方々に、挨拶を伺いましょうか。
おはようございます。ありがとうございました。お伝えいたします。
主は私の辻解、私は乏しいことがありません。アーメン。主よ、本当にそうです。
主が私の大牧者であられますから、誰が何が敵対できるでしょうか。
そんなことはありません。そして、乏しいことはありません。
主よ、今日も御言葉を通して、私の魂を主を満たして潤して、
ただただ、あなたに信頼をおき、あなたに従っていくものとさせてください。
信仰を引き上げて、また、私たちの思いも考えも歩みもすべて、神様に焦点を当てて歩むものとさせてください。
主、御自身がお語りくださいますように、神様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
今日は今年の最後の礼拝となります。
まず、私たち一人一人に、あるいは家庭に、あるいは教会に、あるいは学校、あるいは職場に、
本当に言い尽くせない恵みを、慈しみを、愛を、また祝福を施してくださった天皇父なる神様に感謝いたします。
それから、共に礼拝を捧げ、共に奉祈をし、共に交わりをしてこられた皆様にも、本当に心から感謝いたします。
また、お互いそういうお気持ちではないでしょうか。心を尽くして奉祝してくださり、それがまた喜んでしてくださったことを、本当に感謝いたします。
03:10
皆様の様子を見ますと、時にはですね、目が回るほどとても忙しさの中にあっても、喜んでいろんな奉祝をしてくださいました。
あるいは人には言えない大変さの中にあってもですね、笑顔を忘れず、本当に心から喜んで進んでなじわってくださったり、あるいは接してくださったり、
あるいは委ねられた神様から与えられた、その勤めと言いましょうか、御法師を、本当に真公教としておられましたことを、
本当に誰よりも神様がですね、一番喜んでおられるに違いないと思います。本当に神様に、また皆様にも心から感謝いたします。
さて、今日はこの四篇二十三篇から、神様が私たちにどんな恵みを与えてくださったかを振り返り、また感謝を捧げする時を持ちたいと思います。
まず皆さんは今年一年間、心の中で、あるいは口から出る言葉の中で、感謝のことが多かったですか?あるいは文句が多かったんでしょうか?
それが神様に対してはいかがだったんでしょうか?あるいは家族に対してはいかがだったんでしょうか?
あるいは教会の兄弟姉妹に対してはいかがだったんでしょうか?感謝があふれたんでしょうか?それとも違うものがあふれたんでしょうか?
韓国のある有名なクリスタンのサッカー選手が、キリスト教の本を出して話題になっているそうです。そのタイトルは、「考えが自分になる」という本です。
考えが自分になる。彼はとても真実で有名なクリスタン、またサッカー選手ですけれども、本の中にこういうふうに書いています。
普段の考えが自分になる。例えば、普段よく感謝している人は感謝の自分になる。しかし、普段よく文句言う人は文句言う自分になる。
そしたら、自分から感謝が出てくる人と文句が出てくる人に明らかに分かれてしまう。普段の考えが自分になるからだ。
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最も大事なことは、神様は私たちの普段の考えも知っておられるということだ。こういうふうに書かれています。
皆さん、本当にそうなんです。どうでしょうか。
もし、それをためて、そして目で見る形で、一年間私たちが考えた、持っていた考えを積んで、
そして口から出た言葉を透明なガラスの中に入れて、それが見える形としたら、そこには感謝なんでしょうか。あるいは違うものだったんでしょうか。
今日の資源二十三篇は、ザビレの参加となっています。
まず一節を一緒に読みたいと思います。
主は私の羊かい。私は乏しいことがありません。アメン。
皆さん、ザビレは、もうとても確信に満ちて、堅く信じて宣言しているんです。
私は乏しいことがありません、と。わかるでしょうか。
主が、全能なる主が私の羊かいなんだから、私は乏しいことがありません、と宣言しているんです。
ここには、神様に対する絶対的な信頼があります。ほんの少しの隙もないんですよ。
例えば、ザビレがですね、「主は私の羊かい。私は乏しいことがないかもしれません。」ではないんです。
あるいは、「昔は乏しいことがなかったけど、今はちょっと無理だな。」でもありません。
あるいは、「主は私の羊かい。でも乏しいことはありますよ。」でもありません。
皆さんがもし、今年の一年間を振り返して、ザビレのように四辺二十三辺を一つだけ書いてみましょうと言ったら、何という参加をしたいんでしょう。
ザビレは断言しています。
主は私の羊かい。私は乏しいことがありません。この御言葉が、私たちの一生涯の称号であってほしいんです。
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一生これを言い続けて、明かしし続けて、宣言し続けていきたいんですね。そう思いませんでしょうか。
そして実際に見たしてくださる、羊かいなる日を経験していこうではないでしょうか。
あるいは、いや、こういうふうにですね、祈り求めてほしいんです。
神様、ザビレはこんな立派な信仰に満ちた歌を歌ったんじゃないですか。私もこんな信仰に満ちた歌が歌いたいです。
私にもザビレが経験した、私は乏しいことがないと言える人生をぜひ経験させてください。そんなものとならせてください。お願いしますと祈ろうではないでしょうか。
そういった良い志というか、行くというかということを持ってほしいんです。
信仰において最も重要なことは、ただ考える、ただ学ぶ、あるいは施策することではないんです。
神様に対する絶対的な信頼を持ち続けることではないでしょう。
神様は、作り主は、言葉でこの宇宙万物を作り成った神様は、私の大牧者である、羊飼いである、だから私は乏しいことが絶対にありませんという信頼なんです。
これをいつも持ち続けて歩んでいくこと、その道が信仰の道なんです。
それがないと私の信仰は、虚しいことになってしまうのです。
この一年を振り返ってみると、教会の兄弟姉妹方においては、ちょっとしたアクセントなんかはありましたけれども、大きな病気や事故や怪我もない、健やかな一年だったのではないでしょうか。
また、教会創立25周年を迎えて、記念礼拝やチャンプが喜びに満ちて行われました。
また、家族の福音に対する念願の祈祷が叶えられて、今日報道君をしていただきましたけれども、神奈川高田兄弟の受信の恵みにあずかり救われました。
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また、イースター礼拝や秋のウェルカム礼拝などを通して、福音を何とかして一人でも多くの人々に延べ伝えることができて、とても感謝でした。
もちろん、その背後には皆さんのお祈りと、誠心なお誘いと、あるいは奉仕があったことですよ。本当に感謝のことであります。
また、子供が少ない時代の中、多くの教会学校が閉鎖している中でありますけれども、教会学校に来ている子供たちがいて、また奉仕してくださる教会の先生方がおられて、本当にそれも大きな恵みではないでしょうか。
ダビレは忘れていません。いつも覚えています。そして感謝しています。
二節三節一緒に読みたいと思います。
二節と三節一緒に読みましょう。
主は私を緑の牧場にふさせ、憩いの水のほとりに伴われます。
主は私の魂を生き返らせ、皆のために私を義の道に導かれます。
アーメン。皆さんアーメンですか。
ダビレはですね、忘れていないんですよ。覚えているんですよ。
それで私はこれをダビレの誇りの感謝スポットと名付けました。勝手ですけどね。
緑の牧場、憩いの水のほとりは、ダビレの神様に対する誇りの自慢の感謝スポットなんです。
特定の場所ではありませんし、主要的な表現ではありますけれども、
ダビレは、例えば緑の牧場を見たら、自分がそこにいたら、あるいは水のほとりを見たら、
羊がそこで水を飲んでいる様子を見たら、もう感謝がですね、神様に対する感謝が粉石のように湧いてきたんじゃないか。
私たちもこんなところが持ちたいんです。
まあ、どこかの特定の場所を言うわけではありませんけれども、
私の緑の牧場、私の水のほとり、そこを持ってこのように歌えるクリスチャンになりたいんです。
例えば、それが御名の寄贈のところだったり、一人での賛美のところだったり、
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あるいは聖書に向き合って御言葉の恵みにどっぷりと浸かるところだったりして良いのではないでしょうか。
いや、いや、持たなければならないです。
主は私の執事会だから、私は乏しいことなんてないことを信じます。
もう一点考えてみたいと思います。
四節一緒に読みましょう。
たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。
あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。
ざりざりと言っています。
たとい死の陰の谷があっても、そこを通っても、そうなんです。
死の陰の谷があるかもしれません。
死の陰の谷、陰、苦しみ、涙、辛さ、病気、事故、死、失業、失敗、あるいは失言、そんなことがあるかもしれません。
しかしダビデはその後何と言っているんですか。
私は災いを恐れませんとね。
一節の二行目の私は逃しことがありません、私は災いを恐れませんとね、断言している。
確信に満ちているんです。
これが皆さん信仰なんです。
私たちはみんなこんな信仰者になりたいんです。
難しいことがあろうがなかろうが、つらいことがあろうがなかろうが、死を信じる私には一切関係なし。
なんと素晴らしい貧困なんでしょうか。
皆さん何かを恐れてはいませんでしょうか。
人の評価や世間の目や心の傷、失敗、成功、お金、将来、自分の弱さ、闘争。
皆さん、実はちょっと荒い言葉ですけれど、全部ゴミのようなものなんです。
実は私たちは何の不自由もないんです。
18:03
当ててみましょう。私たちが住んでいるこの国がどれだけ恵まれたところなのか。
森さえすれば安全に起こってくれる日本の優しいパスがあります。
早くて安全な電車があります。
何でも見れるスマホをほとんどの方が持っております。
テレビがあります。チャンネルさえ回せば、今押しますね。
押せばいろんな番組が見れます。
ボタンを押して回せば手に入ってくれる掃除機があり洗濯機があります。
炊飯器があります。干しガスがあります。
こっちさえ回せばお湯が出てくれますし、電気がありますし、
他の国にはなかなか手に入れないものが100円ショップにいたらたくさんあります。
それだけではありません。
教会に行けば礼拝があり、教会像があり、基督会があり、
足りないものですけれど牧師がおり、兄弟姉妹方がおり、
またこの国には信教の自由があります。
実は何の不自由もないんです。
よくよく考えれば恐れることはないんです。
皆さん何を恐れているんでしょうか。
あるいは感覚を忘れてはいないんでしょうか。
普段ですね、なかなか日本より貧しい国、
例えば、あげて彼らに悪いですけどアフリカとか東南アジアとか、
そういう貧しい国、観光ではなくですね、
無駄なそういうところに行ってみると、
私たちが暮らしているこの国がどれくらい恵まれている環境なのかが分かってくるんです。
私の予言の選挙主はフィリピンのゴミの村みたいなところでね、
村がその都市のゴミを全部捨てる、すぐそこに村があるんです。
家はほとんど天幕です。天幕もまともな天幕じゃないんですね。
そこで子どもたちが大人がゴミをかき回して、
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そこで何か使えるものを使ったり、それを売ったり、売れるものではないんですけれどもね、
そういうふうにして暮らしている人が何千人もいるらしいです。
学校なんて行けない。行くお金がない。
服なんてそのゴミの中で拾って、それを着るわけなんです。
たまになぜか日本の服が古着を吸収して売る人がいるんですよね。
日本のトラックで売るんです。
そうした東南アジアの人が忍者みたいにどことこ教学みたいな服を着ている子もたくさん。
そこで近くに住んでいながらミニストレーションしている友人の選挙主がいるんですけれどもね、
本当に彼の話を聞くと、私が普段どれだけ恵まれたところで暮らしているのか。
でもちょっとしたことでそれをふらして、恐れて、感謝を忘れて、喧嘩をして、
神様に対する忘れも感謝も忘れてしまう。
本当に愚かなものだなという、本当にそうなんです。
いつかですね、韓国の協会がよく大会3期選挙に東南アジアによく行くんですけれどもね、
2年前でしょうか行ってましたインドネシアもですね、
いつかチャンスがあればですね、皆さんと一緒にですね、行きたければアフリカにも友人がいますし、
また今日も選挙データを配りしましたけれどもね、
中央アジアの富永選挙主もいますしですね、
そこに行って、本当にそこで神を崇める、感謝するね、そういう信仰を持っていきたい。
本当によく考えれば、恐れることはないんです。
恐れることがもしもあるならば、それはただ自分の心の中に正体のないものにする。
神を信じ、御言葉を信じます。
たとえ死の影の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。
あなたが私と共におられますから、あなたの道とあなたの杖、それが私の託さみです。
最後に5節と6節を一緒に読みたいと思います。
5節、6節、はい。
私の席の前で、あなたは私のために食事を整え、私の頭に油を注いで下さいます。
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私の杯はあふれています。
まととに私の命の火の陰り、慈しみと恵みとが私を追ってくるでしょう。
主の家に住まいましょう。
アーメン。
アーメン。
皆さん、何が私たちを追ってくるのでしょうか?
不安でしょうか?恐れでしょうか?
そんなことないんです。
命の火の陰り、慈しみと恵み、しかもそれは神様がくださる慈しみと恵みが私たちを追ってくるんですよ。
いつもあふれているんです。
最後になりますけれども、神様は本当に私をいろんな場面から満たして守って祝福してください。
今日一日でも、あるいは今心の中で、礼において神様に最高の最大の感謝をお捧げしようではないでしょうか。
また、家族に対しても、教会の兄弟姉妹方に対しても感謝を言い表しましょう。
そしてまた、神様に対して、あるいは自分自身、あるいは家族に、あるいは教会の兄弟姉妹に対して、
もしもちょっとした不満や清くな心を持っていたことがあるならば、神様に声をあためましょう。
そして死を清くしてください。
誰でのように、私の魂が、私の人生が、もう感謝だけであふれさせてください。
そういうふうに祈っていこうではないでしょうか。
メッセージを終わりたいと思います。
今年一年間、私は牧師として、また説教者として、大変足らないものでして、
その中でも皆さんが、説教をとっても真剣に傾向していただきまして、本当にありがとうございました。
恐怖で、恐怖欲のある先生かもしれません。
しかし先生が、ユン先生、毎週説教していただきたいの?なんでですか?
いや、あの、すみませんね。
偉いインタビューの先生だったら、3人もおられるのに、大丈夫?
全然大丈夫よとは言えませんけれども、
27:00
そんなに気に入っていないでしょうね。
語れなくても聞く回数がいなければ、語れません。
でもお願いしたいのは、人の話ではなく、
人を通して語られる神様の御声を聞いていただきたいと願います。
そしてそれを自分のものにさせてもらい、
またその与えられた、
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