1. 名谷教会
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2015-05-10 45:51

2015/05/10:聖日礼拝(旧音源)

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2015/05/10 聖日礼拝(旧音源)




00:01
アーメン、皆さんおはようございます。
はい、よくいらっしゃいました。
それでは、メッセージに入る前に、今日はですね、お医者に来てくれる方々も、初めての方もいらっしゃいますので、挨拶したいと思います。
はい、よろしくお願いします。
はい、それでは一言お祈りさせていただきます。
神様、今日も、こうして、死に愛されささやがれている死の民、一人一人の死が、このところに引き寄せていらっしゃいまして、死の御前に出会えてきますことを感謝いたします。
私たちの賛美を、死をどうぞ受け取りください。私たちの祈りをどうぞ受け取りください。
そして、天の扉を開いて、ここに集っている我々一人一人を上に、死の教会の上に、あなた様の命の御言葉、今日のマナーを私たちに、死を語り明けてくださいまして、
私たちは信仰を持ってアーメンと応答して、またその御言葉に従うことができる、信仰の力も増し加えてくださいますように、お願いをいたします。
御手に委ねて、神様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
はい、先週まで、大英語福音書による、三条推訓の中の八福のそのメッセージが終わりまして、今日は、死との働きのメッセージに戻ってきました。
今日は、1章の9節から11節のところから、主にですね、恵みをお受けしたいと思いますが、
皆さん、この死との働きという聖書は、クリスチャン達に、クリスチャン、つまり信者とは何なのか、それから教会とは何であるかを正しく、そして明快に教える聖書であります。
ですから、例えばですね、この死との働きを本当に読めば読むほど、学べば学ぶほどですね、クリスチャンはこういう人なんだと、教会はこういうものなんだと、その正しい姿を、ありさまを、ここから私たちは教えられるものであります。
03:14
家様は、私たち人間と、この世界を救うために十字架で死なれました。そして家様は、死の力を打ち破り、三日目によみがえられました。その家様はよみがえられて、天の溝に登られました。
その天に登られるとき、あのときの場面がですね、今日の9節から11節の御言葉。そこで、今日のタイトルにあるように、この地上に家様がですね、もう見えなくなられて、
この地上に残された弟子たちのことを、彼らのその気持ち、その心境をですね、考えながら、今日の御言葉から慰め、あるいは希望のメッセージをですね、共にお受けしたいと、そう願っております。
まず、この弟子たちと家様との関係について考えていきたいと思うんですね。最初の彼らの出会いを考えてみましょう。あるいは家様が、ガリルという町にやってきました。
ペテロやアンデレのような漁師たち、あるいはマパエのような人々にですね、家様が出会って、「私についてきなさい。あなた方を人間をとる漁師にしてあげましょう。」と言われましたね。
その家様のお声を聞いた彼らはですね、網や船や職場やふるさとをしてですね、家様に従っていきました。そしてその日から、家様とその弟子たち、十二人の三年間の暮らしがですね、始まったわけなんですね。
三年の間、家様と弟子たちは、みんな男性ばかりでしたけれども、暮らしを共にしながら三年を一緒に暮らしました。家様と伝道も一緒にしました。
一緒に道を歩いたり、一緒に寝たり、一緒に食事をしたり、一緒に笑ったり、一緒に泣いたりしたと思うんですね。
06:06
弟子たちは、家様の一番近いところで、いつも家様のお話を聞いて、本当に恵まれて感動したことが多くあったと思うんです。
そして家様の見姿から、神の見姿を彼らは見て、本当に恵まれていたに違いないと思うんですね。
やっぱり時には家様からですね、怒られたり、時には家様から慰められたり、そういったこともたくさんありました。
その家様と弟子たちの関係は、本当に家族のようでした。兄弟のようでした。三年もずっとずっと一緒でした。
だからですね、弟子たちによって家様がいないこと、見えなくなることは、それはもう考えたくないことなんですね。
家様も完全な人間ですから、弟子たちペテラとかマサイとかと同じくですね、体を持っていて、また感情もあって、食べたり寝たり、
あるいはあの嵐の中の船の中でですね、家様はですね、もう眠り込んでですね、もしかしたら息もしていらっしゃったかもしれません。
そういった家様と彼らはですね、本当に友情の心、愛の心、別れたくない、ずっとずっと一緒にいたいという気持ちが深かったと思うんですね。
ある時にはこんなこともありました。家様が弟子たちにですね、これから私はエルサレムに登って十字架に死ぬのだ。
そのお話を聞いていたペテラがですね、家様はこんなことはあってはいけませんと、家様を引き止めようとしたんですね。
まあそれはですね、ペテラの不信心だと解釈するよりは、その彼の気持ちを考える時にですね、
家様をあまりにも愛していたから、弟子としてずっとずっと一緒にいたかったからですね、弟子として当然の当たり前の気持ちだったと思うんですね。
引き止めをとした、その弟子としての彼らの気持ち、それが当たり前だと思うんですね。
例えば、まあそんなちょっと極端的な例えなんですけれども、皆さんの家族の中で子供がいるにお父さんがですね、お前ら明日パパは死ぬのだと言ったらですね、
09:06
ああそうですか、思うままにしてくださいと。そういう子供は一人もいないんですよね。
おかげですとですね、そしてはいけませんと、引き止めるのが子供の当たり前の気持ちだった。弟子たちもそうでした。
なぜでしょうか。家様を愛するから。
だからこのような弟子たちにとって、自分のそばに家様が見えなくなること、いなくなることは考えたくない。
決してあっては起こってはいけないと思っていたんですね。
ところが、その家様が天に昇られて、見えなくなったんですね。
もう人間の体として、弟子たちのそばに家様がいらっしゃらなくなったわけなんですね。
考えたくないことが目の前に起きてしまったんですよ。
当然ですね、弟子たちは当方に触れてどうしようとですね、もうすごく悲しんでいたと思うんですね。
だから十一月をちょっと見ますと、イエスが昇って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていたんですね。
天を見つめていた。天を見つめているんですよ。
あの時の弟子たちの気持ちはどうだったんでしょうか。
ああ、もう本当にこれから家様に会うことができないんだと。
本当に家様がおられないんだと。
もう悲しんで泣いてぼーっとして、天を見つめていたんですね。
だから弟子たちにとってはショックでした。
目の前が真っ暗になったと思うんですね。
なぜなら、イエス様が弟子たちと一緒にいるときにも、彼らは失敗だらけの者たちだったんですね。
自分たちが百点満点の弟子ではないことを、自ら言いなしていたんです。
イエス様が一緒にいるときにも失敗が多くて、そんな彼らだったのに、もうその思想のイエス様が見えなくなった。
いなくなった。
そうするならば、これからどうすると思って、不安と心配の気持ちが変えたまま、ただ何もできなくなって、天をぼーっと見つめていく。
12:18
彼らはイエス様のように伝道も御言葉を教えることも、病気を癒すことも、悪霊を追い出すことも、実は自信がなかったんですね。
イエス様が一緒にいるときには、まともにそれができなかったんですよ。
実際にイエス様が来て癒してやったことも、もしかしたら弟子たちの心の中には、相通観あるいは劣途観、そういったものを抱えていたかもしれません。
しょっちゅう失敗したからですね。イエス様が話していても、それがわからない。
イエス様のように本当に素晴らしく見事に教えたり、病気を癒したりすることも、なかなかできなかったんですね。
失敗だらけでした。
昔も今も、しょっちゅう失敗をしたら、自信が失ってしまうんですね。
そうすると自分も失敗するから、自分のことが嫌なんですね。
ところが周りから、誰かがお前はもうしっかりばかりしていると言われたら、もう余計に劣等観に溺れてしまって、本当に苦しく苦しくなるかと思います。
弟子たちのしもちがそうでした。
そのような弟子たち、臆病の者たち、自信感もなくて、あの師匠もいなくなって、
イエス様のように言葉を立派に教えることも伝えることもなかなかできない。
そういう彼らでした。
そのような弟子たちがこの地上に残されたんです。
師匠もイエス様は見えなくなりました。
師匠であって仲間であったイエス様が、もう一緒に歩くことも伝道することも、一緒に笑ったり食べたりすることもできない。
あのイエス様のお花を実際に敷くこともできないんだと。
だから彼らはもうぼーっとして天を見つめていたんですね。
その気持ちはどんな気持ちだったんでしょうか。
15:01
彼らがイエス様を見つめて、隣にすごくないと、そういうふうには思っていなかったです。
たぶん涙をしていたかもしれません。
いつイエス様にお会いすることができるんだろうか。
一方では、俺たちもイエス様のように、イエス様が残されたあの御言葉の通りに教え、伝道ができるんだろうか。
人々を救いに導くことができるんだろうか、果たして。
病気の人が来て、それを祈って治すことができるんだろうか。
それができなかったらどうしようとか。
悪霊に取り憑かれたり、人が僕たちに来て癒してほしいと言われたらどうしようと。
そうですね、不安で不安でいっぱいだったと思うんですね。
その時でした。
彼らがですね、天を見つめていて心配していた時、十一節を見ますと、十節の後半を見ますと、
すると見よ、白い衣を着た人が二人彼らの傍に立っていた。
そしてその天使がですね、その弟子達にこう言いました。
ガリラ屋の人達、なぜ天を見上げて立っているのですか?と言いました。
このですね、ガリラ屋の人達、なぜ天を見上げて立っているのですか?というこのお言葉ですね。
これはですね、彼らにですね、なぜ天を見つめてわかり得るんですか?
なぜぼうとしているんですか?という、彼らを責めるというメッセージより、
彼らにしっかりしなさいというメッセージではないでしょうか。
だから、あなた方が天を見つめていたとしても、
イエス様が雲に登って、登るとして、あ、しまった、こうしてないと。
戻ってくることは、そんなことがないはずなんですね。
だから天使達は彼らにこう言いました。
あなた方を離れて天にあげられたこのイエスは、
天に登って行かれるのをあなた方が見たときと同じ有様で、またおいでになりました。
このお話を聞いたときに、弟子達は、
そうなんだ、今はイエス様にお会いしようとはできない。
しかし、必ずイエス様は、今日と同じ有様で、
また僕らのところに、またイエス様は帰って来られるんだと。
18:01
おいでになるんだと、その確信に見知るようになったのではないでしょうか。
この短い会話と言いますとか、このお話から、
弟子達は多くのことをお聞けられると思います。
この時の非常に残された弟子達のその気持ちは、
時々私達の気持ちと同じではないかなと思います。
私達も生きている中で、時々は途方に暮れる時もあります。
どうしたらいいのか分からない時もしばしばあるでしょう。
あるいは、とても愛していた人を失くすこともあります。
神様を信じている、イエス様を信じているんだけれども、
時には人間的にとても寂しい、その孤独に落ちる時もあるでしょう。
あるいは、時にはこの弟子達のように、よく失敗して自信感を失って、
劣等感に落ちている時もあるでしょう。
あるいは、思っていたこと、考えされたことがうまく進まなくて、できなくて泣いている時もあるでしょう。
あるいは、イエス様を自分なりに頑張って信じていると思うんだけれども、
想定外の出来事や事故が起こることもあるでしょう。
ところが皆さん、こういう時に、私達はイエス様を信じる者としてどうしたらいいのでしょうか。
逃げたらいいのでしょうか。あるいは、そんなことないと無視したらいいのでしょうか。
あるいは、日本が嫌いだからどうかヨーロッパに移民して行ったらいいのでしょうか。
そうしても解決はできないんですよね。
このような時に、まず私達はイエス様の御言葉を掴んでいなければなりません。
イエス様の御言葉、約束の御言葉を握って掴んで、そして折れば、私達は揺れることない人生の持ち主になるのです。
聖書で一つお開きしたいと思います。
ヨハネの福音書14章18節。きっと私達はイエス様が天に昇られた時に、
21:13
このヨハネの福音書14章のこのイエス様の御言葉を彼らは思い起こして、それを本当に掴んでいたと思うんですね。
ヨハネの福音書14章18節。一緒に読みたいと思います。
3、私はあなた方を捨てて孤児にはしません。私はあなた方のところに戻ってくるのです。アーメン。
ペペロが、アンデレが、あるいはマサユが、ああそう、イエス様は私達を捨てて孤児にはしないと思ったのか。
このようにですね、このイエス様の御言葉を思い起こして、そしてそれを掴んでいて、そしてそれを信じること。
だから私達は、あのイエス様が頂点が立ったあの時、エルサレムに戻ってですね、マルコの家の2階の間で集まってですね、御言葉と祈りに専念することができたんじゃないですか。
彼らが置かれている状況は、外はですね、激しい試練がありました。激しい迫害が晒しのような状況だったんですね。
彼らは、あなた方を捨てて孤児にはしませんという御言葉を強く固く掴んでいてですね、そしてイエス様についていこうとしたわけなんですね。
皆さん私達も、さっき申し上げたように、人生には様々なことが起きます。嬉しいこともありますけれども、悲しいことも。
このような時に、私達が握りしめて掴むべきことは、自分の弱い決心ではなく、この岩のような永遠に変わることのない神の御言葉を掴むことです。
神の御言葉を思い起こして、神の御言葉を掴んで、その御言葉の上に自分の人生を委ねて生きることが、クリチャンの道ではないでしょうか。
だから皆さん、私達が信仰生活をしていく中で、自分の経験、この浅いあるいは揺れやすい経験の上に、あるいは自分の感情の上に自分の人生の家を建てるのではなく、永遠に変わることのない、揺れることのない、裏切ることのない、この御言葉の上に目指して、その上に人生を建てて委ねなければならない。
24:23
それが本当に大事なんです。
私達は家様の御言葉を思い起こしました。
家様はこうおっしゃいました。
私が手に入って、あなた方に助け主を贈る。その助け主が、私があなた方に言ったお話を思い起こしてくれるとですね、精霊様が家様の御言葉を思い起こしてくださるんですね。
だから彼らはこのひとなかなかき遺行でですね、本当に家様がいなくなっても、家様ほどに立派な弟子たちのその使命を全うすることができた。
そのベースは御言葉の上に立つ。
経験や感情の上に信仰の家を建てるのでなく、この永遠に変わることのない神の御言葉の上に私達の人生を建てるということ。
最近ですね、一冊の本を読んでおりますけれども、心理学の本なんですけれども、アルフレッド・アドラーという方がいるんです。
19、20世紀に、この心理学ではプロイト、ユング、それからアドラーという三人がですね、心理学の三大巨頭と言われる心理学者なんだけれども、なぜなのかわかりませんけれども、
20世紀、21世紀のほとんどのカウンセラーやあるいは精神科は、ほとんどがこのプロイトの精神分析学に基づいて、そこからカウンセラーや精神科のすべてのことが行われていると言ってもわかるのではないんだけれども、
プロイトの話している、簡単に言いますと、因果論であって原因語なんですね。昔こういうことがあったから、あなたの人生はこういうのなんだ。
昔こういう傷があったから、こういうものなんだ。昔こういうトラウマがあったから、今のあなたはこういうものなんだ。
そういう因果論が、今の大体の心理学を支配しているか、そういうみんな、そこに影響を受けているわけなんですね。
ところが、聖書を読みますと、神様はいつもあたたちに、新しいことをあたたちは成すという。
イエス・フィクトを信じる者には、精霊によってすべての徒がとすべての呪いは、教えられて、たたれて、新しい人生が始まるとするんだとイエス様はずっとおっしゃったわけなんですね。
27:17
ところが、このアドラーが書いた、嫌われる勇気というタイトルが、日本人にアピールするために、そういうタイトルになったと思うんですけれども、
その中に、彼がクリスチャンなのか、それは知りませんけれども、とても同感する内容が一つありました。
それは、あたたちの人生にはいろんなことが起きるんですね。いいことであり、悪いことが起きる。
その何が起きたのではなく、それが重要なのではなく、それを私がどう解釈するのか、それが大事であるという話です。
つまり、人生にいろんなことが起きるんですよ。
事故が起きたり、虐待されたり、悲しことが起きたり、嬉しことが起きたり、すごく成功したり、すごく失敗したり、そういうことが起きるんですね。
それ、客観的に起きるひとつの出来事であって、それを自分がどういうふうに解釈するか、どういうふうに捉えるかによって、人生の行方は決まるということです。
これを正常的に再解釈して申し上げながらば、我々は人生に悲しいことが起きたとしましょう、辛いことが起きたとしましょう。
それを、単なる人間的な目で、すごいな、大変だなと思うよりは、イエス様の目をもって、イエス様の心をもって、それを見て、解釈して捉えることが大事であると。
なぜなら、見言葉の上に立っている人は、荒くなくても、大変なことが起きても、揺れることがないんです。
なぜでしょうか。起きた事故は、あの事件は同じなんだけれども、自分の内側にはイエス様についているから、この約束の見言葉があるから、
その見言葉をもって、その起きた出来事を、事柄を解釈して、見言葉の上に立つ信仰が、私たちには必要です。
だから皆さん、イエス様の見言葉を掴んで生きるクリエイターは、起きた出来事より、その全てを全て納めて、自分の人生を導いてくださる、
生けば生きるほど、最も良いものを与えてくださる人が共におられる、約束の見言葉がある、その見言葉に、そのメッセージに耳を傾けて、
30:02
そしてイエス様をもっと愛するようになって、戦うようになるということ。そうする中でですね、信仰が生として立派な信仰のものに変えられていくということではないでしょうか。
二つ目は、見言葉を掴む、そしてイエス様を見上げるということです。
それを見つめるのではなく、今も生きておられるイエス・キリストを見上げることです。
もう一箇所開きたいと思います。新約のヘブル・ビトへの手紙、十二章二節。新約の440ページですね。一緒に読みたいと思います。
三杯。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、恥ずかしみをものともせずに、十字架を忍び、神の膝の右に着座されました。
ここにですね、一番最初の文章ですよ。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。これなんですね。信仰の創始者です。完成者です。そのイエス様から目を離さないで、イエス様を仰ぎみていなさい。仰ぎみつつありなさい。
今、企業に残された弟子たちに必要なのは、ぼうとして天を見つめている、それではなく、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないで、約束の御言葉をつかんで、立ち直って歩むことです。
私たちもですね、寂しい時、辛い時、耐えられない時、自信感が大きくなった時、喪失感でしんどい時、あるいは自分の弱さのゆえに涙をする時、
そのような時に、信仰のお父である、そして私たちを完全なものにしてくださるイエス様から、目を離さないでいることです。見上げることです。これが実はとても重要なことなんです。
33:12
中国の選挙主であった、日本語の何と言うんでしょうか。ハドソン・テイラーという、今のOMという選挙団体の創始者といわれるハドソンという選挙主がおられました。
1869年のお話です。その選挙主はですね、もうあの未知の未開始の中国に入って、もうすべてを作ってですね、選挙活動をしていました。
ところがこの時に激しい心配と挫折のゆえに倒れてしまいました。体も疲れ果てていました。しかしその健康の問題というより、そのハドソン先生の心の中にはこういう気持ちがありました。
自分は選挙主でこの中国に入っていて、こんなに頑張って、もがくほど働いているんだけれども、神に喜ばれる全く者になっていない。その罪悪感と言いましょうか。そのためにですね、しんしんとも疲れて倒れていました。
そのハドソン先生はですね、もう選挙主として強い人になろう、強い選挙主になろう、模範になろうと頑張って頑張って頑張りすぎました。ところがその記録によりますと、その強い人生を、強い生活を、強い選挙主になろうと頑張れば頑張るほど、
自分を見つめればその強いものにできていない、なりきっていない自分を見て、またがっかれて心配する。それが繰り返して繰り返していたんですね。そうするとまた余計に頑張って、そしてまた燃え尽き、彫刻のようにですね、バーンとして、そういう自分がそこにあった。
ところがですね、そう頑張れば頑張るほど、その心の重荷のゆえにですね、むしろ心機が尖ってですね、周りの人に、自分と一緒に働いている仲間がいたわけですね。
彼らに余計にですね、怒ったり、言葉も荒くなったり、本当にそういう苦しい日々を、あのときにハボン先生は送っていました。
そしてその先生はですね、「もっと信仰のいいものになろう。断食をしよう。もっと熱に働こう。日曜日から日曜日まで働こうですね。」そうしていました。
36:02
ところが帰ってきたのは、霊も肉も燃え尽きもバーンと倒れてしまいました。何もできなくなっていたんですね。
行行になっていたあのときに、ハボン先生の友人のメッカーディという選挙主から手紙が送られていました。
その中にですね、短くまとめますと、こういう話がありました。
友よ、あなたはどのようにした信仰を強めることができると思う?それは、いい選挙主になるために、いい信仰者になるために頑張るのではありませんよ。
もがくのではありませんよ。ただただ、あなたのうちにおられる主を見上げることではないでしょうか。という手紙でした。
そのメッカーディという友人の手紙が、このハボン先生には光のように照らされました。
そして、彼の心のうちに浮かんだ二つの御言葉が、さっきのエブロビタの手紙十二章二節でした。
信仰の創者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。頑張りなさいではない。努力しなさい。熱心に働きなさいではない。
イエス様を見上げていなさい。目を離さないでいなさい。それで十分だよという言葉と。
もう一回一緒にいただきたいと思うんですね。
ヨハネノ福音書十五章五節です。これも皆さんよくご存知のパフォーマンスなんですけれどもね。
ヨハネノ福音書十五章五節。
新約聖書二百十一節です。十五章の五節ですね。一緒に読みたいと思います。
三、私は葡萄の木で、あなた方は枝です。
人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
私を離れては、あなた方は何もすることができないからです。アーメン。
この十五章にですね、最も多く書かれている出てくる言葉は、とどまる。とどまりなさい。とどまり。
つまり、あのめっかりの友人の手紙は、ハドフ先生に、自分は既にイエス様の内にとどまっている。
39:04
自分の内側にはイエス様がとどまっている。それは確かなことである。
そうしたらば、ああ、イエス様、私はあなたの内にとどまりたいですと、それを求めるんじゃない。
それを頑張るんじゃなくて、既に自分の内側にとどまっているイエス様を見上げることであって、つながっていることで。
つまりそれは、信仰というものは、努力、頑張るのではなく、信頼することだ、ということを、
それがね、この光のようにですね、きらめきが、ハドフ先生の心の中にあったわけなんですね。
皆さんそうなんです。
今日の人の働きのあの弟子たちも、あるいはこのハドフ先生も、今日の私たちも、みんな同じだと思うんですね。
イエス様は私たちを見つけることはありません。
イエス様を信じているのであれば、イエス様は既に私たちの内にとどまっておられます。
そして私たちもイエス様の内にとどまっておられます。
弱くても、足りなくても、個人にはしません。
見つけることはしません。
離れることはありません。
私たちが信仰をですね、やめない限り、神はずっと一緒におられます。
そして信仰を与えて、信仰を強めてください。
皆さん、私たちの能力では、力では、自分の信仰を強めることはできませんよ。
立派な信仰に自分が自分を作り上げることはできませんよ。
イエス様によって信仰が強められ、強められ、立派な神の人に作っていただくんです。
だからイエス様につながっていること、イエス様の働きを信頼すること、決めることなんですね。
まるでですね、新神戸駅から新幹線に乗って東京に行くとしましょう。
そしたら皆さんは新幹線の中で何をしていらっしゃいますか?
東京までずっと走る人はいないんですよね。
走らなくて新幹線は東京に行くんですよ。
横浜に東京駅に行くんですよ。
寝てもいいし、のんびりしていいし、本を読んでいいし、食べ物を食べていいですよ。
そこを見ていると思うんですね。
イエス様の内側には立派な手がおるわけですから、
新幹線のために頑張る、努力するのではなく、主の力を信頼して全てを刻めること、そして安心することです。
42:11
使徒の働き、一生、九説、十一説のこの時の弟子たちに必要なのは、もっと頑張ろうじゃなくて安心することです。
主は共におられる。
助け主を送ってくださる。
イエスの御言葉を思い起こして約束を信頼して歩んでいこう。
それではなかったのでしょうか。
葡萄の枝が葡萄の木につないでいることと同じ。
イエス様は弟子たちを捨てたわけではありません。
イエス様はですね、弟子たちと三年一緒に暮らしてですね、
ああ、もう疲れた、もうやめよ、他の弟子に探して行くわ、そして去って行かれたわけではないんですよね。
ああ、もう疲れたから腹が痛すぎてちょっと休んで帰ってくるね、と行かれたわけではない。
またおいでになることを約束されました。
そのうちに助け主、聖霊様を送って、強くして、強くして、助けてくれる約束をして手に入れて、
全てを全てを貯めると約束をなさいました。
皆さん、私たちがイエス様を神様を捨てない限り、信じてさえいれば、私たちは捨てられることもありませんし、
ずっと一緒にいてください。
最後に一箇所だけ開いてメッセージをあげたいと思います。
マサイの訓示を28章、最後の20節です。
新約の63ページですね。マサイの訓示を28章、20節。
このイエス様の弟子のマサイはですね、先の使徒の働きはルカが記したわけなんですね。
ルカとちょっと違った角度から、イエス様が最後に残された御言葉をマサイはこのように記したわけなんですね。
20節と一緒に読みたいと思います。
3、また私があなた方に命じておいた全てのことを守るように彼らを教えなさい。
見よ、私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいます。
アーメン。
皆さん、イエス様が弟子たちにですね、天に引き上げられる最後に残された御言葉は、
お前たちこれからもっと頑張りなさい。
そういうメッセージではなかったんですね。
世の終わりまでいつもあなた方と私が共にいますよ。
45:03
私を信頼しなさい。御言葉を思い起こしなさい。ずっとつないでいなさい。
というメッセージでした。
皆さん、私もある意味で歴史活のようにこの地上に残された私だけです。
肉の目ではイエス様を見ることができません。
触ることもできません。真摯に遊ぶこともできませんが、
霊の目では三味一体の神様が共にいられることを信じますし、
また約束の御言葉が私たちに与えられている。
そうでならば、そのイエス様を見上げて、約束の御言葉を信頼して、
その上に立ってこの神戸の道を歩んでいこうではありませんか。
お祈りいたします。
45:51

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