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2021-07-25 35:07

2021/07/25:創世記(23)人間の愚かさ

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2021/07/25 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 16:1-6


00:01
みなさん、おはようございます。
猛暑が続いていますが、このように今日もみなさん元気出して、またこの礼拝に集まっていただいて本当に感謝いたします。
主に守られてこの世に礼拝できますことも、本当に主の力、また恵みだと信じて本当に感謝いたします。
今日は創世記の23回目、タイトルは人間の愚かさという題になっています。
15章で書かれたアブラムの信仰は、とても素晴らしいものでした。
アブラムは神様から確かな約束をいただきました。
自分から出るものが後月になると。
そしてその子孫は夜空の星のように数えられないほど与えられるんだと神様から言われました。
その時アブラムはそれを疑いなく信じましたね。
そして彼はその幻から素晴らしい経験をしてから、自分の現実に戻ってきました。
しかしそこにはどうでしょう。
変わっていない現実がありました。
歳をとっている夫婦、妊娠できない妻、後月になるものはない。
これが現実でした。
その中、サライは焦り出しますね。
彼女はきっとこういうふうに考えたと思います。
どうせ私が子供を産むことはできない。
だったらこの女奴隷から子供を産んでもらおうと。
この方が確実で早いと。
そういうふうに思ったと思うんですね。
それは古代のあの時代によくある風習でした。
女主人が子供を産めないときに、女奴隷を通して子供を産んでもらう。
よくある人間の手段で。
それで子孫を増やす。
その群れを守るという風習がその時によくありました。
だから当時の人であるサライもアブラムも何の抵抗感なくこの手段を使ったお家だです。
一日も早く子供を作ろうと思いました。
というのは目に見える乏しさのために新婚の目を失っているサライがここにいます。
ここで私たちは考えてみたいと思います。
03:03
このサライが考え出したこの手段。
アブラムも同意したわけなんだけれども、これは果たして神様に喜ばれるものでしょうか。
神の御心なんでしょうか。
そうではありませんね。
サライは焦った挙句、神の時を待つこと、神様の御心を尋ねることを忘れてしまいました。
彼女は神の手段ではなく人の手段を使ってしまいました。
何より彼女の心には神様はこんな方なんだと決めつけてしまうところがありました。
そしてそれが大きな愚かさを招いてしまうもとになりました。
今日の2節を見るとサライはアブラムにこう言います。
ご覧ください。主は私が子供を産めないようにしておられます。
誰がここを決めたんですか。神様を本当に産めないようにさせたんでしょうか。
確かに女性として、母として、またアブラムに御言葉が与えられたから、
今日は後から出ますが、10年経ったとありますね。
カナンに住んでから10年経ったと。
少なくとも10年間子供を産めないようにしておられるかもしれません。
でも彼女は自分勝手に神様は悪い方だ、子供を産めないようにする方だと決めつけてしまいました。
まるでもう子供はいない、神の約束はないと言っているようです。
ところで、人間的に考えてみたら、このサライやアブラムのことは確かにかわいそうだなと思います。
なぜなら神様から子供に対する約束があったにもかかわらず、まだ子供がいない。
産まれていない。誰もいない。
この群れの将来のために早く子供が欲しいんですね。
でも神様はくださらないんですよ。
10年経っていても。だからサライは焦っています。
このようなサライのことを理解できなくもないなと思いますね。
ところが皆さん、このようなサライの姿の中に、私たち自分自身の姿が見えてくるんじゃないでしょうか。
06:09
愚かな私。罪深い私。神の時を待ちきれない私。
そんな私がこのサライの姿の中に見えてきます。
そして毎回ではないかもしれませんが、この人間的な手段を使ってしまおうとする私がこのサライの中におります。
このようなサライのことをですね、ある説教者はこういうふうに名付けました。
神より先走るサライ。神様より先走るサライ。
わかりますでしょうか。
神様はまだですね、先に神様は進んでいらっしゃらないんですよ。
神の工程やプロセスはまだ進行中で、次のステップに神様はまだ進まれていないのに、
もうサライがですね、神様より出しゃばってですね、神様より先走っていってしまってことを行ってしまったわけですね。
本当にそうだなと考えました。
尋ねもしない、祈りもしない。
確かにつらいでしょうけれども、神より先に走っていってはいけないのに、
サライは今息子が欲しくて、神より先走ってしまいました。
神の出馬を待つべきなのに、サライは先走ってしまいました。
情けないサライ、愚かなサライ、それに同意してしまったアブラムはここにおります。
いや、見ている私たちがサライの中に、アブラムの中にいるんじゃないでしょうか。
進行とは何だろうか考えさせられますね。
待ちきれない時であっても、主の助けを最後まで待つことが進行です。
乏しい現実であっても、神の豊かさを最後まで待つことが進行です。
また、何がどうであっても、神より先走ることをしないことが進行ではないでしょうか。
そして皆さん、これらは自分の決意でできるのではなく、進行によってできるものです。
09:03
待ちきれないような時に、進行は待ちきれるように、通り抜けるようにしてくれる力が進行からくるんです。
焦りたくなる時に、焦らずに済むようにしてくれる力が進行からくるんです。
乏しさに目を奪われて落ち込む時に、落ち込まずに起き上がるようにしてくれる力、これが進行の力なんです。
だから私たちは、進行というこの原点に戻りたいんです。
神の約束に、神の御言葉に戻りたいんです。
自分の決心や自分の力さとか、この現実じゃなくて、進行に戻りたいんです。
さて結論は、私たちはわかっていますけれども、さらには焦って、
アブラムに自分の女奴隷、ハガルのところに入るようにしました。
この時が、アブラムがカナーに住んでから10年が経ちました、その時でした。
ですから簡単に言って、子供の約束の言葉があってから10年が経ったわけなんです。
でもまだ子供が生まれていないという話になりますね。
10年も待ったのに、神様は何も動いていないような時が10年続いているわけなんです。
あるいは祈りの角度から見れば、祈り始めて10年経ったのに、まだ答えがないという現実です。
答えられていない。10年も祈ったのに。
しかも子供を下さるとは神様から言われたのに焦りたくなりますね。
神のせいにしたくなるでしょう。無理でもないだろうなと思いますよ、本当にね。
でも皆さん、私たちも似ているような試練があるかもしれませんね。
こういうふうに悲しみにふけている時、ぜひ私たちが覚えたい神の御言葉があります。
シャライ・アブラム。あるいは悲しんでいる私たち。答えが欲しくて焦るような私たち。
そんな私たちのすべてを誰よりも主なる神様が御存じである。
12:01
その答えは主の御手にある。主が御持ちであるという事実を覚えたい。信じたい。
そして神様が悲しんでいる私たちの顔を上を向いてあげるようにしてくださる。
この朝、皆さん、この神様にお会いしたいんです。
祈っても答えられていないような現実があるでしょう。
あるいは答えられているようだけれども、そうでもないような気がする。
そんな時もあるかもしれません。
あるいは私の考えでは、もう明日に答えが欲しいんだけれども、神様は明日でないような気がする。
そんなことがあるのではないでしょうか。
それでこのさらいのように焦ったりはしないでしょうか。
あるいは何とかしなくちゃと思って、神より先走ってことを行ってしまったことはないでしょうか。
人の手段を使ってしまったことはないでしょうか。
そこでもう一つ覚えてほしいことがあります。
さらい、あるいはアブラムを見てですね。
人は愚かで罪深いものであるという事実です。
どれだけ立派な人であっても、人は愚かなものである。
罪深いものに過ぎない。
神なくしては無に等しいものである。
神様の助けなくしては一瞬も生きられないものであるという聖書の事実です。
これを忘れてはいけないと思うんですね。
ですから私たちは、神の前に比例をして、泣いて、祈るしかない存在ではないでしょうか。
主よ、この愚かなものを、この罪深いものを憐れんでください。
主よ、私もこのさらいのように、アブラムのようにするしかない愚かなものです。
先走るものです。
神のお手間を、神の助けを待ちきれない、この私がここにおります。
主よ、憐れんでくださいと、祈り続けるしかないと、そういう風に考えます。
いろんな意味で、今私たちは、何らかの試練に直面しているだろうなと考えます。
15:01
自分の愚かさ、あるいは罪深さ。
個人的に、家庭的に、あるいは教会的に、あるいは今、このコロナという感染病。
世界的に、他にもいろんな試練があるでしょう。
ある占拠師は、他の東南アジアの国なんだけれども、
そこは、とてもコロナの予防もワクチンも、なかなか難しい国であって、
その占拠師はですね、その国を撤回して、帰国すべきなんだけれども、
その先生は、その国に残ったんですね。
それで、何らか病んでいる人々、現地のその方とですね、ケアしながら過ごしていて、
結局、その先生もコロナにかかって、そこで亡くなったそうなんです。
まともな葬儀もできなかったようなんです。
帰国していたその奥さん、それから一人の子供、二人。
他にもですね、たくさんの試練が、個人的に教会的に、世界的に、今あると思うんです。
いろんな困難があると思うんです。
今のこの気候だけ見てもですね、異常気温現象があるんですね。
私の兄がいるロシアは、夏はだいたい27、8度ぐらいが普通なんだけれども、
今年は39度、40度までおそくは上がってですね、日本より暑かったと言われていました。
カナダもそうだったみたいですし、東南アジアのバングラデシュは、
洪水でですね、国土の多くの部分が沈水状態が1年ずつ続いているらしいですね。
気候の現象だけ見ても本当に、
イエス様が来られる終わりの日が近づいているんだろうな、と思わされるこの時代であります。
あるいはもう遠くまで行けなくても、皆さんこちんこちんを見られても、
家族の救い、あるいは病気のために病んでいらっしゃる方もいられるから、その癒しが欲しい。
答えが欲しい。
あるいは本当に早く救われて欲しい他にもいろんな課題があったり、
何らかの試練の中にいる方がおられるでしょう。
18:04
いろんなきっと課題があると思います。
この私もこういうふうに支えられておりますけれども、
このガンとの戦いの試練の最中におります。
不思議に今週の29日になりますと診断されたから半年になります。
早いですね。
主治医から数ヶ月になるか数年になるか分かりませんと言われましたけれども、
半年こういうふうに守られていることを考えたら、
生きていることが奇跡だなとつくづくと思わされます。
そしてこの病気の癒しの出口で主の栄光を見たいと切に祈っております。
そこで皆さん、ぜひ覚えていただきたい見言葉があります。
サライのようにアブラウムのように現実が変わらなくて焦りたくなるような時、
答えが欲しいんだけれども見えない時、真っ暗のトンネルの中にいるような時、
試練の最中にいてつらい時、見上げて覚えていただきたい見言葉があります。
第一古霖と十の十三節、字幕に出ますのでご覧下さいますか。
私が読み出します。
あなた方が経験した試練は皆、人の知れないものではありません。
神は真実な方です。
あなた方を耐えられない試練に合わせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように試練とともに脱出の道を備えていてくださいます。
アーメンではないでしょうか、皆さん。
自分自身の愚かさや罪深さ、能力の足りなさ、あるいはほぼ社会的にコロナ禍という感染病、
あるいは果たして教会はこの時代の後にどうなるんだろうか、いろいろな思い患いが多くあるでしょう。
本当に悩みが絶えません。
こんな悩みを抱えている私たちに主は言われるんですよ。
あなた方はなぜ心配しているのか、何を恐れているのか、私たちの愚かさや足りなさ、
この時代の試練ばかり見つめているのではない、私を見上げなさい。
イエスを考えなさいと言われます。
また見言葉が与えられました。
イザヤ書41章10節、これも前を見ていただけますでしょうか。
21:02
私が読みます。
恐れるな、私はあなたと共にいる。
たじろぐな、私があなたの神だから。
私はあなたを強くし、あなたを助け、私の右の手であなたを守る。
皆さん、自分自身をどれだけ見つめても、その弱さや足りなさや愚かさに変わりはないでしょう。
罪ある人間だからです。
神の前には堕落したものだからです。
だからそればかり見ていても変わりないんですよ。
経験をしたり、挫折を感じたりするしかないんです。
しかし、主は言われます。
あなた方が経験した試練は、皆人の知らないものではないんだ。
私は真実な神なんだ。
あなた方を耐えられない試練に合わせることは私はしない。
むしろあなた方が耐えられるように、脱出できるように私は道を備えているんだ。
だから私を見上げなさいと主は語るんですよ。
皆さんは今何を見つめているんでしょうか。
何を見ているんでしょうか。何を見上げているんでしょうか。
もしかしたら、神を見る目を失ってはいないんでしょうか。
私たちの試練を、弱さを、答えを知らない神様ではないんです。
変わることなく、私たちは神の愛の中におり、
全てのことは神の御心の中にあることを信じなければなりません。
希望の源は何でしょうか。
希望の源は神にあるんです。信仰にあるんです。
これを忘れてはいけません。
同じ試練の中にあても、それを最後まで、その出口まで通り抜けるその力は神にあり、
そしてそれは信仰から与えられるんですよ。
ある僕主人のお訳しをお話したいと思います。
本当にこんなにもひどい試練に会う人がいるんだろうなと思うほどの
つらい経験をしたある僕主人のお訳しです。聞いていてほしいんですけど。
僕先生と僕主人、それから7歳か8歳の長女、それから5歳の息子、4人家族でした。
それで僕先生はある教会に赴任して1か月しか経っていない時の事故でした。
24:08
普段5歳の息子が習い事に通っていたんですね。
その日も普段のように教室の送迎バスに乗って朝行きました。
そろそろ帰ってくる時間になっていたんだけれども、
電話のベルが鳴りました。出てみたら向こうはちょっと緊張した声でした。
そのならばと教室の園長先生が、息子さんがちょっと怪我をしたので、
今病院にいるからこっちに来てほしいと震える声でした。
この僕主人はどうしたんだろうと心配しながらタクシーに乗って病院へ向かいました。
ところでですね、ベッドの上に5歳の息子が仰向きになっているんですね。
おでこにちょっと傷があるくらいでした。
体はまだあったかいんですね。ところが動けません。声も出ない。
で、医者からはもう脳死状態だと言われました。
事故の一部指示を聞くとですね、息子さんがそのなれごとの教室のバスから降りたときに、
そのバスの運転手さんはその日が運転し始めて、間もないうちまだ初歩だったらしいですね。
それで前に進むことがバックをしてしまって、
その車に引かれて息子さんが、5歳の息子さんが引かれてしまって、脳死状態になりました。
それでこの僕主人は諦めたくなかったんですね。
そのときに僕先生もその話を聞いて病院に駆けつけてきました。
僕先生はその妻をですね、僕主人をなだめてですね、
いや今ね、私の夫婦のように何か脳死状態の人から臓器を欲しい人がいるかもしれない。
それを偽造したらどうとね、そういう話をしたんですね。
でも最初はそうしたくなかったみたいなんです。
でも後々から我に代わって、この僕主人はサインをしたんですね。
そしたらもうすぐにその息子が運ばれた。
ところが時間が結構たちましたから、中の臓器を偽造することはできなかった。
27:03
で、この目だけですね、偽造することができたそうなんです。
この僕主人はですね、その後もですね、毎日のように泣きながら涙の日々を送っていたそうなんです。
1日何度ももう気絶をしたそうなんです。
飲食を経ってですね、ある日、もう2、3ヶ月が経って寝込んでいました。
毎日寝込んでいました。神様を恨みました。神様はどうしてですかと、1日何回も叫んだそうです。
ところが教会の役事さんが僕主観に訪ねてですね、このままだったらちょっと奥さん危ないじゃないかと。
一旦僕が休んで、休まれた方がいいですか、いいんじゃないですかというふうに言われたときですね、
この僕主人が本当に気を取り直して、ああそうだ、この教会に赴任してまだ3ヶ月しか経っていない。
私は僕主の夫人なんだと。
このままではいけないと思ったそうなんですね。
そして休むわけにはいけません。もう気を取り直して、明日からやりますからと言ってですね、
そしてその教会はその翌日から、僕主の子どもが亡くなったこともありますし、
今は試練の中にありますから、やっぱり神に祈りましょうとですね、
教会的に特別祈祷会が開かれたそうなんです。
ところでですね、その初日のことでした。
この僕主人が、お母さんがですね、祈ろうとして、祈っているうちにですね、幻が見ました。幻を見ました。
その幻に息子さんがですね、綺麗な姿で綺麗な声でですね、現れてこう言ったそうなんです。
お母さん、僕はね、天国で神様と一緒に元気に過ごしているのよ。
でもお母さんが毎日僕のために泣いているんだから、僕はここで元気に過ごしにくいの。
お母さんも僕みたいに元気に過ごしてほしいと言われたそうなんですね。
それですね、その日以来、僕主人はもう泣くことをやめました。
あ、そうだ。亡くなった息子をあまりにも執拗に思いすぎて、自分がもう泣いてばかりいるのも不信仰の様子だろうと思いました。
そして続いていたその特別祈祷会を通して、本当に異様もない神の恵みをたくさん経験したそうなんです。
しかしですね、この僕主人の夫人の試練はここで終わっていないんです。
主人の僕先生は月曜日には時々仲間の先生たちとテニスを楽しんでいたそうなんです。
30:10
ある月曜日、普段と違って先生は疲れを感じていたから、今日はテニスを休もうと言っていました。
しかしですね、仲間の先生たちから何度も誘われて、何度も誘われて、結局断れずテニスに行ったそうなんですね。
試合をしてから休憩時間に水を飲んで座っていたその夫の先生は、突然後ろ向きに倒れてしまいました。
救急車に運ばれて病院に向かう最中に先生はもう心肺停止で亡くなりました。
僕主人から見れば、5歳の息子が事故で亡くなった。
何年も経っていないうちに夫の主人も心肺停止で亡くなった。
普通の人にはなかなか起こりにくい事件ではないでしょうか。
大事なのはこの後の話なんです。
この僕主人はもう人生を諦めたんでしょうか。
信仰を捨てたんでしょうか。そんなことはありません。
確かに人間的に考えればつらい思いが心に残っているはずなんだけれども、
この僕主人は、死は耐えられるようにしてくださる。
たとえ自分の息子が、自分の夫が先に亡くなりましたけれども、
神の真実には変わりはない。
そして今は長女と二人暮らしをしながら、他の教会に導かれて、
特にこの僕主人は家庭のこと、子育てのこと、あるいは信仰の本をいろんな本を書いて、
特に信仰における親子関係について講演をしたり、セミナーをしたりして、
とっても素晴らしく主に用いられているそうなんです。
涙のとこから起き上がっているんです。
突然の事故で息子、それから夫を亡くしましたが、
信仰によって起き上がって、死のために生きる人がいるんです。
皆さん、もしもどうしたらいいか、どう対処したらいいか、わからなくて困ってはいないんでしょうか。
なんで私だけこんなにつらい思いをしなきゃならないんだろうと思ってはいないんでしょうか。
自分は不幸だ、つらい、何もない、乏しい、困窮、そういうふうに思っていますか。
33:05
その時に自分自身を見つめている目を離して、イエースキリストを考えて、イエースキリストを見上げてください。
そして一瞬一瞬、瞬間瞬間、ただ主を喜び、ただ主を愛し、ただ人を愛しながら生きてほしいんです。
愚かな自分、罪深い自分を認めてください。
そして主の前に減り下るものであってほしいです。
どんなことがあっても、神より先走る愚かさをしたくないです。
悩みはもちろんありますけれども、悩んでばかりいるんじゃなくて、
ただ主を見上げて、イエースキリストを見上げて従っていきたいです。
今試練の中にいますか。悩みがあるでしょうか。泣きたいですか。覚えていてください。
今も神の恵みが、その善能なるその御手が私たちを覆っていることを信じなければなりません。
だから私たちがしなければならないことは、いつもただ神に喜ばれることは何だろうと、
それを覚えて、尋ねながら主に喜ばれる道を進んでいくことです。
信仰によって行くことです。
そして常にイエースキリストに目を離れないで、イエースキリストを見上げつつ歩んでいくことです。
この道しか答えはありません。お祈りしましょう。
35:07

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