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2019-06-30 25:42

2019/06/30:神に祝福された人生の法則21(4)祈祷の法則

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 2019/06/30 聖日礼拝

尹善鎬牧師

マタイによる福音書 7:7-11

00:01
みなさんおはようございます。
では、メッセージの前にどうにかと挨拶しましょうか、みなさん。
ありがとうございます。
今日は、シリーズ・メッセージで4回目ですね。
神に祝福される人生の法則21のその4で、
今日は、祈祷の法則というタイトルに基づいてお話させていきたいと思います。
私たちは、全知全能なる神様を信じています。
そこで私たちが知っていただきたいこと、あるいは注意していただきたいことがあります。
それは、私たちが神様に祈るときに、
自分自身、私たちが持っている考えが、あるいは思い込みが、
信仰を進ませる力にもなり得ますし、
逆に、信仰を妨げることもなり得るということです。
特にですね、自分が信じている神様がどのようなお方であるか、
その神様を正しく知った上で信じること、祈ることは、
信仰のスタートラインと同じもので、非常に大事なことです。
それで皆さん、私たちはどんな思いを持って祈ったらいいのでしょうか。
まず第一、父なる神様は、与えるのを喜ばれる方であるということ、
それを信じながら祈ることです。いいですか。
私たちが信じている神様は、私たちが祈るときに、
良いもので満たしてくださる、与えてくださる、
そんな良い方なんだ、素晴らしい父なるお坊さんだ、
ということを信じて祈ることが大事です。
例えばですね、まあとりあえず祈ってみよう。
それで答えられたがっきで、答えられなかったら悲しいわ、じゃなくてですね、
祈る人に、実は答えてくださいと。
03:01
その信じることが、実は祈りのスタートとして本当に大事なことなんです。
ちょっとね、この前行かせていただいたフィリピンの私の友人の話を、
お感謝したいと思います。
彼、特訓でフィリピンに行ったわけなんです。
今年、私と同じ年ですから、50なんですね。
それで、去年、向こうのフィリピンの姉妹とある教会の法室系が姉妹と結婚ができるようになったわけなんです。
ところが、1年半くらいになってもね、子供ができないんですね。
いわゆる不妊になったんですね。
母親の問題があったのかわかりませんけれども、子供ができなかったので、
それで、韓国に行って、いわゆる人口受精をすることにしたんです。
ところが、彼はもう50歳ですから、去年だから49ですね。
49だから、奥さんの方が若くても、お医者さんから言われるには、
これは何回やってみたらできるかもしれませんけれども、とても確率が低いですね。
10%未満でしょうねと言われたんです。
でも、彼は向こうに帰っていかなくならないです。
ずっと韓国にいるわけでもありませんし、それもお金がかかるわけですから、
そんなに何回もできるわけでもないんですよね。
何回もたくさんやったとして、できないことはできるわけでもないですね。
それで、彼は本当に祈りました。
フィリピンの姉妹も、その奥さんの家族もみんなキリシャンですから、祈ってくれて、
そして彼の母教会のソウルにあるパプテスの教会も本当に祈ってくれたんですね。
それで、ソウルのある病院で、1回目の人口受精をさせてもらって、
その後の結果はどうなったと思いますか。
他人のことであんまり関心ないですか、みなさん。
生まれようが生まれながら、もう関係ないと。
不思議にですね、もう1回で、それで今年の春に子供が生まれて、
あの後、私行ってですね、行く前に写真を見せてもらってね、男の子ですけどね。
行ってみたら、本当にかわいい。
それで連れてくることができないので、写真を持ってきました。この子なんです。
本当にね、名前がもっと素晴らしいのは彼がね、
これは自分には子供をもうできることができない不思議な恵みで、これはもう神秘なんだと言って、
06:05
日本語で神秘、韓国語で神秘。
向こうではね、神秘は韓国なのに、みんなフィリピン人が神秘神秘と呼んでいるわけなんです。
神秘、ミステリー。
そういうことで、子供ができるかということなんです。
皆さん、祈れば神様は良いものを与えてくださる。
妊娠できない人にも、子供をさせてください。
そのことを信じながら、神様に祈ることなんです。
子供たち、先生と約束しましたね。
ユン先生のわなじさんと書くことに約束したでしょ。
先生の話は馬話しているんだけど。
今、書かないとね。
皆さん、私だけ神経幹線はどんな方なんでしょうか。
逆説に言いますと、惜しむ方ではないんです。
ケチな方ではないんです。
今日読んでくださった御言葉をもう一度ご覧下さい。
大能勲章7章の9節から11節ですね。
私は読み出します。
9節。
あなた方も自分の子がパンを下さいと言う時に、誰が息を与えるでしょう。
子供が、お父さんパン下さいね、パン下さいね、息を与える父はいない。
また、子供が魚下さいと言うのに、誰が蛇を与えるんですか。
そんなお父さんはいない。
してみると、あなた方は悪いものであっても、自分の子供に良いものを与えることを知っているのです。
そうすれば、ここから読みますね。
聖書の文字の方を読みましょうか。
なおのこと。3、はい。
なおのこと、天におられるあなた方の父が、どうして求める者たちに良いものをくださらないことがありましょう。
アーメン。
みなさん、祈りにおいて最も大事なことは、私の貴重なる神様は、私が信仰をもって信じて祈るなら、
良いものを与えてくださる、満たしてくださる、解決してくださる、道を開いてくださる、良いお父さんなんだと信じて祈ることです。
ところがどうでしょうか、みなさん。
私たちには、いろんな限界があるんですよね。
自分には限界があるんですよ。
経験においても、能力においても、お金においても、さまざまな限界がある。
有限なものなんですよ、私は。
だから、この神様に祈るときに、まず自分自身のこの有限性に縛られやすいんです。
09:03
ああ、こういう課題があるから、ちょっと無理かもしれない。
ああいう問題があるから、あれもちょっと無理かもしれない。
そういうふうに、思い勝ちなんですよね。
そのことを乗り越えて、私は有限のもので、私には限界があるんですけれども、神様には限界があります。
神様は無限なる方である。
それを信じつつ、祈ることが大切です。
詩編の81編10節に、こういう言葉があります。
私があなた方の神主である。私はあなたをエキブトの地から連れ登った。
あなたの口を大きく開けよ。私がそれを見さそう。アメン。
皆さん、神の前に口を大きく開いて、神様に求めて下さい。
祈って下さい。
自分自身の信仰の器を、祈祷の器を袋を大きくして、神様に求める、祈る、私たちでありたい。
エレミアス32章27節
見よ、私は全ての憎なる者の神主である。私にとってできないことが一つでもあろうか。
私にとってできないことが一つでもあろうか。ないんですよ。
子供ができないあの選挙主に、49歳50歳の男性に、私が子供を助けて下さった。
命は主にある。力は主にある。財も主の店にある。
それを信じて祈るものでありたい。
シン・メキの28章12節に、こういう言葉があります。
主はその恵みの蔵、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたの全ての手の業を祝福される。
それであなたを多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。
アーメン
皆さん、我が家もそうなんですけれどもね、この日本に当たってきて11年目になっておりますが、不思議にですね、無一文のものなんですよね。
神様が全部取ってくださったら、本当にもう無一文で貧乏になるわけなんです。
でもね、不思議に神様が、もちろん皆さんを通して、あらゆる人々を通して、本当に借りることなく捧げることができる、サポートができる、分け与えることができるように、主が与えてくださる。
神様は求めるものに、恵みの蔵を、天を開いて、時にかなって雨を地に与えてくださる。
12:05
私たちの全ての手の業を祝福してくださるということ。
その神様を信じて祈っていこうではないでしょうか。
だから、課題は神様にあるんじゃなくて、私たちにあるんですよね。
どれだけ信じて、どれだけ自分の神様、本当に偉大な神様、できないことは一つもない神様である、私の本当にいいお父さんである、という信仰を持って祈る、我々でありたい。
そして、もっと大事なのは、祈って応えられて、祈って応えられて、祈って応えられる、その祈りの応えられた恵みをたくさん持っているクリスタルでありたい。
そんな証がたくさん、やりたくて、やりたくて、たくさんある教会でありたい。
人限りでお渡しをしましょう、証をしましょう。あまりないですね。そういう寂しい教会じゃなくて。
そして、こう祈って、こんな答えがありましたよ、もうこんな答えがありましたよ、それで私はもういいですよ、もういいです、それぐらいにできる教会でありたい。
お渡しないですか、もうね、この人にあの人にお渡しありません、と言っても誰もいない、じゃなくてですね、神様は生きてあげられます。
大事なのは、祈るものに答えが与えられるんです。
いくらですね、祈りのお話を聞いても、説教を聞いても、御言葉を読んでも、自分自身が祈らないと何も始まらないということであります。
もう一つだけお話ししましょう。祈るものには祈りの法則があります。それは切なる心で求めることです。
これは私の話でありません。今日の御言葉にもね、七節を見ると、イエス様が言いました。求めなさい、探しなさい、叩きなさい。
イエス様は積極的なんですよね。何とかなったらいいなぁ、みたいなイメージではないんです。何とかなったらいいなぁ、じゃないんです。
求めて、探して、叩くことなんです。そういう祈りのものでありたい。
イエス様が床の訓示を、一人山目が問題があって、裁判官に訴えるんですよ。
でもあまりにも、すっきりに訴えて求めているから、裁判官が面倒くさくてうるさくて、答えてあげたみたいな、たとえ話がイエス様がされたでしょう。
15:11
諦めないで、切なる願いを持って神に祈ることは、ただしつこさだけじゃなくて、こんなに祈ったら神様必ず答えてくださる信仰があるものに、切なる心と悪さがあるんです。
そうでしょう、皆さん。いくら祈っても答えてくれない。そういう人に神に、そもそも最初から祈らないんですよね。
でも熱く祈ろうということは、切なる心を持って祈ろうということは、こういうふうに祈ったら、私の切なる神様は全知全能の神なんだから、この願いを必ず叶えてくださるんだと、その愛があるから、経験があるから、期待感があるから、切なる心を持って祈るんじゃないでしょう。
皆さんどうでしょうか、このごろ、我々の皆さんの祈るときの、皆さん心の中に本当に神様に対する期待感でいっぱいですか。
ワクワクして祈ってるんでしょうか。願望があるんでしょうか。切なる心を持って祈ってるんでしょうか。答えられるまで祈ってるんでしょうか。
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。丸子の国と十一卿二十四節に法事言葉があります。
だから、あなた方に言うのです。祈って求めるものは、何でも既に受けたと信じなさい。そうすればその通りになります。
皆さん、祈るものは既にその通りに与えられている、それが浄土されているとも目の前に似ているかもように祈ることなんです。何度かなればいいなぁじゃなくて。
古文の手紙一章六節八節に法事言葉がありますね。ただし少しも疑わずに信じて願います。願う人は風に吹かれて揺り動く海の大波のようです。
一つの心を持って疑わずに祈ることが本当に大事であり、皆さんいろんな課題があるでしょう。就職のために、家族の救いのために、病気のために、家族のためにいろんな課題があると思いますけれども、
18:08
神様に祈ることは主が答えてくださるという信仰を持って祈るものでありたい。それはただの信念ではないんですよね。妄想ではないんです。私が信じる神様は私の天のお父さんであり、
私が祈ることは父なる神様は聞いてくださる、答えてくださるんだ、間違いないという父なる神様に対する正しい信頼を持って祈ることです。正しい信頼、これが大事です。
最後になりますが、祈るときには忍耐しつつ祈り、祈りつつ忍耐することが大事です。すぐに答えられることもあるでしょう。しかしすぐに答えられないこともあります。
皆さん、祈りはね、聞いてくださいね、子供も。祈りは遊びではないんですよ。祈りは戦いなんですよ。神様はね、私たちが祈ることを喜ばれます。そして私たちが祈ることを待っていてくださるんですね。
でもどうですか?サタンは私たちの祈りを妨げます。祈れないようにさせます。疲れさせます。反達にさせます。病気をさせます。心から神様を遠ざからせます。
そして神様より霊波より祈りよりこの世の楽しみに向けさせます。吹けさせます。そして心を魂を感情を家庭を人間関係をごちゃごちゃにして神様を見上げることができなくように。
だから祈りは戦いなんですよ。祈れば祈る。そういう人は一生祈れないんです。祈ったら祈ります。そういう人は祈らないんです。祈らないに祈れないんです。
サタンは巧妙に祈らせない、礼愛させない、聖書を読ませない罠をいつも我々に、周りに仕掛けているんですよ。だから祈りは戦いなんですよ、皆さん。
目を覚まして忍耐しつつ起きていて、忍耐しつつ祈り、祈りずつ忍耐していく人が祈りの恵みを神様からいただける。
我々後頃の祈りの生活はどうでしょうか。十分十分祈っていますか。十分神の前に跪いていますか。十分家様と交わりを持っていますか。十分天の神様の恵みを十分味わっているでしょうか。
21:17
一日どれくらい時間を、努力を、汗を祈るために注いでいるのでしょうか。祈りは戦いでいる。祈りは戦いでいる。祈りしつつ忍耐しつつ祈っていこうではないでしょうか。
その中に諦めずに、神様に祈ることは本当に大事であります。富田選挙士もおっしゃったように、あの国で選挙することは日本以上に難しいでしょう。
女性のみで、あの国で人々と人間関係を作ることからはもうゼロから始めていかなくならない。しかし、そんなピュアな人間関係ではないように聞こえてきますが、そこで福音を述べ伝えること。
大きな大きな犠牲が払われて、祈りが捧げられて、そして忍耐があって、不思議な神の働きによって一人が救われるような皆さんが残る。そこには祈りの涙、祈りのためを諦めずに忍耐しながら、
撒いて、祈って、撒いて、祈って、死を信じて、死を信頼して、祈っていく人に、祈る。忍耐が与えられます。借り入れることは誰が借り入れますか?
自分が畑が1万坪持っていても、何とかこの秋には良い稲が伸びて良い借り入れができたらいいなあ、たまに田んぼに行ってフラフラして、それで秋になって良い米の借り入れができますでしょうか?できないですよ。
種を植えて、雑草を抜いて、水をやって、何百回以上の農夫さんの手がそこに行くわけなんです。
魂を救いも、祈りの我々の神様からの答えにも、私たちの祈りの努力と言いましょうか、その犠牲、戦い、決心なくては、どうか皆さん、今日から何より祈って答えられて、祈ってまた答えられる、そういう信者であってあげましょう。
24:17
本当に神様が私にたくさん答えてくださって、もう嬉しすぎる、証があまりにも多すぎる私たちでありたい。
今日の夜から、明日の朝から皆さん、祈ってください。祈りを実践してください。膝をまづいてください。
集まって祈って、お家で祈って、朝にも祈って、昼にも祈って、夜にも祈って、祈ってください。
いくら切なしよりは、実際に膝をまづいて、膝が痛い方は椅子に座ってもいいですよ。椅子に座ることがしんどい方は、ベッドに横になってもいいですよ。
メッセージを終わりたいと思います。神様は求めるものに与え、探すものに与え、叩くものに違いでください。
信仰を持って、私も祈ります。この祈るものに、神様、答えてください。
信仰を持って、よい神様を信じて、信頼して、祈っていこうではないでしょうか。
それでは今日の御言葉を覚えて、しばらくですね、応答の祈りを、真剣にですね、今からしばらくお祈りをしていきたいと思います。応答の祈りをしばらくお祈りいたしましょう。
25:42

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