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  2. 2024/01/28:主に栄光を帰す
2024-01-28 44:31

2024/01/28:主に栄光を帰す

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2024/01/29 新年聖会

池口輝雄師

ヨハネの福音書 -35


00:01
一言お祈りします。神様、ありがとうございます。
午前に引き続き、午後もこうして、あなたの本当に栄光を語るチャンスを与えてくださっていることを感謝します。
どうぞ、この午後も、あなたの本当に美技が明かせられ、あなたの栄光が鮮やかに示されて、
お一人お一人が、本当に神様、この方こそ、
私たちが全部を預けても、信頼に足るお方であることを、
しっかりと受け取ることができるように、よろしくお願いいたします。
あなたの栄光だけが、あなたの皆だけが、あがめられるときとしてください。
御手に委ねます。尊いイエス様の名前によって、お祈りをいたします。
アーメン。
えっとですね、午後は着地点だけあって、
途中どんな話をしようかというのは、まともにもなく立たせていただいているのですが、
主の導きに従っていきたいと思います。
正解ですから、清めということを少し、少しじゃないですね、
それを中心のテーマには持っていきたいと思うんですが、
長い間、寿司は正解に出ていて、
清めに関して、あ、これかなって思ったけれども、
なんか自分にはどうもしっくりいかなかったという経験があります。
そしてこないだ、神戸清教会から、私の恩師であります西名博先生が書かれた
清くなれるという本が贈られてきました。
そのタイトルを見たときに、私は非常な違和感を覚えたんですね。
清くなれるって。
なんか違うような気がするなって思った。
清くなれるって言ってしまうと、清くなることが目的化してしまうんですよ。
でも神様はね、清くすることを目的にしてないと思うんです。
あくまでもね、宣教なんですよね。
家様が天に還られる前に、復活されて40日間地上におられて、
復活される前に3つの命令を与えられたんですね。
1つが大宣教命令と言われている
行って、バクテスマを授け、教えなさいということなんですが、
でもこの言葉をギリシャ語で見ると、
命令形じゃない、文詞なんですね。
行くことによって、バクテスマを授けることによって、
教えることによって、弟子としなさいというのが命令なんですね。
弟子としなさい。キリストの弟子となることが目的なんです。
もう1つの命令が、エルサレムに行って約束のせいれがたれるまでとどまりなさい。
03:07
これが2つ目の命令ですね。
私の娘のルツは、せいれがあたれるまで都にとどまれたから、
都にとどまるとか、とどまる都と書いてルツと付けたんですね。
もう1つの最後の3つ目の命令が今読んでいただいた34節ですね。
私があなた方に新しい今しめを与えます。
互いに愛しあなさい。
私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛しあいなさい。
3つしか言ってないんですね。
清くなりなさいと書いてないんですよ。
イエス様、新しい今しめと言われましたけれども、
互いに愛しあうことは、レビキから書かれてありますね。
あなたの隣人は自分自身のように愛しなさい、というのはまさにそのことなんですが、
何が新しいかというと、ここに書かれてある通り、
私があなた方を愛したように、という自分です。
この直前にイエス様は弟子たちの足を洗われています。
師であり、主であるイエス様が弟子の足を洗ったんですね。
使いあいなさいということです。
そしてもう1つが、イエス様が十字架にかかって、
自らの命を捨ててまで私たちを愛したように、そのように愛しあいなさい。
ですからヨハネはこれことを受けて、
人がその友のために自分の命を捨てること、
これ以上に、これより大きな愛はないと言っている通り、
兄弟のために命を捨てることですね。
これが互いに愛しあうということなんですよ。
で、私の清めの証をいくつかしたいんですね。
日本イエスでは、最近は言わなくなりましたけれども、
第二の転機ということが非常に言われていて、
私もそれを求めていたんですね。
ところがね、第二の転機らしいものがあったんですよ。
でもその次にもまたあったんですよ。
さらにまたあったんですよ。
で、工藤先生に新学生の時に研修があって、
先生がこうしてこられたのでお尋ねしたんです。
先生、私、第二も第三も第四も第五もあるんですけど、
大丈夫でしょうかって言ったら、
工藤先生が、大丈夫ですよって。
そんな方もおられるんですって言ってくださったので、
よかったと思ったんですけれども。
よかったです。
これこそ私が言いたい。
神様はバラエティに富んだお方なんですよ。
06:00
今まで聖歌で語られた方の証は、
それは真実の証なんです。
それぞれ正しいんですが、
その人の証なんですよ。
みんながその人のようじゃなくてはならないかというと、
私はそうではないと思いました。
自分は少なくとも自分は違うと。
でも、じゃあその清めの体験を得る方といっぱいあるんですよ。
いくつもあるので、どの話をしようか迷うくらいなんですけれども、
例えば、検診したいと、
学生時代にバイオルキャンプで与えられて、
西田先生が行った時に、
じゃあ祈んなさいと言われた後ですね、
実はその頃、付き合っていたクリスチャンの女性がいたんですね。
そのことを西田先生が聞きつけて、
君、付き合っている人がいるそうだねと。
検診するなら委ねなさいと言われたんです。
ええっ!?と言われたんですよ。
真面目にこの人と結婚しようと思っていたのに、
とりあえず委ねなさいと言われて。
アブラハムが遺作を捧げた話を持ち出されて、
もしその人があなたにとって、
本当に伴侶となる人だったら、
一回別れても必ず神様を会わせてくださいますと言われたので、
それを納得したんですね。
そうだなと思って。
感情はついていかなかったですけど、
頭は理解できたので、
とりあえず別れようと思って、
忘れもしないスマウラ公園に来ていただいて、
こういう事情で別れてほしいんですけどと言ったら、
はい、分かりましたと言うんですよ。
ああ、すごいと。
同じ新婚を持っている人だなと。
これは間違いないかもしれないとか思いながら、
とりあえず別れた。
土曜日だったのでその足で協会に行って、
西田先生に報告したら、
西田先生はどうやらスカッとしたやろと言われましたけど、
私はただただがっくり。
がっくりでした、本当にその時。
ところがですね、しばらくしてですね、
その彼女から電話があったんです。
今度いつ会えるの?って。
え?
いや、僕たち別れたんですけど。
そりゃ分かってるけど今度いつ会えるの?って。
え?って。
その時に彼女に対して持っていた感情が、
さーっと消えていっちゃったんです。
あれ、僕と同じ新婚じゃないや。
私は本当に間違いないってすごく思ってたけど、
どうも違うみたいだ。
やがてその方は別の方と結婚されたんですけども、
その時に示されたのは、
自分がこうだと思っていることは、
結構怪しい。
確かじゃない。
もし結婚してからそのことが分かったら、
大変なことになってたなと思って。
09:00
同じ信仰で進みたいというのは基本ありましたので、
違うんだなと思った時に、
自分が思い込んだってあかん。
だから大事な決断の時には、
神様に聞いてみようっていうのをすごく教えられた時でした。
自分の持っているものを捧げたという一つの経験でしたね。
で、もう一つがですね、
長男児教育をするようになって、
子供が男女で生まれて、
その教育の方に足が向いたんですけれども、
教えられたことが、
もう一個一個褒めながら育てるんですね。
だいたい普通の教育というのは、
ある到達ラインを決めて、
到達したか超えたか、
到達していないかで評価するわけですよ。
で、到達していなかったらマイナスの評価になるんですね。
障害を持った子供たちは、
到達ライン決めたらほとんどマイナスですわ。
またできてないじゃないか。
もっと頑張れという世界しか生まれないんですね。
そうすると彼らは、
ずっとできてないという自分の評価を受けて、
傷ついたまま大きくなるので、
精神編成上、絶対良くないわけですよ。
彼らにどんな教育をするかというと、
例えば教えられたのは、
階段一段上がれない子供に対して、
何から始めるかというと、
紙一枚から始めるんですね。
紙一枚置いて、乗れたら、
やったね!という世界です。
1センチの箱置いて、乗れたら、
よしよし!よくできたよ!
2センチ上げて、よし!できたよ!
そして一段上るようになるんだよ!
と教えられたんですね。
ゼロベースです。プラスの評価なんですよ。
それを知った時に、私は、
教育の基本は褒めて育てることだ!
そういう確信を持って、
35年間貫いてきたんです。
ところが、新学生で、2年生の時に、
大阪教会に使わされました。
そこで、山尾先生がおっしゃるには、
メッセージを作ってくださいと。
けれども、私は絶対褒めません!
いいって言いません!と言われた。
というのが、練り直せば練り直すほど、
いいものができるんですという、
そういう方針だったので、
歴代、前の北尾先生時代からずっとそうだったらしくて。
山尾先生もそのように育っていられて、
その指導されて。
ああ、そうなんだ!と思って、
従ってやっていたんですが、
途中でおかしくなった。
おかしくなりそうになったんですよ。
褒められないって言って、だめですよ、人間って。
まるでね、シベリアの曲形で穴を掘らせて、
そして、掘り終わったら、
こっちの穴を掘って、
12:01
その土で前に掘った穴を埋めるんですね。
それを繰り返させるんです。
頭おかしくなりそうですね。
そんな感じになりました。
絶対、一生懸命作って持っていても、
ここがいいって絶対言われないんですよ。
その代わり、山尾先生はすごく優しい先生だったから、
こう考えるなら、こんなこともありますよ、
こんなことも考えれますよって、
いっぱい引き出し出して、教えてくださるので、
それで精神がまとまっていくようなものなんですけれども、
それは非常にありがたかったし、
いい指導だと思うんですが、
褒めないっていうことに私は引っかかってしまった。
だって35年間、これこそ教育だと思っていたからですよ。
褒めないで、これダメ、ダメ、誰でも言えますよ。
全然能力ない人でもダメって言っていたらいいんだから、
そんな教育じゃないって思い出したんですよ。
そのタイミングで吐く気の癌が見つかって、
2ヶ月入院しました。
幸い定院がなかったので戻れたんですけれども、
あの2ヶ月がなかったら、私おかしくなっていったかもしれない
と思うほど大変だったんです。
で、その2年生が終わって、
北大阪業界の奉仕がこれで終わりって、
その帰り次第に心から、
やった!終わった!って思いました。
もう二度とここでいい!って思ったんですよ。
ところが、4年生になってインターン発表されたのが、
北大阪業界だったんです。
かっこいい!
神様のプログラムなんかやったんですよ。
そしてまた、頭では分かるんですけど、
しかも新学生だから従わなくちゃいけない。
先生、僕それおかしいと思うんですって言えない。
とにかくやってた途中でですね、
祈祷会のメッセージがまされて、
場所が、
ラビレが自分の王宮を作って、
立派な王宮を作って、
で、ふと神戸宮宮の天幕だったんですね。
あまりにも自分の家に対して虫晒しので、
宮殿を建てたいと願うんです。
それはね、全然間違いで悪いことじゃないんですよ。
で、そうして願って神様に祈ると、
神様から叱られるんですね。
いらない。
私は今まで自分の宮殿を建てろと言ったことがあるか。
あなたが私の家を建てるのではない。
私があなたの家を建てるのだ。
ラビレの家系をずっと存続させるんだという意味で、
私があなたの家を建てるんだ。
そして宮殿を建てるのはあなたではなく、
息子のソロモンだと言われるわけですね。
15:02
その時にラビレが願った願いは決して悪いものじゃなかったんです。
けれども神様の恵みには沿わなかったんです。
私は教育って褒めて育てるもんだと思っていましたけれども、
あれ違うのかもしれないと思った。
神様は神様の教育方法があるのかもしれないと。
今まで持っていたこの、
新学校入る前に全部捨てたと言いましたけど、
それ持っていたんですけど、
ああこれも捨てなあかんと思って捨てたんです。
その教育方法にこだわらない。
神様がされようとしていることに身を委ねようと。
パーンって捨てた途端に、
不思議に苦しみはなくなった。
その指導は何でもなくなった。
今でもメッセージ作ってて、
おかしいなと思ったらもう丸々捨て去って、
一から作り直すことができる下地をそこで作っていただきました。
教育学的に見たら、
それは正しいものではないかもしれないけど、
神の教育学から見たら、
それもありだという世界になって、
本当に自分の持っている価値観というものに
こだわっちゃいけない。
その時教えたのはそれだけでなく、
ひょっとしたらまだ他にも持っているかもしれない。
聖書にそごわない、
神様の御心にそごわない価値観。
日本の教育で育ちましたから、
どこかにそういうのがあるんですよ、絶対。
それは聖書と照らし合わせたらきっと
マッチしないものであるんだろう。
もし聖書を読んでてそれに怪我がついたら、
それはもう一個一個ちゃんと捨てていこう、
という心の中から生きたんです。
それはものすごく大きな財産になりました。
田島福音教会を使わされて、
いろんなことが起こってきたけど、
一個一個のことに対して、
自分がこう正しいと思っていることが本当に正しいのかどうか、
ちゃんと聖書に照らし合わせて吟味して、
あ、ちゃうなと思ったら、
わりと簡単に捨てられるようになっているんですね。
それは恵みでした。
そういう意味で、
研修の時に自分自身を捧げましたけども、
自分の持っている価値観であるとか、
自分がこれ正しいと思う思いであるとかも、
神様の御手に委ねられるように、
これは神様がしてくださったんです。
自分では絶対できなかったですけど、
神様がそのように導いて、
私をちょっとずつ、
それこそポンコツですから、
紙一枚から、
よし、よかったよかった、
18:01
育ててくれたような気がします。
面白いことに、
付き合っていた彼女を委ねた直後に、
叔父が貴徳になったという知らせを受けたんです。
叔父だってほとんど会ったことのない、
父のお姉さんの旦那さんなんですけどね。
天笠家に住んでいたから、
教会から帰ると母が、
叔父が貴徳になったらしいと言われたので、
なぜかその時、
これはお祈りに行かなくてはならないという気がしたんですよ。
とりあえず、そんな遠いところでもないし、
行ってみようと思って、
電車に乗ってお祈りに行ったんです。
一人部屋だと思っていたら、
二人部屋だったんですね。
全然知らない人がいるところでお祈りをすると、
めちゃくちゃ恥ずかしかったんです、私。
げーって、二人もいるんかと思いながら、
でもお祈りに行きたいから、
お祈りしなきゃいけないなと思って、
ほぼしどろもどろで、
神様、どうぞ、
おじさんのこの病を癒やしてください、
もう、それしか祈れなかったですね。
帰りながら、
いや、しもたな、せっかく行ったのに、
あんなこともこんなことも言えたらよかった、
って、ものすごく悔いながら帰ったんですけども、
神様は働いてくださっていたんですね。
その祈りに応えてくださって、
その時、おじがものすごく気分が良くなったらしいのです。
そんなことは私は知りませんが、
でもおじは良くなったんですって。
だから、次にお父さんが怒った時に、
テルを呼んでくれって言ったらしくて、
また礼拝が終わったら、のこのこに家に帰ったら、
母が、おじさんがあんた呼んどうよ、
って、えええ、なんで、
で、まあそういうことで、
普段、祈りのネットワークを持っていた妻の、
また別に妻でもなんでもなかったんですけども、
妻のお母さんが母に電話して、
今からこの小居寺に行かないといけないので、
お祈りしてください、
わからなかったらみんなで祈ってもらうわ、
それでも不安だったから、
みじさん先生に電話して、
先生、今こんなことで行かないといけないんですって言ったら、
みじさん先生が、
死の名を呼び求める者は、
全て救われるべしと書いてあるから、
安心して行きなさい、
と言って一言祈ってくださったんですね。
で、その言葉を聞いた時に、
ああ、私が行く先、
それよりももっと先に、
神様が先におじさんのとこ行ってるわ、
私ついて行くだけや、
っていう感覚だった。
非常に仲の良い気持ちになって、
おじさんのところに行って、
でもどうやって切り出そうかなって、
私、学生時代に、
しょうもないことでブラスボンドに入ったんですけど、
先輩とうまくいかなくなって、
もうやめます、とやめてしまったんです。
で、やめた手前、
なんか、このようで一生懸命やってた部活に
21:01
匹敵するような、
打ち込めるものはないかないかな、
と思ってたら、
たまたま、たまたまみたいな導きだったんですが、
高校時代に、
個人伝導の四つの法則というのを学んでて、
何回かできてたので、
そや、個人伝導しようと思って、
一時間目と三時間目という授業があって、
二時間目ってあるわけじゃないですか。
芝生みたいにゴロゴロ、
ひばそうにしている学生が多いんですよ。
この人たちに伝導しようと思って、
4年間続きました。
毎日雨が降ってなくて、
学校行っているときは、
毎日、
ありがとうのおそごしで、
個人伝導してたんですよね。
で、そしたら、
何を話したらいいかはだいたいわかったので、
でもどういうきっかけで話したらいいかな、
と思ったら、
おじのほうから、
あんたはキリスト教ですか、
って聞かれて、
はい、そうです。
キリスト教はキリスト教にお祈りするんですか、
って聞かれて、
いや、ちゃうんです。
で、神様が天地を作って、
人間も作ったと。
でも、最初の人類が、
罪を犯したために、
罪が入ってきたんですよ。
私たちは、
教えられもしない、
いろんなことを罪を犯すでしょう。
でもその罪のために、
イエス様が十字架にかかってくださったので、
イエス様を信じるだけで救われるんですよ。
おじさん、
イエス様信じませんか、
って言ったら、
信じる、って言ったんですよ。
これびっくりしましたけど、
あ、そうですか。
で、
よとのおそくに、
お祈りを導く言葉もあるので、
もうそれも頭に入っていましたが、
じゃあ僕について祈ってください、
って祈って、
おじは救われるんです。
神様が、
私たちを清める目的は、
宣教のためなんです。
宣教に使わすためには、
清められないと、
持ちにくいんですよ。
宣教に使わすために清める、
目的は清めじゃない、
宣教なんですね。
まさにそのルートで、
私も全くそんなことを考えてもなかったけれども、
神様がそれに導いて、
おじが一人救われた。
彼とは、
もう一度天国へ行けば会える、
という確信があります。
これこそ、
清める目的だな、
というものです。
今日、
読んでいただいた、
この十三章の、
三十四節にも、
新しい文字が、
互いに愛し合いなさい、
と書かれてありますが、
これは、
三十五節を見ますと、
互いの間に愛があるなら、
それによって、
あなた方が、
私の弟子であることを、
全ての人が、
認めるようになります、
と書いてあります。
これ宣教なんですね。
五世紀に、
ローマで、
24:00
キリスト教が国教と認められたと、
ある信学者が言っているのは、
今、
このギリシャで、
宣教が進まないのは、
私たちの間に愛がないから、
以外に考えられない。
私たちの間に、
イエス様が愛し合ったような、
愛の交わりがないから、
宣教が進まないんだ、
と書いてあるんですね。
宣教を進める第一歩は、
私たちが互いに愛し合うことなんですよ。
教員時代、
面白い先生がおられて、
楽しくなければ、
授業じゃない、
という先生がいたんです。
私は教員の、
結構長いことをしていましたけど、
そんな馬鹿な、
と思ったんです。
ちょっと苦しい時もあるよ、
と。
ところが、
その先生の授業を見に行ったら、
めっちゃ面白いんですよ。
毎回面白いんですよ。
すごいなぁ、
と思いました。
こんな面白い授業を、
毎日毎日毎時間毎時間、
展開できるなんて、
そういうグループがあって、
資料もあって、
その通りにやっていけば、
本当そうなるんですけれども、
それを経験した時に、
教会を使わせてから思ったんです。
教会は楽しくなければ、
宣教は進まない。
教会は楽しくなければ、
教会じゃない、
と思ったんですよ。
だって私たちが楽しくなければ、
人を呼ぼうなんて思いませんよ。
私、神戸中教会で育ちましたけど、
あの、
楽しくなかったんですね。
すいません。
本田先生が起こされた教会で、
めっちゃ宣教的で、
先頭的な教会なんですよね。
私もその流れによって、
結構先頭的だったんですよ。
でもね、そうなるとね、
自分の弱さは見せられない。
なんかね、
僕は頑張ってるんだ、
という鎧をいつも着てね、
頑張ってるんだぞ、
っていう姿を見せてないといけないような
錯覚に陥ってたんですよ。
でも違うな、と思いながら、
抜け切れなかったんです。
ところが新学校入った時に、
20歳の同級生の教会が、
いや、普段から自分たちの弱さを、
みんな普通に言い合って、
お祈りし合ってるよって、
えー、そんな教会があるんだ、
と思ったんですね。
それは、それこそいい教会じゃないか、
とかって思ったんですが、
そんな教会にしたいな、
と思いながら、
私は福音教会に使わされました。
で、まあ、そう思う間もなく、
とにかく自分のポンコツが、
27:01
ぼろぼろ露呈していくので、
要するに語るまでもなく、
わかってしまうという世界があったんですが、
互いに祈っていただいています。
で、青年たちが集まる中でも、
もう、いかっこなんかせんとこうと、
もう地で行こうと、
自分のええとこも悪いとこも、
ぼろぼろしゃべって、
そして祈り合っています。
本当にね、この交わりがね、
いい交わりだと。
愛し合って、こういうことじゃないかなと、
まだ完成期には至っていないかもしれないけど、
そういうことじゃないかな、
と思うような交わりになっているんです。
だから居心地いいかもしれません。
まあ、もう一つは、
学生たちが、
学校に行った時はクリスチャン一人やけど、
家に帰ったらクリスチャンホームだったから、
クリスチャンという家庭で、
そのクリスチャンの話ができるのに、
寮に入ったらやっぱり一人やと、
クリスチャンが。
ちょっとしんどいというね。
教会に来たらみんなクリスチャンやから、
普通に話せるという、
そういう居心地の良さもあるみたいで、
先ほど木曜と土曜と日曜日は来ていると言いましたけど、
時々水曜日とか金曜日とかも、
先生、食事食べに行っていい?
とか電話があるんですよ。
ええよ、おいでおいで。
木曜日はあまりこういったものを作れないので、
レトルトのかげとか、
牛丼とかをチンして食べているんですけども、
まあ、よくしゃべって帰りますね。
そういう間違いですよね。
自分でも不思議なんですけども、
この1月に地震があって、
教会で岩盤の上に立っているみたいで、
全然入れなかったんですよ。知らなかったんです。
でも同じ豊岡市内にある地域では、
ものすごく入れたということを聞いて、
あ、ずいぶんちゃうんだなと思ったんですけども、
娘が内田にいるんですよ。
七尾で地震にあって、
主人の実家にいたんですが、
そこは無事だったので、
内田で帰ったら鍋のふたが1個壊れただけだったと。
その鍋に入っている内田教会が教会になったと。
内田教会のメンバーで、
物資の支援なんかに野党の方にガーッと行っている
お父さんの子供たちが学校まだ始まってないから、
教会に集まっているので、
お父さん、勉強教えに来てくれへん、
というのがあったので、
実はね、その前の土曜日に、
兵庫教区の青年部の賛美集会があったんですね。
行きたい人がいたので、
田島から連れて行って往復して帰って、
日曜日は礼拝して、
月曜日が教区の役員研修会があったので、
役員が一人行くというので、
30:00
連れて行って帰って、
そのタイミングで電話があったから、
その次の日の朝に、
田島帰ったのが7時ごろだったんですが、
すぐお風呂入ってすぐ寝て、
9時ごろ寝て2時半に起きて、
8時に出発して、8時に向こうに来て、
勉強をしていて、
そして、2日だけって話を聞いていたのに、
なんや、金曜まで追ってくれるのかと思った感じですが、
何言ってんねんって、
そうするとやり取りがあったんですが、
木曜日までいて、
ここも不思議なことに、
一人スケットが来たので、
その人に引き継ぐことができたんですけども、
で、帰って、
で、青年団と交流しているときに、
その学生の女の子が、
土曜日の午後です。
午後になってから言うなと思ったんですが、
先生、右耳が耳鳴りがして聞こえにくいんです、
って言うんですね。
私は一時、聞こえと言葉の共通というところで
10年間おりましたので、
突発で何となったら、
48時間以内にステロイド、
ステロイドを投与しないと、
聞こえなくなるんですね。
すぐ病院から緩和があって、
豊川病院に連れて行ったら、
豊川病院の救急に、
自美科はおられなかったので、
神戸地域市民病院に行ってください、
と言われるんですよ。
あっと思ったけど、
もうそんなんあかんわ、
行こ行こって。
本人は行きたがらなかったんだけど、
どの子も連れて行って。
で、行って、
特に何もなかったと。
大丈夫ですよ、という話だったので、
多分突発で何といってはないですよ、
という診断を受けたので、
まあ安心して帰ってきたんです。
で、その次の日が日曜日で、
月下と息子の病院と、
私の病院があったので、
もう一回神戸に行って帰ってきたんです。
2000キロを超えましたね、
この短期間に。
それがね、苦ではない。
そういう時は、
神様がちゃんとその、
動く思いと、
そのエネルギーをちゃんと
与えてくださるんですね。
不思議ですけど、
まあ後はちょっとぐたっときましたけども、
それを持つので、
それができるんですよね。
これやな、とちょっと実感したんです。
もし、私が使わせていなかったら、
そんなことは絶対しなかったな、と。
だけど自分が、
任された教会の人がそうなったら、
それが誰であっても連れていったな、
って思うわけですよ。
不思議なことですけどね。
で、神様がそういうようなことをしてくださった。
それこそ見心にかなった祈りは
必ず聞かれるというところにも通じるんですが、
こんな私でも、
そのように用いてくださる神様が
いつもおられるということです。
33:02
そしてそれをした子が、
同じようにこの前、
なんかもう自分お腹いっぱいで、
前の日寝れなかったからめちゃくちゃ眠たかったのに、
寮の友人がすごく心が病んでいるのに気がついて、
食事をおごってあげようと思って連れていったんだと。
お腹いっぱいのようにまた食べて、
してあげて、
そういうことができたんですよ、って言ったら、
あんた若いのによくやるね、と思いましたけども、
それができるように、
自然にできるようになっていっているっていうのが、
すごいな、って。
多分そういうことに巻き込まれている学生たちは、
この交わりを見て何か感じるに違いないと思います。
確かに私もノンクリスタルの時に、
クリスタルの交わりをやった時に、
なんか世の中と全然違うな、というのをものすごく感じたんですね。
何か言語化できなかったけど、
何か全然違うよな、すごく居心地いいよな、
というのを感じたことを覚えています。
その学生が2人、自分の友達を、
まだ礼拝には来ていないけど、
夜の夕食会に入れ替わり立ち替わり連れてきているんです。
今5、6人来ましたですね。
そのうちの1人は2、3回来ているので、
この子は教会につながるかもしれないなと思って、
期待して祈っているんですが、
きっとそれが展開していっている。
この間、学生の2人が、
僕たちの後輩に、またクリスタルが来たらいいと思うんです、
また祈ろうと。
今祈っているのは、
平田織座の芸術文化観光専門職大学という、
長たらしい名前なんですけれども、
まだ3年目で4年生がいないという大学なんですけれども、
そこに次々とクリスチャンが使わされてきて、
洗浄香水帯というのはあまり悪いイメージですけれども、
洗浄香水帯のように教会につながる子どもたちが、
来てくれたらいいなというような願いを持って、
祈り始めています。
きっと応えてくださるに違いないと期待しているんですが、
そのようにですね、
私たちが清められるというのは、
その先に宣教があるんですね。
でも宣教が進むためには、
私たちが神様の前に清められていかないといけない。
でもその清めも、
自分で清められるわけはないんですよ。
神様がやってくださる。
だから委ねるんですよ。
委ねていると、
神様がご自分の目的のために、
必要な清めというのがあるのか知らないですけど、
36:01
整えてくださって、
そしてその先に、
人が救われるという、
もうね、
生きていてこれほど嬉しいことはないですよ、皆さん。
自分を通して誰かが救われる。
救うのは私じゃないですよ。
その人が救われるための、
いろんな手立てを施しますけれども、
そこから先は神様のお仕事ですから、
その人が救われようと、救われないと、
一握りする必要はなく、
神様の御花ですからね、
お任せしたらいいんですけども、
神様がそれを実現してくださったときに、
どんなに大きな喜びか、
生きていてこれ以上の喜びは本当にないですね。
ぜひ皆さんもそれを味わっていただきたいと思いますが、
そういうことなんですね。
私たちがやっぱり、
この教会でもですね、
田島福音教会でも今それが進みつつありますけれども、
選挙が進むためには、
私たちが互いに愛し合っていなくちゃいけない。
愛し合うための消極的な面は、
許し合うことです。
相手を許すことです。
相手でも許すことです。
積極的な面は、
命を懸けて愛することです。
兄弟のために命を捨てるほどの愛を持って、
愛することです。
それができたならば、
ほっとったって人は来ますよ。
次々と人は来ますよ。
私たちは神様がそう願いたい。
人行税の時代、人の働きの時代って、
一度に五千人とか三千人とかのレベルで、
人が次々救われていったではないですか。
もちろんそれはそれなりの下地があってのことですけれども、
日本においてだって、絶対それが起こる。
でも今まで何で1%を超えなかったかというと、
残念ながら、プロジェクサーとの教会は、
自分とこの教団こそ素晴らしい、
こここそ素晴らしいという、
宣教団体がそういう教団、教派を持って宣教に来たので、
仕方がないことなんですが、
それを大事にし続けたために、
決して愛し合っていたとは言えなかったんじゃないかと思います。
同じ教団の中でも、
教会主義だったみたいで、
私は詳しくは知らないんですけれども、
日本エースも教会主義だったみたいで、
うちとこの教会こそ、うちとここそってやってたから、
39:01
宣教は進まなかったんじゃないかなと思います。
一時的に進んだように見えても、
それは続かなかった。
今どんどん、どこの教会、
神戸中央教会でさえ、
青年がいなくなってきている。
どんどんコロナもあって、
本当に人が減っている。
その現状の中で、
互いに助け合わないとやっていけないようになって、
ようやくそのことに気がつき始めていますけれども、
私たちはキリストの体なんですよね。
そして、最初に申しましたように、
神様はバラエティに富んだお方ですから、
それぞれの教会に、
それぞれの特徴を与えてくださっていると思います。
それを活かし合って、
一つの体なんですね。
それぞれの不得意があると思います。
田島福音教会、今青年たちがたくさん集まっていますけれども、
青年がいない。
大変なんですよ、青年がいないって。
年配の女性と一部のご家族、
2つの、どちらも客員ですけれども、
そして青年がいる。
青年がいないってね、
それはそれは大変なんです。経済的にまず大変。
そして何か進めようと、ことを進めようと思っても、
なかなか決断ができない。
という弱さを持っているんですね。
でも、そんな中でも、
田島には田島の祝福を与えて、
今、ことを進めようとなさっているというのが、思います。
この三和谷教会も、きっと他にはない、
ものすごい強みがあると思いますね。
それをぜひ活かし合ってですね、
お互いに愛し合って、
この宣教が進むようにですね、
私たちは共に手を取り合いながら進んでいきたいと思います。
応答の賛美で、もしワーシップが選べるなら、
ぜひこの歌だと思っていた歌があります。
それは、愛をもってかな、というタイトル。
たぶんそうだったんですが、
愛をもって生きていこう。
ちょっと音痴ですけど歌いますね。
歌わないと歌詞が分からない。
愛をもって生きていこう。
互いに手を取り合って、
イエスのため生きていこう。
愛の光の中を。
私の人生は、
愛が満ち溢れる。
愛し合う心。
42:01
イエスは教えてくれた。
という歌なんですけど、
私が素晴らしいところは、
私の人生は愛で満ち溢れているというフレーズです。
それは自分では考えられないですよ。
だけどね、
イエス様に委ねる時に、
本当にそうなっていくんですよね。
だからこれはどんどん歌っていこうと。
歌によってむしろ影響されようと。
私の人生、愛が満ち溢れている人生を
走り切りたいと。
なぜかというと、
愛し合う心を主は与えてくれたからです。
神様の前提でもう一つ言い忘れていた大事なことがあります。
それは、神様が命令されたということは、
神様の命令には約束が伴うということ。
神様が互いに愛し合いなさいと言われた以上、
互いに愛し合うにしてあげるという約束があるんです。
なぜなら、
御心にかなった祈りは聞かれるわけですね。
神様が愛し合いなさいと命令されているということは、
神様の御心そのものじゃないです。
神様、私に人を愛する愛なんか欠片もありません。
でも、互いに愛し合えるようにしてくださいと祈るならば、
自分にはできないけれども、
神様がそうしてください。
これが神様の約束なんですよ。
必ずしてください。
どうか、私たちは本当に互いに愛し合えるように。
そしてそのことによって何が起こるかというと、
三十五節にあるように、
互いの間に愛があるなら、
それによってあなた方が私のできていることを
全ての人が認めるようになります。
神様の愛がそこに見えるんですよ。
神様の愛って見えないんですけど、
私たちが互いに愛し合っているならば、
私から来た人がそこに神の愛が見えるんですよね。
だからまた足を運んでくださるようになるんですね。
そんな境界で私たちはありたいと願います。
お祈りいたします。
44:31

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