はい、どうもDMM.comの亀山です。亀っちの部屋ラジオ始まります。
はい、サブMCの高橋です。今週もどうぞよろしくお願いいたします。
ゲストをお呼びいたします。前回に引き続き、作家の平野啓一郎さんです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
なんかこう、いろんな、小説もあるけども、いろんなとこで時々動弾とかしてるみたいだけども、
結構、格差問題とか、政治がバカだとか、いろんな話をしてる。
まあ、講演とかはもう、こっちが主体的にやるっていうより、やっぱり依頼なんで、
僕の本を読んでくれた人が、ちょっと講演してくださいみたいなのを聞き受けるっていう感じなんで、
自分からこういうのを話そうとしてるとかいう感じでもないんですけどね、依頼に応じてっていうか。
でも小説っていうと、部屋にこもってさ、自分の今までの過去の経験とか、いろんなものを含めて、
それを結構煮詰めて、ぐるぐる回して作っていくっていうのもあるんだけども、
やっぱりそういった中では、部屋こもってるだけじゃなくて、いろんな人と出会ったり、
いろんな場に行くことは結構やることなのかな。
そうですね。やっぱり、考えるテーマとかが自分とって新鮮じゃないと、やっぱり飽きてきちゃうんで。
新鮮であるっていうのは、やっぱり今の時代の変化とか、やっぱり自分が普段接しない人たちと接するとか、
あるいは、この前ちょっとそういう話になったんですけど、
だんだん年取ってくると小説の主人公の年齢が上がってくるっていうのはよくある問題で、
僕とかもやっぱり20代の頃は、主人公は20代とかが多かったけど、
自分は40過ぎたりすると、主人公も40とかになってくるみたいなとかあって、
それは書きやすいっていうのもあると思うんですけど、
華麗とか老いっていうのも、やっぱり自分とっては新鮮な経験なんですよね。
今までと違うっていうのが、だんだん目が老眼入ってきてとか、
そういう経験自体が未知の経験なんで、やっぱりちょっと刺激されるんですよね。
そういうのを書きたいっていう風な。
そう思うと、だんだん当事人物の年齢も上がってくるとかいうところもあって、
今自分は20代の青年を書こうとかって思うと、
自分の20代の頃のこととか思い返すと、
割と自分とっては過ぎ去ってしまったような問題みたいに思えちゃって、
あんまり今更みたいに感じてしまうんで、
結局行動に失せないことは理解しないと同じだみたいなのもあったから。
そうですね。
やっぱり最後の学生がお灯台立てこもったりしても、
結局死ぬまでやらないじゃないかみたいなことをかなり厳しく批判してたんで、
そうするとじゃあお前どうなんだっていうのは当然言われてくるし、
自分でもそのことはかなり意識してるんですよね。
そうだね。
やっぱりその辺は死んでから。
村穂をついたときはもう死んでたんだけど。
その辺を戻ると、自分らへのカッコつけ方っていうのがあるじゃないですか。
ってなったときに、書くだけじゃなくて俺は行動するんだみたいな。
っていうのがあるのかなみたいな。
そこで言葉がすごく戻ってもさ、過去に書いた言葉も重みを増すみたいなのがあったのが、
俺の読むきっかけでもあったのもあったじゃないですか。
実際問題はそういった人が書いた本ってどっから入ってたのもあったわけよ。
だから、お前自身もいろいろ人に言ったことをやんなきゃいけないみたいな話になる。
まあそうですね。
だからやっぱり言葉に気をつけないといけないですよね。
言えばね、やっぱり言ったじゃないかってことになりますし、
だからといって何も言わないっていうのもよくないですし、
自分の責任を取れる言葉って何なのかなっていうのはちょっと僕も考えますけどね。
でも小説ってさ、別の人物を2,3人出してさ、
それぞれキャラで言いたいこと言う。
それも自分の言葉なんだけど、人物変えてさやるじゃないですか。
だからそういうので言うと言いたいことが言えて、ある意味責任を取らなくていいって言うんだけど。
そうですね。だから三島も小説は責任を取らなくていいんだってことは何回も強調してるんですね。
それはやっぱり僕もいろんな、自分の分子みたいな人物だけだったら全部同じになっちゃうから、
やっぱりいろんな登場人物出てきますし、結構やっぱりけしからんこととかいろいろ言わせてますけど、
それを禁じられるとちょっと小説は書けないですけど、
ただ、一作読み終わった時のやっぱりその作家の思想みたいのは重要だと思うんですよね。
だからひどいこと散々言って、結局それを全肯定してるみたいな本じゃんみたいなことになると、
やっぱりどうなんていう感じもしますし、ひどいこと言ってるんだけど、
全体としてこの本そのものの思想って何なのかっていうことは問われてしかるべきだとは思いますよね。
それが物語として、自分の思想を詰め込んでるんだと思うんだけど、
また一方で、人の前で自分の言葉で話すときっていうのはまたちょっと違うものがあるような気がして。
そうですね。だからそれがフィクションのいいところで、
自分の名前でみんな意見を求められて、
例えば不倫についてどう思いますかって言われたら、
みんな、いや良くないと思いますとかしか言えないですけど、
不倫の小説読んでアンナカレインだとか読んで、
アンナについてどう思いますかとか言って、
文学作品の感想を求められてるのに不倫はいけないと思いますとか言うと、
あまりにもバカっぽくて、それはそれとしてでも彼女の気持ちもわかるとか、
もうちょっと人のことについてっていうことだと寛大になれたり、
いろいろ繊細な複雑な気持ちとかも理解して、
いろんな話もできたりっていうのがあるんで、
そういう一旦自分のことは置いといてっていうことで語り合えるっていうのが、
フィクションのいいところだと思うんですよね。
不倫の件でそうだね。
平野さんがときとき文人ってことですかね。
個人自体、個性というよりもその中に多くのいろんな人がそれぞれ人間がいるっていう。
ざっくり言えばそんな言い方ですけど。
よく不倫をしたら、家族とか子供を裏切って、裏切り者みたいなことになるけど、
たぶんその人は子供とか奥さんにもそれなりの愛情があったんだと思う。
一方でこっちの恋心もあったんだろう。
それも本当なんだろうけど、
一つの出来事が全てを否定。
それだけではなく役者としても否定される。
人としても否定されるわみたいな。
すごく単純にそれにあったやつは全部ダメみたいな。
だからやっぱりもちろん夫婦関係の中でシリアスな話になったりすると思いますけど、
それをネタとして社会全体が面白がって消費するっていうのは、
もういい加減に卒業したほうがいいと思うんですよ。
もう別に社会に向けて謝ることもなんでもないし、
役者としての仕事がどうなったのかってこととも何の関係もないですから、
やっぱり後勤使ってデートしてたとか、
そういうのはやっぱりちょっと問題だと思いますけど、
その役者がどっかで不倫してたとかなんとかっていうのは、
まあどうでもいいっちゃどうでもいいことだし。
なんていうのかな、僕文人っていうのは一応ニュートラルな分析概念としてもともとは提示してて、
いいかどうかっていうことはともかく人間を観察してたら、
やっぱりどうしても一つの人格に収まらずに、
対人関係ごととか場所ごとにいろいろな人格に分化してますよねっていう話を、
中立的な観察を説明するために文人という言葉を考えたんですよね。
それを文人化と呼びましょうみたいな。
その上でそういうふうに文人化が起きる。
その起き方によって、
友達によって態度は変わるとかぐらいだったらいいんだけど、
恋愛対象が複数になるとかってなったときに、
じゃあそれを倫理的にどう捉えるのかっていうのは、
もう個々人で考えましょうみたいなレベルで捉えてるんですよ。
だからもうポリアモリーとかいう言葉ありますけど、
お互いにいろんな人好きになるのを認め合いましょうみたいなカップルもいるかもしれないし、
やっぱり一対一で物神っていう人と付き合うのは正しいんだっていう価値観に基づいて付き合ってれば、
やっぱり浮気したりすると問題になるとかっていうことだと思うんですよね。
そういう感じの中で、
たぶん個々人はなんとなく文人というか、
僕感で見る目は持ってると思ってる。
たとえばそんなやつの飯は食いたくない、
そんな役者の映画は非公開にしろってやつが、
たとえば1,000人1人いたとしてもさ、
その人がアカウント10個作ってさ、
他のやつが喋らないからその10個がまた増幅して100個になって、
世界でその中で反発するとまた自分にいじめが来るわっていうのがないんですよ。
みんなそこまで思ってないけど、
なんとなくそこの波に逆らいたくないと。
映画会社も映画ちょっと延期しましょうかとか、
そうですね。
CMもね。
あとやっぱりメディアの側がビュー数稼ぎっていうか、
そのニュース出せばバズってビュー数が上がるからみたいなことでやってるのもありますよね。
だからわわ言ってくるほうが、
フェイカー監督とかいっぱい作ってやってるっていうのと、
ビュー数も稼げるからみたいなところの両方で、
だらだらずっとあれやってんだと思うんですけどね。
もういい加減にしたらと思いますけど僕は。
いや本当です。
ただこれにさらにAIとか入ってくるとさ、
今度ひっくりしてさ、またそれまた盛り上げるやつがいっぱい出るわけ。
増幅するでさらに100倍。
カオスですね。
そうなる可能性ありますよね。
そうなるとさ、まさにさ、
誰かが戦争に行こうと言ったら戦争に行けるみたいな話になって、
結局はその声の多いほうが勝っていくような。
昔の戦争始めた後に、
じゃあもう天皇陛下が西見だって変わったのも、
何にしてもそういう流れっていうのが、
誰かがすごく悪い奴がガッとそれをやろうと思ってもやれそうな世界が今あるじゃないですか。
そうですね。
民主主義っていうのは基本的にはマイノリティの人たちの権利まで含めて、
社会どういうふうに自分たち作っていくかってことなんですけど、
でも議会の婦人をまず決めるためには選挙するし、
そこでどうしても量的な概念が関わってくるんで、
人数の多い生徒が与党になるしっていうな。
だから量的なものに一定の正しさがあるっていうようなものが、
今ちょっと過剰にそれが肯定されてますけど、
世論とかっていうことで言うと、
今おっしゃった通りAIとかでいくらでも人口的に増幅することができるんで、
世の中どうしていくかっていうことを世論に重視するって時に、
量的なところに重きを置きすぎると、
そこはいくらでもコントロール可能になっちゃうっていうのは大きな懸念ですよね。
だから実態としては、
よくよく見たら一人のやつが1000個ぐらいアカウント作ってだけだったみたいなことを、
一方で分析して暴き続けないと、
みんなが何言ってるのか全然わからなくなっちゃうっていうのは懸念ですよね。
その中でどうなの?文学っていうか文字、
多くの山ほどの文字の中にさ、
自分たちの価値のある言葉を伝えるかっていう時に、
文字だらけだからさ、
言ってはいけないんじゃない?
そうですね。
どうなっていくのかな?ここから。
まあ、ソーシャルメディアとか僕もいろいろやってるんですけど、
やっぱり情報接種とかいろいろな意味で、
ネットって登場してよかったなと思ってて、
なかった頃よりはいいもんだというふうに僕は思ってるんですけど、
ただ、
ツイッターとかでいろいろ人の意見を読んでて、
じゃあ自分の考え方が180度変わるかっていうと、
なかなかそうならないと思うんですよね。
みんなそんなに長い人生をかけて自分の思想みたいなのができてきてるんで、
右翼が急に左翼になったり、
左翼が右翼になったりとかっていうのは起こりにくいんだけど、
小説はやっぱり自分の経験でも結構自分が信じた考え方が変わったりするような、
経験っていうのは何回もあって、
だから普段の言葉で言われると、
自分と反対意見だと結構反発したりとか、
全然納得できないんだけど、
小説を通じて細かなディテールとかを通じて、
感情移入しながら読んでいくと、
違った考えもあるかもしれないっていうふうに、
少し自分が開かれていくっていう経験はある気がしていて、
そういう人にお似合いが長い時間かけて培ってきたものの見え方とかが、
変わっていくきっかけになるんじゃないかっていうのが、
ささやかな希望なんですよね。
もちろんそれが希望だとは分かるんだけど、
実際、本を読むのに2,3時間かける時間と、
TikTokで2,3時間かけるものを、
せっかく自分の思いがあったら伝えたい。
伝える方っていうのが、妥協じゃないんだけど、
伝えなくては伝わらないよみたいなのがあるじゃないですか。
何ていうかな、触れてもらいたいのがあるじゃない?
そうですね。
ただね、やっぱりここの話になると急に何ていうか、
非常に都合のいい話してるような気がしますけど、
文学の読者ってもともと国民の何割に受け入れられなきゃいけない、
みたいな規模の話じゃ全然なくて、
まず1000万部なんて絶対売れないですけど、
それでも人口の10分の1だし、
100万部だったら大ベストセラーですけど、
その100分の1でしょ?1%じゃないですか。
10万部売れれば部中文学でも結構なベストセラーですけど、
そうなると0.1%とかだから、
逆に言うと99.9%の人が何も関心持ってなくても、
文学的にはベストセラーっていうところもあって、
だからやっぱりそういう規模の中でやってるっていうことが、
割とこの分野は重要だと思うんですよね。
その先の人たちまで全部カバーしなきゃいけないとか言って、
そのためにどんな表現が可能かみたいなことを考えだすと、
もうぐちゃぐちゃになっちゃうと思いますけど、
やっぱり1000人いる中でいつも一人で孤立してるみたいなことを感じてる人たちに
読んでもらえればいいんだっていうような考えでやっていけば、
それなりのやり方があるんじゃないかと思いますね。
なるほどね。
じゃあ自分の中で言うと、例えば本出したときに、
1000人だと少ないとか、100万人はいらないとか、
この辺とかってある?
この辺ぐらいの人に、この辺ぐらいが自分の落とし所みたいな、なんていうかな。
今の純文学の世界、1万部れればオンの字みたいな感じの世界になってますけど、
僕はやっぱり5万部ぐらいを具体的に目指していて、
5万人ぐらいが読むと、その後また10万人、20万人とかにバーって広がっていくっていう感覚はあるんですよね。
だけど文学の場合は本当にもう3000部の人が読む、
3000人の人が読む本と5000人の人が読む本、
1万人の人が読む本、2万人の人が読む本っていうのがかなりレイヤー化されていて、
それぞれに自分がどの辺で書きたいかっていうのはね、やっぱり作家の人はあると思うんですけど、
15万人ぐらいの人に読んでもらうってなるとやっぱり、
そういうことを考えて書かないとなかなかそうならないんじゃないかなっていう気はしてますね。
なんかでボンと跳ねてベストセラーになるとかってことはあると思うんですけど、
継続的に自分の書いてるものがある規模の人に読まれるためには、
そういう考え方があるのかなっていう気はしますね。
でもうまく計算してそうなるかって言うとそうでもないと思うんですけど、難しいんですよね。
逆にハリーポッターまで行くと自分が堕落したとか思っちゃう?
全然何も考えずに書いたものがそうなったらよかったなと思いますけど、
そこに向かってやっていくっていうことは無理じゃないですかね。
向かないとならないから、そこでも狙わないとか。
それはやっぱり相当狙って書かない。
彼女がそういうふうに書いたかどうかわからないですけど、
僕みたいな作品を書いてきた人がハリーポッターを目指そうと思ったら、
相当いろんなことを考えてやらないといけないし、やったとしてもそうならないと思いますね。
結局、俺なんかはもともと実行者であるから、
あんまり実行者であんまり人の前でしゃべるのはやりたくないっていうか、
このやつろくでもないやつだと思ってたからさ。
10年ぐらいしゃべったりとか言ったりとか、ぼちぼち受けたわけよ。
なぜかというと、あるいは年取ってたのもあるし、
少なくとも金もオーケーしたとか、実績があるみたいな。
いろんなことビジネスやってるっていうことの冠がついた上で、
その人がしゃべってることっていうので、
話聞いてみようかみたいな、読んでみようかみたいになるじゃない。
このまま面白かったらまた次面白いよね。
とはいっても、今はポッドキャストとこういったニュースピックスぐらいでやってるんだけど、
逆に言うと、YouTubeとかテレビとかのバラエティとか出たら大変なことになるんだと。
叩かれまくるわと思ってるんで。
言いたいことも言えなくなるし。
今は程よく言いたいこと言える。
結構これでも絞ってるんだけど。
プライベートにもっと言いたいこと言ってるんだけど。
だからそういう意味で言うとテレビの規模感と、
ネットで好きなこと喋ってみたいな規模感みたいにちょっと違うっていう意味では、
テレビに載せるにはっていう感じだけど、
でも言っておきたいことあるみたいなことを話せる場所が、
今ネット上にいっぱいあるっていうのは結構いいと思いますし、
もう一つは僕の場合、
自分が音楽とか映画とかすごく好きで、
同時代の人がいろいろ作ってるものに影響を受けてるのに、
自分の作品が同時代の表現者に影響を与えないっていうのは、
寂しいなっていうことをある時期に思うようになったんですよね。
それでやっぱり2、3万部、5万部ぐらいまで読まれるような作品を書くと、
結構やっぱり映画監督が僕の作品を映画化したりとか、
ミュージシャンで僕の本が好きとかいう人たちがだんだん増えてきたんですよね。
やっぱり本当の文学向けのためにだけ書いていると、
なかなかそういう同時代でいろいろやってる人たちに、
表現者に届かないっていうことが僕の場合はあったんですけど、
そういう意味ではある程度の規模の人たちを視野に描き出すと、
いろいろ関心持ってくれる人たちが、
いろんなジャンルで面白いことやってる人たちの中に増えてきたっていうのがあって、
それはすごくやってて楽しいことなんですよね。
だけど、その先を越えて、例えば100万部を連発するようになったら、
もっといろんな人が僕に関心持つかっていうと、
必ずしもそうと思わないんですよね、そうなると。
むしろ雑音でザイクなるかもしれない。
だからね、あんまりそこまでのことは考えないですね。
俺は今言い心地よくて、
いくらも興味ある経営者の人とか、若いやつで興味持ってる人とか、
若い人との接点を持てるんで、
ちょうど程よい加減で、ちょうど仕事をやってるんだよね。
それがやっぱり理想じゃないですかね。
なんとなく顔も出してないから、ある意味楽に人間もできる。
だから時々ずるく立ち回ってるんだけどね。
じゃあ今、ちょっとチェックしてなかったんですけど、
メディアに全然顔出されてないんですか?
そうだね、検索しても出てこないと思う。
この時代に検索しても金棒さんの顔一枚も出てこないって、すごいですよね。
みんな、あいつと恐怖で出さないようになってみたい。
でもそれこそ、AIかなんかで全然もっともらしい別の顔出して、
実はこんな顔ですとか。
イラストよりももっとリアルっぽいけど、実は全然別人とか。
そうかもしれない。それは勝手にやってもらっても構わない。
今も他の人出てくるからさ、検察。
社長とか出てきたり。
そうだね、そういうことで言うと、
今のスタンスっていうのは居心のいい感じなの?今の場所は。
それとももうちょっと目指すとか、本当はこっちなんだよってあるのかな?
いや、あんまり大体今やってるようなことの延長上だと思うんですけどね。
文学とか本当に自分としてこうしたいってこともあるけど、
どういう規模感とか、どういう読者の中で仕事するかみたいなことは、
コントロールできない結果論みたいなところもあるんで、
結果としていろんな人が読んでくれるようになったとか、
結果として僕に関心ない人たちはまだ結構いるとか、
そういうことはありますけど、
あんまりそこでこうしてやろうとかっていうことを考えるのもちょっとね、
小説家として不純かなって気もするんで。
まあ割と今いい具合ですかね。
でも今、いくら読者も見てると思うけど、
いくらか自分の書きたいことも書けないんで、
その形で書けてるって感じなんだよね、今。
そうですね。
やっぱり売るためになんかするってことは、
小説書くよりはあんまりできないんですけど、
ただ人間の認知システムとか、
人間がどういうふうに世界見てるかとかっていうことを勉強していくと、
割と小説の書き方に影響はある気がするんですね。
だから人間とは何ぞやみたいなことを突き詰めていったときに、
ある程度の規模にまで本が届くようになったっていうのが、
実際のところで、そうあるべきなんじゃないかと思ってるんですよね。
なるほどね。いいやいいや。
そのあと最後事件起こしてほしい気がする。
いやいや、そっちにはいかないように。
ちょっとほかの方法考えます。
そういうの憧れながらも、今の社会との盛り合い取りながら、
やっぱり仕事とか家族とかそれこそね、
三島とかそういった思いの中の文字も俺にはあるんだけど、
一方で家庭の中で日常の中で幸せもあったり、
私の中の欲の戦いみたいな、
野暮屋みたいなゲームの中を楽しんでる自分もいるわけよ。
中年になるとああいう破滅的な過激な方法に
ますます憧れるみたいなのはある気がするんですよね。
割とそれは分析的に小説の中でも書いてきたことですよね。
それはやっぱりよくないんじゃないかっていうふうに思ってますけど、
すごくわかるところもあるんですけどね。
そうならないようにするには、いろんな文人の中で
友達だったり仕事関係だったりとかしていかないとなっちゃうんだよね。
そうですね。結局僕はそういう話になってますね。
文人主義っていうのはバランス自体の話になってますけどね。
そうなんで。俺もたまに4年1回ぐらい旅行行くんだけど、
一人になったときの方がやっぱり質問が簡易的な方に行きやすい。
そうですね。それは本当にそうです。
やっぱり自分の関わってる世界から一回離れるとちょっと快適化したり、
知らない土地に行ったら自分も匿名化しますからね。
ちょっと思いがけないことを考えたりしますよね。
まあ、快適になるかすごく平和的な、そもそも優しい人間になってくるか。
どっちかなんだけどね。
行く場所によるんじゃないですか、やっぱそれは。
でも時々離れてみることで、やっぱりその一般の場所、時間っていうのはどうしても現代少ないから。
そうですね。
やっぱりその分は今ゼロになってないと思うんだけど、
行かないのをせめて3でも4でもちょっと広げるために、
本当はトイレの中に入ってもできる人はいるんだろうけど、
やっぱり殺人じゃなかったら難しいじゃない。
そうですね。難しいですね。
行くときは1ヶ月くらい行くんだよ。
そうですか、それ長いですね。
1ヶ月くらいも仕事しないって言って行くんだけど、
それぐらい、文字はそれぐらいないと、ちょっとここの分が広がらないっていうのになって。
それ広げて帰ってきたほうが、社員からは優しくなって帰ってきましたってよく言われる。
みんなへの感謝の気持ちも出てきたりとかね。
じゃあもうどんどん行ってくださいみたいな感じですかね。
意外とみんなSKしないって言ってますね。
平田さんもたまにそんなことあるんですか、一人旅行でたり。
取材に行ったり、なんかのシンポジウムに参加したりとかで、ちょこちょこ海外行くことあるんですけど、
そういうときに一人がやっぱり多いんで、そんな長くは行けないですけど、何日間か、1週間とかでも。
行けば少し、やっぱりだいぶ気分が違いますけどね。
さっきもキューバに行かれたってメールレターで見ました。
ああそう、キューバ行きました。
そこはなんかやっぱり、一回行っとくといいような場所のような気がしましたけどね。
今度行ってみようかな。
今度、俺はマイブームは滝見なんですが、この滝見一緒にやる。
そうですか、ぜひ。
ソロキャンプ的なことなんですか、滝見。
そうそう、一人でキャンプしてるんですよ、毎月ここで。
気軽に、コロナ中どこも行けなかったら滝見で過ごしてたんだけどね。
季節はいつやるんですか。
別に、寒いからか暑いからか。
コロナ中、軽井沢の別荘支援借りてて、そこで滝見してたんだよね。
滝見にハマるってのはどういうハマり方するんですか。
こうやると日が綺麗とかそういう話なんですか。
ずっと見てるだけでね、ゆらゆらしてるので飽きないっていう。
いいですね。
飽きたらゼルダの伝説とかバイオハザードでやっちゃうんだけど。
ゲームやってやるっていう。
ドキドキ。
飲まれるんですか、そういうときは。
別に俺はコンビニのカフェラテとタバコで時間を。
酒は飲まないんで、たまに飲む。
またそういうのもおすすめなんで。
ぜひ誘ってください。
もうちょっとそのとき、濃い話しちゃう。
あんまり人に言えないような話しちゃう。
人に言えないような話しちゃう。
今日どうもありがとうございました。
ありがとうございました。