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2024-09-17 29:27

ジョージ・オーウェル『1984年』 #2

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「1984年」のタイトルと書き出しについて

参加者は、この小説の元々のタイトルが「ヨーロッパ最後の人間」だったことを紹介しています。また、第1部の書き出しがビッグ・ブラザーの存在を想起させる巧みな描写であることを評価しています。

作品の中で印象的だった箇所

参加者は、「正気かどうかは統計上の問題ではない」という言葉が心に残ったと述べています。この言葉は、個人の自由意志と多数派の意見との対立を表しているためです。また、オブライエンの拷問シーンの残虐な描写についても言及されています。

作品の世界観と現実社会との比較

参加者は、作品の世界観が現実の社会に近いものであることを指摘しています。一方で、「素晴らしい新世界」のような作品は、より未来的で極端な世界観を描いていると対比しています。また、現代社会では自由に意見を述べられる点で、作品の世界とは異なることが議論されています。

自由と服従の関係性

参加者は、作品が自由と服従の関係性について示唆していると指摘しています。人間には支配欲と服従欲が共存しており、自由の重さに耐えられずに服従を選ぶ傾向があると解釈されています。ビッグ・ブラザーに従うことで、理由を考える必要がなくなるメリットもあると議論されています。

記憶と自己検閲の問題

参加者は、作品の世界で口述筆記が一般的であることから、自己検閲が強まり、思考が狭くなる可能性を指摘しています。また、ニュースピークという言語政策により、言葉が乏しくなれば、同質化された思考になると危惧されています。一方で、記憶を持ち続けることの重要性も強調されています。

平和な社会の大切さ

参加者は、作品を読んで日本の平和な社会を改めて実感したと述べています。デモを行っても逮捕されることがなく、政治的な意見を自由に述べられる点が評価されています。しかし、デモが政治に影響を与えるほどの効果はないことも指摘されています。


サマリー

ジョージ・オーウェルの『1984年』では、元々のタイトルが「ヨーロッパ最後の人間」とされている背景や、ウィンストン・スミスの心理と作品の世界のリアルさについて探求されています。また、作品のテーマとしての真実や統計の重要性についても論じられています。『1984年』においては、ビッグブラザーによる支配と人間の支配欲が描写されており、登場人物スミスとオブライエンの対話を通じて自由意志と服従の欲求の複雑な関係が探求されています。さらに、作品では自由な思考が制限される社会が描かれており、特に講述筆記の文化やデモに対する認識を通して平和な日本との対比が語られています。

タイトルの変遷
これ、後で関連する記事とかを見てて、
初めて知ったんですけど、
この1984年って元々のタイトルは、
ヨーロッパ最後の人間らしいんですよ。
それは編集者出版前のってこと?
元々の題は、The Last Man in Europeっていう名前にしていて、
オーウェルが1948年ぐらいに、
編集者なのかな、出版社の人に、
このヨーロッパ最後の人間と1984のどっちのタイトルのほうがいいかなっていう風に聞いたら、
出版社の人が、
ヨーロッパ最後の人間よりかはもうちょっと売れるタイトルのほうがいいですかねっていうことを言って、
じゃあ結局1984にしましたっていうのがあると。
ウィンストン・スミスの心理
1984っていうのもいくつか文脈があって、
イギリスにあるフェビアン教会っていう、
社会主義知識人による運動をやる教会があるらしいんですけど、
それの100周年にあったりとか、いくつか理由はあるらしいんですけど。
ウィンストン・スミスさんが、
ヨーロッパ最後の人間ですっていう思いを持ってある書かれてるっていう。
逆にジュリアとかっていうのは、そうじゃないっていう前提をある程度書いて、
そういう作品になってるっていう。
ちょっと分かりますね。
ウィンストン・スミスみたいな人を人間って思ってるんだってことはちょっと分かりますね。
私がDVなんで好きなのかなって思ってたんですけど、
やっぱりその内部の1984の世界がリアルというか、
一応全体主義でビッグブラザー統治してますってことになってこういうルールだけど、
このぐらいのルールは破っても罵せられませんでした。
もしくはバレたとしてもちょっと長生きぐらいでしたとか、
みんなこのぐらいのことは破ってましたみたいな。
その緩さ、ちょっとだらしなさとか緩さとか、
それが2人で話していくうちに出てきて、
確かにこのぐらいの緩さだったらこういうディストピアあるかもって、
私も入っていける余地がすごいあったんですよね。
だからそれで2部がすごい好きだったなって思います。
想像しやすいっていうか。
例えばハクセリーだったら新しい新世界だと、
科学が進歩した前提でいろんな操作ができる前提とか、
結構幸福ドリブンな統治の仕方だから、
ちょっとパラレルワールドの話みたいなふうには思ってたんですけど、
このオウェルの1984は今でもやろうと思えば作れる話っていうか。
なるほどね。
脳内での実験はすごいしやすいというか、こういうセクターかもなって。
読んでて私も素晴らしい新世界、オルダス・ハクセリーのやつを思いながら、
読んだこの独語感で言うと、素晴らしい新世界のが、
作品として楽しく読んだなと思ってたんですよ。
わかる。エンタメとしてはハクセリーの方がエンタメ感ありますよね。
どっちかっていうとミキさんが言うように、
この1984の方が私たちが住んでる今の社会にちょっと近いじゃないですか。
ある種、言ってくれたみたいにちょっと緩かったりとか、
完全に行き届いていない感とか、すれ違い感が現地に近いなと思ってて。
真実の探求
それでも全体としては回せてるみたいな。
そうだね。
ちょっと話ずれちゃうかもしれないですけど、
一昨日ミキさんが勧めてくれた舞台を見に行ったんですよ。
はいはい、大人計画の福助ね。
福助を見に行って、すごい楽しく見たんですよ。
先週別の舞台を見に行って、キャラメルボックスの無伴奏を見に行って、
2つ1週間で見に行ったんですけど。
すっかり感激おじさん。
すっかり文化人ブルおじさんをやってるんですけど。
嬉しい。
その2つの舞台も福助の方が今の我々の社会との距離が近いんですよ。
歌舞伎町を舞台に。
ああいうことって起きそうだなっていう気がなんとなくする内容なんですよね。
逆に無伴奏そなたの方って、もう2歳の段階でみんな人間が選別されて、職業が決められてうんぬんみたいな。
だいぶ現代との距離があって。
距離近すぎるとあんまり楽しめないのかもしれないと今みきさんの話を聞きながら思ってましたね。
相対的にですけど。
なるほどね。
遠ければ遠いほど楽しいっていう。
エンタメとしてはね。
そうそう。
でもただ宇宙戦争とか言われちゃうとちょっともう高等向けすぎて無理みたいな難しいバランスはあるんですけど。
エンタメとしてはちょっと距離が遠い方がもしかしたらグッと楽しめるところがあるのかもなと思って。
見てましたね。
なるほどね。
野富さんはこの1984のどの辺が良かったですか。
どうだろうね。
私結構全体のお話よりも個別の書き方みたいなのが心に残るところが多く。
例えばこういう作品書きたいなと思うとするじゃないですか。
そう思った時に第一部の最初どういう書き出しで書くかめちゃめちゃ考えるやろうなと思って。
ここの中に大事なコンセプトっていくつもあるじゃないですか。
例えば言葉を省いていくニュースピークっていう辞書を新しく作るお話とか。
二重思考っていう矛盾するものを同時に考えるみたいなコンセプトがこの作品の中にたくさんあるじゃないですか。
何をどういう順番で最初から匂わせていこうかしら。
書く側として考えた時にこの第一部の最初の書き出しすごい工夫して考えてんねんなっていうのをまず楽しく読みました。
マンションの中に砂ぼこりの状態で入っていく様子とか。
そのビッグブラザーがあなたを見ているっていう絵を読者に想起させるところとか。
即出てきますよね読み始めて。
ビッグブラザーが何かとか説明もなく、とある絵があって絵の下にビッグブラザーがあなたを見ているっていうキャプションがついてますっていう。
なんじゃそりゃみたいな話が始まるのを見てると。
現代だと1984がどういう作品かをなんとなく理解をして想像して読むわけですけど。
1949年の電子書籍もなく普通に本屋さんに本が並ぶわけじゃないですか。
パッと開いて1ページ目これ書いてある時みんなどういうことを考えてたのかなと思いながら。
面白かっただろうなと思って1ページ目を読みましたね。
野辰さんは書き出しこだわるというか書き出し褒めがちというか書き出し好きですよね。
書き出し好き。書き出し好きよ。
なんかいろんな文章書いてると書き出しむずない?
めっちゃむずい。めっちゃむずい。やっぱり書き出しがハマらないと後も良くないし。
全ステして書き出しからもう一回書き出した方がいい時とかもあるし。
やっぱり作家って本当にすごいんだなって思いましたね。
いかに内容が良かろうと難しいじゃない?書き出しで全部台無しになっちゃったりもするからさ。
まず書き出しと。
書き出し褒めがちね。
あとは書き出し後は?
書き出し後はそうだね。
部分が良いというか考えたことなんだけど。
どこだっけな。結構後半、真ん中やや後ろぐらいに
正規かどうかは統計上の問題ではないっていう。
あったあった。私もそこ何か覚えてるな。
何かね出てくるんですけど。
この作品の中で
2たす2は4って言うかどうかみたいなすごい大きいコンセプトなんですよ。
最後めちゃめちゃ拷問されてる時に2たす2は5だってめちゃくちゃ言われて。
最後2たす25だよなって主人公が思う感じで終わるんですけど。
でも我々からすると正規の沙汰じゃないじゃないですか。
だから一応その2たす2は5なんだよねって言ってる主人公は別に世の中の人が2たす99%の人が
2たす2は5であると言ったとて正しいのは2たす2は4だと。
その時に4ですよって主張できるのが人間の自由意志でありすごく大事なことだと思っている。
つまりこの2たす2が4だっていうのは統計上正規じゃなくなっちゃうわけですけどそういうことじゃないんだと。
4が正しいんだから別に統計的に人類みんなが5だと言おうと4は4であるっていうのが彼の主張で。
そうですね。だから自分が思うそのまま2たす2は5だってなっちゃうのは切ないですよね。
そのギリギリのところで出てくるのが正規かどうかは統計上の問題ではないっていうやつなんですけど本当にそうだなと思いながら。
でも結局日々生活をしていた時にだってそうだからって言っていることの結構半分ぐらいが統計上そうだからねえだったりするじゃないですか。
心に突き刺さる何かですよね。
確かにね。
正規かどうかって統計を一回脇に置くと何が何で担保するんだろうなーみたいなことを読んでいる時は思ってすごい味わいがある部分でしたね。
正規かどうかは統計上の問題ではないっていう。
その前後で何か方法は分かってるが理由は分かってないみたいな。
うん。
あのあれだね。
革命家なんじゃないかと思った人からもらった本を読んだ独語感みたいなところで出てくるね。
知識を持っていることは理由にならないというか。
ビッグブラザーの支配
だからやっぱその統計っていうのは方法の一つかなって思って。
自分の理由が必要っていうか。
理由が必要。
自分にとっての理由があるべき。
そのそれを信じるための?
そうもしくは自分が正規で自分が正規で信じるための理由があるべき。
それを多くの人が理由付けをするとしたら
いやビッグブラザーが言ってるからになる、、、
そうそう、、、
そうそうそう、になっちゃうからみたいなね、、、
そうなんだよねー。
そこに付け込んでるのがビッグブラザーよね。
でも楽じゃん、理由を考えなくていいし。
そうなのかな。
でも誰かが言ってくれれば、
ビッグブラザーってわけじゃない。
そうだねー。
ビッグブラザーのことがあるっていうよりも理由がある。
確かにそういう意味確かに正気かどうかは 統計上の問題ではない
うん確かに
突き刺さる言葉ですね
読んでてさこのあの
オブライエンっていう
その本渡してくるおじちゃんがいてさ
最終的にその人 引き戸してくる
引き戸してくる
引き戸してくる
引き戸してくる
その人は最終的にもうスーパースーパー悪い人になるんだけどこの小説の中で
スミスとオブライエンの対話
反体制側とかと思ったらスーパー体制側だったっていう
そうそうそうで最後もう土拷問をするんだけどさ
なんかサディスティックと思うわけ
痛みメーターみたいなやつでグッとこうなんか圧力をかけていくみたいな
拷問部屋の描写があるんですけど
すぐ痛み与えるじゃんみたいなのと
人の未来を考え
未来を思い浮かべるときは人の顔を踏みつけるブーツを創造しなさいって書いてたよね
創造しなさいって書いてたよね
そう思うと地面主たちの人もしかしたらあれ
私その時オフラインとそこでトヨネツが一致して
ただ一個はもうトヨネツで再生されちゃって
でもトヨネツ似合うね1984舞台になったらトヨネツだね
ってことだったのかなって思って
でもなんかサディスティックだし
痛みで直接的な描写とか
最もプリミティブでフェティッシュな方法
最もなんだっけ
デンジャラスでプリミティブでフェティッシュなのだっけ
みたいな
フェティッシュじゃなかったっけ
それを考えるのがすごいラジオで
プリミティブとフェティッシュは言っていた思い出があるんだけど、ちょっともう一個わからないけど、トヨネツだね。
それ見ててさ、サディスティックだなと思いつつ、さっきの
1984って元何のタイトルだったのかな?とか調べてる時にさ
1984年に見られる、支配される欲望っていう
論文なのかな?レポートなのかな?書いてる学生なのかな?がいて
そのまんまこのオブライエンさんもスーパーサディスティックで
一方でウィンストンもスーパーマゾヒストですと
つまりこのウィンストンさんって
自由意志っていうのをすごく言いつつも
一瞬この支配されるっていうことに対する欲望が
うんうんみたいなことを書いてる人がいてさ
この論文なのかな?
これの季節の中にさ、人間の中には
支配欲と服従欲っていうのが両方混在をしていて
それがない混ぜになっているのが基本的に人間ですと
だから一つの発露として
この最後の方のサディSとMの関係性があるんですみたいなことを書いてる人がいてさ
なるほど面白いなと思って見てたんですけど
この小説読みながら
エイリヒフロムのさ自由からの闘争って私すごい好きなんですけど
みんな自由なんていうのは人間には重すぎるから
それをみんな自ら放棄するんだと
せっかく得られると思った自由を
その重さに耐えられずに
望んで服従を選ぶというのが人間なのである
大衆なのであるっていうのが
その自由からの闘争の一つのメッセージだと思うんだけど
自由意志と服従の欲求
そう思うとビッグブラザーが言ってるからっていう生活
一つの理想だろうなと思って楽しい楽しいだろうなーみたいな
自由完全放棄の形だからね
意外と楽なのかもなと思いながら
後半は読んでたですね
すっげー辛そうだけど
そうですかね
なんかそういう政府多いし
それこそファクトリーみたいな
快楽のリブで物資とか豊かに行き届いてて
娯楽づけてちょっと働いて
変な映画見ておいちゃいいよみたいな生活だったら
楽しくて楽だと思うんですけど
なんかそこで情緒より書きたかったのは
もうちょっと人間の
幼少期から染み付いた経験とか記憶とかは
流石に裏切れないってことを言ってるのかなと思って
だから清水とかが
事実上この国は成長してるってことになってるし
何を遡ってもそういう記録だし
証拠はどこにもないけど
どう考えても楽しくなってる気がするとか
昔はもっとこういう楽しみがあった気がするとか
フッて思い出したりとか
ジェリアとイチャついてる時に
フッてお母さんの思い出が蘇ったりとかしてて
だからそれってやっぱり楽じゃないっていうか
そういうそこの染み付いた記憶ごと
素朴付けにしない限りはやっぱり
ただそのビッグブラザーに全てを委ねるっていうだけの
仕組みだと弱いのかなっていうのは分かってましたけどね
確かにね
なんかヨーロッパ最後は人間ってそう言ってるのも
人間でそういう幼少期の親子愛の話とか
身体に染み付いた記憶とかっていうものを
持てる人というか
それを大事にできるのが人間っていうことだったかな
っていうふうに私はさっき思いました
そうだねなるほどね
だからその
なんでこの今全体的に多分状況が悪いから
物質的に貧しいと思うんですけど
何かドラスティックな科学の進歩なのか
分かんないですけどがあって
結構栄養とかが行き渡るようになれば
確かに楽しいと思う
それど真ん中
パクスリーの素晴らしい新世界だもんね
そうそうそう
人って何か楽しい
快に浸しとけば余計なこと考えないじゃないですか
でも今ちょっとその快の状態上が足りてないっていうか
1984時点だとね
まあそうだね
1週間のチョコレートの配給が
30gから20gに減らされますみたいなやつ
出てきて少なって思ったもんね
少ないのにそれがなぜか
20gに増えたっていう報道に書き換えるって仕事をね
設備させてるわけですからね
そうだね
30gから20gに減らされ減らしますって言った
翌週ぐらいに減ったんじゃなくて
増えましたってやつに書き換えるっていう
なんか不思議な仕事をしてたもんね
そうだよなあまあそうだね
人間らしさを簡単に処分付けにすることはできるだけれども
1984はまだ処分付けにはできてなかったかなとは思いました
最後オブライエンとスミスがいろいろ話すところでさ
この過去は具体的なものとして存在するのかね
空間の中にとか聞くシーンあるじゃない
だからうちこのスミスよく覚えてんなと思うんですよ
過去のものを
それが覚えてるなんていう頑張って覚えてるってよりかは勝手に残っちゃう
それが人間
そうか
そういう意味でスミスよく覚えてんなはそうですね
他の人はもう覚えてないんじゃない
と私なんか思う
あとそれでそういう人が蒸発させられたんじゃない
蒸発っていうのは消滅予報ですけど
そうかもね
追放されて非存在人間扱いになることを
蒸発って言ってたんですけど蒸発させられちゃったんでは
だからこの世界はもうあんまり手で何かものを書かないわけですよ
このウィンストンスミスは日記書こうとしてるけど
他の人はあんまりもう書かないわけじゃない
講述筆記でとか言ってるからさ
私自分のことを考えた時に
別にペンでもキーボードで書くでもいいんだけど
何か書かなかったとしたら
そんなに長く記憶を保持できない気がする
わかりますそうそうそう
だから本当によくできてるなって思います
この世界
私たぶん蒸発させられずに
この世界で貧しく生きていく自信ちょっとあるんですけど
いい感じにビッグブラザーに出して
ビッグブラザー素晴らしいって言えそうな自信がちょっとある
講述筆記が主流っていうのも
すごいよくできてるなって思って
講述筆記だと音として出てしまうから
ちょっと自己検閲がすごい入ると思うんですよね
自己検閲ってすごい自分にとっては
講述筆記と自由な思考
すごい思考の制限にすごい有効だと思うから
講述筆記を続ければ続けるほど
自分の思考で狭くなっていくんじゃないかなって思うんですよね
もしくは固まって一つのもの
何ていうの多様性のないような思考になっていくだろうなって思います
それに加えてニュースピークっていう語彙を極限まで減らした
言葉を使ってみましょうって政策も入ってて
より乏しいワードで
より自己検閲を強めながら話していくっていうことは
どんどん同じような確立からされた
適合のいい思想の人間が生まれてくるだろうなって思いました
そうかそうだよね
そうなんだね欠かせないほうがいいんだね欠かせないし
欠かせないし嫌とかちょっと手を止めて考えるとかもない方がいいっていうか
そうだね
講述筆記って基本推考がないじゃないですか
そうだねそうだねそうだね
いや仕事のこの会議とかを
私も最近はデフォルト全部録音して全部文字起こしするようにしてるんですよ
でそういう文化がない会社というか場もたくさんあるじゃないですか
でその文字起こしたやつをお客さんとかに送ると
いや私こんなこと言ってないっすねみたいな人普通にいるんですよ
うん気持ちはわかるけど
いや面白いなと思って
面白いというのはいくつかあって
その言ってない発言したことを覚えてないっていうのももちろんあるし
発言したことを思ってないっていう人もたくさんいるんですよ
でこんなこと私は思うはずがないみたいな
そんなロジックを私は使うはずがないみたいな人がいて
いや言ってたけどなみたいな
やっぱそれぐらい頭を通さずに出ちゃうんですよね
口からっていうのは
こうやって文字でこうやって出すのとこう出るのと全然違いますよね
そうだねそうだね
この本の最後の方にも2たす2は5だと信じようとしたんだけど
突然そのウィンストン・スミスがジュリアって言っちゃって
もう一回拷問を受けさせられるっていうシーンあったもんね
言っちゃうのかもね衝動でね
言っちゃう
まあそうだよね
そうか
2つ思ったことがあってさ
1個はなんて言うんだろう
ちょうど今収録しているのが8月の真ん中ぐらいじゃないですか
なので街中ではいろんな方々がデモをされていたり
いろんな方がいらっしゃる
戦争の?
戦争系ももちろんあるし
天皇云々みたいなのもあるし
いろんな方がいらっしゃるんですけど
気軽にデモできる国っていいなっていう
この本を読んでると改めて思うっていう
それは表裏って言ってることを結構無茶苦茶だったりするんですよね
消費税は0%にとか言ってる
消費税を0%にすると現役世代の恩恵がとか言ってるんですけど
なんか不思議だなと思うロジックなわけですけど
彼らは自分の言ってることを文字起こししたことはあるんだろうか
とかっていうのを思いつつ
そういう主張でも言える世界というか社会というかになってるのは
いいことだなーみたいな
一層この本を読んでると日本の平和を痛感するっていうやつでしたね
デモと平和な社会
いい意味で平和
でも台湾とかだとちょっと台北されちゃったりとかしますよね
確か
台湾、香港とかちょっとあの辺大変ですよね
確かそれぐらいデモが
政治側行政側がデモの威力を軽視している国でもあると思うんですけどね
こっちも軽い気持ちで行けるっていうか
まさか逮捕されるなんて絶対に思ってないから
いいよ行くよーみたいな感じで行けるっていう
まあそうっすよね
そういうことも含めて平和とは思いますけど
確かにね
何年か前にデモをやった結果就職できなくなりました
みたいなやつがニュースになってるときあって
なんかすげー平和な国だなと思いましたよね
結局デモが政治にあまり影響したっていう
反対署名とかいくらしても全然
例えばインボイスの時とか死ぬほど反対署名とかしたけど
結局シルエット通ってるし
政治絡みでデモとかが効果も出たっていう認識もあんまない
やることは大事だと思うんですけど
なるほどね
まあそうだね
でもそれも含めて平和でいいですよね
平和でいいなと思った
確かに
デモなんてやったあかつきがもうやばい
各省総動員でどんなことになってしまうやら
ねえ
いやーそうですね
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