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中川 浩孝
コミュニケーション力を究めるゴールデン・トライアングル
仕事でコミュニケーションを扱う3人が、これまでの経験や最新の話題を語りながら、コミュニケーションとは何かを一緒に考えていくポッドキャストです。
高木 恵子
みなさん、こんにちは。SEからPRコミュニケーション業界に転職して、はや四半世紀、高木恵子です。
中川 浩孝
外資系企業でマーケティングを経験してきた、アメリカ在住、中川浩孝です。
高木 恵子
それよりも、私もヒロさんに常々聞きたかったことがあって、
私も結局、田中さん経由でヒロさんとこうやってお会いできてますけど、
私がお会いした時からも、アメリカにそもそも住まれてお仕事をされてるから、
どうしてアメリカに住んでるのかなって。
中川 浩孝
そうですね、結構現状に流されやすい人なんですけど、
アメリカへの憧れみたいなのはすごい小さい時から結構あって、
私、子供の頃から映画とかドラマ、海外のドラマすごい大好きで、
そういう意味では別にアメリカだけじゃなかったんですけど、
深夜とかに、今はあんまりやってないんですけど、
昔の海外のドラマとかの再放送をすごいやってたんですよね。
それを結構ビデオに撮ったりとかして、
最初はかっこいいなとか、面白いなとかっていうので見てたんですけど、
だんだん興味が出てきて、やっぱりこれは英語にもちょっと興味が出てきちゃって、
二カ国語放送とかでやってたので、日本語聞いた後にちょっと英語でも聞いてみたりとかして、
みたいなことをして。
高木 恵子
そもそも海外の映画とかドラマに興味を持った、
本当のきっかけって、例えば家族で海外旅行に行ったとか、
何かあるんですか?
中川 浩孝
海外旅行は意外と小さい時から行かせていただいていて、
高木 恵子
いい親だ。
中川 浩孝
小学校の3年くらいだったのかな、ハワイにすごい小さい時に行ったのが、
やっぱり強烈に残っていて、
やっぱりすごい全然違う文化というか、違うものがあるっていうのを、
すごいショック、子供ながらにやっぱり強烈に印象があったみたいで、
その後も3年に一遍くらいハワイに行ってる時期があって、
ハワイいいなみたいな、その後アメリカに行ってみたいなのがあって、
日本じゃないのってちょっと興味、
別にアメリカがすごいとかっていうんじゃなくて、
単純に日本じゃないものに対して興味を持っていたんだと思うんですよね。
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中川 浩孝
なので子供の頃からそういうのはあって、海外に興味を持って、
ドラマに興味を持ってみたいなところで、
大学に行ってた時に、大学で交換留学の制度があって、
これ当たったらいいなーくらいの感じでテストというか受けて、
うっかったんですよね、非常にラッキーなことに。
高木 恵子
あ、で交換留学してたんだ、大学時代に。
中川 浩孝
そう、アメリカに1年間交換留学してたんですよ。
高木 恵子
いいですね。それはどこだったんですか、アメリカの。
中川 浩孝
それはアメリカのインディアナ州っていうとんでもない田舎だったんですけど、
高木 恵子
おー、渋い。
中川 浩孝
渋いですよね、どこって感じですよね。
高木 恵子
へー。
中川 浩孝
なんか五大湖のちょうど南辺りなんですけど、
高木 恵子
そうですね。
中川 浩孝
で、でもそれって大学の時にそういうのを受ける人って、
ESSみたいな、English Speaking Societyみたいな、そういうの入ってる人とか、
帰国子女とか、結構そこそこみんな英語が喋れる人が受けてるんですよね。
で、私は全然受験英語とかはしてましたけど、
全然英会話なんかしたことがなかったから、
普通の書面でやるような試験はそれなりに取ったんだと思うんですけど、
いや、喋れないしって僕は思って。
でも一応受かってしまったので、
まず最初にその地域、インディアナだけじゃなくて、
五大湖周りの州のアソシエーションがあって、
その大学に行くっていうプログラムだったんですよ。
なので、私はインディアナの学校なんだけど、
この人はオハイオの大学に行って、
この人はアイオワの大学に行って、みたいなそういうプログラムで、
最初の2週間、2週間かな、3週間、2週間かなに、
オリエンテーションっていうことで、
それで30人くらいの人がそこに派遣されるんですけど、
まず一緒に2週間勉強しましょうみたいなのがあって、
そこでクラス別みたいな、
英語によってのクラス分けとかされて、
もちろん私は一番下のクラスにいられて、
他のクラスの人はすごいちゃんとやってるのに、
私たちはすごいまだ英語全然喋れないみたいな、
本当にこんなんで1年間どうやってやっていけるんだろうっていうふうにちょっと思ったんですけど、
やっていけるもんなんですかね、
どうにかなったなっていうのがあって、
でも多分英語力がすごいわけじゃなくて、
単純に結局英語は恥ずかしいとか、
間違ったらどうしようとか言っててもしょうがないので、
とにかく喋んなくちゃいけないとか、
度胸でやるもんだっていうことを、
1年間できっと習んできたんだろうなって自分的には思っていて、
ますますアメリカに対して面白い国だなというかユニークだなというふうに思ってたっていうのは、
その時期あったと思います。
で、それで帰ってきて、
1年くらいのうちに就職活動みたいなときに、
いろんな会社受けてたんですけど、
でもそれを言い出すと、
もうちょっと違う進路を考えていて、実は私も大学院ってちょっと考えてたんですよね。
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中川 浩孝
結構ゼミの先生にもすごい、
大学院に来てほしい的なこともすごい言われていたりしたし、
自分もそういう道もあるなというふうにちょっと思っていたんですが、
それこそゼミの仲間の一人から、
中川は社会に出たほうがいいと思うとか言われて、
そう?みたいな感じで、
全然僕もあんまり深い考えがあったわけじゃなかったんですけど、
ただ、就職活動っていうのは一生に一度しか機会としてはないから、
行くかどうかは別として、
せっかくこの機会にちょっとその経験をしておくのは悪くないんじゃないかっていうふうに思って、
就職活動をいろいろしてみたんですよ。
私はけいこさんの時と違ってちょっとバブルが弾けた後くらいで、
結構就職難て言われるような時期だったんですね。
で、結構本当にね、
いくつ葉書を送ったか分からないっていうくらいすごいたくさん送って、
説明会もめちゃめちゃたくさん行ったんですよね。
でもそれはここに入りたいっていうよりは、
さっきも言ったように単純にこれは面白い機会なので、
いろんな自分が知っている会社の中に入って話が聞けるっていうのはちょっと面白いなと思って、
そういう自分が興味がありそうなところに単純にちょっと見に行ってみたいな、
覗きに行ってみたいなみたいなイメージもあったので、
結構たくさんの会社に出して、
実際説明会に行ってっていうことで、
いくつかもちろんそのまま面接に進んでみたいな感じで、
いくつか内定をいただいたりとかして、
一つ実はそれこそ今のHP、
当時は日本ヒューレットパッカードっていう名前だったんですけど、
横河から日本に名前がちょうど変わったくらいの時期だったんですけど、
内定実はそこに最初にいただいて、
HPいい会社だなと思って、
なんとなく私はHPに行くもんだっていうふうにちょっと最初の方思っていて、
結構ほぼほぼ決まっていたというか、
気持ち的には決まってたんです。
興味だったので一応他もいろいろ受けていて、
他にもまた内定ちょっとずつ進んでいったところもあるんですけど、
最後の方になってくると、HPと比べてどうかみたいな感じになるので、
結局途中で辞めちゃったみたいなところもいくつかあったりとかして、
最後の最後まで残っていたのが、
NHKと全然違いますけど、NHKとAppleだったんですよ。
当時はAppleコンピューターなんですけど、
NHKは私それこそ何がしたかったかっていうと、
さっき言ってた海外ドラマの買い付けがすごいやりたくて、
NHKってすごく良質な海外ドラマをたくさんやっていて、
ああいう文化というか持っている会社だったので、
そういうことがやりたいっていうのをすごい推して、
それが気に入られたのかわかんないですけど、
結構先まで行って、健康診断まで行ったんで、
もう最後の方だったと思うんですけど、
それと並行でAppleを受けていて、
Appleもですね、
Appleのコンピューター、それこそ大学生でアメリカに行ったときに初めて見て、
衝撃を受けて、なんだこれはみたいな、
09:01
中川 浩孝
昔は文字でしか表示できなかったようなコンテンツがあったり、
グラフィカルユーザーインターフェースみたいなのを見て、
すごいショックを受けたので、
すごい興味があったんですけど、
当時それこそAppleって、明日潰れるのではないかというような状態で、
明日サンマイクロに買われるのではないかとか、
オラクルに買われるのではないかとか、
いろんな噂が立っていた時期だったんですよね。
Appleも最後の最後まで一応行かせてもらって、
最後の面接を受けて、
一応内定をいただくことになるんですが、
HPとAppleかどうかっていう風にすごい考えて、
全然同じコンピューター業界ではあるけれども、
全く毛色が違うし、
でも私の中では、
Appleのコンピューターに関しては、
でも私の中では、
Appleはもうすぐ潰れてしまうかもしれないと思って、
HPだったら多分30年後もあるだろうみたいな。
Appleをじゃあこれで1回潰れてしまって、
その後HPに行けばいいじゃないっていう風にちょっと思ったんですよね。
高木 恵子
なるほど。
中川 浩孝
意外と今しかできないこととか、
今自分にやってきたチャンスが、
これ今しか掴まなかったら、
もう後はないなって思うことは掴むように基本的にはしてるんですね、
私いろんな人生の中で。
交換留学のことも多分そうだったと思うんですけど、
こんなやっぱり幸運なというかラッキーなことは、
チャンスはなかなかやってこないって思ったので、
Appleを選んだんですね。
いろんな親には泣かれたりとか、
なんでそんな潰れそうな会社行くのとか、
友達からも、
なんでNHKの方が良くないとか、
いろんなこと言われつつ、
でも私の中ではAppleがすごいしっくりきて、
Appleに入ったんですよね。
さっきけいこさんが言っていた、
最初の会社がベースを作るっていうのはすごいその通りだと思っていて、
ただAppleは真逆なわけですよ。
一切トレーニングなど何もないわけですよ。
基本的には中途で入ったバリバリの人しかいなくて、
200人くらいの会社だったんですけど、
基本的には新卒で入った人なんてほとんどいなくて、
一応新卒採用プログラムが私の何年か数年か前くらいに始まっていて、
年に2人とか3人とか、
1人の年とかもあったりするくらいの人数しかいないので、
超超社内では少数派なんですよね。
他の人たちはもうバリバリ働いているので、
そんな教育なんかしてる暇はないみたいな感じで、
とにかく応援してる人が多いですよね。
暇はないみたいな感じで、
とにかくOJTというか、
日々の仕事の中でどんどん学んでいってください、
みたいな感じの中でやっていたんですが、
当時のAppleはまだまだ今と比べたら全然変な会社だったので、
おかしな人がたくさんいて、
朝の1日中会社に全然いない人がいるとか、
夕方昼過ぎになってやっと出社してくる人がいるとか、
12:02
中川 浩孝
もう謎な会社で、
かなりカオスだったんですけど、
でもその中でいろんな人と、
いろんなキャラクターと出会って、
動物園みたいだけど面白いなというか、
いろんな経験をさせてもらって、
すごかったことは、
社会人1年目、2年目みたいな人に対しても、
人数が足りないから、
とにかくちゃんとした仕事が結構与えられるというか、
責任が結構与えられているというか、
こんなことをしていいんですか?
っていうようなことをすることがやっぱりたくさんあったんですよね。
私たぶん3年目だったのかなくらいに、
オンラインのAppleストアの立ち上げっていうのを実はやることになって、
それもクレジットがカード会社の人との交渉であったりとか、
銀行との交渉であったりとか、
全部私がやってたんですよね。
そういうのがあって、
でも私、Appleなんかスーツとか着ていくような会社じゃないので、
ジーンズとシャツ1枚みたいな感じなわけですよ。
そんな若造が、25歳の若造がですよ。
銀行は向こう、課長クラスとか来ちゃうわけですよ。
スーツとか着て、もちろんやってくるわけですよ。
何だこいつは?って多分思ってたと思うんですよね。
だけど今考えると、
すごいことを色々やらせていただいて、
やっぱり、
そういうすごいことを色々やらせていただいていたので、
そういう意味では5年間くらいだったんですけど、
本当に色んな経験をさせてもらって、
その後の考え方とか、
色んなプライオリティの付け方であるとか、
色んな自分の中での仕事をしていく上での重要度というか、
何を重要と考えるかとか、
そういう部分ですごくトレーニングされたなっていうのはありますので、
確かに自分のベースを作ったのは1社目だなっていうのは、
まさに全く同じ気持ちですね、そこに関しては。
5年くらい働いて、
何で次の会社に行ったかっていうと、
私も旅行大好きじゃないですか?
旅行大好きなんですよ。
British Airwaysっていう航空会社で、
eコマース担当者っていうのを募集してたんですよ。
それって2000年くらいの話なんですよ。
2000年って、
eコマース経験していて、
30歳以下とかって多分ほとんどいなかったはずなんですね。
高木 恵子
確かに。
中川 浩孝
だってそれなりの最先端のビジネスだったし、
そんなことを20代の人がやってるっていうのは、
多分そんななかったと思うんですけど、
それを新聞の求人広告で見たんですよ。
新聞ですよ、もうオンラインとかじゃないですからね。
高木 恵子
でも私もファッション業界、
ジャパンタイムズで見ましたもん。
中川 浩孝
昔はだから求人広告とか新聞に載ってたんですよね。
高木 恵子
そうですよね。
中川 浩孝
それを見た時に、こんなの僕しかいないじゃんって思ったんですよね。
15:00
中川 浩孝
なるほど。
eコマースのことをやっていて、
30歳になってないとかって、僕じゃんと思って。
高木 恵子
確かに。
中川 浩孝
旅行も大好きだし、これは自分だなと思って、
たまたまそれも通ってしまった。
ブリティッシュエアウェイズに行ったのはいいんですが、
今行ったタイミングで、もしかしたらお気づきかもしれませんが、
2001年の1月なんですけど、
2001年の9月に、
9・11のテロが起こるんですよ。
航空業界はああいうのにすごい弱いので、
その後マーケティングバジェットが全然何もないみたいな感じになってしまって、
結局2年くらいいたんですけど、
最後の1年以上かな、1年半くらいは結構厳しかったというか、
あんまりやることがなくて、
ちょっと辛かったなっていうのがあって。
しかもスピード感が全然違うんですよね。
やっぱり許認可制度とか、
今はそうでもないのかもしれませんけど、
当時はやっぱりJALの力がめちゃめちゃ強くて、
お役所よりもJALにお伺いを立てるみたいな、
そういうのがあったりとか、
というか、お役所がJALにお伺いを立てるみたいな、
言っていいのかよくわからないですけど、
そういう世界だったんですよね。
で、やっぱり何も動かない。
やっぱり今までいろんなことが自分のやりたい、
やりたいように言ったわけじゃないですけど、
やりたい方向にどんどんどんどん押し進められていったような仕事と比べたときに、
何も自分がアイデアを出してもそれが何も動かないというか、
現実にできないという、
で、その次にまたコンピューター関連というか、
ペリフェラルですよね、周辺機器の会社のLogitech、
日本ではロジクールという言葉なんですけど、
ロジクールに入るんですけども、
これはちょっとAppleのときの知り合いのツテで、
その仕事を見つけて入ることになって、
そのときはウェブですとか、
最初ウェブサイトをやってほしいみたいな感じで、
ウェブマスターみたいな仕事ですみたいな感じで入って、
私もともとプロダクトマーケティングにすごい興味があったので、
プロダクトマーケティングやりたいですっていうのを言って、
それも片手間というか、
それも経験してもらいましょうみたいな形で、
なんとですね、そのときに、
ウェブカメラがすごいガンガン上がってる時代だったんですよ。
今までのプロダクトマーケティングをやっている担当者が、
ウェブカメラにすごい時間を今割いていると。
その時に、
マウスとキーボードをやってほしいと言われて、
でもロジクールにとっては、
マウスとキーボードってコアビジネスだったので、
そんなの僕やって大丈夫なんですかみたいな感じだったんですけど、
逆に言えば安定したビジネスなので、
特に人が突然変わったからなんかすごい大きく変わるみたいな感じでもないから、
みたいな感じで、
マウスとキーボードの担当をすることになって、
マウスとキーボードすごい業界だなみたいな、
1万円とか1万円以上するマウスがバンバン売れていくって、
18:00
中川 浩孝
すごい世界だなみたいなのを経験して、
その中で本社とのやりとり結構多かったんですけど、
本社の信頼をある程度獲得できたのかなということで、
本社の方からちょうど
本社のプロダクトマーケティングのポジションが1つ空いたということで、
興味あるって言われたので、
これもさっきの法則と一緒なんですけど、
こんな機会はなかなかない。
アメリカの本社で働くなんてやっぱりすごいことだし、
これは今しかないなと思ってもちろん手を挙げたっていうところですね。
アメリカに引っ越したと。
本社に移籍になったんですね。
高木 恵子
最初はそこがきっかけだったんですね。
中川 浩孝
それがきっかけなんです。アメリカに行ったきっかけです。
もちろん将来的にアメリカで働きたいなと思った時期はあったんですけど、
でも外資系の企業って実は
日本の
派遣先とか日本の出先機関だから、
そこが本社に行くって意外となかったりするんですよね。
高木 恵子
ないないない。
あんまり聞かないですよね。
中川 浩孝
私の場合は本当にラッキーで、
そういうポジションがたまたま空いて、
自分が今までやってた仕事とすごく関連があったので、
そこで呼んでくれたのは本当にありがたいというか、
本当にすごくラッキーだったなと思うんですけど、
それでアメリカの西海岸、カリフォルニアの
サンフランシスコのエリアに
引っ越したのが2006年かな。
高木 恵子
そこからずっとアメリカなんですか?
中川 浩孝
行ったり来たりしてるんで、
その時期にいる間にグリーンカードは取っていて、
高木 恵子
そうなのか。それはいいですね。
中川 浩孝
そうなんですよ。
もちろん本当は1年以上離れてはいけないんですけど、
条件をつければ行ったり来たりできたりするんですけど、
それで2006年で移ったんですけど、
その後、いろいろあるんですよ。
アメリカから日本に戻ったりとかして、
日本でまた働いたりとか、
いくつかいろいろやり取りがあって、
またアメリカで働いてみたいな、
それ以降は行ったり来たりしてるって感じで、
通算すると何年くらいになったのかな?
高木 恵子
今アメリカに住んでると。
グリーンカードがあると確かにね。
そこか。
アメリカもいろんな激動な時代、
この10年、15年って、
いろいろあったわけじゃないですか。
でもやっぱ違います?
日本と住んでてアメリカとかって。
中川 浩孝
どうでしょう。
最近思うことは、
物価が順調に上がってるなっていうのは、
本当に感じますよね。
逆に言えば、日本が上がらなすぎっていうのもあるんですけど。
高木 恵子
でも上がってると思うんですけどね。
でもそんなもんじゃないんだ、アメリカって。
中川 浩孝
そういうレベルではないですね。
21:01
中川 浩孝
どうでもいいんですけど、バターが。
ちょうど昨日一昨日買い物に行ったら、
バターが1つ大きなパッケージですけど、
6ドルくらい。6ドルとかしたんですよ。
バター6ドルって日本バター高いんで、
そんな高く感じないかもしれませんけど、
昔は3ドル、2ドル、3ドルとか、
2ドル50とか、3ドル29とかわかんないですけど、
それくらいだったんですよね、普通に。
それが今6ドルになってしまって、
これもちょっと異常に高いんだと思うんですけど、
異常に上がってきて、もう10年、
どうだろう、2倍、2倍まではいかないですけど、
物によっては本当そういう、
2倍になってんじゃないかって感じることがすごいあるくらい、
全体として上がってます。
なるほどね。
それだけお給料も全体として上がってるんだと思うんですけど、
にしても物が高くなってるのは本当間違いないなと思って。
日本はそこの、もちろん昔と比べれば上がってると思うんですけど、
でも私の子供の頃と比べても、
2倍になってる物ってそんなないかなと思うんで。
高木 恵子
そうかもしれない、確かに確かに。
中川 浩孝
うちの父親とか母親の時代からすると、
ラーメン10円だったよ、みたいな世界とかあるじゃないですか、
でもそこから考えると、私子供の頃から、
300円ってのはちょっとあんまり覚えてない、400円とか、
例えばラーメンだったら500円、500円あったかなくらいの感じで、
でも今もラーメンは、
ラーメンはね、そこそこ上がってるかもしれませんけど。
高木 恵子
でもそれを言うなら、もんじゃ焼きですよ。
中川 浩孝
あ、もんじゃ。
高木 恵子
そう、だって私本当子供の時100円、
お小遣いのおやつ食べに行ってたのが、
普通今なんたら、明太子、なんたらチーズ、なんたらなんたらもんじゃが、
もうだって1000円以上するじゃないですか。
中川 浩孝
そうですよね。ただ小麦粉だけなのにってちょっと思いますよ。
高木 恵子
そう、いろんなね、なんかいろんな物は盛ってるけども、
中川 浩孝
もちろんもちろん。
高木 恵子
それこそだから、もう10倍、100倍、
まあ10倍じゃくだらない。
中川 浩孝
いや、ほんとですよね。
高木 恵子
もんじゃはびっくりですよ。
中川 浩孝
もんじゃは確かにすごいですね。
ラーメンもだから高くなってる方かもな、逆に言えば。
高木 恵子
だからラーメンも、
私普通になんかラーメン屋さんで食べたのって、
まだ280円とか300円の時、
中川 浩孝
そうですよね、300円とかありましたよね。
あったあった。
私もなんかそんな気がする。
高木 恵子
だから。
中川 浩孝
で、歳がお互いでバレるっていう。
高木 恵子
そうそうそう。
ねえ、まあそうか、物価か、
でもその分ね、給料も上がってるからね、アメリカの場合は。
中川 浩孝
逆に言えば、だから上がってる人は上がっているけれど、
やっぱり差別、
高木 恵子
格差がついちゃうんだ。
中川 浩孝
格差はどんどんついているかなっていうのは思いますので、
それはもしかしたらやっぱりこの、
このだから10何年、私が来てからだから10年以上じゃないですね、
17年とか18年とかでは、
すごく格差がやっぱりもっと広がったなっていうのは間違いなくある。
高木 恵子
やっぱりね。
中川 浩孝
だからこそね、やっぱりトランプさんが大統領になったりとかっていうのも、
24:00
中川 浩孝
なんかさもありなんというか、
そういう時代に生きてるなっていう感じはちょっとしますね。
高木 恵子
なんかでも、
日本と比較するのは難しいかもしれないけど、
ただそのやっぱり格差があるからこそ、
例えば9.11のあんな惨劇があった後でも、
やっぱりアメリカって、
私復活が早かったなと思うんですよね。
あとリーマンだって、
すごいことが起きちゃったわけじゃないですか。
一種の企業の不祥事なのに、
やっぱりなんかアメリカ経済って復活してますよね、
この短い。
ある意味短い期間で。
日本もいろんな災害だとか、
いろんなことって起きてるけど、
同じように復活できてるかってと、
やっぱりなんか日本って遅くないですか。
中川 浩孝
なんかね、分かんないですけど、
これは私の偏見ですけど、
あんまり学ばないんだと思うんですよね、アメリカ人って。
だから日本人ってバブルの時に、
あれは良くなかったとか、
ああいうのはもう二度と起こしてはいけないみたいな、
すごい教訓として、
すごい強く残っちゃったんじゃないかなって気がするんですよね。
会社が企業内の留保をすごい残すとか、
大変な時のためにとか、
そういう大変な時のために蓄えようみたいな考えは、
やっぱりアメリカ人には全体的にないという気がするので、
すごい日本人の先を読むというか、
心配性なところというか、
そういうのがやっぱりちょっと悪く出てるんじゃないかなって気がしたりするんですけど。
高木 恵子
あとやっぱりその格差がつくって、
だから変な話みんな、
例えば9人いたら100人がハッピーに、
長い間同じことができるかってやっぱり難しいと思うんですよね。
だからそのいいとか悪いとかを置いといて、
やっぱり犠牲がある程度もあることが前提で、
世の中がなんかアメリカって動いていて、
それが格差につながっちゃうんだと思うけど、
だからこそ何かダメージがあっても、
また回復力が強いというか早いというか、
中川 浩孝
たぶんそうなんだと思いますよ。
高木 恵子
だからみんながハッピーのまんまで回復するのって、
相当難しいんだろうなっていうのは、
日本にいながら外を見てて思いますよね。
でも日本って、そこが日本のいいとこかもしれないけど、
みんながハッピーで何とかしようとするから、
そこがでも結果として、
いろんなリカバリーに時間がかかってる一つの要因なのかな、
なんていう気もするけど、
果たしてどっちがいいかっていうのは、
最終的に50年後、100年後見てみないと、
27:01
高木 恵子
この結果ってわからないと思うけど、
そういうのは感じますよね。
今の時代を生きてる人間としてそう感じますよね。
中川 浩孝
確かにそれはありますね。
でもこれからというか、さらに超高齢化社会がやってくるので、
どうなるんですかね、と思っちゃいますよね。
高木 恵子
自分がその渦中にいるわけじゃないですか、
本当に100歳まで生きるかもしれないし、
だからそうなった時に、
昔の70代、80代ってもう半分、
元気でも全然社会との接点がなくて、
っていう自分のおばあちゃんとかを見てても、
もう家族のコミュニティだけみたいな感じじゃないですか。
でも私たちの時代って、
体と頭が元気だったら70、80でも何かしてますよね、きっとね。
中川 浩孝
そうですね、多分そうですよね。
高木 恵子
そうなると多分そういう社会、
そういういろんな社会の仕組みとか、
いろんなコミュニティ構造がきっともっと今とは違ってくるから、
そこの作り込みはしたい気はしますよね。
中川 浩孝
確かに、確かに、そうですね。
高木 恵子
そうじゃないと自分たちがハッピーにならないから、
っていうか自分が頭と体が元気でいるのが前提なんだけど。
中川 浩孝
でもただ逆に言えば、若い人から見た時には、
目の上のたんこぶまでは言いませんけど、
やっぱりいつまで経っても上の世代がいるっていうのが、
新しいことができないとか、自分たちの世界がやってこないとか、
そういう将来に対しての見通しが悪くなったら嫌だなと思うんですよね。
やっぱり自分が主役になれるというか、
そういうのって若い頃から感じるのって、
さっきの私の20代の時に大きなことを経験させていただいたっていうのもそうなんですけど、
若い頃にそういう大きなことが、
社会と繋がりがすごくあるっていうのを感じられることとかっていうのは、
すごい大切だとは思うので、
どうやってそれこそ長生きしてしまうからこそ、
どういうふうに引退じゃないですか、
どういうふうに若い世代に移管していくか、
みたいなのもすごい一緒に考えなくちゃいけない。
私たちも楽しくいたいけれど、
でも若い人にも、今後長く生きていく若い人にも元気でいてほしいし、
そこをどういうふうにバランスさせるのかっていうのが、
まだまだ自分が元気だから、
現役っていうつもり、
バッチリ現役ですけど、
どういうふうに若い人たちにも、
未来、将来のことを希望を持っていけるのかなっていうのは、
考えてあげたいというか、
考えないといけないのかもしれないなと思ったりはします。
高木 恵子
今あるものって、
それこそ大企業っていうとあれですけど、
今の存在する企業にはどんどん、
私、若い人に任せていいと思うんですよね。
その若い人たちが今の時代に合うように、
30:02
高木 恵子
その会社を変えていけばいい。
大企業でも、ある程度の中小でも。
この100年時代のこのマーケットって、
結局本当に新しいわけじゃないですか。
だから、元気な60代、70代、80代が、
新しいものをまた作ればいい。
そこって若い人は、
感覚がわからないからきっと作れないってことはないだろうけど、
でも、そのマーケットにあったものって、
なかなか形にはしづらいじゃないですか。
だから、今の社会をどんどん早く、
若い人たちに譲って、
レガシー的なものをどう今の時代に変えていくかっていうのを、
若い人たちに。
だって自分たちが生きていくわけだから、
それはもう若い人たちに任せて、
むしろ、もう私たち世代、
50代、私50代くらいの人からやっていいと思うんだけど、
今ない社会、今ない構造を作って、
そこで別にお金儲けまでしなくても、
そこでみんながそれこそハッピーに、
死ぬまで生活できるような、
マーケットというか市場が大だから、
作ればいいんじゃないかなって。
中川 浩孝
いいですね。
それすごいいい気がします。
自分たちの世代だけを見ていくっていうのはいいかもしれないですよね。
だって若い人が求めてるもの、私もわかんないもん。
高木 恵子
そうですよね。
だからそこを一生懸命、
だって上のね、
もしかしたらおじいちゃんぐらいの人たちが、
若い人たちに新しいもの作れなんて言ったって、
だって最終決裁権の人たちがわからない。
中川 浩孝
理解してないですもんね。
高木 恵子
それってやっぱりちょっとおかしいよなって思ったりするから、
もうそこはあるけど、
今の時代、
その会社のレガシー、
やっぱり日本のいいカルチャーとかっていうものは、
きちんとつなげてもらうっていうことさえ、
なんか死守してもらえればね、
新しい時代にあった日本を作っていってもらえれば、
会社を作ってもらえればいいんじゃないかなって思うから、
早く自分たち用のものを、
年寄りは作ればいいんじゃないかなって。
中川 浩孝
そうですね。
それはすごいいいアイディアだと思います。
高木 恵子
だから何かやりましょう、
ヒロさんも。
田中さんにも私はいつもけしかけてるんだけど、
田中さんたち世代の人たちがほんともっとそこら辺をね、
まだまだお元気だからね、
そこで一花二花また咲かせてもらいたい気がするんですよね。
中川 浩孝
そうですよね。
新しい会社作っちゃえばいいんですよね。
高木 恵子
今のところはもうある程度限界はあるような気がするし、
ニーズがやっぱり違ってくると思うから、
中川 浩孝
確かに確かに。
高木 恵子
ここじゃないところで、
また面白いことをやればいい。
だからこのポドキャストも一つのきっかけで、
33:01
高木 恵子
この私たちの他愛もない話を面白いと思っている人たちが
どんどんどんどん何か集まって何か、
それこそほんと新しいものが生まれたら面白いですよね。
中川 浩孝
ですね。
そういうアイデアというか、
思いつきというか、
そういうのの助けになったら私もいいなと思ってるし、
そういうのを話すの楽しいですよね。
高木 恵子
ね、ですよね。
なんで、田中さんが今後またいろんなゲストを呼んでくれるそうなので、
中川 浩孝
そうですね。楽しみです。
高木 恵子
ゲストこれを聞きになっている方たちも、
私たちと全く面識なくても、
中川 浩孝
そうそう、私も出たいとかね、
私も話してみたいとかっていうのも全然。
高木 恵子
ゲストで、
我々3人に何か言いたいことがあるとか、
そんなのでも。
中川 浩孝
物申すみたいな。
高木 恵子
ぜひぜひ何かそうやって、
新しいって言うと変だけど、
何かみんなでハッピーになれるものを作れるといいですよね。
中川 浩孝
そうですね、ハッピーって大切ですよ。
高木 恵子
そうなんですよ、って思います。
中川 浩孝
ですね。