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皆さん、こんばんは。上水優輝でございます。
サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、意識低い系を突き抜けると、逆に意識高い系みたいになる、というお話をしたいと思っています。
えー、こうね、なんていうのかな、あのー、逆にね、振り切っちゃうってことはね、いろんなことがね、そうだなと思うんですね。
えー、タイトルの部分はちょっとさておきね、デジタルとかアナログをまず例にお話したいんですけども、
あのー、デジタル化って、そのー、なんていうのかな、もともと例えば、そのなんだろう、えー、人に、こう、手紙を書くってすごいアナログだったものが、
あー、なんだろう、電話でね、音声が聞けるようになったり、えー、メールでね、あのー、電子文字が送れるようになる、
まあ、もっと言うと、その手前でポケベルとかがあってね、えー、電話機からこう、なんかわかんない、えーと、数字でこう、文字を打つわけじゃないですか、
あー、なんかありましたよね、なんか忘れましたけど、えー、あって、えー、ポケベルとかあったし、メールとかあったし、あったしって書いてあるか、あるし、みたいな感じで、
どんどん、そのー、デジタル化が進んでいって、えー、今はですね、そうだな、まあそのー、生活レベルでいくと、
あのー、Zoomとかそこまで抵抗ないですよね、なくなってきてますよね、いわゆるビデオ通話が当たり前になると、
という感じで、えーと、今言った、えーと、電話とか、メールとか、ポケベルとか、SNSとか、そしてえーと、Zoomとかっていう、この変化を見ていくと、
あの、どんどん、アナログ化していると思いませんか、あのー、最初のポケベルってめっちゃデジタルな感じしますよね、なんかこう、数字をなんか頑張って打って、
えー、文字に変換して、みたいなことだけども、それがだんだん、あのー、ね、電話とか、まあ電話はあったのかな、元から、まあまあ、そのちょっとよりね、
アナログに近いものをデジタルで実現していくみたいな、で、えーと、今やね、ビデオ通話、もう相手の顔を見て、えー、確かにまだ2次元ですよ、
2次元で平面なんだけども、相手の顔を見ながらね、お話ができるって、アナログに近づきましたよね、ポケベルに比べて、
で、えー、これがどんどん進んでいくと、まあ、あと、まあ、現にね、ホログラムっていう技術がありますよね、えー、あの、3Dで、あのー、立体的にその、なんだろうな、出てくるってことで、
もう、ほとんどそれが、あのー、クオリティ上がっていけばですよ、触れないだけであって、実際にその人のこと、
まあ、3Dのその、なんだろうな、データでしかないから、触れないだけであって、目の前にその人がいるかのように会話できる日って、えー、そのうち来ると思うんですよね。
で、まあ、ホログラム、ちょっとわかんない方はちょっと調べてほしいんですけども、まあ、そのホログラムでね、目の前に3Dで現れた相手と会話ができると、
そのリアリティがどこまで、えー、実現できるか、まあ、技術次第ですけども、技術が追いついて、えー、限りなくリアルに近い会話ができるときに、
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それってもう、まあ、触れないとか以外は、もう、アナログに限りなく近いですよね。えー、なんならさらに、えー、こう、技術が進化して、
そのホログラムで出てきている人を、なんか触れる、まあ、実際にその人を触っているわけじゃないけども、その人を触っている質感とか、その人の匂いとか、わかんないけども、
本当にその人はそこにいるかのようにできれば、もう、本当、えー、そこにはいないんだけども、いるかのような、さらにアナログに近づくと、えー、いうわけでございます。
まあ、ちょっと、あのー、とんでもお話をしているようですけども、全然、えーと、普通に、えー、そういう未来が来ると、僕は思っているんですが、えー、つまり、究極のデジタル化っていうのは、えー、結局はアナログ化、アナログを目指してデジタル化しているじゃん、みたいなことなんですよね。
アナログとデジタルが、こう、つながる日が来る、みたいなイメージなんですよ。で、えー、そこで、今日の本題なんですが、意識低いっていうのも、突き抜けると、むちゃくちゃ意識高い感じになるなと、思いますね。えー、まあ、僕自身ですね、あの、むちゃくちゃ意識低いなと、自分で思っているんですよ。
えー、まあ、全てのものは、無意味だなあと思っていて、いわゆる、うーん、まあ、ニーチェで言うところはね、ニヒリズムみたいなところですし、まあ、仏教的に言えば、その空であるみたいな話になるんですけども。まあ、実際、あの、こういう記事を書いたらね、そういうコメントをいただいて、えー、ちょっと面白いコメントがあって、仏天を理解できなかったニーチェの、えー、仏教相子らがニヒリズム、えー、釈迦はニーチェの万倍どころではない、みたいなコメントをいただいたんですけども。
えー、まあ、まあまあまあまあさにね、えー、そんな感じで、僕は結構、釈迦とかニーチェが大好きですね。えー、今、同列で語っちゃいけないんですけども、えーっと、そういう、なんだろうな、あの、意味ないよねっていうことを、えー、ちゃんとロジックで言える人が、僕は、えー、すごく共感できるというか、理解できますね。なんか意味があると思い込んでる人の方が危ういなと思ってるところがあります。
で、えーと、まぁそんな感じでね。 意味ないって考えたら、もう意味ないとか思ってる時点でめちゃくちゃ意識が低いんですよね。
意味ないのに、頑張る意味ないじゃんって思うから。
でも、意味ないから頑張る意味ない、だとちょっとつまんないですよね。
だから意味はないんだけども、自分がなんか意味感じられるものとか、自分が楽しいとか、自分が気持ちいいみたいなことを頑張ろう、みたいな感じでやってます。
なので、世の中のためとか、未来の地球のためにとか、そういうのは全くなくですね。
かといって、誰かを制限したりとか、誰かに何かを強制したりとか、そういうことはしないと。
なんでかっていうと、僕が意識が低い。僕にとって大事なことがあるように、人それぞれ大事にしてることとかあるだろうから、それはそれでいいんじゃないかと。
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僕はこうだけど、あなたはそうだよねってことで、あんまり無理矢理交わらないようにしてるんですね。
なので意識は低いけども、なるべく人に危害を加えないように気をつけているというような感じです。
意味がないという前提に立ったときに、さっき言ったみたいに、意味がないけども、例えば、
眠たいなあ、寝ようっていうのは、自分にとって意味がありますよね。
そのこと自体が何かこの世に意味があるかってないけども、自分が眠たい、寝た、気持ちよかった、それいいじゃないですか。
っていう感じで、おいしいもの食べたいな、でもいいし、自分が好きな人がいて、その好きな人に何かしたいな、何かしてあげたいな、
これちょっと上から見せるんですけども、自分なりにできることをやりたいな、みたいな感じ。
それって別に意味ないんですよ。別にその人に何かをそうしたところで何か意味あるかってないんだけども、
自分がそうしたいからそうした、ハッピー、みたいな。そういう意味がないけども意味があることをやっていく、みたいな感じで僕は生きています。
なんていうのかな、よくこのポッドキャストでも言いますけども、地球温暖化をしちゃうともうやばいよ、もう住めなくなっちゃうよ、住めない地域出てきちゃうんだよ、みたいなことで、
すごい危機感煽ってますけども、それは住めなくなる地域の人の立場から見た世界観であって、
僕がロシア人だったら、このいてついた大地が活用できるじゃないかってことですね。どんどん地球が温暖化してくれたらいいなって思うわけですよ。
なので結局どこからその問題を見るかによって、嬉しかったり悲しかったりするわけですから、地球温暖化って意味ないよねって話になっちゃうんですよ。
意味ないよね、意味ないんだけども、自分の地域から見ると意味がこういう意味になるし、ロシアから見るとこういう意味になるって感じで、
意味なんてものはですね、その人の見てる視点とか経験とか価値観とかそんなものがね、
全部混ざり合ってその人が見たいように見てるだけでしかないんですよね。
その意味では本質的な意味っていうのはない、絶対的な意味みたいなものはないということだなと思ってます。
という感じで、意味ない意味ないと言って、その中で自分が意味を感じられるものに取り組んでいくとですね、
なぜかですね、なぜかじゃないね、なぜかではないか、意味がないって分かってるからすでに引き算ができてるんですよね。
意味ないこと頑張らないから、自分にとって意味あることしか頑張らないってことは結局何が起こるかというと、
自分が大事にしてることはめっちゃ頑張るんですよ。だってそれぐらいしかやることないから。
自分にとってどうでもいいことは、たださ意味ないように自分にとってもどうでもいいわけだから、
マジで意味ないわけですよね。そんなことは一切やらない。
人間関係はもう、なんだろうな、その人と付き合う意味なんてないんだから。そもそもないんですよ。
ないんだけども、自分にとってその人のことは好きだから付き合いたいとか、理解があるから付き合いたいとかあるわけであって、
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付き合わなければならないみたいなことはこの世に一つもないと。意味はないからね。
そう考えるときに自分にとって意味がある人と付き合っていこうとか、
自分にとって意味があることを突き詰めていこうとかしていくと、
結果とても有意義な人間関係だったり、有意義な活動だったりってことだけに囲まれるようになってくるんですよね。
そうすると楽しくなってきますよね。楽しくなってくるからどんどんやっちゃうんですよね。
どんどんやっちゃうと上手になるし、どんどんやっていくとそこで関わる人がまた出会う人とかも増えてくるから、
共通の関心ごとで繋がれる人も増えてくるしって感じで、めちゃくちゃ好循環になり始めて、
意味ない意味ないって言いながら意味のあるこだわりまみれで生きていけるようになっていくということなんですね。
めちゃくちゃ意識高い感じになっていくと、だんだん活動しまくってる人みたいになってくるんですよね。
面白いですよね。出発点は何にも意味ないんだからっていうところが出発点なのに、
でも何にも意味がないからって、でもそれで生きてるってつまんないから、
意味がないなりに自分が意味があることだろうってやってると、どんどん好循環に入っていって、
自分にとって意味があることだけで生活が埋め尽くされていくっていうことになっていくんですね。
なので一見ね、ニヒリズムというか、無意味だよねとか虚無だよね、この世って虚無だよねって思っても、
そこで止まらなければですね、意外とね、逆に意識高い感じになっていくよっていうお話でした。
僕結構ですね、意識高い人みたいに見られることがあるんですけども、むちゃくちゃ意識低くて意味なんかないから、
辞めたいんだったら辞めちゃえばって思ってるんですよ。
僕はじゃあだってこのPodcastなんて一円にもならないわけだし、いつでも辞めてもいいわけだけども、
僕はやりたいから、僕は意味を感じるからやってる、以上なんですよね。
そういうことって楽しいじゃないですか。
その結果ね、出会う人とかもいるし、なんか楽しいじゃないですかってやってたことが、
そうやっていろんな人の縁に繋がっていたりとかしてですね、とてもね、不思議なことだなと思ってます。
究極のデジタル化がアナログ化みたいな話と一緒で、究極の意識低い系はですね、意識高い系みたいになってくるというお話でした。
意識高くならなきゃいけないとかって思ってる人は、それがきついって思ってる人は、
意識を高めるんじゃなくて、もう意識を極限まで下げていく。
もうこの世に意味なんかねえよっていうところまで極限まで振ってみるっていうのも一つの戦略かなというふうに思いますので、
そうやってね、意識高い系になりたくない、きついっていう人はですね、
ぜひ意識低い系で振り切ってみてはいかがでしょうか。
本日は以上でございます。またお会いしましょう。さよなら。