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  2. #509 対話を慎むとき
2023-02-16 08:58

#509 対話を慎むとき

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価値を共有したい。だとすると、価値を共有できないそれに、いったい何の意味があるというのだろうか。


◉意義のある対話

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▼上水優輝

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皆さん、こんばんは。上水優輝でございます。
サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、対話を慎むとき、という話をしたいと思っています。
一方的にペラペラ喋る、みたいな対話ではないものは、
今日の話から除外されるんですけれども、
その方向に何か、自分の意見とかを考え、感想みたいなものを
共有し合う、みたいなね。
そういったことを、僕は今、対話と言葉を呼んでおりますけれども、
自分の言葉数が増えるとき、みたいなものを振り返ってみると、
2種類あるな、というふうに思っているんですね。
一つは、相手と価値、みたいなものを、
共有できているな、と思うとき。
単純に楽しくて、どんどん喋っちゃう。
相手も共有できていると思っていると、相手も喋るし、僕も喋るし、
価値と価値とは往復して、とても楽しい、心地の良い時間を過ごすことができる。
例えば、僕が人とやっているポッドキャストは、そういう時間ですね。
どうせ死ぬ3人、というポッドキャストであったり、
ゆるい言語活動をお勧め、というポッドキャストであったり、
そこで一緒にやっているメンバー、みたいなのは、
話しても話しても、話し足りないというか、
毎月話しているし、毎月どころか日頃も話したりするんですけれども、
それでも何回話しても飽きないというか、楽しいなと思って、
良い時間を過ごしていますね。
話していて楽しいから、喋る、みたいなのは、
言葉数が増える、というのは容易に想像つくかなと思います。
もう1個、言葉数が増えるときというのがあって、
それはその真逆なんですよね。
価値みたいなものを全然共有できないけれども、
コミュニケーションしようとするとき。
それというのは、価値を共有したいから、しなければならないから、
一生懸命伝えようとして、言葉数が増える。
分かろうとして、分からない、みたいなところで言葉数が増えるという感じで、
どっちも言葉数が増えるというやつです。
分かりやすいのは、いくつかあるけれども、
仕事とかだとそうですよね。
その仕事の価値、業務の価値、プロジェクトの価値とかが、
共有できているかできていないか、みたいなものによって、
共有できていれば、必要情報を渡すだけでスッと進むんだけれども、
たまたまその価値みたいなものが共有されていないと、
価値を共有するためのコミュニケーションで、ものすごく時間をとられるし、
多くの場合、そこの擦り合わせがうまくできない相手とは、
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よく分からない価値の擦り合わせの会話ばかりして、
何も物事が進まないということが起こる、みたいな感じですかね。
ビジネスパーソナルのことなんかは、しっくりくるんじゃないかなと思うんですけれども。
じゃないにしても、例えば恋愛とかもそうかもしれないですね。
家族とかもそうかもしれない。
すごい価値を共有できているなというときに、わーって話が盛り上がる、
さっき言った前者のパターンもあれば、逆ですよね。
なぜ分からないんだ、みたいなところで、逆に言葉数が増える、みたいなことって、
経験としてあるんじゃないかなと思って。
で、言葉数が増えるときを振り返ってみて思ったのは、
人間って、人間コミュニケーションするのって、
他者と価値みたいなものを共有したいからだったりするんじゃないかなと思うんですよね。
もちろんそれだけではないけれども、
多くの場合、他者と価値を共有する喜びみたいなもの、
それを感じたいからコミュニケーションしているんじゃないかって、
最近は僕思うんですよね。
で、あるならば、もしもそうであるならば、
対話を慎むべきときっていうのがあるなと思うんですね。
それはさっき言った例でいくと、
後者ですね。
ベースの価値を共有していない相手と対話をしても、
いかに価値が共有できない相手であるか、みたいなことが、
どんどんどんどん分かっていくだけで、
分からないということが分かっていくだけで、
分かり合えないということが分かっていくだけで、
価値を共有できないということが分かっていくだけで、
価値を共有するために対話していたはずなのに、
価値を共有できないということだけがただひたすら分かっていく、
みたいな時間になっていくというふうに僕は思うんですね。
価値を共有する喜びを感じるためには、
そもそも根底で価値を共有しているから、
それを確認するために言葉を使っている。
言葉じゃなくてもいいんですけれども、
対話であれば言葉ですよね。
ベースの価値を共有していないと思ったら、
もはや価値を共有できないので、話す価値がないんですよね。
だって価値が共有できないということが、
どんどんどんどんあらわになるだけなので、
不愉快ですよね、お互いに。
だから、いつでも対話が処方箋として有効であるというふうに僕は思わない。
価値を共有している人と、
価値を共有しているんじゃないかと少なくとも思える人と対話をすることで、
やっぱりそうだよねというのが気持ちいい、心地いい、
嬉しい、楽しいということがあっても、
全然価値を共有できないねということが確認されても、
不快感しか残らないので、
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対話しないということ、対話を慎むという選択肢があるということを、
知っておいてもいいんじゃないかなと思います。
前回に意義のある対話というお話をしたので、
それを併せて聞いてほしいなと思うんですけれども、
どういうときに対話が意義のあるものになるのかということはそこでお話しているので、
確認してほしいですが、
それを見極めるときに、
いい方法があると思っていて、
そのときにも紹介したんですけれども、
3分話して、
何か価値を共有できていないなと思ったら、
3時間話しても共有できないので、
無理に粘って共有しようとしなくていいんじゃないかというのが僕の考えです。
3分話して、
ダメだなと思ったら機会を改める。
機会を改めるというのが、
来週なのか、
1ヶ月後なのか、
1年後なのか、
10年後なのかは分かりませんけれども、
価値を共有、
今なら価値を共有できるかもなという、
そういう期待感を持って対話をしないと、
残念な対話になるだろうなというふうに思っていますね。
その意味においては、
言葉は万能薬ではないので、
対話をしないということ、
コミュニケーションをしないというメッセージ、
コミュニケーションをしないというコミュニケーションがあるとか、
そういうことを感じる力を養っていくと、
もっと世界を広く捉えることができるというか、
話せなかったからどうしようもなかった、
みたいなのはあまりにも視野が狭いというか、
話せなかったことに意味があるというか、
話せなかったことに意味がある、
語られなかったことにメッセージがある、
そういったことを読み取るみたいなことが、
特にこれからの時代というか、
今価値観が多様化していますから、
まさに価値観が多様化していると、
みんなが当たり前のように言っていることですよね。
それは今日のお話でいうと、
価値を共有しづらい世界になっているので、
話すべき相手、つまり対応すべき時と、
対応を慎むべき時というのが、
結構見極めが重要になってきているなと思いますので、
コミュニケーションしないとか、
嫌な奴じゃんって思われるかもしれないけれども、
価値観が多様化しているときに、
下手に踏み込んだコミュニケーションをするというのは、
大変危険であるというふうに思いますので、
コミュニケーションしないというコミュニケーションがあるということ、
価値を共有できないということが、
いかに直接的にコミュニケーションする危険性を
持っているかということについては、
自覚した方がいいというふうに思いますね。
対応を慎むべき時というのを、
ぜひ見極めてみてください。
本日は以上です。またお会いしましょう。さようなら。
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