00:05
チカラチャージ💪ラジオ! おはようございます、チカラです。
今日もスタイルを撮らせていただきたいと思います。 よろしくお願いします。
今日はちょっと、先日の中村慎さんの
夏フェス、4時間ありましたけど、あそこの後半の部分で少しお話しされていたところから、
ちょっとヒントをいただいたという感じをしたので、もうちょっとやってみようかとテスト的に思ったことをやってみようと思います。
タイトルは多分、「俺流ひとり宇宙」みたいなね、そういうタイトルになるかなと思いますけど、
要は、慎さんがやっているクソDみたいな感じかな。
だから僕はもうとにかく、僕のひと宇宙、
僕の中のことをもう吐き出すチャンネル、放送か、
をちょっと撮ってみようと思います。 これはだから、それを聞いてて、嫌になってしまったりついてこれないなぁという方は、
もう多分聞かないでいただいた方がいいんじゃないかと。 逆に、こういう話が好きだ。
僕の頭の中、僕のひと宇宙、俺流ひとり宇宙が、どういうものかに興味があるなという方だけ、
ぜひ聞いていただきたいなと思います。 だから本当はこういうのは、もしかしたらわかんないけど、メンバーシップとかした方がいいのかもしれませんけど、
まあね、でもまあメンバーシップにするほどのことを別に言うわけではないと思うので、
僕にとっての頭の中で何を考えているのか、そのトピックについてちょっと今日は、
もうトロしてみたいと思います。 だからまあ、どっちかというと、僕は意図的に、自分で認識しているのは、
茶盛りとかの会は、僕はまともな方の自分を出しているだけに、僕は自分で認識はしているんです。
だからそれだけの僕を見ると、もしかしたら力というのは、すごく真っ当な人?
何だろう、包容力があったりとか、まあ自分で言うと恥ずかしいね。
どちらかというと、まともっぽい人なように映っているんじゃないかと思うんですけど、
まあね、それはそれでいいんだけど、そういう認識いただくのもいいんだけど、
いや全然違う一面もあるよっていうことは、どこかでは出していかないといけないんじゃないかと。
だから何を次出してくる人なのかわからないという状況の方が、たぶん面白いんじゃないかなと思うので、
03:03
僕はそういう一面ももちろんあって、あれはあれでまともな僕の一個の一面、
側面なので、嘘をついてあれをやってるわけじゃなくて、
そういう一面も僕にはもちろんありますよっていうところなんだけど、
例えばだけど、聞いていただいた方もいるだろうしいないかもしれないんだけど、
こないだの三宅園さんとの2時間のライブ、マイクールヒーローズライブってやってるんだけど、
実際はこないだ、今週の火曜日にやっていた2時間のライブでは、三宅園さんとの間の議論のような一面を僕は出しましたね。
だから議論になったときに真剣にやってるときは、僕はああいうぐらいな感じになると。
だからパッと外から見ると、喧嘩をしてるような感じに見えたんじゃないかなと思います。
僕がどんどんどんどん追い詰めていくような、ヒートアップもする感じにも見えるし。
でも僕の中ではそういう一面も僕なんで、こんな力の一面もあるんだなっていうのを楽しんでいただける方は、
ぜひそのライブの状況も、そのまま一部編集してくれてるのかな。
上げてはくれているので、「ああ、こういう一面もあるんだ、力は。」っていうのを楽しんでいただければと思います。
ただ、茶盛りの僕以外の僕を見たくないという方は、アーカイブは聞かないでいただいたほうがいいかもしれないですね。
イメージが崩れると思います。
そういうのも含めて、僕の中では、俺流宇宙、俺流一人宇宙、一人一宇宙みたいなイメージで、
その中でも僕の俺流一宇宙を、ちょっと頭の中を一個お話しできるような番組をやってみようかな。
常にそう思ってるわけじゃないですけど、何かのトピックがあったときにちょっと出してみようかなと思います。
最近のだから、僕がちょっと放送をしていた議論について。
議論って僕にとってはどういうものだよっていうのも、後でタイトルをちょっと変えると思うけども、あれも俺流一宇宙の話だと思います。
だから、僕の中ではそういうふうなものですよということですよね。
それから、あとは、さかのぼると宗教と科学の違いを遠域と機能法で考えてみたっていうのも、あれも俺流一宇宙の話のトピックだろうとは思います。
ということで、今日はもう一個その流れでお話ししてみようと思うんだけども、遠域法と機能法について。
これはもう僕がそう解釈しましたっていうだけなので、一般的にどうとかそういうお話をしているわけじゃないんです。
06:05
だから、僕にとっての遠域法と機能法を改めてさらに整理がだいぶできてきたなと思ったことを話してみようと思います。
何かというと、僕は遠域法と機能法って、たぶんどこかでは学生の頃とかわかんないけど、どこかでは習ったのかもしれないけど、
全然それは僕の中ではずっと認識意識にはなかったんだけど、
こないだ中村真さんとの茶盛り会で、改めてそういうものかっていうのを理解してきたところからずっと頭の中に残っているキーワードだったわけです。
今でもそうですけど、ただね、僕はなんで議論したくなるかのところでもちょっと言ったんだけど、
頭の中でモヤモヤしてる状況になると、それをどうしても追求したくなっちゃうんです。
それは追求する相手は他の誰かかもしれないし、自分の頭の中かもしれないし、
最近だとその相手をチャットGPとかAIを相手にするときも、最近はちょっとありますけど、
とにかくそういう何かとの対話とか、自分の頭の中での整理、自分自身でずっと考えて整理していくことももちろんあるけれども、
そういうのを通して、頭のモヤモヤ、矛盾と感じるところをすっきりさせたいんです。
これはすっきりストの大月さんの放送を聞いたら、大月さんも、「思考をすっきりさせるっていうのは気持ちいいですよね?」っておっしゃっていたんだけど、
まさに僕も自分の思考でモヤモヤした状況にあるものをすっきりさせたいというのがあります。
その一部で議論という手法を、誰かと手法を使って、プロセスを使ってすっきりさせるというときもありますし、
自分自身の中で解決するときもありますし、
本を読む人もいるでしょうし、AIに聞く人もいるでしょうし、それは人それぞれやってることだとは思いますけどね。
でもとにかく僕は、思考をすっきりさせたい、モヤモヤしたときにはすっきりさせたい人だなというのは、僕は最近ちょっと強くわかってきました。
その中でもう一回ですけど、演劇法と機能法というのの違いが、どうしてもモヤモヤしてわからないところがあったんです。
何かというと、ここからはもう僕の勝手な話なので、ちょっと理解しづらい部分があるかもしれませんけど、ちょっと話をしてみたいと思います。
演劇法というのは、大前提という言い方ですけども、そもそもこういうものですよね。だからABCDEということが考えられますよね、という。
09:13
そもそもこういうものですが、スタートにあるということで理解をしていて、機能法というのは、いろんなサンプルを見て、
その上で、ああじゃあこういう原理原則がありそうだねっていう、それを機能法的推論という、リブラ先生が教えてくれたけどね、その機能法的推論を導き出す。
その上で、一旦これが原則っぽいねって置いた機能法的推論を基に、Aだよね、Bだよね、Cだよね、Eだよねって考えていくのが機能法です。
これをリブラ先生への言葉を借りると、一旦機能法的な方法で、まずは仮の演劇に使える原理原則を作り上げて、それを演劇という体で、一旦仮に演劇としてずっと考えていく。
それでまたイレギュラーのサンプルが見つかったときに、大元の機能法的推論を書き換えるべきかどうかを繰り返していく。
だからリブラ先生が言うには、機能法と演劇法はずっと対話を続けていく。
その機能法で作った推論を演劇に持っていて、演劇の原則としてずっと考えていって、イレギュラーが出たらもう一回機能法に戻って、新しい原則を基に演劇的に考えていく。
ということで、機能法と演劇法は全く別のものではなく、ずっと繰り返されるものだよっていう説明をコメント欄でしてくれたんです。
僕はそれが、ものすごく腹落ちしています。納得感10割で、僕にとってはそれは腹落ちしています。
なぜなら、僕がそういうふうな思考法を取っているからです。
だから僕は機能法だけの人じゃなくて、機能法で作った一端の原則を演劇的にずっと使っていきます。
だから例えばこの間の三宅さんとの2時間のライブでの議論の中では、思考の整理であったり議論の中では、
僕にとってのこれまでの人生のサンプルや経験のサンプルで、
三宅さんという人は悟りが絶対にあると思っているっていう発言もされていたし、
12:01
三宅さんにとっては悟りというのは100%の確信なんだなっていうふうに僕は思ったわけ。
だから僕の機能法的推論から出た一端の演劇の原則からすると、
三宅さんは100%確信している人、もしくは確信という信じるということじゃなくて、
確定で悟りというのがあると思っている人なんだと僕は一旦三宅さんに言うならばそのレッテルを張ったわけです。
三宅さんはそういう人であると僕はラベルを張りました。
それは僕にとっては一端の演劇的な流れに沿ってそう思いましたが、
2時間話していったところで何が出たかというと、そこは三宅さんとも納得をお互いにしあった中で、
僕もだから100%三宅さんはそっちの人と思ったけど、違ったんだっていう考えに至ったんだけど、
だから僕の思い込みも論破されたということですよね、逆に言うとね。書き換えましたから。
三宅さんは100%じゃなくて、最終的には本当に一別体験がなければ100とは言えない、確かに。
だから99.9999パー、限りなく100には近いけれども、100とは言い切れないなっていうことだったので、
僕も認識を書き換えて、三宅さんは99.999パーの人だったんだ、100じゃなかったんだなって、
僕はそこで一旦の仮で置いた原則を書き換えたんです。
書き換えるってことは機能法でしょ。
だからそういう意味で僕は機能法で出た原則を自分の一旦の演劇、仮の演劇の原則として使っていくけど、
大元の機能法のサンプルに戻すことができるっていうね、そういう思考法です。
だから機能法を使って演劇に行って、さらに機能法に戻るっていう、
で、さらにまた新しい演劇を進めていくっていう、
僕は両方を機能法と演劇法を使っていく人だということで、今は自分をそう理解しています。
だから僕はそういう意味だと、力さんは機能法の人だよねって言われると違いますってなるし、
演劇法の人だよねって言うと、一旦演劇を使うけれども機能法も使うよって言う言葉から違いますってなるっていうことね。
どっちも使ってますっていうことです。
そういう僕から見たときに、機能法と演劇法で、
よくわからないでずっと理解できないなと思っていたところがあったんですよ。
それは何かというと、最初は機能法がわからないと思ってたんだけど、
結局今新しくわかったのは、僕は演劇がわかってなかったんだなと思ったんです。
僕からすると演劇法っていうのは、ある前提、大前提があって、ある原則があって、ある絶対的な真理があって、
15:10
それがあるからこそこうなっていくよねって進めていく論だとすると、
例えばだけど、この俺流、人宇宙の話の中だから言うと、具体的な例を言うと、
中村真さんが言ってるね、これは批判じゃないですよ。
僕から見たらそう見えているのでもやってましたよっていう話なんだけど、
中村真さんが演劇法の例で出した話で、
僕にとってそう見えますよって。
これ反論は受け付けてないし、違うもんだっていうことでいいと思うんだけど、議論じゃないからね。
要は提案でもないし議論でもないし、僕がそう感じているという自分の宇宙としては、
真さんが言ってる1っていう数字は1だし、1たす1っていうものの足し算っていうのももうそういうもんじゃん。
原理原則じゃんっていう、だからそういうもんだからそうなんです。
だからこそABCDEでしょっていうものは、それは演劇でしょって言うんだけど、
僕にとってはどう見えるかっていうと、その1ですとか2ですとか、
1たす1っていう、たすっていう公意っていうのか、そういう公式を作った人って人なんですよ、僕にとってはね。
だからそれっていろんなサンプルをもとに、一旦1、2、3っていうものを用意しよう。
1たす1という、たすっていう記号を用意しようという、いろんなサンプルを用いて一旦それが便利っぽいねってなった仮の原則を超越できないでしょって僕は思っちゃうんです。
この説明はちょっと難しいかもしれないんですけど、これはたぶん三宅さんはわかってくれるような気がします。2時間話したから。
だから一旦そう置いた人がね、もしかしたらそうじゃない世界があるかもしれないよと。
だからもっと言うと、たとえばチャットGPTに一回聞いてみたときに、
今世間で絶対の心理で演劇で言われてますっていう話がちょっとあったの。
たとえばね、論理学で言われる無矛盾がないよっていう論があるらしいんです。
なんか忘れたけど、気になる方はちょっと調べてほしいんだけど。
たとえばだけど、AはAである。
だからっていうことが成り立つのであれば、AはAではないっていうことは絶対に成り立たない。
18:07
だってAはAなんだから。AはAだっていうことになっているのであれば、AはAじゃないっていうことはありえないっていうのが、
なんかね、矛盾論法みたいな話だって言ってきたんだけど、
たとえばですよ。
宮剣さんはそれわかると思うんだけど、
量子力学の中でミクロな限られた条件下であるとしても、
Aである状態とAじゃない状態は両方同時に起こり得るっていうのが量子の重ね合わせとか言うんでしょ。
だからそれは、もうAであると同時にAではないがあり得るわけです。
でもそれは量子力学という中でいろんな人が考えていった中、観測していった中、
ああそういう重ね合わせって考えた方が良さそうな状況があるんだって、
理解できてきたから今の話はわかるけど、
人が量子の世界、ミクロの世界を観測していなかったときには、よくわからなかった話でしょ。
だからそういう人が観測できて理解できる中で、AであるはAでないと同時には成り立たないって言ってるだけで、
人の認識や人が想像できるものを、人が観測できる。
観測している条件下ではそういうことが成り立つというだけで、
人が関係ない世界がもしあるとしたら、そんな大前提って簡単に崩れるんじゃないのっていうのが僕が思うこと。
だからモヤモヤするんです。
要は何がモヤモヤしているかというと、演劇法というものは、どこまで言っても結局、
機能法で出た原理原則を一旦原理原則として演劇的に使っているという域を超えれないんじゃないっていうのが、
僕がずっとモヤモヤしていた要因なんだなというのがわかってきました。
だから1たす1は2ですよね。だから2たす2は4なんですよね。
それは一旦はそうでいいでしょう。
でも違う条件下があれば、そうじゃない世界もあるんじゃないのっていうふうに僕は普通に思ってしまうんです。
だからそれって機能法でしょって。
機能法で出たものを演劇的に使ってるだけじゃないのっていうふうに僕には見えるので、よくわかんないなとは思ったんだけど、
まあリブラ先生はそれはそういうもんだよって言ってるんです。
21:01
だからリブラ先生はコメント欄では、数学は機能法的にやっていって、数学で出てきた公式を算数として演劇に使っている。
だから算数は演劇的ですよ。1たす1というのは算数でしょ。それは演劇的です。
でも大元のその理屈はどこから出てきているかというと、機能法的に考えていっている、数学から出てきている、一旦の演劇の理屈で進んでいるものです。
だから算数と数学というのは行ってきたりして、新しく機能法的に数学で編み出された、考え出された、
一旦こうしてみたらいいんじゃないのっていう公式を、算数の中では新しくもどんどん使っていくというだけ。
だから演劇に見えるものも、実はその手前の演劇で使っている原理原則というものを遠くで一回俯瞰してみてみれば、
機能法から出てきているんじゃないかというふうに思う。
例えば、本を読んで新しい知識を得て、ああこういうことかと理解したとか、
自分がこういう体験をしたから、ああこういうことかと思ったとか、
人からこう聞いた、信じている人からこういうふうに教えてもらったから、
聖書でこう書いてあるから、すべてそれは機能法的なサンプルだと僕には見えるんです。
それをもとに、ああ、だったらあの本で言っていたのはこうだったらこうで違いない。
もしくは自分がこういう体験をしたから、だからこそこういうふうなはずに違いない。
あの聖書に書いてあるから、あの信頼している人がこう言っているからこうだろうという、
いろんなサンプルを持って出た原理原則は、僕にとっては結局機能法的な推論に過ぎない。
でもそれを一旦の、もうほぼ99.99%そうなんだって思って演劇的に行くっていうのは、
僕は間違ってないと思うし、そうなんだと思うんです。
だからここで僕はずっと宮剣さんに、たぶん100%の真理なのか、99.9999%の信じているというものなのか、
どっちなんですかっていうのをたぶんね、ずっと僕がそこをもやっとしていたから、
追求してしまって2時間かかったっていうことかなというふうに思いました。
そう、そんな感じかな。だからって、真さんが言っている演劇的なものの真理が間違っているって言ってるんじゃなくて、
そこはあとはどういうふうにそれぞれが思うかだけだから、
それが100%の真理と思うんだったら、それはそれで僕は全然否定しなくて、
あ、そういうふうに理解をしているんだって僕が理解できるだけだから。
で、ここはたぶん蔡さんとかが言う、一人一宇宙なんでしょって思うから、
24:05
僕はそこを踏み込んでまで、あなたの考えが間違っていますよって言いに行きたいわけではないんです。
ただ、99.99%を信じているのと、100%確信ですは僕の中では全然違うので、
99.99%と思っている人が、これは100%なんですって言ってるように見えたときには、
僕にとってはそれはものすごく矛盾なので、矛盾を指摘してしまうというか、
どっちなんですかって言ってしまうっていうのは、またこれはちょっと別の回で、
僕の反省でもあるのでお話ししたいと思いますけど。
僕がそういう議論をしてしまうときに、大きく3つのカテゴリーがあるなと思った。
大きく、1個は僕の大反省、ごめんなさいをしないといけないパターン。
1個は、いやいや僕は悪くないですよのパターン。
もう1個は建設的に話ができるパターンと、3つを大きくカテゴリーに、
僕の頭の折れる人宇宙の中では整理できた。
こういう議論を僕はしてしまっていたな、しているケースがあるなと分かってきたことがあったので、
それはまた、僕の別の折れる人宇宙の回で、ちょっとお話ししてみたいと思います。
こんな話を25分聞いていただけたあなた、どうですか?
僕の思考を聞いてすっきりされた方、もしいたら、
ぜひ次回の折れる人宇宙、僕の宇宙を会話見る回、ぜひ見ていただけると嬉しいです。
大前提としてもう一回ですけど、この回は僕の折れる人宇宙の中を公開しているだけなので、
それは違うとか、もしコメントで来るようなことがあれば、僕は議論スイッチ入って大丈夫でしょうか。
突き詰めて削る作業も入ってしまいますけど大丈夫でしょうかっていう確認は取らせていただく内容になるので、
そういうふうに思っていただければ。
そんなことしたら誰もコメントしてくれないと思うけどね。
だから、ああ、そうなんですね、僕は違うと思います、私は違うと思いますけど、ぐらいの話だったら、ああそうですかっていうだけで終わるので、それでいいと思いますけど。
まあ一人一宇宙ですよね。僕の宇宙をちょっと公開してみております。
こういうことを僕はずっと考えている人なんだと思います。
ずっとっていうか、まあ語弊があるな。
27:00
頭がもやったとき、だから矛盾があるんじゃないのって思ったときにずっと頭の中でずっとこの作業を僕はやっていくので、
たぶん審査もそれに近いんじゃないかと思うけど、特に審査はそれを、僕の勝手な宇宙の中では、それを本を読んだり自分の中だけで処理できる人なんだと思う。
だから、人との議論をする手前で審査の中では、いろんな審査の中の真理を作れる人なんだと思うけど、
僕はそこをね、人との対話も好きなんだろうね、たぶんね。
だから、僕が興味があってもやっているところに対して、興味を持っていただける人との会話、対話、議論は、たぶん僕は好きなんだと思います。
でも、僕が興味がないところの議論は一切興味ないので、例えばだけど、モテ論とか浮気論とか、星になれたらとか、
あんな話は僕は一切興味がないから議論する価値もないって思っているので、予知もない、価値もない。
だからコメント欄で、ああそうなんですね、で終わるっていうね。
それはそうじゃないでしょうってなることは一切ないっていう、そんな感じです。
一個だけ説明したいのは、僕は全てに議論をしたい人じゃないし、全てを僕の考えをアップデートして、うわー気持ちいいと思うわけでもないし、
ただ僕は自分が興味を持ったところの話で矛盾があったときには、それを今のようにずっと何でだって考えて、
思考をすっきりさせたい人なんだなというふうに思います。
だからそれでアップデートされたらウォーってなるし、
ああ僕が考えていたとおりだったかって整理ができたら、それはそれですっきりしたという満足感がある人だなというふうに思います。
だから思考を整理したり、議論したいのが大好きなわけじゃなく、
ちょっと言うと、僕が興味がある内容に対して、僕が矛盾を感じたときに、思考をすっきりさせたい人ということなんだと思います。
だから僕はずっと常にエンジンをブンブン回して、議論議論議論を大好きな人では一切なく、
僕もこれは疲れるので嫌なんです。僕はめんどくさいのは大嫌いだから。
でも大嫌いの中でも、そう、僕が興味のあるトピックにはたまにドーンとドカーンと進んで深掘りして深掘りしきるまでいくと。
だからイメージは玉ねぎの皮を一枚一枚ずっと剥いていって、どこに芯があるのかをギュンと。
芯って芯さんの芯じゃないよ。玉ねぎの芯がどこにあるのかを、自分でここが芯だったんだ、玉ねぎの芯だったんだって見えるまでいかないとすっきりしないという人なんだとは思いますね。
30:12
ある特定の、僕が興味がある話だけ。興味がない話はもう一回だけどどうでもいいので、それはどうでもいいですよ。
ということで、こんな話を僕は何の台本もなく喋ってみましたけど、ラジオ感覚で聴いていただける方がいないか、めんどくさいと思いますけど、
誰か聴いていただけて面白いなと思っていただけた方がいたらぜひ。僕の世界観なんだと思いますけど。
俺流人宇宙を楽しんでいただく、聴いていただけた方がいたら嬉しいです。
ということで、以上です。それでは行きます。
力チャレンジ!
今日も力あふれる一日を!