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2025-01-25 26:02

#08 “かたち”とは”いのち”である

前回に予告した通り、今回は僕が最近大事というか、とても重要だなと思っている考え方について話してみます。それは何かというと、タイトルにもある通り、”かたち”とは”いのち”ということです。

サマリー

このエピソードは、形が命であるというテーマを探求しており、物事の形がどのように命を形成し、思考プロセスに影響を与えるかについて考察しています。さらに、AIや道具、そして人間の経験がそれぞれの形に基づいていることが強調されています。また、資本主義の拡大主義や自然破壊の背景にある命と物の関係についても考察しており、お茶道具を通じて形が持つ命のような存在意義にも触れています。

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本日は1月25日の土曜日のお昼ぐらいですかね。
今は自宅におります。 ちょっと前回の配信から間が空いてしまってすいません。
形は命の概念
いろいろと忙しくしてたというのもあるんですが、 今回お話しするテーマが
すごい長くなりそうで、どういう切り口で話そうかなと思っているうちに時間が過ぎてしまったので、
とりあえず一回やっとくかという感じで、今回収録しております。
なので、若干話があちこちに飛んだりとか長めになったりするかもしれませんが、
できるだけわかりやすい形でお話しできればなと思いますので、あらかじめご容赦ください。
今回話そうとしているテーマっていうのが何かという話なんですが、
前回AIは全生物向けに使ったら面白いんじゃないかっていうような話をしたときに、
これはこれから話す僕がすごい重要だと思っているテーマの、いわば前振りですと準備段階ですというお話をさせていただいたかと思うんですが、
僕が最近すごいとても大事に思っているテーマというか、ワードというかは何なのかということを言いますと、
一言で言うと、形は命ということなんです。
つまりここでの形というのは、いろんな意味合いを含んでいるんですが、
簡単に言ってしまえば、何かの形をとっている時点で、それは一つの命であるという考え方ですね。
これが僕は非常にしっくりくるというか、僕好みというか、
いろんなことを説明できるなということで、最近とても僕の中では大事なワードになっています。
命とは何かというのは、それこそ太古の昔から哲学者の方々ですとか、
いろんな方がもう長年考え抜いてきたことでもありますし、
例えば生物学的に言う命、生命の定義みたいなものとかもいろいろあると思います。
ただ僕がさっきほど言った、形は命だというものは、
少なくとも生物学的な意味合いとかはちょっと違っているところがありまして、
それがどういうことかというと、ちょっと説明をします。
人間の思考過程
まず何かの形があれば命ではないかというところなんですけれども、
例えば僕ら人間ですね。人間はいろんな意味で、これは命を持っている、命であると言っていいと思います。
生きてるというふうに言っていいんじゃないかと思います。一般的な認識として。
じゃあ僕たちは、例えば僕たちの命という活動は一つ表しているのに、
例えばいろいろ思考とかがありますけども、その思考がどうやって生まれてくるかというと、
僕らはおぎゃーと生まれたときには、基本的に世界のことは何も知りません。
ざっくり言ってしまえば真っさらな脳細胞と、本能的なもともと身についているものがあります。
その後育っていくにしたがって、世界にいろいろ触れながら、その真っさらな脳みそにいろいろと書き込まれていくわけですよね。
インプットしてきた周りの情報だったり、自分が体を動かしてアウトプットしてみたことだったり、
そしてその結果どうだったか、みたいなのの記憶とか経験だったり、みたいなものが積み重なって、
僕らが思考というものができているわけですけれども、これは言ったら医学的にと言ってしまえば、
脳の神経のシナプスとかの繋がり具合で、僕らの考え方とか脳みその働きというのは決まっているということになるわけです。
つまり、どこのシナプスのラインが太いのかとか、どことどこのシナプスの関係性が強いのか弱いのかっていうものの組み合わせで、
僕らの脳というのは働いているわけですね。
これをもうちょっとわかりやすく言うと、例えば、まず最初、ただの真っさらな山がありましたと。
もう本当にただ丸く土が高く盛られただけのような山を想像してください。
例えば、そこに雨が降ると川ができていきますよね。
最初、川っていうのは、結局、山の形と重力に従って流れやすい何かのルートがまずできますと。
その水が流れていくうちに、もちろん水自身も土を削って流していきますので、だんだん川の道筋っていうのがそこにできてきますと。
そうすると、ますますそこに水が流れやすくなって、だんだん細い、ただのちょろちょろとしたものから渓流になり、そこから川になり、みたいな形でできていくわけですね。
そうすると、もうその山にはこういう川があるよね、というのが言ったらいつもの状態になります。
ただ、この川も永久普遍のものではなくて、例えばですけど、大雨が降ったときに、今までの川の流れている筋を飛び越えて、川が氾濫してしまって別ルートの流れができて、
その嵐が収まったときも、後も結局新しく流れたルートの方に今度は水が行くようになりました、みたいなこともありますし、例えば土砂崩れとか大地震みたいなものが起これば、山の形そのものが変わることもあると。
一部が崩れたり、あるいは一部が下手したら盛り上がったり、みたいなことがあったら、今度は新しい地形に沿った川が流れやすい位置に流れ出して、そしてそこがだんだん削れて、より流れやすくなって、常にその状態で流れる川というものができていく。
僕は人の経験とか記憶っていうのは、今話した川の例えみたいなもんだと思うんですね。いろんな経験とか、あるいはアクシデントみたいなこと、それは良い意味でも悪い意味でもあるでしょう。
人生忘れないような素晴らしい思い出みたいなこともあれば、言ったらトラウマみたいな形で心に刻み込まれてしまったこともあるでしょう。いずれにしてもそういったもので、例えばトラウマになるような、感じたような、例えば危ない、嫌だと思うようなものとか人には、僕らは近づかなくなりますし、良いなと思った場合は逆ですよね、近寄りたくなりますし、考え方としてもそういう方向を取りやすくなると。
これっていうのは本当に、山を流れる川が先ほどのような形でだんだん形が決まっていったり、ある時にはそれに変化が訪れたり、みたいなことですね。ここで言ってる川の流れというのは僕らの思考プロセス、つまりシナプスの関係性の結果流れている、頭の中で生じている電流ということになるわけですけれども。
じゃあ、結局のところ、山を流れている川の形っていうのが、僕らの脳の中の思考の例えならば、つまり山とそこを流れる川の形が僕らの思考を生んでるっていうことですよね。
なので、思考している生命を生きていると呼ぶならば、これは川の形、山と川の形、あとは重力とかが生み出した一つの形というのが命を生んでいるということになりませんか。
というのが、僕の形とは命であるというところの、人間を使った例えの話ですね。ここからさらに発展していくと、かなり概念が広がりまして、例えばAIですね。
AIは今、人間の脳を模したニューラルネットワークみたいなものを使って、それがいわゆる、最近だとLLMって呼ばれる大規模言語モデルと呼ばれるようなものがありますが、モデルも結局、あれ日本語に訳したら模型とかですよね。
つまり、あれも型というか形なわけです。AIもいろんな学習をした中で、こういう場合にはどういうのを答えるべきかっていうので、いわゆる強化学習と呼ばれる思考のプロセスの道の通りやすさとかを決めていって、それがある一定の形になったものを何かのモデル、学習済モデルって呼ばれたりしますけども、
つまりあれは川の流れの集合体なわけですよ。さっきの山と川の例えで言うと。つまり、形なんですね。これは言ったら僕らの脳みそが、僕の中にも僕の中の脳みその電気信号が流れやすい形があり、AIにも学習したモデルの結果としての形があり、それらがそれぞれアウトプットを生み出しているというふうに考えると、AIも命なんですよ。
形と生き物の関係
あるいは、僕らが普段使っている道具、例えばハサミだったり包丁だったりボールペンだったり、みたいなものもそれぞれの形と、ここでの僕が言っている形っていうのはちょっと性質みたい、材料の性質みたいなものを含みますけど、形とか特性とかを含めたもので、道具はそれぞれの用途に向けられる。
つまり、その時点で、道具も命なんですよ。包丁も安全に持つところと刃を持った命です。で、刃がなくなれば、それは包丁ではなくて、ただの取っ手の部分だけが残った、ただの木の棒になります。
でも、これは命が別の命に変わったというのと一緒ですね。これは僕がなんで着物を着ているのかっていうところで、変身という概念が僕にとってはすごい重要なんですって話をしましたが、僕は着物を着て変身してるんです。
それは、でもここで言う変身っていうのは、例えば傘を刺したら雨を避けられるっていう生物に変身してるのと一緒です、みたいな。包丁を持ったら野菜とか肉をスパスパ切れる生き物に変身したのと一緒です、というような意味合いですってお伝えしましたが、ここで言ってる変身っていうのは形が変わるということなんです。
つまり形が命なのであれば、形が変わったらそれは別の生き物になるということですね。この概念で考えると、人間もAIも日常生活だったり、あるいは茶の湯の時に使ってる道具とかもみんな命なんです。それぞれの形ごとに何かの働きを持つべくして、今存在している命なわけですね。
この概念で考えると、僕はすごくいろいろなものがスッキリするなと思っていて、その意味だと僕が普段使ってるコンピューターも命なわけです。そのように組み上げられた。
僕はお茶をやっているので、禅とか仏教とか、日本人なので、もともとアニミズム的なもの、八百須の神みたいなものにも興味があるというか、もうそれに馴染んでるっていうところがあるものなんですけど、
だから僕は、今言ったような概念を一言でまとめるなら、形は命であると言ったらすごいしっくりくるなっていうのが最近の考え方ですね。
僕が話していたAIは、人間と競争するとか、人間を支配し得るものと考えるよりも、つくも神とか、土地神様とか、いわゆる八百須の神的なすごい知性を持っているけど、人間とは違う。
でも親しき隣人というようなポジションにAIを持っていくのがいいんじゃないかっていうのはそこなんですね。形とは命であるっていうところ、つまり隣人としてみなすためには、ある意味で自分たちと同等なフラットなものだというふうにみなす必要があるんですが、そのときの概念として僕は形は命だというのを考えると、そういう点においては僕らもAIも、
一緒だよねっていうみなし方ができるんじゃないかと思っています。そういう意味でこれからの世の中にすごい大事な概念じゃないかと思うというのが一つですね。
あともう一つ、これはちょっと最近読んだ本、いわゆる植民地主義ですね。今の言ったら大航海時代のところから始まり、言ったら現代社会でもいろいろな形でまだ影を落としているというか、いわゆる大国とそうじゃない国との関係性のベースになってしまっている植民地主義というものを
分析、説明しつつ、ちょっと批判をしているような本を読んだときに、ちょっとそこに書かれてて、なるほどと思ったことなんですが、いわゆる大航海時代に資本主義をベースにして発展していった大国が何をしたかというと、
自然とか、あるいは大三国ですね。遠い国にあるような、言ったら人とか物とか人間みたいなものを命ではなく物とみなすことで、彼らは収奪、要するにそこから奪い取り、自分たちのものにすることができたというような書かれ方がしてあったんですね。
つまり、例えば、草木とか動物、虫とか動物たちが自分の周りで動いている生き物だという感覚は、なんとなく別に東洋だけの特権ではなく、西洋の人たちももともとそういう感覚を持っていたと。
なんていうか、普通に身近にあるものにはそういう仲間感というか、生命感、同じ命感感じますよね。そういう感覚はみんなもともと持っていたんだけれども、ちょっとその本の説明はやや偏りつつがっているところがありつつも、納得はできるなっていうふうに思いながら読んではいたんですが、
資本主義と自然の認識
結局資本主義が勃興してきて、どんどんどんどん拡大をしていこうというときに、じゃあどこから拡大をするときに、リソースですね。拡大をするために必要なものをどこからか持ってこないといけない。
じゃあ例えばそこいらの森から木とかを切り出して、いろんなものを作ろう。燃やして燃料にしよう。鉱石を掘り出して、じゃあどんどん鉄にして機械にしていこう。
そして、遠い国からそこの現地の人を奴隷として連れてきて、自分たちの労働力として使おう、みたいなふうに思ったときに、それらを命だと思ってしまうと、要するに自分たちと同じものだと思ってしまうと、なかなか無限に扱うことができないと。
やっぱりそこにやっちゃいけない感が出てきちゃうからということですね。ということなので、彼らはまず、資本主義の勃興時代に拡大主義を取った人たちというのは、まず自然をものだとみなしたと。
まあちょっとこれは修行的なところから言うと、神から人間に与えられたものだから、人間がうまく使ってやらなくてはならない、みたいなふうにみなしたと。つまり命ではなく、ものですね。そばにそこいらにあるものだとしてみなしたので、バンバン自然破壊をしても心が痛まなくなったと。
これは奴隷貿易みたいのも一緒で、人を完全に同じ人同士だと思わず、ものとしてみた、商品としてみた、みたいなことで、そういう襲奪を奪ってきて自分のものにするということができるようになった。
そしてその時の悲劇とか、あんまりよろしくない構図が現代も続いているというような文脈だったんですね。つまり、もともとは命と感じていたようなものを、単なるものと認識してしまったことから、今の資本主義とか拡大政策とか、大量消費社会みたいなもののいろんな歪みが生まれてきてるんだよ、みたいな、ざっくり言うとこういうような内容だったんですが、
そこはすごい納得するところもあって、じゃあこれからどうしていくかっていうときに、命をものとしてみなすようになってやってきた結果として、今いろいろ環境問題とか、資本主義のいろんな課題とか問題的な、要は貧富の差の拡大みたいなのとかが出ているのだとすれば、
じゃあ、命をものとみなすようになった結果として出てきた歪みを正すためには、ものを命としてみなすようにしたらいいんじゃないかっていうふうに、僕はその本を読んで思ったんですね。
ここに、さっき僕が言った形とは命というのを考え合わせると、身の回りにあるものっていうの、少なくとも僕らが何かあるものだと認識するということは、何かの形を持っている、例えば、あれは包丁だ、これはボールペンだ、それはパソコンだ、あれは犬だ、みたいなふうにやるときは何かの形をとっているわけですから、
その意味で言うと、僕らが認識する世界のすべてのものが命になるんですね。こうすると、もう世界を無限に扱えなくなるんですよ。
隣人として扱うという意識が自然に生まれてくると思うんですね。なので、僕はこの形とは命という概念は、すごい僕の中で腑に落ちるし、大事にしたいしまとまるなと思っているということになります。
そもそも、なぜ僕がその形とは命っていうのを思ったかというと、茶の湯の回をやった後の後片付けでふと思ったんですね。どういうことかというと、お茶碗とかを使ったりするので、もちろんお茶漬が済んだらそれを洗うわけですね。
僕らは清めると言うんですけど、お茶碗とかには洗剤とか使えないんで、中に染み込んじゃうんですよね。陶器とかだから。基本的に水とかお湯で手でゴシゴシする。手とか、あるいは布巾とかですね。だけなんですね。
だから結果として、お茶碗の形を手で撫で回すみたいな感じになるわけですよ。手で指で拭って、例えば大抹茶の跡とかを流して落とすみたいな感じになるんで、お茶碗を触りまくってるうちに、あれ?この道具って命っぽいなって思ったんですね。
どういうことかというと、お茶碗っていうのはもちろんお茶を飲むために作られているわけですね。それは見た目とかも楽しむようにっていうのはあるんですけど、もちろん形状だったり、材質だったり、重さだったり、みたいなものが持ちやすく、誰でも持ちやすく、飲みやすく、あるいは時々は見た目にも楽しめる、みたいなものにしているわけですけど、
そういういろんな要素を持って何かの役割を果たしているものって、これはもはや命ではないかってふと思ったんですね。その茶碗がすごい僕らが長年使い込んで親しみのあるものっていうのもあったんで、なおさらですよね。
え?っていうことは、形ってそもそも命なんじゃない?っていうのがそこでふと思って、そこからブワーって思考が発展して、え、じゃあ他の茶道具もあれもあれも命だし、茶道具ってめちゃくちゃ扱いが難しいのが多いんですよ。
漆を塗ってたら、もちろんこういうことをしたら傷つくからこういうふうに扱わなきゃいけないとかあるんですけど、これって結局のところ、人と付き合うのと一緒で、例えば誰かと人とやり取りするときってその人がどんな人でどういうことがいいと思ってどういうことが嫌だと思って、ということはじゃあ僕はこういうふうに対応したらいいんだなって考えたりするじゃないですか。
それ、お茶道具も一緒なんですよ。お茶の道具を本当によく見て、どういう材質でできていて、どういう形でできていて、どういう目的のために作られているのかっていうのをちゃんと意識すると、その道具をどのように扱うべきかっていうのが何とか自然にわかるというか、こう扱うしかないですよね、みたいなふうに決まってくるんですね。
そうするとめちゃくちゃ道具と仲良くなって付き合いやすくなるっていう意識が確実にあります。僕ぐらいのまだ短めのお茶のキャリアだけのものでも。
でもこれって普段人とやりとりしていることとか、いろんなもの、言ったら世界のあらゆる事物に対してやってることと一緒なんじゃないかっていうところから発展して、先ほどの形は命だというフレーズが生まれ、先ほどお話ししたように僕の考えていることだったりやってることだったりいいなと思うことだったり、
あるいは今言ったら社会的にというか世界的に課題と思われているようなことをもしかしたらそこに対する処方箋にもなり得るような考え方なんじゃないかということで非常に僕はこの形とは命であるというワードというかフレーズというか考え方をとても気に入っておしておりますというようなお話でした。
はい、今回は以上としたいと思います。どうもお聞き下さりありがとうございました。
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