加藤春恵子さんのフェミニズム関連の本出版
LISTEN to books。この番組では、本を取り上げます。
これが8冊目になります。書評するわけではありません。
本の内容を詳しく紹介するわけでもありません。
LISTEN to the voice of booksというコンセプトで、その本が何を言いたかったのか、
どんなことが言いたくてこの本を書いたのか、そういうことを伝えたくて始めた番組です。
今日は加藤春恵子さんの広場のコミュニケーションへという本を紹介したいと思います。
ちょっと古い本で、1986年勁草書房から出てるんですが、
この頃、勁草書房がこういうフェミニズム関係の本をたくさん出したんですね。
ちょうど私は大学に入学したのが1982年で、
1986年ですと入ってから4年目ですよね。
結構フェミニズムにハマったんですね。
フェミニズム関係の本はいっぱい読みまして、
というのもいろいろ理由があるんですが、
一つは、イヴァン・イリイチって知ってますかね。
イヴァン・イリイチ。
皆さん結構ジェンダーって言葉は普通に使いますよね。
このジェンダーって言葉をメジャーにしたのが、
このイヴァン・イリイチさんですね。
あとは家事労働、影の労働って言うんですけど、シャドウ・ワーク。
この日本語訳が出たのが、シャドウ・ワークが1982年。
ちょうど私が大学に入学した年ですね。
ジェンダー、女と男の世界。
男と女じゃなくて女と男の世界。
これは1984年。
ちょうど私が大学院に入った頃ですから、
1988年くらいかな、9年くらいに日本にこの方見えて、
講演会があったんで私そこ参加したんですけど、
楽しかったというか、とても興味深かった思い出がありますが、
この人はそれ以外に、それ以前にね、
実は脱学校の社会、それからディスクーリングっていうね、
学校から脱するっていうディスクーリングソサイティ。
もう今のそれこそ不登校とか、もう学校行かなくていいよみたいな話、
含めて書いた。
それから脱病院化社会っていうね、本も書いてるんですよね。
医療に頼り切っちゃいけないみたいな。
そんな流れで、シャドウ・ワーク、ジェンダーっていうのも書いて、
これに皆さんハマるんですよね。
フェミニズムの歴史と論争
日本でもやっぱりフェミニズムの流れっていうのは、
フェミニズムの歴史は古いんですけれども、
やっぱ1980年代っていうのは結構大きな変動期でした。
例えば、私が大学入学したとき、私法学部だったんですけど、
同級生の女子学生は1割、10%でした。
それが翌年は20%。
その翌年は30%。
隣の文学部、教育学部を見ると、
文学部は6割超えました。8割になりました。
女子学生の比率がね。
それから教育学部も5割超えましたとかね。
という形で、80年代はもう、
いわゆる大学に女子が普通に進学するという。
それ以前やっぱり短大という選択肢が結構強かった時代なんですよね。
さらに言うと事実婚とか、
それから男女平等みたいなことも言われ始めたのがやっぱり日本ではね、
1980年代。
この頃やっぱりフェミニズムの論客、
例えば上野千鶴子さんとかね、有名ですけれども、
あたりも活躍し始めたのが80年代。
そんな中で結構フェミニズム関連で論争も起きるんですよね。
フェミニズム論争なんていうのもね。
そんなやつも全部読む。
さらにその後には男性の側からの男性論みたいなのも出始めたりしてね。
結構ハマっていろんな本読みました。
そんな中でですね、
もう一つついでに言うと、
私大学院入った頃、
大学院のあるのは2階3階だったんですけれども、
法学部棟の女子トイレがなかった。
ちょうど私が大学院入ってからですね、
トイレを仕切って女子トイレを作ったというね。
女子トイレがなかった。
もっと言うと私の上の学年には、
大学院の女性は一人ぐらいしかいなかったですね。
一人二人しかいなかったかな。
下の学年になるとどんどん女性の数が増えてくる。
そういう時代だったんですよね。
そんな中でなんでこの加藤春恵子さんの広場のコミュニケーションへを紹介するかというと、
当時やっぱり論争的だったんですよね。
ちょっとトゲトゲしかったんですね、やっぱり。
ブームということもあったんですが、
皆さん知っているところで言うと田島陽子さんみたいなのがね、
その後1990年ぐらいからメディアにも出始めますけれども、
非常に論争的で論破するというスタイルでやるわけですよね。
あれちょっと古いタイプだと思うんですけれども。
そうじゃなくて、やっぱり相互理解というか、
コミュニケーションということでしかないわけで、
要するに男と女の関係、
それをどうフラットにするかというときにね、
旦那を詰め倒して論破してもしょうがないところがあって、
かといってなかなかこれは下半身までズブズブと、
やっぱり男だったりするわけですから、なかなか変わらないわけですよね。
だけどやっぱりそれは根気強くコミュニケーションを取っていくしかないという話で。
男性性と同時に女性性というものもあるわけですよね、逆にね。
だからどちらもバイアスを持っているという前提で、
対話の文化を作っていくということがやっぱり必要なんだろうな、なんて、
私は私なりに思っていたところに、
この広場のコミュニケーションへはもうタイトルに引かれちゃったわけですよね。
人間にとってコミュニケーションとか表現って何なんだろうっていう、
あるいは言葉で対話するってどういうことなんだろうということを、
一生懸命考えた人ですよね。
一応そのコミュニケーションということにこだわったフェミニストの一人ですね。
Meadという、シンボリックインタラクショニズムという、
象徴的相互作用論なんて日本語では訳されていますけど、
そういった方の議論とか、あとマルティン・ブーバーの議論とか、
それから臨床心理とかピアジェの発達心理学とか、
あとはこれも流行ったんですけど、エスノメソドロジーっていうね、
ガーフィンケルっていう人が言ったんですが、
そんな議論に依拠しながら、コミュニケーション。
象徴的な言葉が蛸壺から広場へのコミュニケーション。
蛸壺型コミュニケーションから、蛸壺ね、タコのツボね、
蛸壺型のコミュニケーションから広場のコミュニケーションへ、
みたいなコンセプトで書かれたのがこの本なんですよね。
まあどこまでその完成度の高い本かというのは置いといて、
やっぱりそのメッセージ性が私はとても気に入った。
人間のコミュニケーションには2つの側面があると言われていて、
1つは伝達、伝えると。で、もう1つは交わり、交流ですよね。
この交流、交わりの部分をもっと大事にしたいという話で。
個人にとって、人間にとってコミュニケーションとは何か。
さらに社会にとってのコミュニケーションの意味は何か、
なんてことをまあ考えていった本なんですよね。
第4章の蛸壺のコミュニケーション
特に紹介したいのが第4章の蛸壺のコミュニケーションという章があって、
蛸壺のコミュニケーションから広場のコミュニケーションへというのはここから来ているんですけれども、
ここで取り上げているのが笠原嘉さんってこれ、
精神科のお医者さんというか名古屋大学の医学部の先生だったんですが、
結構読まれたんですよね、笠原嘉さん。
中公新書で青年期なんていう本がかなり読まれましたね、私たちの時代にはね。
その方がユキの日記という本を出したんですね。
実際の実在のユキさんという方の日記を編集して作った本なんですが、
この方はとにかく日記にいろんなことをすべて吐き出すと。
そこに見られる精神的な問題というのを取り上げたのがこのユキの日記で、
これも結構みすず書房かな、だいぶ読まれた本だと思うんですけれども。
この方は早くに亡くなってしまうんですが、
そのユキの日記、笠原嘉さんの編んだユキの日記を取り上げて、
このたこつぼのコミュニケーション。
家庭のコミュニケーションの問題
副題がよい子の嘘ってね、よい子の嘘って書いてあるんですが。
結局家庭は温かな家庭を装っているんだけど、
それがいかに欺瞞的かということをそのユキさんが日記に吐き出すわけですよね。
いろんな変遷はあるんですけれども、
とにかくお父さんは結局、独りよがりだと言ってみたり、
お母さんは義務的に、家族のため子供のためと言いながら、
結局は突き詰めると自分の利益とか自己満足しか考えてないだろうと。
自分の存在確認のためにやってるだけじゃないかなんてね、
言ったりするわけですよね。
一方でユキさんは表面的にはよい子を演じ続けると。
全て影の部分は日記に吐き出すという、
そういう話なんですよね。
そんな中でこの加藤春恵子さんが言っているのが、
そのよい子を演じるユキはその感情を日記に全て吐き出し閉じ込めるということですよね。
その日記に現れた言葉も分析してるんだけども、
結局それはコミュニケーションが成立してないというね。
結局お父さんお母さんあるいはお姉さんがいたんだけども、
その間のコミュニケーションが成立してない。
だから日記しか聞き役がいないという話。
ユキさんはリアルワールドでは聞き役を演じていると。
自分の気持ちを語らない。もっぱら聞き役。
お母さんの愚痴も聞き、お父さんの言葉も聞きというね。
その時に彼女は本心ではどう思っているかというと、
被害者意識を持ってみたり、
あるいは逆に救済者意識、自分が救ってやっているんだという意識を持ってみたり、
こういうのが日記の中に混在しているわけですよね。
結局お父さんお母さんも含めて他者との関係を水平的、フラットに、
あるいは相互的な関係としては結局捉えられずに、
被害者として何々される、救済者として何々してあげる、
あるいは受益者として何々してもらっているという、
そういう関係でしか捉えられない。
だから延々と聞かされた、延々と聞いてあげた、
その見返りとして自分の気持ちを察してほしいという期待は非常に強く持っている。
ところがその期待は裏切られると。
その時の失望が非常に大きくて、それも日記に吐き出すと。
結局被害者意識が募り、
相手への批判とか、あるいは羨望ね。
羨ましく思うことがどんどん蓄積されていくみたいな、
そんな分析をしているわけですよね。
日記の役割と広場のコミュニケーション
この循環を断ち切らないと広場のコミュニケーションは開けないという、
そんな言い方をしているわけですよね。
結局自分は善玉、他者は悪玉という、
善玉、悪玉で結局語られていってしまうという、
そんなことを書いているやつですね。
この笠原嘉さんのユキの世界、ユキの日記もそうですが、
この加藤春恵子さんの広場のコミュニケーションへは、
中古本でAmazonで一応手に入りますけれども、
買って読むというか、他のところは専門書なのでね。
そう面白いわけじゃないので、
ただメッセージとしてはとにかく、
そういうユキの日記というのを題材にして、
我々の中にあるそういう、
これはユキさんだけに典型的に現れただけの話で、
我々みんなそういう部分を持っているんじゃないかということで、
私たちはたこつぼのコミュニケーションに、
結構陥っている瞬間ってあるんじゃないかと。
これをだけどちゃんと自覚化して抜け出すという、
広場のコミュニケーションを作っていくみたいな、
そんな模索をね、一生懸命いろんな理論家に依拠しながらね、
それこそ最初に挙げた心理学やら、エスノメソドロジーやらね、
いろんな手法に依拠しながら、
春恵子さんなりに書いたというのが、
この広場のコミュニケーションという、
そんな本ですね。
ある意味タイトルと今のたこつぼコミュニケーションぐらいで、
を知ってほしくてちょっと紹介したんですが、
この人自体は1939年生まれですね。
今どうされてるかわかりませんが、
東京大学出て、東大の社会学の大学院出て、
関西学院の社会学部の教員をずっとやっていた方ですね。
そんな本がありましたよという紹介でした。
合わせて、イヴァン・イリイチとかね、
いう人も知ってもらえるといいかなと思って、
ちょっとしゃべってみました。
ついでに今私、
これフェミニズム関係の本はいっぱいあったんですけど、
段ボール何箱か、もう古本に売っちゃったんですが、
まだちょっと本棚に残ってたやつをちょっと写真撮って、
これも合わせてね、
ちょっとこのリッスンの概要欄に貼り付けとこうかなとは思ってるんで、
もし興味ある本とかあったら、
今は蔵書処分中ですのでね、
古本屋に売っちゃってもいいんですけど、
いずれは古本屋に行っちゃうんですけども、
もし興味ある方いたら、
いくらでもお問い合わせいただければと思ってます。
ということで、
リッスントゥブックス、
8冊目だったかな。
広場のコミュニケーションへを紹介させていただきました。
ではまた。