面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第87回の本日は、音楽と楽器の歴史みたいなものについて語りたいと思います。
はい、よろしくお願いします。 よろしくお願いします。
今年に入ってからだと思うんですけれども、 『音楽の人類史8発展と伝播の八億年の物語』っていう本を文字通りずーっと読んでおりまして
540ページある極太、ゴンブトなすごい本で、まだ読み終わらないところが無数にあるんですが
その中から、音楽の歴史みたいな観点でちょっと取り上げてまとめてみようかなと思っています。
人類史における音楽の、人間と音楽の変化、関係の変化みたいなことが語られる感じかな。
音楽の特徴と人類全体から見た音楽とはどういうものなのか。この本が割と好印象だなと思ったところが、できるだけ西洋を特別扱いしないようにすること。
ほう、なるほど。 多分日本に住んでいると、音楽はもうニアリーイコール西洋音楽なんですよ。
ただ、実際に経済規模で言えば、実質それは正しいと思うんですけれども、地球の歴史で見ると、どうも西洋の音楽というのはかなり特殊なものらしい。
っていうところまで含めて、できる限り、おそらくフラットな観点で見た音楽とはどういうものなのか。
あと面白かったのが、途中で出てきたギターVSピアノみたいな話。
ああ、楽器の音楽性の違いみたいなこと。 そうですね。
後で詳しくはまとめようと思ってるんですけど、大雑把にずっと覇権を争っているんですよ。
例えばなんですけど、モーツァルトの時代ってピアノ超大前世紀の時代で、楽器を学ぶと言えばピアノがほとんどイコールだった。
現代は最近また流れがちょっと変わってきて、意外とギター優勢っぽい流れになってきているみたいなんですよ。
音楽を学ぶときの第一メインストリームとして、ギター的なものが選ばれやすくなってる。
そういうのがその理由だったりなんだったりっていうようなところも、めちゃくちゃ詳しいわけではないんですけど、
へーっていう面白さがあったりして、その辺りもちょっとまとめて見られたら面白いかなっていうことを思います。
はい。
ということで、まず音楽っていうものを歴史で振り返ろうとすると、簡単に言うと非常に難しいみたいで。
まず何が違うかというと、例えば世界で一番古い絵画って400万年前ぐらいでしたっけ?ラスコの壁画とか。
ラスコじゃないや、フランスのなんとか洞窟にある。
洞窟の中にある獣とか人の踊りとかみたいなのが描かれたやつですよね。
っていうのは何百万年っていう前から絵画というものは残ってるんですけど、音楽って1877年エジソンが蓄音機を発明するんですが、
原理的な話で言うと、それ以前のものは何一つ一切全く残っていない。
少なくとも音そのものは残ってないということですね。
そうですね。録音というものは一切残っていないし、紙での記録みたいなものを振り返ってみても、西暦800年にギリギリ残ってる。
それは西洋のもの。
ただそれ以前は全くもって何も残っていない。
フルートの化石みたいなものがかつて見つかったりはしてるらしいんですけど、結局それで何してたかっていうことは当たり前だけど、
何にもわかんない。
で、さらに恐ろしいことに、同じ音楽でもどんどん演奏の仕方って変わってるらしいんですよ。
例えばモーツァルトのある楽曲がある時代と別の時代で変わるっていうこともあるやろうし、
例えば伝統民芸、民謡みたいなもんも100年ぐらい経ったら変わってるみたいなことがある。
そうですね。例えばっていう話で、現代で確認できる事例っていうので、
チャイコフスキーの曲っていうのが、昔から1930年ぐらいから現代までいろんな録音が残っているらしいんですけど、
時代を追って聞き比べてみると、どんどんどんどん速くなってるみたいで。
まずそのテンポというものはどんどん速くなっている。
20世紀の頭とかにはオペラとかも結構独特な歌い方をしてたみたいなんですけど、
今聞くと超ダセーらしいみたいなんですよね。みたいな感じでどんどん変わっていて。
で、何が困るかって、実はそもそも楽譜ってあるんだけど、楽譜に書いてある情報量って全然やっぱり足りないんですよね。
だからある音と別の音の高さの差ぐらいしかわからないってことだよね、あの情報的に。
そうですね。西洋式の楽譜でいうと書かれているのは、オクターブ以内に12音階の音が詰め込まれているものと、
テンポが速いとか遅いとか、強く弾くとか弱く弾くとかっていう記録はあるんですけど、
これもね、300年前になると、まずメロディーと和製とリズムっていうのは記録に残ってるんですけど、
300年前の楽器になると、強く弾くとか弱く弾くとか、そういうものだとか、どのぐらいの速さで弾きましょうということを記録に残すという概念がなかったので。
逆に言うと、例えば音楽を演奏する時に同じように演奏しなければならないという観念自体がなかった可能性があるよね。
そうですね。そこはね、西洋の特徴なんですよ。
その西洋音楽が何が特殊かというと、ルールが厳しすぎる。
それも一般的にほとんどの音楽というものは、それは基本的に、なんて言うんだろうな、あんまり細かい決め事がない。
だからその場の雰囲気とか演奏者によって、いろいろ変わっていくもんやということやね。
そうですね。っていうのが特徴であるっていうところとも関係はしていて、300年前になると速度情報消えるし、500年前になるとレガートとかスタッカートみたいな指定っていうのもなくなってしまう。
800年遡ると和製とかリズムみたいなものはなくなってしまって、音の高さしか残っていない。
さらに困ったことに、例えばイメージでいうとキリストの賛美歌みたいなものがあるとするんですけど、一人で歌ってたかみんなで歌ってたかすらわからん。
その音程の強弱だけ書いてあったんだけど、どうやって歌ってたかみたいなことは結局何にもわからんくって。
学術的に歴史を振り返ろうとするときに、あまりにも情報の欠落が多いと。
そうですね。もうほとんど何も残っていない。なので蓄音器以前の音楽というものは、実質だから結局何もわからんことになってしまっている。
伝承から、残っている文章からイマジネーションで立ち上げるしかないわけだよね。
しかも文章って当然残っている情報少ないので、まず楽譜という情報からはほとんど何も残っておらず、いろんな文献から結局予想してみるしかなくて。
そもそも音楽って何だったんだろう、どういうものだったんだろうっていうことが、遡ることがすげー難しいというのがまず、いわゆる他の芸術分野と比べても全然違うもの。
だから考古学的観点が非常に取りづらいわけね。
そうですね。残っているものが、さらに楽器とかも基本的に残ってない。
骨とか木とか木材のやつってやっぱり千年レベルの保存に耐えないので、ほとんど何にも情報が残ってなくて、結局ここから出てくる話もやっぱり想像でしかない部分というのがすげーいっぱいあるよねっていうのが、まず音楽全体の特徴っていうのかな。
他の芸術分野と比べた時の音楽の差異があるというか特徴があるとしたら、18世紀より以前はだんだんイマジネーションリスが高まっていくってことだよね。
そうですね。対して例えばそのミロのビーナスなんて、どこの誰が作ったか分かんないけど残ってるんですからね。
でしかいなかったら、あの当時見たものとほとんど同じものを僕たちは目にすることができるってことだよね。
あれはだって、細かなことは置いといて同じものがありますからね。
確かにね。
細かく言えば結局どこに置いてあったとか、どういう環境で展示されてたとか、いろんなことはあるとは思うんだけれども。
そういう何も分からんっていうところがまず不思議というか面白いというか、だからこそ面白いんじゃないかみたいなことも言えるとも思うし。
でも逆に言うと音楽って元々音なわけやから、残らないのが当然なわけじゃないですか。逆に言うと。
だからエジソンすげーよねってことですよね、この場合は。
エジソンが世界を変えすぎてしまった。
音残ってんのは当たり前に感じるけど、実は全人類的に見たら残ってないことの方が当たり前だったわけやから、そのパラダイムシフトは多分かなりでかいんやろね。
あとエジソンが面白いのは音楽残そうなんて思ってなかったみたいですよね。
確かに。
あの人、確か最初に作った時はボイスメモみたいなのができて便利だよみたいなことを最初の目的にしていたんだったかな。
誰かがやっぱり音楽を残す用途を発見して、そこにイノベートがあったという。逆に言うとエジソンほどの人ですら音楽を残すことの意義っていうのを多分感じてなかったってことやね。
そうですね。80年代ぐらいになると商業の中心というか資本主義の象徴みたいな感じでしたからね。音楽ビジネスみたいなものっていうのが。
なるほど。
面白いのが、ずっと音楽音楽音楽っていう言葉を喋ってきたんですけど、音楽という用語がどうやら西洋以外には基本的に存在していない。
つまり日本の音楽もこれミュージックの翻訳であって、日本元来にはこの音楽っていう概念がなかったってこと?
概念というか、ほとんどすべての音楽と呼ばれるものというのは、踊ったりとか楽器演奏をしたりとか、聞くだけっていう行為がほとんどなかったらしいんですよ。
音楽というものは、自らが参加することが基本で、ただそこに音楽が流れていて、それを聞くというようなことをしているのがまず西洋音楽の特徴らしい。
あえて言うなら、スポーツ観戦とニアイコールにつないだら、他の国ではスポーツってするものであって、わざわざお金を払って観戦しに行くようなものではないっていうのと同じってことね。
そうですね。さらに言うとスポーツ観戦も結構音楽と強く結びついているという話もちゃんとここに出てきておりまして、サッカーの応援とかってちゃんとと呼ばれるようなやつ。あれってやっぱおそらく音楽の始まりってあれだったんだろうなみたいな。
なるほどね。
お互いに一緒に声を出して、例えば狩りをする時に繊維を高めるっていうか、皆で熱狂して一体感を得るため。そういう意味で言うとやっぱりそこでも音楽って、だから参加しなかったら音楽じゃないんですよね。
確かに。
聴くだけというものというのはどうやら基本的に存在していなくて、それがまず西洋音楽というものがなぜか当たり前にしてしまった特殊性?
勝手にイメージするけど、貴族みたいな人たちがいて、演奏させる人は聴く人っていう役割が生まれたから、勝手にイメージするけど。
そうですね。さらにこれは多分世界共通だと思うんですけど、ちっちゃい頃ってプレイヤーだったんですよ。皆が結構抵抗として。
童謡みたいなの歌ってたりとか、幼稚園とかでも踊ったり歌ったりとかっていうことをすごいしてるし。
幼稚園とかで音楽鑑賞の時間は多分ないよね。みんなで歌う時間は。
みんなで参加してるんですよね。合唱するし演奏するし、小学校でもそういうハーモニカだったりピアニカだったり縦笛だったり練習するんですけど、なぜか大人になっていくと音楽というものがだんだん能動的なものからどんどん受動的なものになってしまっている。
そうか。音楽を聴くっていう消費文化は別に普遍なものではないんだね。言われてみて気づいたけど、それ不思議な感じがするね。
この辺りがこの本のすごいところだなと思って。何もかもが当たり前すぎて考えたことなかったこと結構あるんですよ。音楽って言って、俺たち第一に聴くことをイメージしてしまいますよね。
そやね。どっちかって8人ぐらいで聴くことをイメージするね。
まずその時点でそれは西洋に飼い慣らされた音楽との付き合い方だっていう。別にそれが良いとか悪いとかではないんですけれども、それがまず常識ではないというのかな。
なんでこんな音楽になったかっていう話なんですけど、簡単に言うと西洋音楽って、これ著者が書いてたことなんですけどシンプルで野暮ったいものだったらしいんですよね。
単純でダサかった。例えばなんですけど、アフリカの踊ってそうなやつとかインドのインドっぽい宮廷音楽とかって、もっと複雑な響きをしていたりだとか。
アフリカのダンスとかってすげー難しく速いリズムとかやっているイメージあるじゃないですか。
ポリリズムとかって言うんですけど、各人が3拍子と4拍子を同時に演奏していたりして、そういうクッソ難しいことを偏然とやるんだけれども、
西洋の音楽というのはシンプルに、要するにこのタンタンタンタンっていうのをベースにしていた。これも基本的に結構珍しかったものっていうのかな。
っていうものだったんだけれども、こういうシンプルで単純だったから、みんなで声重ねようぜっていうことを思いついたとか。
複数人で細かなルールを決めて高度な音楽というのかな、即興性の低いものを作れるようになってしまった。
なるほど、いかにも西洋的な感じがするな。
それで言うと、大抵の音楽ってインプロビゼーション、即興なんですよね。
だから俺たちも、例えば今どきあんまりやらないかもしれないけど、飲み会で手拍子をして飲んだりとかっていうことは普通にできるし、
宴会とかで手拍子しながら歌歌ったりとかっていうことを、今どきそういうのをやる人は限りなくいないと思うんですけど、
かつての昭和の風景みたいなのを想像すると、やっぱりあったと思うんですよね。
即興的なものというのが、西洋音楽が侵食すればするほど、結構なくなってきてしまっていて。
まあ、規律的なものになり、練習的なものになってきた。
そうですね。哲学っぽい視点で言うと、やっぱり西洋音楽すら規律にまみれたものに、規律に取り込まれてしまったというのかな、西洋的な。
取り込まれたというか、そこの文化ではそういう現象に偏っていくってこと?
それはたとえ何でやってもそうなっていくってことなの?
だからそれを文化という文やろうけど、きっと。
そうそう。それが何回も言うんですけど、当たり前になってしまっている。
ただ、決してそれは人類の歴史から見ると当たり前ではないんだっていうこと。
そこが結構重要なことかなと思っていて。
なぜそういうことになったのか。
これは多分、やっぱり自分も読んでいて、ほぼこれは間違いないだろうなと思ったんですけど、
楽譜を考えることができたから。
それは結構思想深い話だね。
面白いですよね。音楽を、音楽ではなく、紙というか記録媒体を使って他者に使えることができて、
伝えることができるようになったことによって、西洋的なものというのが世界中に広まるようになったんじゃないか。
そして、規範的なものの強まりと交互することにも当然それはなるわけですよね。
そう。規範的になることと表裏一体というか、当然そうなるというか。
これはだから、要するにもっと敷衍すると書き言葉と同じ構図がそこにあるってことだよね。
そう、あれなんですよ。だから、俺たちがいかに書くことが大事なのかみたいなこととか、記録を残しておくことがいかに、
規律的になるという言い方はできるんだけど、いかに多くの人に届けることができて、複数人によって磨きをかけることができるようになる。
音楽、楽譜の偉大さっていろんな観点があるんですけど、例えば、やっぱり紙に残したことで、後からこうした方がもっと良くなるんじゃねえっていうことができるようになった。
そうだよね。改良という声が可能になる。
これを音でしかやっぱり伝えることができないと、それを聞いて覚えて習得した上で忘れないようにしておいた上で、それをさらに改良して、
改良したものが次の人に伝わらないといけないみたいな、そういうすごく難しいものがあるんだけれども。
基本的に伝承と言われる行為で、伝承って改良というよりは、その時その時の最適化みたいな、進化と同じ感じになって、バージョンアップしてるとは限らんっていうことが起こるわね。
そうですね。さらに結局、残しにくい、広がりにくい。それが紙に書いたことによって、例えば、Aさんはここで四分音符のドの音をこういう風に鳴らして、
Bさんはそこに五度の音を重ねて、Cさんは手拍子でこんな感じでやってっていうのを5人でやろうと思ったら、まあ無理じゃないですか。
無理とは言わんけど。
正確な演奏にはならないよね。だからさっき言ったように、常にアドリブでやるしかないってことだもんね、楽譜がない場合は。
それを楽譜という紙を渡して、こんな感じで頼むって、こんな感じでやろうっていう決め事さえ紙で残っていれば、それを皆で即興的だとしても、より音楽的に複雑度が高いことができる。
これは書いてあったことじゃないんですけど、例えばだからやっぱ和音を演奏するのって、楽譜がないと、ルールがないと基本的に無理なんですよね。
そうだね。
なので、やっぱり聞いてみると、例えば和音的なものって、やっぱり一個の楽器しかやっていないというのかな、世界の音楽。
自分が認識できる範囲なので、ちょっと間違いはあるかもしれないんだけれども。
リズムとメロディーはあるんですけど、和音という概念すら何なら西洋的なものっていうのか。
適切に重なる和音、正確な和音っていうのは多分西洋的なものよね。複数の音が重なることはあるにしても、和音の形にはなってないっていうことが多分一般的に多い気がするね。
そうですね。一部の民族音楽では誰かがその一つの音を伸ばしていて、そこに別の人が違う音を重ねてみたいな、そういうことはやったりするみたいなんだけど。
そこに欲用というか、メロディーをつけてみんなで和音にするみたいなことは、やっぱりルールがないと不可能だし。
ルールを作れるようになったのは、紙に残せるルールという仕組みを作ったことだし。
だから楽譜化、寄付化っていうのはルール化ってことだよね。簡単に言ったら、この通りに演奏しましょうっていうルールを記したってことだよね。だから脱アドリブ化ってことだよね。
面白いのが、結局、書けるようにしたことが一気に世界というか文化的変化を加速させたっていうのか。
とともに、ある種の規範性を一緒に拡散していったってことだよね。
複雑で難しい音楽だから、プレイが難しくなるんですよ。
そしてやはり、俺無理だからって聞く側に回りやすくなるし。
うーん、そうかー、なるほどね。だからそこで発信者、演奏者と受信者みたいな二分割が生まれてきたと。
そう、で、作る側は逆に、だからどこまでも作り込めるんですよね。
前まではテンテテンテンテテンってやってたらかっこいいじゃんとかっていうだけだったやつが、もっとこれ3回目の時はこういうふうにして、4回目の時にこうすればもっとかっこいいんじゃねーとかっていうことを、どこまでも作る側は考えることができるし、
演奏する側は負荷がどんどん高くなっていくので、誰でもできるものではなくなっていってしまっている。
だから大衆的なものから専門家的なものへ移行していった。
最近のポップスみたいなのでもすげー思うんですけど、俺たちの時代よりはるかに高度なことをやっているじゃないですか。
全く思って無理やね。素人が歌えるレベルの問題ないものがゴロゴロ。
歌うことすら難しい音楽というものがすでに増えてきている。
これは良い悪いとかではないし、現在の変化っていうだけではあるんですけど、
基本的に放っておくとより高度な方向に進んでいくし、どんどんどんどん難しくなっていって、
そしてそれは結果的に誰もが楽しめるものではない方向にも進んでしまっていると言える。
それはトレードオフとして商業的価値を高めるという結果になる。
まだ芸術性と商業的価値がちょっと難しいところだけど、民衆から離れることによって生まれるバリューがあるということが、
たぶんここではポイントというか、それが原因なんでしょうね。
そうですね。ここでは今回はあんまり触れないんですけど、
そのあたりの資本主義と音楽みたいな話もちょこっと書かれてたりはしていて、
今の音楽というものがいかに特殊なのか。
もともと例えば音楽って仕事がクソつまんねえから、それをどうにかするために考えていたとか、
仕事の辛さを紛らわすためとか、
例えば船を漕ぐ人たちがオールを漕ぐ時のタイミングを合わせるために歌うとか、
そういうのもやっぱり環境とか働き方によって音楽が違うみたいで。
なるほど。
面下栽培、面下を積むような場面だと、一人で寂しくって隣同士、距離が離れているからかな。
相手の声がよく聞こえるようにするために、長くて高い音で歌うだとか、
そういう船頭が船を漕ぐ時なんかは、強くてリズムが取りやすいっていうのかな。
ここで力を入れるんだっていうことが分かりやすいだとか、そんなものがあったりもするし、
音楽っていうのが聴くだけができるようになったことは、豊かさの象徴でもあるみたいな言い方もしていて、
かつては、ただ音楽を消費するだけなんていう暇がなかった。
文化的というか資本がなかった、そんな。
音楽を演奏する人が必要で、聴く人が必要で、音楽自体を目的化することが難しかったって言えるのか。
現代でも音楽自体というか音楽に意図を持たせて使われているという場面っていうのはめっちゃあるっていうのは結構書かれていたりして、
例えば、ショッピングモールみたいなところで流れてる音楽って、わざと聞こえにくいらしいんですよ。
聞こえにくくってイライラしてムカついて、判断力が鈍る。
それによって買い物できるようにさせようとか。
洋服屋さんが流している音楽というのは、その服を着ている場面を想像させようとする。
ヒップホップっぽいところに行けばヒップホップがかかっていて、
高級店みたいなところに行けばクラシックみたいなのがかかっていて、
こういうところでこういうのを着るんだよっていうことをイメージさせるために音楽が使われていたりだとか、
逆に飲食店なんかだと早く退店させるためにリズムが速い、テンポが速い曲を使われているみたいな使い方もされているみたいだし、
高級店なんかだと落ち着いてご飯を食べたと思わせるためにゆっくりの音楽を使わせていたとか、そんなこともいろいろ書かれていたりして。
環境音楽、アンビエント的な意味で、環境に対する音楽の影響も資本主義とか消費社会では意識されている。
たぶん、俺たちがわからないレベルで、そういうことって相当研究されているんだなと思うし、
そんなことを警戒しても平和に生きていくのは難しいんですけれども、
そういう結構いろんな場面でも使われているし、音楽というものの用途がめちゃくちゃ広がってきたっていうのかな。
なるほどね。コード化して専門化して分析できるようになったことで、いろんな場面でも出てくるようになったと。
そうですね。いろんな場面で資本主義的にもいろいろと活用されまくっているし。
そこら辺はやはり難しいところではあるんですが。
その辺が大雑把に全体の西洋の特徴、西洋というか音楽全体の特徴というのかな。
何より楽譜かなと思いますね。言われてみると、楽譜があることによって、西洋以外の楽譜の書き方というものがないですからね、実質的に。
そうだね。
例えば自分が練習している場合でも、音のままでは練習できないんですよね。
書いてあるものを見るから、音は結局時間を超えられないというのか。
っていうことができるという点でも、やっぱり自分で楽器の練習なんかしてみても、やはり書くことというのがいかに大事で、上達とか練習のために大事なのかというのと、
逆に言うと西洋以外は全然やらんかったっていうのも面白いものだなとも思うし。
だから、ある人の伝承的なものだけ、耳コピだけで成立したんやろうし、それは結局、ある人の単純なものだけで成立したからでしょうね。
規律性がなかった。音楽は規律性がなかった。その場の役割を果たせたらそれでいいというものが音楽やったから、別に必要がなかった。
だから、逆に言うと、なぜ西洋が楽譜的なものを欲したのかっていう。でもそれは結局、その前に書き言葉が確立してたからよって話になるんでしょうけどね。
なんかね、中国なんかでもそういう書き言葉は、それで言うと発達はしていたりもするし。
だからでも、そうやな。書き言葉の後ろにある、つまりプラトンが言うイデア的なものとの関係性を、多分論事できると長くなるからやめるけど。
そういう文化的な背景と、特に音楽なんていうのは宗教性がかなり強いものだからね。密接に結びついたんでしょうね、そこは。
この本に書いてあったので言うと、西洋はやっぱりメロディーとかハーモニーみたいなところに興味を持って、そこを追求していったりしていて。
中国の音楽はね、その音色みたいなものに興味を持って。
複雑な音色してるもんね、中国の。
音色を発展させていくという方向に進んでいったりだとか、五行の思想があったおかげで、五個の音だけでどうにかしようみたいな、割と文化というのかな、それも。
そういう文化じゃない?五行の思想っていうのは逆に言うと、単一心が上にいてっていうのじゃないわけやから、ちょっとボトムアップ的な感じもするし。
そういう文化的な考え方が音楽に対するアプローチも変えていくという、興味深い話ですね。
そう、それ、あとね、さらに言うと、やっぱね、大体どこの国行っても、オクターブ内の音っていうのは5個から7個ぐらいの音で完結しているみたいで。
やっぱその人間の生物的な耳の能力と認知の限界、マジックナンバーに収まるようになるわけ。
歌う場合でも、やっぱ五音より多くの音って歌うのが難しいっていうのかな、結局。覚えるのも難しいし、心にも残りにくいし。
それが4万年前ぐらいで、25,000年前ぐらいに角笛みたいなやつ。
動物の角を切って。もうそんな時代からあったよね。
音楽のベースとなる打楽器と金管楽器と木管楽器みたいなものが揃ったっぽい。
金管と木管ってすげー難しいんですけど。
吹くとこが金属のやつなのか、木のやつなのかっていう違いで。
あんまり興味ない人はそれ以上掘り下げなくてもいいのかなと思います。
弦楽器って農業が始まってからしか来てないみたいなんですよ。
でしょうね。そりゃそう思います。
そう、弦というものを入手することがやっぱりすごく難しかったみたいで。
弦楽器の弦というのが動物の腸を寄り合わせて作った。
それがたぶん弦楽器の始まりっぽい。
どこの誰がそんなことしようと思ったのね。
なんか動物の腹裂いて。家畜からっぽいですね。だからその著者が言ってるには。
野生のものからは採取していない、というかそこに至らなかったのではないか。
使えへん、死骸の動物の中から遊び道具として作ったみたいな感じなのかな。
ビンビンってやると音が鳴るんで。
あー、そっかそっか。なるほどね。確かに。
なんかこうやって引っ張って、ブーンってやったらなんか音が鳴って、
なんかこれ面白いじゃんって言って強く引っ張るとちょっと高い音になって、
弱いとちょっと低い音になってみたいなのが、
たぶんその始まりなんじゃないのかなっていう。
さっき出てきた太鼓もなんですけど、太鼓もやっぱり結構難しいもので。
いわゆるそういう膜を張るのってやっぱ難しいんですよ。
あれも始まりはたぶん動物の皮で、
その動物の皮を剥いで、さらに空洞みたいなやつを組み合わせてあげて叩くと、
なんか人間にはできないでかい音が出せるようになった。
たぶんそこから狩りとか祭りで発展していって、
打楽器もやっぱある程度大きい音が出せるようになるのはやっぱ、
おそらくその膜が張れるようになってからだと思うので。
そうだよね。あの膜を張ってピタッとした状態で止めとかんと使わへんから、
結構高度な手工業の技術が要りそうな気がしますけどね。
おそらく狩猟採集の頃にはまだそこまで発達していなくて、
定住して農業をするようになってからなんじゃないかっていう予測がされていました。
なるほど。
1700年前ぐらいに金属の楽器、中国で青銅の鐘だったかな。
鐘はできそうやね、確かに。
作られてっていうのが大雑把な、現代までの楽器の流れというのかな。
っていう感じだったみたいなんですけど、実はギターとピアノっていうのが、
由来はほとんど同じものだったみたいなんですよ。
ほう。
さっき言ったビンビンビンって張ってっていう話。
はいはいはい。
で、ピアノってどういう言い方をしたらいいんだろう。
ビーンって張って弦を。
張っている弦に直接何かが繋がってて大きい音が鳴るタイプ。
多分著者の予想では弓をブンブンしてて、
そっからピアノとギターが生まれたんだろうみたいな言い方をしていたんですけど。
で、弓が直接ピアノ、弓のしなる部分を空洞にして、
そこに直接弦を付けて、そのしなる空洞全部がボワーンってなるのがピアノの先祖みたいなもので。
ほう。
で、ギターはちょっとやり方が違って、今のギターを想像してもらうと分かるんですけど、
ギターってその鳴るところに直接振動する部分とくっついてないんですよね。
鳴るものが下にあって、その上に鳴らすものがあるっていう言い方でいいのかな。
そういう意味で言うと、もともとはその2パターンで、
出どころとしてはどっちも同じだったっぽいという予想がされているんですよ。
一つはハープと呼ばれるもの。
それがピアノの先祖みたいなもので、表明するところに直接弦を張っていた。
はいはいはいはい。
なので、ハープは多くの人が多分想像できると思うんですけど、
でっけー、なんて言うんだろう、くの字っていうか2みたいなのに弦がいっぱい張ってあって、
あれって直接そのでっかいところに弦が引っくっついていて、
その全体が鳴るっていうのかな。
ああ、そうか。あれ全体がある種の振動で音になっているわけ。
そうです。直接そのハープ本体に縫い付けられているっていうのかな。
で、ハープは方向性としてどんどんどんどん大きくなる方向に進んでいった。
なるほど。
もう一個がハープのライバルと言われるやつがリラ。
リラ。
それはそのドの間に棒を渡して弦を振動させていくようになっていった。
で、こいつは逆にどんどんどんどんちっちゃくなる方にしていった。
さらに面白いんですけど、リラに関しては、多分間違いないと思うんですけど、ギターに音似てるじゃないですか。
ああ、そうかもしれない。
5弦としてもやはりリラがギターの元なんだろうっていう感じで、
なるほどね。
ずっとどんどん大きくなっていく系のピアノさんと、ちっちゃくなることがなっていく系のギターさんっていうので、
やっていく方向性というのは変わっていったんだけれども、
例えば濃厚が始まらないとやっぱり定住しないので、大きくならなかったんですよね。
そういう意味で言うと、おそらくその農業が始まるとともにピアノの原型となるような楽器はだんだん発展していって、
で、これもまたイメージで面白いんですけど、銀融詩人が持ってるのはギターですよね。
ああ、そうだよね。
ピアノは持たないですよね。
持って移動できないから、やっぱりその、そういう移動する人にとってはギターが非常に便利な楽器だった。
で、ピアノってやっぱりその、酒場に行くとあるけど、
そうやな、確かに。場所に行くと行くと。
そう、ピアノ、銀融詩人が持ち歩いたりはやっぱりしないですよね。
しない意味?なるほど。
で、あの、イメージとしてやっぱりそれに紐づいて、イメージがついていったっぽい。
反骨の、その銀融詩人というのは要するに風雷棒で、寝なしぐさで、
その社会に一般的に馴染めなかった人が使っているイメージになるっていうのかな。
ああ、それがリアルロックのイメージに流れていく。
そう、まんま繋がってますよね、やっぱ。ちゃんと。
なるほど、なるほど。銀融詩人とロックスターの繋がりは指摘されるまで気づかんかったね。
で、同じくピアノというのは、だからその場にどっしりと構えていて、
常にそこにいる人たちが好んで使うもので、やっぱ傾向としてはやっぱりお上品なものになっていく。
で、18世紀の後半ぐらいまでは、ギターの方がはるかに西洋で多くの人が演奏していたらしいです。
うーん。
で、その、なんでとかあんま分からなかったんだけど、
で、ちょうどその後、確かモーツァルトの時代って上流階級がピアノを習うのとかが前世紀だったみたいで、
その、多分、あれかな、資本主義、産業革命とかから金に余裕が出てくるようになったのかな、一部の。
で、どっしり構えるブランドが寄与されたみたいな感じなのかな。
ですね、多分、ちょっとそれは今話しながらの想像なんですけど、やっぱ資本主義、産業革命によって、
その、お金に余裕が出てきて、お金を持っていることをアピールする道具としても、やっぱあのロックよりクラシックでしょっていうか。
クラシックかな。
まあそれはな、今の日本だって、例えばその、いいとこのお嬢さんが子供の頃習うのは間違いなくピアノやからね。
そう、あの、まあロックギターは普通やらないですよね。
普通はやらないね、うん、そうやな。
で、その、で、どうやら最近なんか今再びギターが人気になってきているみたいなのは、
まあ著者が書いていたことで、数字とかまで載ってたわけではないんですけど、
こういうね、やっぱね、ずーっとね、お上品プラスバーサスロックみたいな流れっていうのは、ずっと続いているみたいで。
うーん、まあその時代がインターネット、そうグローバル移動時代になった時には、
吟遊詩人が受け入れられるっていう見立ては立てることができるね。
かな、まああとそのクラシックとロックっていうすごく大雑把な観点で言えば、確かに今クラシックを聴く人よりロックを聴く人の方がはるかに多くって。
まあそうやな、あとクラシックをヘビーメタルでやるとかいうアレンジはいくらでもあるからね。
まあそういうことはいくらでもね。
またそうやけどね。
でその、これは話を踏まえて自分の予測なんですけど、やっぱね、最近そういう意味で言うとね、ギターは再び何て言うんだろう、ピアノが強くなってきているというか、
DTMが当たり前になってきたじゃないですか。
でパソコンに向かって音楽を作るとなると、やっぱ移動しなくて良くなって。
そうだね。
一人で家の中に道具を揃えて完結できるようになってきて。
そういう意味で、さらに言うと固定したものの方が簡単に演奏できるというところとかもあるのかな。
自分のイメージとしてはギターではなく、もう一度鍵盤楽器の方の人気というか勢力というのが再び盛り返してきているんじゃないかなっていう印象はあって。
僕の狭い時世体験で言うと、ニコニコ動画前世紀時代ってギター演奏してた人が多かったのよ。
でも今俺YouTube見るけど、YouTubeの演奏動画はだいたいピアノの方が割合が多いね。なんか知らんけど。
確かにね、この20年で変わり得るし変わったような気がする。
不思議やね。DTMするんやったらどっちも一緒とは言わんが。
でも音楽的に近いのはピアノの方かキーボードとも言うしね。
その話で言うと本編とは外れてくるんですけど、鍵盤が多分強いもう一つの理由がデジタルと相性がいいんですよ。
そうやね。
音波って良くも悪くも音が合わんことがかっこいい楽器で。
アナログの波っていう音波の歪みみたいなものが特徴やもんね。
揺らぎみたいなものがかっこよくって、12音程が正確にならないからかっこいいし、間の音とかを意図的に鳴らしたりできるからかっこいいし、
そこが良さなんですけど、コンピューターと非常に相性が悪くって。
確かにね。
MIDIデータを簡単に打ち込めるのって100%間違いなくピアノなんですよね。
だから音符文化を真っ直ぐ引き継いでるもんね。
そうですね。MIDIが大雑把に音色の情報が入れられて、
1秒間を256に分割できて、確かなんですけど、そこのどこから音を鳴らして強さが256段階ぐらい設定できて、
そういうレベルのデジタルデータとして簡単に入力した上で編集までできてしまう。
確かに。
そういうことができると、ギターは基本的に生のウェーブ音しか入んないんで、
リズムを変えたりとか、ちょっと間違えたからここ直そうが当然難しくって。
そのあたりのコンピューターとの相性の良さっていうのが鍵盤が圧倒的に増えている理由なのかもしれないなっていうのはちょっと予想としてあるかな。
ピアノ、鍵盤、シンセサイザーは繋がってるもんね、ルートとしては。
でもギターはエレキギターでそれ以上いかへんもんね、デジタル的には。
そう、止まってしまったんですね。変態的なことを言うとMIDIギターっていう機材とかもあるし、
80年代にはラリー・カールとパッド目線にだったかな、MIDIのギターとかを使った曲とかそういうことをやってたりはするんだけれども、
相性がいいとは思わないし、少なくともあんま広がってはいないので。
そうやね、確かに。
結局、1対1の音がきちんと対応してくれるっていうのかな、鍵盤は。
ギターは良くも悪くもそこが曖昧で、だからこそコンピューターとは相性の良さでは劣るっていうのか。
確かに。
さらに話が進むと、あと二、三十年したら、だからこそ揺らぎが起こるギターの方がかっこいいんじゃね?ってなる時代は来るんじゃないかな?みたいなことは思っていて。
今でもそうじゃないかな、きっとね。かっこいいっていう、さっきの気性勝手みたいなのはそっちの方がだから生まれる。
逆にプレイしやすい?日常に寄り添うのはピアノ的になっていく?みたいなことになるかもしれない。
そういうふうにも言えるかもな。決して使われていないわけではなく、主役ではなくなったっていう印象はあるんですけど。
エレキギターというかギターという楽器が。とはいえ、揺らぎをシンセサイザーでMIDIデータがどれだけエディットできると言っても、
AI時代になって変わるかもしれないんですけど、人力で揺らぎを作るのってすごい大変なんですよね、かえって。
だからリアルで演奏を聴くってなったら、ギターいいよねっていうお金を払うのはそっちになるかもしれない。
うまい演奏、いい意味でジャストじゃない演奏ができること。かっこよさを埋めることっていうのは、
結局人間が人間である限り、熱狂するにはどうやら正確な四つ打ちがいいっぽい。
テクノみたいな、ああいう強いリズムと音があるもの。
でもそれとは別に、そういう揺らぎがあってかっこいいみたいなものっていうのが、これからの時代、
何週間回って再び帰ってきつつあるのかもしれないけど。
そうだね、だから両方使われるやろうけど、使われ方が多分変わっていく。
僕らみたいな、別にプロじゃない人間が音楽っていうのを作る側に回った時には、
キーボード音楽音符方式が間違いなくいいわけですからね。
それがテクノロジーとして広まっていくでしょうね。
そうですね。鍵盤という形式がすげえ楽だし便利だし、
そこに関しても最近自分は8x8のMIDIパッドみたいなやつを使って、
ちょっと演奏するみたいなのを練習してみたりしているんですけど、
可能性として、西洋の楽譜が強すぎるからちょっと難しいんだけど、
ピアノのドレミファソラシドじゃないやり方っていうのは、
音楽の学び方として結構可能性はあるんじゃないかなっていうのは思っていたりもしていて。
多分いろいろあるでしょうね。だから音符とか楽譜の力が強かった分、
それが抑制してきたものがあるはずで、それが再発見、再開発されていくっていう方向性もあるでしょうね。
そうですね。それがMIDIになったことによって、
そういう教則本みたいなやつも探しているとすげえ面白くて、
打ち込みでどうやったら生っぽくなるのかって、ある意味おかしなことをやってるじゃないですか。
確かにね。
わかるんですよ。もちろん理屈として正しいことはわかるんだけど、
1回弾いた目で見ると、なんかおかしいことやってるよねっていう言い方もできるわけで。
コンピューターはジャストな音で全く同じ音量が出せることが良さだったはずなのに、
今時ロックっぽくするためにドラムの音なんてわざとずらすんですよね。
どんな楽器でも、ベロシティって強さもほぼ必ず、
そういう打ち込みで作る場合も変えているのが当たり前で、
そっちの方がやっぱり一般的になってしまっている。
そういう音楽の方が人間は自然だと感じてしまっている。
まあでしょうね、きっと。
そこにもやっぱりいろいろな面白さがあるというか、
1周、2周回って正確なものがかっこいいわけではないというところにたどり着いている。
だから正確なものがかっこいい時代があったのかどうかね。
イメージなんですけど、80年代、90年代はそういうことがものすごく試行錯誤されていた。
日本もテクノブームはあったわけやけども、
あれもちょっとカウンターカルチャー的な感じで終わってたような気はするけどね。
どうなんだろうね。わからないけど。
どうなんだろう。日本だとわからないことが多いですからね。
日本の流行り方が特殊なので、音楽の。
わからない。
そこは海外に行ったり、西洋の他の国がどういうふうに受け入れられているのかどうか。
みたいなところをやってみないとわからないかもですね。
今回話そうと思っていて、もともとの話というのは、
こういう仮定で生み出された、人類が発明したシンセサイザーという楽器がめっちゃ面白かったよという話をしようと思っていたんですが、
そこはもし機会があれば次回そういう話もできたらいいなと思っています。
デジタル的な音作りの楽器の現代の最前線ということですね、シンセサイザーというのは。
そうですね。たぶんいくとこまで言った、電気が入ってきてやっぱ音楽が、楽譜の次の革命は電気だと思ってるんですよ。
エレキギターというものによって音量の爆発が起こって、万人単位の人に生で聴かせることができるようになった。
あれは電気がないとできなかったことなんですよね。
電気によって、しかも音が壊れてしまった。歪んだ音っていう。
壊れてしまった音がかっこいいと感じるようになって。
音の情報量でいうと、つまり減ってるんですよ。
そうやね、確かに。
音の方が人間はかっこいいと感じてしまって、さらにそれを電気で作ったらいいんじゃねって思いついたのがシンセサイザーで。
すごいよね、発想が。
仕組みとかを調べると、これは数学の勉強がモロに役に立つじゃんっていう面白さだったりもして。
まとめられれば次回またそれもまとめてみたいと思います。
ということで、Book Catalystは番組を支援していただけるサポーターも募集しておりますので、気になる方は概要欄などをご覧いただければと思います。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。