こんにちは、夫婦関係学ラジオパーソナリティのアツです。このポッドキャストでは、多数のゲストを招きし、家事・育児・キャリア・設計・スプリンリコフなど、様々な夫婦の葛藤をサーバリするためのノレッジをお伝えしていきます。
今回もですね、前回に引き続き、加害者変容の会GADHA代表の中川さんにお越しいただいています。中川さん、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回は、前回は加害とは何かですとか、加害者の変容のプロセスについてお話をお伺いしたんですけど、中川さん自身のことをお聞きしたいなと思っていて、何でそもそもこんな大変なことを始められたんですか?
ありがとうございます。始めた理由は、自分が加害者だと自覚して学び変わっていく中ですぐ思ったのが、これ自分が加害者なら世の中にめちゃくちゃいるなって思った。
自分と同じような人っていっぱいいるので、それでこう、多くの無自覚な加害者が人を傷つけているだろうし、それが被害だということもわからないで苦しんでいる人もいっぱいいるだろうしと思ったときに、何かできることあるかもなということで始めたっていうのが最初です。
なるほど。中川さん自身が自分がやっていることは加害だって気づかれたので、どういう時だったんですか?
いくつか場面があるんですけども、よく思い出すのは、僕振り返ってみると暴力が何種類かあったなと思っているんですけど、そのうちの一つはやっぱりわかりやすくアルコールを飲んで酔っ払って妻に絡み、妻が嫌がるとなんで嫌がるんだみたいな。楽しく喋りたいみたいな。
そうですそうです。妻が本とか読んでても何か作業とかをしてても話しかけて嫌がられると、せっかく楽しく喋ろうと思ったのにそんな冷たい反応してくるなんておかしいみたいな感じの絡みづけがあり、しかも記憶が飛ぶので次の日には忘れてて。
厄介ですね。忘れてしまう。
っていうのがあったり。酔ってない状態でいうと、一緒に買い物とか行くときにご飯を食べに行くときに道を僕が勝手に渡って、妻がついてこなかったんですね。別に道はわかってるわけだから店で合流したらいいと思ったって後から妻に言われたんですけど、僕も妻がついてこなかったことに激怒。
道があって横断歩道を渡りました。
横断歩道じゃないですね。道路の途中を適当にすると渡っていって。
前を歩いてたわけですね、高川さん。
そうですそうです。
奥さんがちょっと歩くの遅かったので後ろ歩いてた?
いや一緒に歩いてたんですけどついてこなかったんです。渡るタイミングで。
道を渡るタイミングで。
今から道を渡ろうと僕が言ったわけではなく、じゃあ渡るかって一人で渡ったら妻がついてこなかったので。
おかしいみたいな。
なんで怒っちゃったんですか、せいが。
自分が渡ったらついてくるもんだと思っていた。ついてこないとおかしいみたいな。
別にいつも渡ったっていいんだから、渡ったタイミングでついてくればいいのであって、ついてこないなんて失礼、なめてるみたいなそういう考え方。
そういう風に感じてたんですね。
それで連絡をついてこなかったからそのまま一緒に向かっていた店にも行かずに連絡を立ち別の場所に行き、ついてこなかったらおかしいみたいな感じで後で責めて。
説教ですよね。説教ってこれは正しがきつきな説教ですけど、普通当たり前に片方が渡れば、別にどのタイミングで渡ってもいいんだから、どっちかが渡ったらついてこないのがおかしくないみたいな。
意味がわからない。その後だって別に一緒に歩けなくなる、しゃべれなくなるんだからついてきたほうがいいに決まっている。ついてこないなんておかしいっていう感じで怒っていた。
それで奥さんはなんて言ったんですか。
別に急に渡られたし、横断歩道でもなかったし、店は同じところに行くってわかってるから別にそのお店で合流すればいいかと思ったみたいな感じです。
それ聞いてもいやいやおかしいってなる。
なぜならば一緒に道を歩いている方が一緒にしゃべれるわけで、道を歩く時間あたりの良さが高まるはずなのだから離れて同じ道に進むということには合理性がなく、一緒に歩いたほうがよかったにもかかわらずそれをしないなんていうのはおかしい。
今言いながらこいつ何言ってるんだと思いながら言ってるわけなんですけど、本当にそう思ってましたね。
これは酔っぱれてない、アルコールを飲まずにやっているパターンです。
3つ目が気づいたときなんですけど、酔っかれと思ったパターンというのがあって、
妻が本当にクリエイティブな才能がめちゃくちゃあってですね。
妻がうつ、適応障害で仕事を休んでいるときに、そういう仕事じゃなくてあなたの才能を生かした仕事をした方がいいみたいな形で、
いろいろ調べられるのが好きじゃないですか。知識とかガンガン吸収されていくタイプだと思うんですけど、
そういったいろんな発達障害だとか愛着障害だとかいろいろ調べていくうちに、だから自分こういう行動してるんだなって理解できるようになった。
おっしゃるとおりですね。
どうやって中川さんご自身は変わっていったんですか。
自分自身の変容自体は、自分自身の変容がどうだったか。そういう意味でいくと、まずは大量に学習をしていって、
一番最初に触れたのはモラハラというよりはどちらかというと発達障害ですね。
発達障害の情報とかに触れ、アルコール依存症みたいにもなってたのでアルコール依存症の問題もあって、そのような知識を調べて発達障害を調べて、
発達障害というよりはどちらかというと人格障害、いわゆる自己愛性パーソナリティ障害みたいなのが自分は全部は保てたので、
妻から振り返ってもう完璧にこれ全部チェックです、全部チェックですみたいな感じ。
今は全部外れてるんですけど、そういうこととかもいろいろ調べていって、これが課題だということがまず分かりましたと。
これが暴力だというのが分かって今度はケアについて調べていきますと。
そうするといわゆるコミュニケーション技法、アサルトビューコミュニケーションとかノンバイオレントコミュニケーションとかアテデュリーナルヒーリングとか、
いくつかそういう著名な技法というものがあるので、そういうものを学習していき、そうすると今度はいいやり方というのは分かったと。
でもあとあれですね、DV加害者向けのプログラムの教科書とかもあるので、そういうものも読んだり、いろんなDV関係のものも読んでいって学んでいきましたと。
その先にやっぱり自分が分からなかったのは、いいコミュニケーションというのが分かったとしても、もう相手を傷つけてしまっている加害者としての自分がどう関わるのかというのはちょっと別のことだと思うんですよね。
じゃあ私は今まで間違ってました、じゃあ今度はノンバイオレントコミュニケーションします、よろしくみたいな、そんないきなりフラットな関係にはならない。
相手を今まで傷つけてしまった過去、相手がフラッシュバックするような痛みを抱えながら一緒にいるということ、そういったものに非常に自覚的にならないといけないと思ったときに、ここまでで学んだことだけでは足りなかったんですね、僕の中では。
そこからさらにもう一回遡ったのが、償うとはどういうことなのか、罪を引き受けるとはどのようなことなのか、どちらかというと倫理学とか哲学の領域の知見はもともとやっていたというのもあって、責任を引き受けるとは何かということを考えていきましたね。
その中で先ほど申し上げてきたような、そもそも人間存在というものが痛みや傷つきを最も最初に自覚する生き物としての人間とその中で解釈しながら自分の痛みをコントロールするような形で世界と関わっていくという営み、でもそれはその人本人だけでなくて他者、それは人間もそうだし環境もあるし制度や文化というのは人工的な外的な要因も含めて、
そういう複雑なものをみんなで人類が相互に解釈し合いながらこの世界を作っていくという営みがある。生きるということはそのような営みだということを考えたときに加害はゼロにはならないなと思ったんですよね。なぜならみんな違うから。みんな異なる感覚を持ってこの世界を解釈して、だから解釈のずれがあって傷つく。
加害が問題なのではなくて、加害をしてしまった後に私たちはどうそれを引き受けて生きていけるかってことこそがわからないとすぐ今度は正しい人間になっちゃって人を傷つけるなと思ったんですよね。これが加害です。これがケアです。じゃあこのケアをやりましょう。あなたはケアできてますか。できてないですね。じゃああなたはダメですみたいな。それを繰り返したら結局それは正義の殴り合いになっちゃうので。
そうではなくて間違いや傷を前提として生きていくっていうことを考えていく中で自分の加害者編用理論とかそもそもガダハを作る理由っていうのも自分が過去に傷つけてきてしまった人たちに対してケアをすることはやっぱりできないんですね。
傷つけてきてしまった人に対してケアができない。
もう関わることができなかったり遠く離れていたりして償うことができないという時にでも傷はそこにあるはずじゃあ何ができるだろうと思った時にケアの連鎖をしていく社会を作るしかない。自分も被害を受けてきて加害者になってきている。加害は連鎖する。一方でそれに気づいて学び変わってケアを始めていくことができればケアもまた連鎖していく。
自分はケアをする側を始めよう。自分だけじゃなくて同じように加害者になってしまった人たち。その人たちがケアをお互いにできるように。そしてその人たちがガダハの外部の人たちに対してケアから始めていけるように。
うまくいかなかった時にはガダハに戻ってきてまたケアし合えるような場所を作っていくっていうことが僕が加害者ということを認めた上で生きていくために必要な償いのシステムっていうかそれをやっていくこと自体が僕が生きる一つの理由、責任を引き受けるということになると思ってやっているっていうことでガダハはやってるんですけど。
ちょっと別の話になっちゃいましたけど。
完全性がありえない人生を生きるっていうことの不条理を引き受けようと思うと完璧ってないから。
自分も完璧じゃないし他者もまた完璧ではない。
制度も社会も完璧ではない。
中でなんとかかんとか生きていくしかないって思えるとなんかそういうのがあると思ったんですよ。
完璧な何かとか優れた何かみたいなのがあってその正解にたどり着けば人生は良くなるみたいな。
ない。なんとそれがないんだって思うと期待値と現実のギャップに傷つかなくなったんですよ。
ずっとギャップがあったから傷ついたんです。
期待値はめっちゃ高くてそこに絶対あるんだって思ったんですよ。
そうですそうです。
で頑張り続ければ到達できるんだって思った。
あるいはもうそうであってそうじゃない自分ではないと思っている。
もうそうじゃなくて今の自分が到達したあるべき姿になっているんだって。
そうです。理想の存在のはずなのに理想の存在じゃない自分に傷つく。
例えば仕事がうまくいかないと完璧なはずなのに完璧じゃないっていう現実があるときにそのギャップに傷つくみたいな。
おかしい。
そうです。なんでこんなことになってるんだみたいな。
冷静に考えたら現実が先にあるので何でこうなってるんだも何もなくてそこから始めるしかない。
けどギャップで傷ついてるみたいな状態がなくなると。
そうすると他者のこともそのギャップでずっと見てきたってことも分かる。
妻とはこうあるもので。
そのモーターショーを当てはめてきた。
そうですそうです。なんで妻はこうあるべきなのにこうしないのだ。傷ついたみたいな。おかしいみたいな。
この傷つきがなくなるってことは生のままの妻を見るっていうこと。
例えばこうしてほしいけどこうしないって時にただこうしないっていうその人がいるだけであってそこにギャップがないから
傷つかないみたいな。そういう風になっていくと怒りや悲しみの感情もすごい減って
すごい生きやすくなりましたね。僕自身が。
それがじゃあ結構大きな要因ですね。
そう思いますね。
その完璧な世界なんかないんだって思えたのは何であったんですか。
自分自身がいろいろ傷つきの体験をしてきたことで自分に優しさを向けられたから。
いやというよりもそのいろんなことを知識として学習していく中でそもそも正しい何かが存在する。
哲学的に言うと本質論。つまり何々とは何々だっていう風に説明できるような本質が世界にはあるという考え方がどうやら成り立たなそうだってことがわかったから。
僕も本当は本質主義的な立場だったので。
例えば正義とか平等とか自由っていう概念があってそれにたどり着けるはずだと思ってたんですよ。理性的な議論を通して。
それがもともと哲学をやってた時の信念だったんですけど。
研究を結構深めていくとそもそも人間とは何か。
さっき傷つき加害や暴力の定義がなぜ広がるのかって言うとそれは人間間の捉え直しがあるからだって言ったんですけど。
あれをもうちょっと具体例で述べると。
例えば奴隷ってもともと黒人って人間として見なされずに動く家具とかって言われた時代があって。
いやいや普通に人間でしょってなると人間という観念が広がる。
人間という観念が広がると差別や暴力それは良くないですよねってなるじゃないですか。
それってあくまでそれがやっぱり人間化するから。
もともと人間なわけですけど。
っていうことがあって。
女性の権利とかってもともと女性っていうのはそういう意味では人間的に見なされてこなかった。
とか子供が子供人間として見なされてこなかったっていう経緯から人類は多分どんどんちゃんとこう
なんていうのかな。
みんな人間であるっていうことを広げてきた中でその権利というのが拡張されてきたっていう風に考えているんですけど。
そういうことをこう思っていくと。
つまり僕たちっていうのは。
じゃあ何を人間と捉えるのかって。
例えば今ジェノサイドとかあると普通にもうめちゃくちゃ殺すわけですよね。
武器で。
散々人権とか言ってきたのに何だったんだろうってくらい。
人って何か条件を作って簡単に人間を人間じゃないと捉えたりすることができたり。
正義とか悪とかってされるものも時代や文脈や文化によって変わり続けていく。
対話によってその時その時生成され続ける。
つまりさっき言う共同解釈ですよね。
共同解釈ってものだけがあって。
私たちはその中でその一緒に生きていく人たちとの良さを作り続けていくしかないんだなって気づいたんですよ。
ってことはそれはこの世界が不完全だってことなんです。
正しさとか正解があってそこにたどり着けるってことなんじゃなくて。
それらしいものを私たちは作り続けていく。
そして人と生きていくんだって。
それがその世界のある種の不条理ってことに気付けた背景。
人間が不完全になり続けるってことの理解とつながってると思います。
となるとあるべき姿とかあるべき思考とかあるべき思想っていうのは存在しなくて。
自分はこうあるべき。
お妻は自分の後をついてくるべき。
同じ店に行くんだったら隣で一緒に歩いてた方が効率的だろう。
そうあるべきだろうって思ってた。
だけどそうじゃなかったんだ。
いろんな考え方がそれぞれあったんだっていうところに
そういったいろんな手掛け的な思考を元に当てはめることで
枠から外れることができたんですね。
まさにそのような立ち上がりです。
フレームからガコンと外れたわけですね。中川さん自身が。
おっしゃるとおりです。
なるほど。
ちょっとお聞きしたいのが
中川さんご自身の
親との付き合いっていうのが傷つきがあったとおっしゃったと思うんですけど
どういったとこがあったのかってお話いただけたりとかできます?
そうですね。
大きく2つあったかなと思っていて
わかりやすくしゃべると。
1つは
例えば僕が部活とかスポーツとかで失敗した時とか
試合に負けた時に僕より悔しがっていたなって思います。
それは結構今振り返ってみると良くない関わりだったなと思うんですけど
それって
なんていうのかな
親が喜んだり親が悲しんだりすることのために頑張るという風になるんですよ。
確かに。
僕の悔しさとか僕の悲しさとか僕の嬉しさとかよりも
親の嬉しさとか
勝って偉いとか優れているとか
あそこで失敗して恥ずかしかったとかっていう言葉って
その子供の感覚や感性を
さっき言ったような情動調律っていうものがなされずに
その親自身のニーズ
その感じる考えることとかその恥を感じたくないっていうニーズを子供に当てて
コントロールしようとしている行為だと思うんですけど
それが今振り返ってかなり嫌だった
なーって思うのが1つ
だからもうスポーツとかの応援とかしに来ないでほしい
下手くそーとかって言って大きい声出してくるので
それきついですね
めちゃくちゃきついですね
全然普通に起きてましたけどね
でも来ないで応援とか来ないでほしいんだけどって言ったら
何言ってんの誰がこの部活とか習い事やってると思ってんの
それに言わさるのよみたいな
言わさるっていうのはつまり言ってしまう
私の意思ではなく言ってしまうみたいなこと言われたんですけど
深井・勝手に言っちゃうんだ
深井・そうですそうです
今何言ってんだろうって感じなんですけど
そういうことがあったりとか
あとはもう1個が
特に学業面で能力が高いということが
条件的な愛情とつながっていたなということも思いますね
勉強ができる優れているということが重要だっていうことを
愛される要素になるってこと
そうですね
例えばそういうことですね
認めるということとつながっている
存在を認めるために必要な条件としての能力
勝ち負けで言うと勝ち上下で言うと上であることが大事っていうようなところ
大きくはその2つ
でも一番大きいのは結局謝られなかったってことが一番大きいんですけど
例えばどういったこと
それはさっきの話でも
下手くそって応援しないでほしいって言った時に
本質は解釈教養なんですよね
情動調律がない
嫌だって言ったことに対して
その嫌だを受け止めてもらってなかったかなと思います
そういうもんなんだって思うと
愛するってことはそういうもの
優しさっていうのはそういうもの
だから僕も妻に対してそのように関わりながら
愛してると思ってましたからね
大切にしてると思ってましたからね
同じことをしちゃってたわけなんですね
そうですそうです
まさに暴力の連鎖
そうですね
それに気づけた時にもう本当
ガラガラガラっと足元から崩れるような感じですね