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夫の転勤に付き添い、アメリカで駐妻暮らしをするかやこさん。かやこさんがテキサスで見つけたキリストの愛の教えとは?
後半(かやこさんの夫婦観の変化)はかやこさんのポッドキャスト「日々、駐妻。」でお送りします!
◾️ゲスト:かやこさん
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◾️アツ/鶴田敦彦
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サマリー
ポッドキャスト「日々、駐妻」では、かやこさんがアメリカでの生活を通じて学んだキリスト教の愛の教えについて語っています。無償の愛や人間関係における悔いを感じながら、神の愛と自己肯定感についての深い理解を共有しています。キリスト教の教えや家族の愛について触れ、特に祈りの重要性や神の愛の教えが日常生活に与える影響を探求しています。また、アメリカにおける家族との時間の大切さや文化的背景についても言及しています。このエピソードでは、駐妻であるかやこさんが教会を通じて見つけたキリストの愛の教えについて語り、教会のコミュニティの大切さや家族間の絆が深まる体験を共有しています。
アメリカでの生活と学び
こんにちは、夫婦関係学ラジオパーソナリティのアツです。このポッドキャストでは、多彩なゲストを招きし、家事・育児・キャリア、セックス・不倫・離婚など、様々な夫婦の葛藤をサバイブするためのナレッジをお伝えしていきます。
今回は、ポッドキャスト、日々駐妻、パーソナリティ、かやこさんにお越しいただきました。
日々駐妻では、かやこさんが駐在の夫さんに帯同して、アメリカで暮らす日々の中で感じられた言語の壁、文化の違い、子育て、日々の生活で起こった何気ないことなど、ありのままお届けされています。
今回は、アメリカ国民の約60%が信仰しているキリスト教の愛の教え、キリスト教における夫婦の愛、そしてかやこさんご自身の夫婦間などについて伺っていきます。
前編後半と別れてまして、後半はかやこさんの番組で配信をさせていただきますので、ぜひチェックしてみてください。かやこさんよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
お二人が生まれたばっかりで、お時間をいただいてありがとうございます。
いえいえ、ちょっといい刺激になってます。
育児にちょっとぼっとしてるんで。
確かに確かに。
あの、修読しようかって言ってた数日後に、確か生まれちゃったんですよね。
なんかギリギリまだ予定日が1週間ちょっとあるから、いけますとか言ったら、早く生まれちゃって。
すごいタイミングでしたね。
いえいえ、とんでもないです。無事に生まれてよかったです。
本当にありがとうございます。
ありがとうございます。
そんな中で、僕が日々中妻を聞かせていただいてて。
ありがとうございます。
キリスト教の愛の教えっていう話が出てきて。
かやこさん自身が教会に通う中で、その教えを学んでいった。
それがすごい、これいろんな人に知ってほしいなって感じたんですよ。
かやこさんが学ばれたキリスト教の愛の教えについて、ちょっと教えていただいてもいいですか。
ちょっと状況を説明させていただくと。
今、私はアメリカのテキサス州のヒューストンという街の、またさらに車で1時間ぐらい、郊外の田舎に住んでまして。
そこでプロテスタントの教会ですね。
キリスト教もカトリックとかプロテスタントとかいろんな宗派があるんですけど。
そのプロテスタントの、またいろいろ細かいんですけど。
こんなにいろいろ書いてあるんですね。2つだけじゃないんだ。
2つだけじゃなくて、ものすごく分かれてて。カトリックの中でもこういう感じとかプロテスタントの中でもこういう感じって分かれてて。
その中の一つの教会の中の一人のおばあちゃんと仲良くなって。
聖書にすごい興味があるんだよねって話をしたら、じゃあ教えるよということで。
大体週に1回ぐらいそのおばあちゃんのお家にお邪魔して、一緒に聖書を読んで説明を受けるっていう感じなので。
本当に一度素人が。
おばあちゃんの家で教えてもらってたんですか?
そうなんです。おばあちゃんの家に個人的にお邪魔して。
聖書って教える用の聖書もあるんですよ。解説とかが全部書いてあったりとか。
なのでちょっとキリスト教徒の方が聞かれたりとか、
勉強されてる方が聞かれるとかなり解釈が違うとかいうところもいっぱいあると思うんですけど。
本当に一度素人が一人のキリスト教徒、おばあちゃんから学んだ話っていう解像度でお聞きいただければ嬉しいなと思うんですけど。
私がキリスト教、キリスト教というか聖書を読みながら学んでいった愛っていうのが、よくおばあちゃんがたとえん出すんですけれども。
もしお子さんがいらっしゃる方だったら、イエスキリストがキリスト教徒に対して感じている愛っていうのは、
子供に対する愛と一緒で100%無償の愛なんだっていうのをよく言ってるんですね。
例えば子供がわがままを言うとか、反抗してくるとか、間違ったことをするかってそれを理由に嫌いになったりとかはしない。
じゃないですか、親としては。悪い子だからもう嫌だとか、言うこと聞いてくれないからもう愛するのやめるわみたいな風にはならないのと一緒で、
キリスト教徒に対してのキリストの愛って本当に全幅の信頼というか100%の愛を持ってて、それをキリスト教徒のみんなも確信してるんですよ。
100%神は自分のことを愛してくれてるっていうのを本当の意味での確信、絶対にそうなんだと。
なんでそこまで信じられるんですか。
そうなんですよね、本当にびっくりなんですけど、やっぱこう無宗教じゃないですけど無宗教として生きてきますね、大抵の日本人は。
そこがなかなかインストールしづらい感じではあるんですけど、小さい頃から教会に通ったり、聖書を読んだり、神との対話みたいなのをする中で、
まずイエスキリストって一回亡くなって復活するっていうのはおそらく皆さん聞いたことあるかなと思うんですけど、
そのなぜ亡くなるのかっていうのは、亡くなるときに今の人間の罪をすべて背負って亡くなるっていう解釈なんですよ、解釈というか。
神様なんで、未来に起こることも全部わかってて、自分が当時のユダヤ教徒の教会の偉い人たちに疎まれるんですよ。
イエスキリストが新たにやってきて、神って名乗って、ユダヤ教徒の人は自分たちは自分たちで神を信じてて、いわゆる権力を構築していて、尊敬を集めていて、
自分たちは社会的な地位も立場もお金もあって、そんな中でポッドでの神って言ってる人が出てきて、みんなそっちがすごいみたいな、すごいんですよ。
自分たちのその権力が脅かされるみたいな感じになってた。
そうなんですよ。だからあいつを排除しろっていう風になるんですよね。同じ神を信じてるはずだし、なんなら神そのもののはずなんですけど、彼らが信じてる。
そうやって自分が殺されることも神は全部わかってるんですけど、それをわかった上で人間ってそういうことするよね、みたいな解釈なんですよ。
受け入れてるんですね。人間ってそういうもんだから、俺は殺されるんだよね、みたいな風に受け止めてる。自分の思想を。
そういう人間の過ちとかも全て受け止めて、全部背負って、私が一度死ぬから、あなたたちの罪は全部私が一回受け止めて死んで許すよっていうので死ぬんですよ。
神の愛と自己肯定感
なので、私たちが日々犯す罪、小さいものから大きなものまで嘘つくとか、そういうものも含めて大きな罪まで。
未来にわたっての人間の罪を背負ってるっていうことなんですか?
そうなんです。全部です。全部思をあらかじめ背負って死んでいるので、私たちはすでに許されてるっていう立場なんですよ。
なるほど、キリストは代わりに罪を背負って亡くなったから、自分たちが何をしても許されるっていうこと?
そう考えると、そういうふうに取られがちというか、何してもいいぜ、許してくれるからっていうことではなくて、背負ってる罪はキリスト教徒の罪だけを背負ってるんですね。
全人類の罪を背負ってるんじゃない?
違うんだ。僕らの罪は背負ってるから。
そうなんですよ。私の罪は背負ってくれてないんでしょ。
そうなんですね。
神を信じる者の罪だけを背負ってくれてて、神を信じる者ってどういうものかっていうと、やっぱりキリスト教徒の教えをちゃんと守っている人ということになるので、
ということは、人を愛す、隣人を愛す、自分を愛す、家族を愛す、ギブするみたいな、そういう言ったらちゃんとした人間って感じのことが書かれてるんですね。
聖書に書かれてることって本当に真っ当で、人に優しくしましょうとか、与えましょうとか、嘘をつくのやめよう、差別はやめようみたいなことが書いてあって、
それをちゃんと守っている人が間違ってやってしまう罪はもう背負ってるんで、
じゃあ俺はもう何やってもいいぜっていうと、そもそもその行い次第がキリスト教徒の振る舞いではないので、その人の罪は背負われてない。
なるほど。その枠内の人しか救われないよっていう。
そうそうそうなんですよ。
ちゃんとした、規定されたその人たちだけが救われる。だからそういう生活しようねみたいなことになってるんですか。
そうなんです。神をまず信じるっていうのが第一前提になって、信じてくれてる人のことは救うっていう第二段階があります。
それで、でも自分たちが、例えば人に嘘をついてしまったとか、人間関係の中でうまくやれなかったとか、傷つけてしまったっていうので、ものすごく悔い悩んだりしてる時も、
でも、このうじうじした自分とか、小さな自分とか、自分を守ってしまうような自分も、神は絶対に許してくれてるし、愛してくれてるんだって思いをみんな持ってるんですね。
キリスト教徒だと、私の解釈の中では。だから、こんな自分、世の中に必要ないとか、誰にも求められてないみたいな気持ちになる時って人間あるじゃないですか。
だけど一人ぼっちだみたいな気持ちになる時に、キリストの教えだと、そこに必ずイエスキリストはいるんですよ。自分のために。絶対自分のこと愛してくれてるんですよ。どんな自分も。
すごい力強いですね。
そうなんです。体感として言ったら難しいんですけど、実際にはいないので。でも、聖書を読み込んで、神ってこういう教えをしてるんだなっていうのをどんどんインストールして、なんとなく身近に感じてたり、お祈りをしたりする中で、
自分が追い込まれた時に、神だけは私のことを見捨てないって思える、その愛っていうのがものすごい温かなもので、力強いものなんですね。
これがキリスト教徒の愛の考え方の根底にあるかなって思います。
なるほど。そういった考えがあると、いろんなつらいこととかも、サバイブしやすくなってきますね。乗り越えやすくなってきますね。
そうですね。
すごいですね。そこまで思えるのは、そういった儀式を通して、体感しやすくなってくるんですかね。実際に。
そこに存在、実在しないじゃないですか。隣にいるわけでもないけど、だけどその神の愛というのを感じて常に希望を持ちやすくなってくる。
不思議ですね。そういう儀式とかやってない側からすると。
なんか私が聞いていて思うのは、私は聖書を勉強しながらその考え方をインストールしつつ、キリスト教徒ではないので、ある意味確信してはないんですけど、神の存在を。
なんというか、物事を捉え方次第だなって思うことがあって、引き寄せの法則とか言うじゃないですか。
自分がこうやりたいって口にしてるとそれが起こるみたいな。
ただ正直それも味方によっては引き寄せてるんじゃなくて、ただたまたま起こったことを自分の中でやりたいって言ってたからだって、肝付けてるからより思いやすくなるっていう考え方もあると思ってて。
神への祈りと信仰
そうすると、毎日神様とお祈りしたりとか、辛いことがあったら神様に助けてくださいってやっぱり祈るんですよ。
例えば家族が病気になったら、神様とかどうかってすっごいお祈りするんですね。
友達が辛い立場にあったら、もちろん実際に助けたりもするけど、お祈りもすごいするんですよ。
すごい信じてるんですね。
私はあなたのためにお祈りするよっていうのをすごい言うんですよ、日常的にも。
出産でも、うまくいくように願ってるねとか。
今回もいろいろと言われました?
そうですね。うまくいくようにとか。ネガティブな時も多いですね。
例えば家族が重い病気にかかってとか言ったら、もう祈ってるからあなたのためにっていうのをすごい言われるんですよ。
なのでそういう場面で神に真摯に祈るじゃないですか。
体調が良くなりますよね。
それは神の力なのか、科学の力なのか、本人の力なのかってとこなんですけど、やっぱ神が私を見ててくれてたんだっていう。
そこまで思うんですね。
力強く思うサイクルに入っていくんですよ、うまくいくと。
じゃあうまくいかないと神様を信じなくなるかっていうと、
そこも神様は全部わかった上で、最良の選択肢を自分に与えてくれてるっていうふうに思うので。
例えばものすごくものすごく祈ったのに、家族の病気が治らなかった。
そしたら神は私のこと見せてたんだっていうよりは、私とその家族の人生において、この場面では治らないのが一番いいんだって。
神が判断したんだっていうふうに思うんですよ。
だからどっちに転んでも。
捉えようですね。
そうなんですよ。どっちに転んでも心身深くなるシステムというか、考え方になってて。
なるほどねっていう感じなんです。
だから本当に考え方のインストールで、自分の心の中に神っていう全幅の信頼を置いて自分のことを愛してくれる人を置くか置かないかみたいなシステムかなと私は解釈してます。
キリスト教の愛と家族
なるほど。キリスト教徒に対する愛っていうのはそういう愛で、夫婦間の愛情に関する教えとかもあるんですか?
キリスト教徒の中では、本当にカトリックとプロテスタントで全然違うので、
それこそ今私が住んでるテキサス州では忠実が違法なんですけど、逮捕されてしまうんですよ。
望まない形の妊娠であっても。
その考え方は、もともとはキリスト教の考え方に基づいてる。
命を殺すことはダメだ、みたいなことだったり、一度夫婦となったら離婚するのはダメだとか。
それって今守ってる人いるんですか?離婚ってアメリカめっちゃ多いって聞きますよね。
全然守ってないと思うんですよ。
なんであんな忠実が罪みたいなことを過激なことやってしまうのかと思うんですけど置いといて。
ただそういうことは書かれてる。
家族として親を愛し、配偶者を愛し、一生添い遂げるっていう。
ただ聖書ができたその年代的にも、女性の地位とか権利ってものすごく低かった。
もし離婚してしまうとその女性はもう次に結婚は二度とできない。
そういうことか。生活ができないから見捨てるな、みたいな意味だったんですかね。
そういう意味もあると思います。ちょっとここ記憶がむちゃくちゃ曖昧なんですけど。
それこそイエスキリストのお母さん、聖母マリアは既に旦那さんがいて、そこに神様の甲を宿すんですよね。
症状渋滞って言って。ってことは旦那さんの子供じゃないんですよね、お腹にいるのが。
確かに。
どういうことってなるじゃないですか。
修列しないか、でもおかしいですね。
おかしいんですよ。
神とはいえ他の男の子供なのかっていう話に。
そうなんですよ。
そういう状況にあると、普通に考えたら誰の子やねんってなって、離婚しようっていうことになるじゃないですか。
確かに確かに。
でもそこで聖母マリアの旦那さんは、ここで自分が離婚してしまうと、マリアは本当に路頭に迷うので、自分たちの子ということにして育てよう、決断をする場面みたいなのがあって。
そういうふうに家族っていうものとか、女性の地位っていうので添い遂げることが良しとされている。
なるほど。そういう背景があったんだ。神様自身が、もう忠実とか離婚とかになったら、そもそも生まれてこない存在だったんですね。
そうですね。確かにその考え方できますね。確かに。
なるほど。実際、かやこさんが見ている、アメリカに住んでいるキリスト教徒の夫婦の方たちっていうのは、キリスト教の教えがあることで、夫婦仲が良くなるのか、何なのかどうなのかっていうのって、見ててどう感じます?
そうですね。直接インタビューしたことがあるわけじゃないので、どうどうキリスト教徒だけど夫婦関係良くなってるみたいなのを聞いたことがあるわけじゃないので、あくまで私が見ている範囲の夫婦なんですけど、すごく慈しみあっている感じがするというか、
お互いの存在に感謝する頻度みたいなものが、やっぱり高い気がしますね。お祈りをしたり、毎週日曜日のミサに行ったりするときに、神様今の自分のこの状況を与えてくれてありがとうっていうのを考えたときに、やっぱり今の自分がいるのは、この夫がいるからだなとか、妻がいるからだなとか、子供たちがいるからだなとかいうのを考える頻度が高い気がしますね。
お祈りをするときに、夫や妻に対して、子供に対して感謝をしてるんですか?お祈りをしながら。
そういうよりは、単純に教会にいるんですけど、何をしているかが本当に。お祈りを私も何回か行ったことのあるだけの人間なんですけど、聖書のこの部分を引用して、牧師さん、神父さんがここの部分ではこういうことを言いたいと思っている。
で、キリストはこういう考えを大事にしている。こういうふうに自分たちも考えていこうっていうのを教わると、どうしても私の場合はなんですけど、その教えは自分の中ではどうかなって考えるじゃないですか。
自分ここできてないな、本当にまた優しくできてないなとか、友達にこういうギブできる場面にギブしなかったなとかを考えて帰り見てると、内省する時間が多いですよね。
確かに自分のことを考えますね。
そうなんですよ。それで家族のことを考えたりとか感謝したりとか、もっと自分ってこういうふうになれるかもって考える時間が、無宗教である自分たちよりも、ある意味強制的に持たされていると思ったときに、しかも教えていいことを言うじゃないですか、基本的には。
そうですね。
あなたのことを大事にしてくれない弟なんて捨てちまえみたいな、そういうこと言わないから。
言わないですね。道徳的なことが多い。
そうですね。それを本当に真っさらなうがった見方せず、私、愛与えられてるかなっていうふうに考えると、自然と感謝の気持ちが湧き出てきたり、あの時、ああいうふうにしてくれたのは愛だったなみたいな、考えたりとかするのって結構そういうことを考えてきて、お互いのいい面を見ようとして感謝しようとしてるんだろうなっていう感じを受け取ることがあります。
お互いのことを話してるときとかに、夫はこうでね、とか。
自分の夫のことを話してるときに。
自分の夫のことを話してるときに、夫もこういう時はこういう病気したんだけど、家族でお祈りして、こうやってうまくやって本当に嬉しくて、とかいう話をしてるのを見ると、なんかこう、絆が強いなっていうふうに思うんですけど。
わかんないですよね。人にはいいとこしか見せないから。
でも、そういう言葉を口にするっていうことは、少しはそういうのを思ってるってことですもんね。本当に対して大切さを感じてるとか。
そうですね。家族を大事にするっていうのは、文化の中でもすごく感じてて、アメリカで住んでいて、それがキリスト教との影響なのかどうなのかっていうと、でもやっぱりキリスト教がものすごく深く根付いてる地域なので、そうだと思うんですけど。
じゃあ例えばどういったところで感じますか。
例えば、本当に地域にあると思うんですよ。ニューヨークだとそうじゃないとかあると思うんですけど、もう私たちが住んでいるところとかって、もう金曜日になったら3時とかに会社から帰り出す。
めっちゃ早いですね。
定時は5時とか6時なんだけど、もう金曜だから家族と過ごすし。
めっちゃ早い。
そうなんですよ。道路もめちゃめちゃ混み出すんですよ。3時とかになったら。え?って働いてんじゃないのみんなって感じ。そうなんですよ。
だからそれぐらい家族との時間っていうものをすごく大切にしていて、それこそ私第二子を産んだときに、日本だと最近は男性の育休も盛んになってきたと思うんですけど、それでもちょっと取りづらいとか、男性が取るのとかあると思うんですけど、
アメリカだと、休むでしょ。それはもう休んでサポートしなきゃっていう感じで、家族のことをどれだけ支えるの?支えなきゃっていう、家族をすごく大事にする文化があるので。
どうなんだ。今回出産されるときも夫さんにみんな休むんだろう?みたいな感じだったんですか?
地域文化と教会
そうですね。周りの人もいつでも休んだらいいし、サポートがいるんだったらするからねっていうのを夫にも言ってて、夫も実際1ヶ月間在宅勤務みたいな形で、在宅勤務って言っても仕事をすごいバリバリできるわけじゃないけれども、相方も仕事の同僚も上司ももうそれはいいから。
っていうのをすごく言ってくれて、サポーティブですね本当に。
いいですね。文化的なもの、テキサスっていうその土地柄もあるんですかね。
アメリカの南部の方、テキサスが南部に位置してるんですけど、すごくキリスト教が強いって言われてる地域なので、本当に教会がコンビニよりたくさんありますね。
すごいですね。
めちゃくちゃたくさんあります。
買い物するわけでもないけど、お祈りするためだけに行くわけじゃないんですか?いろんな用途があるんですか?
そうですね。私から見た教会の役割って、本当に地域のコミュニティの役割を果たしていて、そこでいろんなイベントもあるんですよ。
ちょっと前だとクリスマスバザーっていうのがあって、クリスマスにまつわるキャンドルとかケーキとかいろんなクリスマスグッズをみんなが持ち寄って、お店が出して売るんですけど、
運営は教会のメンバーの人たちがボランティアでやっていて、買い物してる人たちは別に教会のメンバーじゃなくてもいいんですけど、すごいたくさんの人が買いに来てて、
テーブルと椅子が置いてあって、おじいちゃんおばあちゃんが仲良く談笑してたり、地域の交流がそこで生まれてて、そこに行くことが生き甲斐というか。
町内会みたいですね、日本で言うと。
本当にそうなんですよ。町内会よりも、言ったら同じ神様を信じてて。
めっちゃ絆強そうですね。
考え方が似てるんですね。いろんな人生観とかが。考え方が似てる人たちの集まりだから、そこで友達がめちゃめちゃできるんですよ。
確かに価値観同じですもんね。
そうなんですよ。だからそこでコミュニティが広がって、日常生活でも助け合って、友達になって、家族ぐるみで付き合って、みたいな風になっていくので、
どこかに引っ越すと、まず教会探しから始まって、自分に合う教会っていうのをいくつか訪ねて、ここだって決めたら、もうそこでコミュニティを広げていくっていうやり方をしてて。
めっちゃいいなと思ってるんですよ、教会のあり方が。そうなんですよ。
社会の中で孤立もしにくいし、家族間の絆も強まるだろうし、実際、かよこさん自身は家族間の絆が強まったと感じます?
私たちは家族ぐるみで教会に属してないので、そういう繋がりはないんですけど、ただ私自身も教会のメンバーではないんですけど、
ある教会の私の聖書の先生のおばあちゃんがメンバーの教会のところにイベントに行ったりとかすると、
そのメンバーの人が、部外者のキリスト教徒じゃない私にもものすごくオープンで、
キリスト教徒じゃないのにミサ来ないでよとか、そんなこと全く言わず、どんどん来てよとか、
でも私、言ったら信者じゃないけど、そんなの関係ないよっていうので。
優しいですね。
すごく優しいし、キリスト教徒の聖書を教えてくれるっていうのでも、私知りたいので結構物質っ気な質問をするというか、
なんで信じてる人しか救ってくれないの?とか。
確かに確かに。
みんな天国に行くことが目的でキリストを信じてるの?とか聞くんですけど、それも結構すごく考えて真摯に答えてくれるので。
優しいですね。
すごく優しくてオープンマインドですね。
家族の絆ではないけど、人間同士の絆を築きやすいっていうのを感じます。
なるほど。
となると、アメリカはニコニコ率が高いとか言うけど、テキサスのニコニコ率っていうのはどうなんですか?周りを見ていて。
どうなんだろう。
私の周りで、いや全然いないです。
いないんだ、そうなんだ。
やっぱりバラつきがあるのかな。
バラつきがあるのかもしれないです。
私の知ってるアメリカ人夫婦も何十何百っているわけじゃないので。
なんですけど、娘の前の保育園で一組いたかなぐらいですね。
大体少ないですね。
少ないですね。
もしかしたらそれは文化的な、家族の絆とかを大事にする文化的な要素がその土地に根付いているから、なかなか離婚がないとかのかもしれないですね。
なのかもしれないですね。わからないですけど。
なるほど。わかりました。ありがとうございます。
家族間の絆の変化
ちょっともっといろいろ詳しくお聞きしたいんですけど、後半の方は日々ちゅうずまの方でお送りをしたいと思うので、そちらの方ではかよこさんご自身が結婚されてアメリカにちゅうずまとして行かれて、そちらの出産をされてっていう家族のいろんな歴史があったと思うんですけど、
その中で夫婦間がどのように変わっていったのかっていうのを日々ちゅうずまの方でお聞きしていきたいなと思っています。
ぜひぜひよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい。
ということで、今回はここまでとなります。
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また、夫婦間距離深く学べるニュースレター、夫婦間計画ニュースレターを毎週金曜日に発行しています。
概要欄からチェックしてみてください。
日々ちゅうずまのリンクも概要欄に貼ってありますので、ぜひ見てみてください。
ありがとうございます。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
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