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2025-02-02 25:24

#172 陸前高田のボランティアを支えた住田町基地

前回に続いて、災害ボランティア体験談です。

陸前高田のボランティア向けに宿泊所として開放されていた住田町基地こと大股公民館について。


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サマリー

このエピソードでは、住田町基地が東日本大震災時にボランティア活動を支えたことについて、宿泊や食事、出会ったボランティアの様子が語られています。特に、住田町基地の歴史やボランティアセンターとの連携に関する印象深い体験が紹介されます。また、陸前高田の復興支援におけるボランティア活動の重要性や、その中での出会いや体験についても言及されています。さらに、心のケアや地元の人との交流を通じて支え合うボランティアの意義についても触れられています。

住田町基地の紹介
このポッドキャスト番組は、建設コンサルタントという、わかりにくくつかみにくい業界について、あれこれお話をしていく番組でございます。
今回はですね、前回に引き続いて、私の東日本大震災におけるボランティアの体験の話を、体験というか経験の話をしたいと思います。
前回は、どんな風に陸前高田まで行ったかということと、ボランティアの中でどんな活動をしたかというような話などをいたしました。
今回はその私が行ったのは、3泊4日の活動を2回ぐらい行ってるんですけど、その3泊をどのように止まったかっていう話で、
陸前高田市にはですね、住田町基地と当時呼ばれた、
ボランティアの人に開放をしている施設っていうか空間があったんですね。
で、それっていうのはですね、陸前高田市の隣に岩手県住田町、何とか県住田町っていうところがありまして、
その住田町の中心地からさらに近くにある、
というところが、当時住田町基地として開放されていたんですけども、
その大股公民館というところが、
大股公民館っていうのは、旧大股小学校で震災が起きたその当時はもう大股公民館になってたんですけれども、
その大股公民館というのは、
大股公民館というのは、
大股公民館というのは、旧大股小学校で震災が起きたその当時はもう大股公民館になってたんですけれども、
公民館とは言われているけど建物そのものは旧小学校で、大きい体育館があったんですよね。
あれ木造だった気がするなぁ。ちょっと記憶が曖昧だけど、あの体育館も木造だったような気がするなぁ。
その木造じゃないかもしれません。ごめんなさい。木造じゃない可能性もあるんで。
とにかく大きい体育館がボランティア向けに開放されていて、そこが住田町基地と呼ばれていました。
私がいくつかボランティア先として、どこにボランティアに行こうかと。
東日本大震災って、これを聞いている人はよく知っている人もいるのか、そんなに記憶にない人もいるのか、
西日本の人とかはそんなに印象がないかもしれませんけれども、
被災地が広いんですよね。津波の被害を受けた場所がたくさんあるんですよね。
太平洋側の沿岸地域がたくさん被災をして。
ボランティアに行こうと思った時に、どこに行くかということを考えることになるわけですね。
その時に私が陸前高田を選んだのは、住田町基地というように宿泊することが可能だという情報がインターネットで調べていて、わかったからなんですよね。
多くの場合、いろんなボランティアの方は、当時私が行ったのは2011年のお盆とその翌年12年のゴールデンウィークなんですけれども、
車で行って車で泊まっている人が多かったと思います。どこのボランティアでも。
住田町基地という旧小学校の体育館も、大きい校庭が駐車場として開放されていて、そこの駐車場に車を停めて車で寝泊まりしている人もいました。
住田町基地はそれだけじゃなくて、車を持っていない人でもボランティアセンターが部分的に送り迎えをして、
送り迎えといってもね、前回話しましたけど、バス停までは自力で来てくださいと。
そのバス停から住田町基地の送迎はなんとかしますみたいな。そんな風に当時情報発信をボランティアセンターさんが当時してたんですよね。
これなら行けるし、泊まれるし、そのボランティアセンターの住田町基地までたどり着けば、ボランティア同士の乗り合いでリクゼン多方のボランティアセンターまで毎日行って帰ってができるぞという目処が立ったというか、目星がついたんで行くことにしたっていう経緯があります。
リクゼン多方のボランティアセンターはケセン川のほとりにあって、リクゼン多方市内にあるんですけど、車で20分くらいの距離なんですよね。住田町基地っていう宿泊している場所とボランティアセンターの距離っていうと20分くらいの距離なんですけど、乗り合いで行ってるっていう、そういう施設だったですね。
どういうふうに泊まるかって、体育館が開放されている状態なんで、当然寝袋は自分で用意していって、その体育館の上に寝袋を敷いて寝るっていうのと、ボランティアセンターとかに向けての支援物資みたいな感じで、銀色のマットが配られてたかな。
私キャンプ用のエアマットを持ってたんで、それを持って行きましたけどね。それで泊まっていましたですね。
あと食事は前回もちらっと話しましたけども、私が行ったお盆の時点でコンビニがローソンでしたね。いち早くオープンしたりとか、スーパーも一軒オープンしてて、そこで食材を買って、住田町基地は炊事場があって、それも使っていいよってことになってたんで。
結局ですね、ボランティアで集まるとすごくすぐ仲良くなるもので、誰もがそうかわかりませんけど、私はそう感じました。ご飯作って一緒に食べるっていうのを自然としてましたね。
自分でお弁当買って自分でお弁当食べてるみたいな人もいました。その住田町基地はお盆に行った時にはシャワールームが完成してたんですね。
ボランティア体験の記録
それもボランティアの人と地元の人が結構無償で作ったみたいでしたね。仮設のシャワールームみたいなやつを住田町基地の工程の一角に作って、そこで一応シャワーを浴び入れる。
シャワーがあるっていう情報はオンラインで発見してなかったんで、体を拭いてみたいなつもりで行きましたけど、実際にはシャワーは使えました。
そこでいろんなボランティアの人との出会いっていうのはすごく印象的で、私は公共交通機関で新幹線とバスで陸前高田入りをしたので、住田町基地からボランティアセンターまでは車に乗せてもらう必要があるんですけど、
私をずっと乗せてくれた人は、その人も被災者だったんですよ。
被災者っていうのは津波の被災者ではない。津波が到達はしていない地域だけど岩手県内に住んでいて、
家も倒壊はしていないって言ってましたけど、損傷みたいなことはあったけど、私が行ったお盆の時点では震災からもう何ヶ月が経っていた状態で、家が一通り片付いたのでボランティアに来たっていう方でしたね。
岩手県内とか近郊近隣で被害に遭った人が、さらに大きな被害を受けた陸前高田とか沿岸地域にボランティアに来るということが、その方だけではなくある。
どれくらいいたかは、ボランティアにたくさん参加していたんだけど、その中のごく一部の人としか会話していないんで、わかりませんけど、そういうパターンがあるんだなと思って印象的だったですね。
確かに最後その人、一ノ関の駅まで送ってくれたんだよな、車で。そんなこともありました。
特に印象的だった人は、墨田町基地で一番長期にボランティアをやっている人がいて、その人は北海道で経営していた牧場を畳んで、それでもう畳んだ。
多分売却したってことなんだと思うんですけど、そのお金で暮らしているっていうような人で、あの人当時50歳ぴったしぐらいだったのかな、60はいってないぐらいだったと思うな。
40代だったかもしれないですけど、そんなに年上の人というわけでもない。でもおじさんでしたけど。
5月からずっといるみたいに言ってたような気がしますね。4月かな。4月からずっといるっていうようなこと言ってたと思います。
だからその時点で4、5、6、7、8、5ヶ月。私がお盆に行った時点では5ヶ月。
さらに翌年のゴールデンウィークに行った時もいたんで、それでだから1年以上墨田町基地に寝泊まりして。
でもあの人はね、墨田町基地にはずっといるんですけど、校庭に泊めた車に寝泊まりしてましたね。
その人はすごく長くいる人で、森久前高田の地理もすごく頭に入ってて、なんかボランティアセンターにとってももうお任せの人みたいな感じになって。
前回も言いましたけど、災害ボランティアっていうのはその現地にどんなニーズがあるかということと、
その日突然事前登録もなしにボランティアって現れる人もいっぱいいるんで、その人に毎朝毎朝フレキシブルにニーズマッチングをする必要があって、
それをやってるのがボランティアセンターっていう組織なんですけど、そのボランティアセンターの方々にも、
その牧場を畳んだ人は独立部隊みたいな感じで、じゃあ何人くらい連れてどこそこ行ってくださいみたいな。
OKとかって言って、じゃああれ君こっち一緒でとかって言われて、終わりましたって言って、
さっき言った車乗せてくれる人とか行ったりとか別の車で行ったりとか。
とにかく毎朝ボランティアセンターに集合してから作業する場所に移動して、またボランティアセンターに戻ってきて帰るという日々なんですけど、
そういうぐらいボランティアセンターと一体になって活動してるような人だったですね。
印象的でしたね。
あの、そうね、前回話したっけな、話してないかな。
松の木をですね、海岸からゴロゴロと転がして移動するっていうボランティアがあったんですけど、ものすごい暑い日でね。
で、岩手の海岸って結構石が大きくて砂浜もどっかにあるかもしれないですけど、
松が転がしたのは結構ゴロゴロした石の砂利のような海岸で、なかなか転がんないんですけど、背中で押したり手で押したりしながらずっと転がして。
で、あれ君疲れたでしょうとか言って昼休み、私当時タバコ吸ってたんですけど、タバコ吸いながら。
で、いろいろ考えて、こうやって運んだりしても全然うまくいかないんですけど、とにかく転がすしかないですねみたいな話をしたら、
あれ君その通りだよって言って、なんていうかひたすらやるしかないことってあるんだよみたいな風に言われて、あ、そっかみたいな。
普段仕事何してんのみたいな話で、コンサルって頭使う仕事じゃないですか。
で、工夫を考えるんですけど、精一杯頭を使いつつ、でもとにかく手は止めない、体は止めない、そうやるしかないよみたいなことを言われて、
すごく新鮮な体験だったんですよね。まあまあそういう独自の哲学を持った人でしたけど。
あとですね、長期に隅田町基地に顔を出してる人には、地元に住んでる人あれは隅田町に住んでる人なのかちょっとわかんないけど、
結構近くに住んでて、基地に顔は出すけど家に帰っていくみたいな、そういう人もいましたですね。
ボランティアも自宅からボランティアに行ってるみたいな、そんな感じの人も中にはいましたですね。
あと山口県から軽自動車で来た人いましたね。あれも山口県から軽自動車で来て、途中車中泊してきましたとか言って何回泊まって行ったのか、2泊して行ったのか、
いや一泊では無理だろう、山口県から岩手県は。とにかくね、そんな人とかも遠くの人で言えばいましたですね。
あとどこかの市議会議員の人いましたね。
そう、名刺渡されましたね。
市議会議員の人、一緒に松の木転がしたような気がするな。そういう人もいたし、
あとは関東から自転車で陸前高田まで来た人がいましたね。あれ学生さんでしたね。
なんか看板下げて、ボランティアにこれから行ってきますっていう看板を下げて自転車で来ましたっていう、何日かかけて来ましたっていう人いましたね。
当時ね、日本を縦断してチャリティーみたいな感じでマラソンしてる人とかもいたんですよね。
どこから縦断してたんだろう。鹿児島県から岩手までマラソンしてたのか、東京からマラソンしてたか知らないけど、そういうチャリティーのことをやってる人とかもいたんですけどね。
北海道から牧場を畳んできたボランティアの師匠みたいな人は、そんな人に知らせることよりもただ地道に自分の体でボランティアをする方がいいんじゃないかって渋めのことを言ってて、
あんまり広めるっていう活動そのもののことを評価してないような意見を言ってましたけど。
そういう考えもあるかなんて思って、私はどっちがいいとも悪いと思ってわかんないですけど。
あと外国人、たまたま私が出会った人は外国人でしたけど、アーティストの人いましたね。
あの人普段どんなアートをやってるかわかんないですけど、なんかしおりを渡されましたね。
あと修行中のお坊さんみたいな人いましたね。
あの人当時70歳って言ってた気がするな。65歳とか結構高齢なんだけど、すごい体が引き締まってて。
筋肉粒々のムキムキではないんですけど、細身ではあるんですけど、すごい引き締まってるお坊さんで。
自衛隊が募集してるボランティアに参加してたんだけど、その期間が終わったからこっちに来たっていう感じで。
もう本当に翌週翌月くらいから、震災のすぐ直後からずっとボランティアをしてるみたいな。
出会った人々
なんかそんなようなことをその人は言ってましたね。
その修行中のお坊さんのような人とは、すごい仏教の話をその人はしてくれて、欲というものについて語ってくれたりとかね。
それは結構面白かったですね。
なんか普段もすごい結構過酷な暮らしをしているようなことを言ってたんですけど。
まあそんないろんな人との出会いがありましてですね。
なんていうか、印象的でした。
出会いがたくさんあって。
まあなんか一つの問題意識というか、問題意識って言うのかな。
その被害を受けてしまった場所、被害を受けてしまった日本に対して何かをしに来ている。
っていう共通点があるだけで、いろんなバックグラウンド、いろんな場所から来た人が、たまたまね、
隅田町基地っていう場所があることによって一堂に返して一緒に食事をしたりとか、
そういう機会があったのは、すごく印象的だったですね。
前回話したっけな、その柿。
この間話した話も覚えてない。
柿のいかだ作りのボランティアの作業があったと言ったじゃないですか。
そのいかだ作っている時に、柿の養殖、養殖屋さん、柿の養殖。
いわゆるそのいかだのオーナーの人がね、様子見に来てくれて、遠くから来てくれてありがとうとかって言って。
それで、復興したらこの柿食べてきてね、食べに来てねって言われたんですよね。
あの、そのいかだ作っている時に、柿の養殖、養殖屋さんって、
この柿食べてきてね、食べに来てねって言われたんですよね。
あの、君たちこの柿を食べるまでがボランティアだと思ってねって、絶対おいしい柿作るからって。
おっしゃってて。
私はね、恥ずかしながら、その柿の営業がいつ再開したかわからないけど、
その後、仕事で陸前高田に何回か行く機会はあったんですけど、
現地で柿を食べるっていう機会はその後なくてですね。
なんかそんなこんな言ってるうちにコロナになって結婚して子供が生まれてって言って、
なかなか行けてないんですけど、いつか行きたいなーって思ってますね。
あともうちょっと印象的だった、もうちょっと話をすると、
けせん大工盛んでんしょうかん、これいきなり言っても意味わかんないよね。
けせん大工、あの辺けせん地方って言うんですよ。
けせんっていうのは、空気の木に千人の千でけせん地方って言って、
陸前高田にけせん川っていう川が流れてるのも空気の木に千人の千なんですけど、
ちなみにけせん沼っていう自治体っていうか、けせん沼市だよなたぶん市があるんですけど、
けせん沼は隣っていうか隣接してるかわかんないけど、別の場所なんですよね。
けせん川が流れてるのはけせん沼じゃなくて、陸前高田市ってちょっとややこしいんですけど、
けせん大工、あの地方って大工さんが昔から有名というかね、いらっしゃるらしくて、
けせん大工盛んでんしょうかん、盛んはこれ聞いてる方はわかるかもしれないですね。
シュッシュッシュッってコンクリートをきれいにする、あれが盛んっていうことだと思うんですけど、
そのでんしょうかんっていう公民館みたいなのがあって、
それはですね、結構沿岸地域にあるんですけど、あそこリアス北海岸で結構高い場所と低い場所があって、
その盛んでんしょうかんは高いところにあって、山の上みたいなところに、
本当に海を見渡せる山の上みたいなところにあって、あまり崩れてはいなかった、被災してなかったんですよ。
で、その私は2012年のゴールデンウィークに行ったときだったと思うんですけど、お祭りをやっててね。
で、1回ね、そこに派遣されたことがあって、ボランティアセンターから。
あれ、ボランティアとして行ってきてくださいと言われたのか、どうだったかな、行ってみてくださいって言われたのか忘れましたけど。
で、その盛んでんしょうかんで、地元の人なんかがお祭りに集まっていて、その人たちとお話をすると。
で、この話を何でしようとしているかというと、ボランティアの種類の中にはね、体を使って肉体的な作業をするだけじゃなくて、
被害を受けた人とお話をするっていう種類のボランティアもあるんですよね。
で、盛んでんしょうかんでも現地の人といっぱいお話をして、あの時、鯉のぼりがいっぱい流れてた気がするな。
そう、お話をしました。で、実はね、このお話をするボランティアっていうのは、私全然別の震災でやったことがあって、
それが中越沖地震っていう地震があるんですけど、新潟の海の方で発生した、
海の方でを震源とする地震なんですけど、その中越沖地震が起きた時、私は大学生で、
ちなみにその何年か前に中越地震っていうのがあって、中越地震も中越沖地震も両方私大学生で新潟にいて、
で、その時大学生の時にボランティアに行ったのは、中越沖地震で被災をして避難生活をしている人のコミュニティスペースみたいなのがあって、
そこに行ってお話をするっていう、あのね、そうそう話でしたね。子供がいて子供と一緒に遊んだり、
高齢者の人もいて高齢者の人ともお話をしたりみたいなそんな話でしたけども、そういうのもあります。
で、この私がボランティアの話をし始めているきっかけは、けんこんレイディオさんでヤモリンさんっていう方が話してたボランティアの、
チラッとボランティアの話をして、東日本大震災のボランティアの話をしてたのがきっかけなんですけども、
そのヤモリンさんは東日本大震災で落語をやってたんですって、もともとオチケンの方らしくてね。
で、そうそうそう、確かにそういうボランティアあるし私もやったことあるなと思って、なんで今回ボランティアの話をしているのはですね、
いつどこでまた大きな災害、日本で起こるかわからないですけど、あの起こった場所と規模によっては、
これを聞いている誰もがボランティアになる可能性もあると思って、
その時に何か参考になる話として残せたらと思ってお話をしていまして、
なので松の木を一生懸命転がしたりとかですね、胴部をさらったりとかそういうちょっとこう肉体作業的な話をしましたけども、
それだけじゃなくて、あの被害に遭った人とお話をするっていうことそのもの、
それだけでも被害を受けた人の支えになる活動があるので、
体力に自信がない人とかでもボランティアっていうのはできるので、
なんていうかな、なんかそこに自信がなくてもですね、
被害が受けた場所に赴いて何か助けになることをしたいと思った人は、
そういう種類のボランティアもありますよということをちょっと頭に入れていただいてですね、
機会があったらぜひアクションしてみていただければと思います。
そんなところで、2回にわたってお届けしましたボランティア編ですけれども、これで終わりたいと思います。
心のケアと支え合い
最後まで聞いていただいてありがとうございました。
もしボランティアに関する質問がある方も、質問ご意見フォームの方に書いていただければお答えしたいと思いますので、ご連絡いただければと思います。
最後まで聞いていただきありがとうございました。
25:24

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