1. 質問型営業
  2. 第58回 特別ゲスト・プロ野球..
2016-06-17 43:28

第58回 特別ゲスト・プロ野球選手石毛宏典氏『ドラフト1位が決まった時、プロ野球選手になる気はなかった!?〜モチベーションの源泉は“感謝”〜(中編)』

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第58回 特別ゲスト・プロ野球選手石毛宏典氏『ドラフト1位が決まった時、プロ野球選手になる気はなかった!?〜モチベーションの源泉は“感謝”〜(中編)』
上場企業から中小企業に至るまで、2万人を超える営業支援を行った青木毅が、営業に関わるあらゆる問題をわかりやすく解説する番組です。
00:04
青木滝氏の質問型営業
営業、それは商売の原点
トヨタ、大阪ガス、青京などの営業マンも実践
2万人を超える営業支援を行った青木滝氏が、営業の真髄を語り尽くします。
こんにちは、遠藤和樹です。
青木滝氏の質問型営業、青木さん、本日もよろしくお願いいたします。
はい、よろしくお願いいたします。
青木さん、よろしくお願いしますということですが、
この間は本当に勇気の湧く話でしたね。
そうですね、今日もゲストを
そうなんですか。
ちょっと喋らせて。
どうぞどうぞ。
雑草のごとく生きてきても、営業マンよ、頑張れと。
必ず光が見えてくるぞという、そういう感情をさせるような
メッセージをいただきました。
本当にいいお話でございました。
青木さんが一番感動してたんじゃないかというくらい興奮されておりましたが、
本日もゲストとして石原ひろみつさんをお越しください。
はい、よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
この間いいお話でしたね。
おっしゃいます。
青木さん自身が多分同じようなプロセスを歩んできて来られたから、
共感することがあるかもしれませんけど。
そうですね。
本当に私もね、多少営業でやってきましたけど、29歳まで緊張症でね、
人前で全然見えませんけど。
そう言われるんですよ。
いや本当に、それ理由があるんですけど、青木なんで、
順番がいっつもね、赤字が一番やったんですよ。
はいはいはい。
それでもう緊張症になりましたね。
でもそれじゃあかんということで、人と話すね、
そういうことを鍛えなあかんということで営業の世界に入ったんですよ。
へぇー。
だからそこからですよね、活躍しだした。
自分で活躍っていうのもなんですけど。
じゃあ自分のそういう欠点を逆手にとって、それを克服しようとして。
そうそうそうそう。
そしたらなんかがむしゃらに、もうだから分かんないから、
もうがむしゃらにやったわけですよ。
そしたらなんか1年間終わったら、全国でトップ10ぐらいに入って、
一番驚いたの自分なんですね。
えぇー?
表彰なんて私、それ思ったことないですよ。
ところがそれから舞台に立つようになりますね。
でも今お客さんが言ったその言葉がむしゃら?あるいはシャニング?
そういった言葉、今死後に近いんじゃないですかね。
なんかスマートにかっこよく、効率よく仕事をしましょうみたいな人いるけど、
そんなんじゃ仕事は身につかないと思うんですよね。
03:01
まあだから私がやったような、営業で教えてるのは私がやったような形でする必要はないと。
まあ言えばそういう一つの法則とか方法っていうのは提供してるんでね。
だけどそれを極めていくのにはそれにもう一途になって、
短期間でガーッとやってもらうとね、やっぱりすごく早く身につくっていうね。
そしてそれ以上のものになってほしいなっていうね。
そういう気持ちはありますよね。
でもまだそれ以上になった人はいないわけでしょ?
青木さんを追いに行った人はいないわけでしょ?
まあそれでも結構業界の中で活躍、成績が今まで中盤にあったのが活躍しだしてくれる人とかね、トップになる人とか。
そういうのはありますよね。
でも青木さんは61になって。
まだ60ですけどね。
こだわりますね。
でもその29から40をやって、今までの30年間はいろんなことやってこられたじゃないですか。
その経験値のもとで自分で身につけたノウハウって言っていいかわかりませんけど、
それを後輩たちに伝えて、後輩たちに頑張れと。
でもその後輩たちのある面では、青木さんの頑張ったノウハウを譲り受けて、
その今までのプロセス、そのいろんな屈辱だ、挫折だ、感じないままそんな風になれるんですかね。
いい質問ですね。
また壁が来るとは思うんですよね。
だから味わわなくてもいいものは短期間に済ませてもらいたい。
そしてさらにその上を行ってもらいたい。
でも石井さんなんかも今教えてられるじゃないですか。
そういうことじゃないんですか。
そうですね。おっしゃる通りです。
僕らがいろいろシャニムに、がましらにやってきた練習が、
ある面では無駄な練習がたくさんあるわけですよね。
昔は水飲むなとかね。
全くとんじいかな練習がたくさんあったんですよ。
無駄な練習をしてきたから、その無駄なことをやっている若者、子供たちを見ると、
なんでこうなっているのか、その感覚がわかるわけですよ。
できない人の気持ちがわかる。
だからこうしましょうと。
一緒じゃないですか。
そういう正しいと思われる技術論を自分で掴んできたので、
それを人に伝えて、そんな回り道をせずに早めに上手くなって、
お父さんお母さんを喜ばせろと言っているんですよ。
お前ら感謝してるか?
お父さんお母さんに言ったら、感謝してますって。
どういう恩返しをするんだ?
将来プラキュア選手になってどうなるか?
いやいやいや、プラキュア選手になるかどうかわからない。
今とりあえずチームにいて、ライバルに勝って、
レギュラーポリエーションをとって、
ゲームで活躍しろと。
それでチームのご父兄から、
君たちのお父さんお母さんが、
お宅の世界ですごい活躍しててすごいですねって言ってもらうのが、
一番で今親孝行なんだお前ら。
06:01
だから無駄な時間をとりあえず俺たちが伝えるから、すぐ上手くなる。
おっしゃる?一緒ですか?
一緒ですよ。
ものすごいところで共感し合っているところがありますけれども、
リスナーの方々もプロの、転身してからの。
プロというよりプリンスの時代ですよね。
そうですね、プリンスの時代も含めて。
小マザーの中畑先輩が4年生で、
自分が今度4年生になったと。
神になった。
神になってるじゃないですか。
1年生、2年生、3年生はリーグ優勝もしました。
大学卒業で優勝もしました。
すごいね。
大学卒業になって、キャプテンに命じられて、
預かった最初の半年のリーグで再開になりましたね。
1部と2部のとうとうは、4部まであるんですけど、
その1部の再開と2部の優勝後の入れ替え戦があったんです。
いわゆる小マザー大学にとっては不名誉な屈辱でしたね。
屈辱だったんですよ。
で、入れ替え戦にあって勝って1部に残留したんですが、
そういったものがあって、
もともとプロ野球選手なんかに全く夢とか憧れたことが
一度もないんで、将来は社会人野球に行って、
大学の指導者になりたいという夢があったもんですから、
そちらの道を追いかけていったんですが、
それで僕は恩師の太田さんに、
お前プロ行くんだろう?と言うのはプロ行きません。
社会人野球行きません。
その場に及んでも、まだ。
考えられないよね。
2年、3年生と全日本のメンバーに選ばれて、
4年は小マザー大学が最下位屈辱が始まったので、
メンバーが選出されなかったんですが、
そんな過程があったから良くかもわかりませんけど、
社会人野球行ってアマチュアの指導者を目指したい
ということはお前の恩師には言いましたね。
それで、西武グループが西武ラウンズを買収した。
同じ時に将来は野球もオリンピックの
正式な種目になってくる可能性があるので、
将来はオリンピックを目指しますと言って、
プリンスホテルという新しくできた社会人野球の
企業チームを選んでいったんですね。
その当時は、六大学、小マザー大学、トートリーグ、
いろんな大学のキャプテン、
プロに行けるような選手をたくさん集めまして、
チーム編成してスタートしていったんですよ。
それも一年目?
一年目ですね。
そしたらそれもどつかれんかったんですね。
それはもう上に誰もいません。
一期生ですから強いですよね。
ついてましたね。
ついてましたね。
いきなり神様の…
神様からスタート。
それで、その時にどういう気持ちで行ったんですか?
今のオリンピックになるから俺も出ようみたいな。
そうですね。
そういったものは心底に描いてましたね。
09:00
社会人野球では都市大公という大きなイベントが
夏にある東京ドームで開催していくんですが、
そこに出るのが一つの大きな投入門で、
そしたら伝統ある社会人チームから
そんなスター軍団のプリンスに勝たせてなるものか
という形で…
いい選手をいっぱい引き抜いてたわけですね。
勝てなかったですね。
社会人の方々の意地だとか
スター軍団に勝たせたらダメだみたいなね。
やっぱりその社会人野球の厳しさを学んだし、
スター軍団集めたから
簡単にどうしたら出れるだろうが出れなかった。
プリンスホテルの社員の数当たりも強くなりますし、
それでまた学生時代は違ったいろんなものを感じて
ここでも勝てるようにしないといけないなという…
それでもまだプロにはなかったんですね。
その頃同期でプロになった人で
一緒にやってる人いらっしゃるんですか?
僕はセーブラウンズのドラフト1で行って、
中尾でキャッチャーのやつが
中日にドラフト1で行ったり、
次年度には金森っていう…
デッドボーンのやつ?
そうそう!
打たれてないの?
あとは慶応のキャプターのコリバがプロに行ったりですね。
プロ予備軍としてその後は
結構注目されるチームになってきましたね。
僕はプリンスホテルでは出れなかったんですが、
補強という…
予選で負けちゃうと
都市大公に出るチーム3チームがあるんですが、
その3チームから出れなかったチームから
補強と言って貸してもらおうって選手を取れるんですよ。
僕はそこで東芝府中という代表に選ばれた企業に
石原プリンスから呼びたいって言って、
僕は都市大公は東芝府中の選手として
移入も来て出たんですよね。
やっぱり夏のナイターで
社会人野球の祭典で
企業もたくさんの人が応援してくれるし、
めちゃくちゃいいんですよ!
プロ野球の日本シリーズもいいんですが、
都市大公はすごい雰囲気がいいんですよね。
日本シリーズと比較できるくらいの空間なんですよね。
やっぱり鳥肌が立つような野球陣として。
広木部隊ですよね。
そこで感じてしまったわけですね。
社会人野球いいなみたいな。
社会人野球入って最低2年はプロに行けませんでしたから、
それが1979年、1980年は
都市大公が終わった後、
世界選手権大会といって
今のオリンピックの前哨戦みたいなものですね。
WBCみたいな感じですよ。
そのアマチュアの大会で
キューバ行ったりしてたんですよね。
一応全日本のメンバーにも選ばれてたし、
12:01
終わって2年目が1980年、東京で
世界選手権大会が開催されたんですよ。
これで決勝9バーでやりましてですね。
1対0で負けて14勝だったんですけど、
9バーですもんね。
盛り上がりました。
その大会に東海大学の学生で
唯一出てた原辰則が3rdを守って、
僕はショートを守ったんですよ。
原栄茂の3優勘で。
話題にもなる。
活字にもなる。
それを見た親父がですよ。
周りから言われるんでしょうね。
お宅のせがれすごいねみたいな。
将来プロ行くだんべみたいに言われるわけですよ。
親父は次男坊だから
好きに行けるみたいな感じでしたから
え、うちのせがれそんなものになれそうなのか
みたいになっちゃって
一度帰ってこいやつって。
お前プロ行けってなったわけですよ。
なんでよ。
俺次男坊だから好きに生きていったじゃねえか。
言ったけどよ。
4年間お前にだいぶ金使ったんだからよ。
だけど4年間の経費返せみたいな。
返せよ。
で、分かったと。
じゃあお世話になって
親にそういうこと言われたんで
無理もできないんで
じゃあ親父、同じグループに
西部グループにセーブライアンズがあるから
セーブライアンズに指名されたらプロ行くと。
それ以外の指名だったら
俺は社会人に残って野球やっていいか。
打球は身出そうや。
分かった。じゃあそうしよう。
石井さんがまだその場に及んで
その場でグダグダしてるんだけど
それだけ
プロに魅力を感じなかったんですよ。
そっか。
当時はちょっと分かんないですが
プロ野球界、今だったらみんな行きたいですけど
プロ野球になる
選手になるってことはそんなに
憧れのままだない時代ではないですよね。
いやどうでしょうかね。
よくさっき先週も
言ったように
ミスター社会人みたいのいて
結構こう
社会人野球で企業人で勤められて
障害賃金いくら
プロに入っていくらみたいな
計算する人がいらっしゃって
だからプロが全てじゃねえだろう
みたいなたくさんおったわけですよ。
僕は社会人野球2年行ってるし
そういった方がたくさん周りにいらっしゃったんで
それもそうだよな
まず第一に
アマチュアの指導者になりたいという
大きな夢みたいなのがあったんですから
もともとそういう風には流れていきますわね。
そういうことか。
それで運命の
ドラフトの日ですよ。
僕がその当時東京プリンスホテルで
営業マン、販売部にいましたから
で、支配人が
チャバチャバってきて
意思が決まったやつから
何ですか?って言ったら
ライオンズじゃん。そうですか?って
仕方ないですね。
仕方ないですか?
まったい。
ライオンズが引っ張るのね。
あ、ドローやね。
根本さんが根本に行こうという方が
監督で引き当てたんですけどね。
これはね、しかし
運命ですね、これ。
15:01
神様やな。
いや、その当時支配人が
亡くなっちゃって
僕らがシーズンオフ仕事するじゃないですか
ホテルマンとしての
お前の立ち振る舞いは立派なホテルマンになれると
俺が支配人作るって言ってくれたんですよ。
じゃあ
社会人野球頑張って
支配人やって表彰されて
監督やって将来は
東京プリンスホテル支配人に収まろうかな
という人生設計みたいなのが
ちょっと生まれてきましたね。
それで
そのドラフトの日に
石が残念だった。
残念?
めちゃくちゃな会話でしたよ。
支配人と僕の会話では
二人の会話がそういう会話だった。
はぁー
もう普通はやったなみたいな。
それから
泣く泣く
プロ野球
ドラフト1位で
そんな人いるのかなというぐらいですけど
それでいよいよプロの道へと
そこからどうなったんですか。
セリーニングは
ヨメリ巨人軍に原辰古が行った。
ドラフト同期で石木が
西ブランジに入った。
原石木という
僕の中では当然
サラブレットの原と
こっちは雑草とは言いませんけど
這い上がってきた人間
これ負けるわけにはいかないなと思いまして
相当ドラフト指名を受けたからは
受けた後の
12月の下旬くらいからは
相当体が動かしていましたね。
はぁー
これは負けらんねえというところでしたね。
だからずっと聞いていると
そういう闘争心とか
甲子園には負けたくない
甲子園組には負けたくない
負けたくない
今度はセリーに比べて
パリーンじゃないですか
いくら人気が徐々に出てきたと言っても
原に対して石木だったので
負けらんねえなと思って
それこそまた
それこそ無我夢中でやって
3割一部一輪
小村二次一本
立派な数字を
すさまじい1年目ですね
その時にはもう
野球ということを
極めていくというか
何となく分かってきたみたいな
いやまだ分かりませんね
まだ分かんない
野球の基本だとか
よくみんな言うじゃないですか
基本って
基本がなんだろうか分かってはいませんでしたね
基本がなんだろうかということはどういうことですか
簡単にみんな
基本を大事にしよう
とか言いますけど
その技術における
基本って何って言ったら
はっきり答えられるしない
僕はいないと思うんですよ
今この年になって
気がつくのは
基本というものはやっぱり人間の
生身の体を使ってプレーするわけですから
やっぱりその
無理がたたったら故障に入るだろうと
だから無理しない身のこなしが
18:01
まずあるだろうと
故障しない身のこなしがあるだろうと
野球はやっぱり
防御率だとか失礼率だとか
確率アベレージを高める
スポーツなんで
正確さを求める身のこなしがあってもいいだろうな
と思いますね
もう一つ3番目には
相手がいるスポーツなんで
予期せぬプレーから
身を守れる身をかわせて大きな怪我にならない
という
そういう身のこなしがあるだろうと
故障しない身のこなし
確率を高める身のこなし
予期せぬプレーから身を守れる身のこなし
その身のこなしが
僕は基本ではなかろうかなと思って
若者事なちに教えてはいるんですけどね
じゃあその頃は
どういうような感じだったんですか
基本なんて考えたことはなかったですね
ああ
だから自分が今までやってきた
ものが評価されて
全日本のメンバーにも選ばれた
俺野球にもドラフトで指名されるようになった
じゃあ俺のやってることは
ある面ではいいんだろうな
下手じゃないんだろうな
そういう身のこなしがなかったですね
うーん
ちなみに今野球を
仮に100分当たっている状態だとした場合
当時プロで
ドラフト1位かかるくらいの時の
しげさんという方はどのくらい
野球を理解していたのか
技術論はそれこそ1割か2割じゃないですか
身体さっき言ったように
身体能力がやっぱり4割5割
あともう一つ野球感
というのがあるんですけど
そこは案外こっちのほうが大事かもわかりません
こっちのほうは案外自分ではわかったほうがあります
技術とかで言うと1割2割程度みたいな
世界ですか
青木さんとかは実際営業で
かなり日本で世界のランキングを
取った時あるじゃないですか
今でこそ営業度を極めて
教えも本も出し
やってますけど
その時の活躍していた自分ってやっぱり
営業としてはどんな感じだったんですか
ものすごい質問に困りますね
めちゃめちゃイケてたとか
全然ですよね
やれることは何でもやろう
みたいな
という感じですよね
あんだけ成績出した時も
いやーだから
わからんかったですよね
とにかく
お客さんの前に行って喋ると
いうことで一生懸命やって
決まった採用頂いた
採用頂いてないとか
何が採用頂いたかも分かってない
ただ喋れたとかね
そういう
時代があってこれはどういうことなのか
ということで今度は少しずつ
分析をすることが
出来るようになった
時代もありますけどね
だけど最初はそんな
シャニムですよね
陸戦的だと思いますね
野球だと本能ですよね
来たボールを打つ
来たボールを取って受けて投げてアウトにする
チャンスがあれば走るという
動物的な本能で
野球やってきた気がしますね
でも今思うと
21:01
その本能も凄い大事だなと
分かります
私営業着いた時に
その前の会社のトップに
お前ちょっと折れと
じっと一人考えろと言われて
考えて飯食えませんと
言って出て行きましたよね
我々は
フルコミッションセールスマってやつだ
だからもう給料が無いんですよ
売ったら青天井
何本でも取れる
その代わり床も無いんです
つまり
ドツボはハマっちゃうので
だから自分で稼がないとしょうがない
という世界におりましたからね
そういうことでとにかく会って
話すというようなことを
一生懸命やってましたよね
僕らもそうでした
考えているのに体動かせみたいなね
考えているのにバッと震えるみたいなね
そういう指導だったんですよね
そんな形で
25歳ぐらいの時にやっと
プロ野球というところに
普通はね25歳でプロ野球デビューですね
開幕ゲームはロッテ
川崎球場だったんですよ
ロッテのエース村田超司さんが先発だったんですよ
一番ショートで出たんですよ
ひきなり一番
まさかに東宝ですよ
ファンからストレート
センター前に弾き返して
プロ初出席初出席だったんですよ
次に宇宙館2ですかな
で何かボンドがあって
次に宇宙館ホームラン
すごい活躍
2通りくらいしたんですよ
それも根拠ないですよ
北もローもとりあえず一生懸命打ちに行くという
さっきボンドが大事だった話しましたけど
これだとプロ野球に来るような人間は
そこそこ結果残せるかもしれません
ただ野球というスポーツの
一番厄介なところは間があるんですよ
1球1球サインのシグナル
ピッチャーが投げるまで何秒間
プレーが止まってサインを出す
その何秒間
3時間のゲームがあったら
実際ボールが動いている時間は
20分から30分しかないですよ
残りの2時間半は全部野球が止まっているわけですね
プレーが
考えるわけですよ
プレーしてしまうから板の子供で考える
どうしようどうしよう
こうなるか
その変な予測が
頭が逆に野球を複雑にしてしまっているんですよね
抑えるじゃないですけど
気をしない状態
野球人というのは多少選ばれていない人間が
ドラフトによって来るわけですね
プロ野球選手になりたいと言っても
ドラフトを指名受けないとプロに入れないわけですね
そういう人間というのは
案外ほっといてやらせたら
そこそこ数字残すかもしれません
それだけの
資質はあると思うんですね
身体能力も含めて
それが目の前のライバルがいる
うわすげえハイボールがいる
うわすげえバッターがいる
こんなに重い人がいるとか
24:01
いろいろ考えてしまうので
意識したり考えたりして
体が止まってしまう
それからまた
じゃあどうするって
立て延ばした人間が
ずっと積み上げてきたもので
この間名球界に入った
新井孝博なんてのはそういう人間ですよね
後輩ですね
全然
2000本アンダーするような
選手じゃなかったって聞きましたけど
誰もが言いますから
下手
武器を
本人も分かってます
この間新井がやったときに
僕は記事を取ってあるんですよ
自分で言ってます
下手で不器用でどうしようかと
一気にモールの中で野球もやってきたっていう
でもそれが
ある程度は僕はアスリートの
歩む道かも
あれないなと思ってるんですね
ここで練習を付き合ってくれる人がいた
身体を支えてくれる人がいた
対戦相手も含めて
ピッチャーも含めて
そういう人仲間がいた
その助けによって
なったから感謝してますから
その助けた方々も
新井がどういう風に野球に打ち込んでいたか
その姿を見てるわけですね
間近で
こいつは野球に真摯に取り組んで
真面目にやってきたと
だから多分
みんなから愛される
野球に来たと思うんですけど
その生き様のプロセスが
そこに感動ストーリーが出てきて
皆さんに
アスリートっていいよねみたいな評価が
それが一番のアスリートの評価だと思うんですよね
真に対っていうか
アスリートを評価する情熱がありますけど
それこそ若い時は
シャニムにカムシャニやる時は
ギー対真
対ギー真であって
真の人間性は一番最後に来るかなと
それが僕らは言うと
野球ばかり徹する時間ですよと言いますけど
それが一つのことを突き詰めて
上手くなりたい上手くなりたい
そればっかり考えていて
頑張った結果
数字上がった
勢い上がった
チーム優勝した
中学ステージ用意された
こんなステージに来ていいんですかね私
いやいや立派に頑張ったわ
こういうステージの後
みんなの前で喋ってくださいな
最初はひるむんだけど
じゃあ私なりやらせていただきます
そこで知らないことに
取り組んでいく学んでいく
またそれが評価になって
35歳過ぎてから
真にいたいという
序列に変わっていくのだなと
思うんですよね
そこで初めてアスリートとして
あなたはまずまずですねという評価をいただく
私も最初はモチベーションとか
物の考え方を
ずいぶん教えていたんですよ
それでも
27:01
なかなか変化というのは難しいですね
それが形に現れるというのは
教えていて
ある時のきっかけで営業を教えるようになったんですよ
営業でも
うちは質問型営業という
型を教えるわけですよね
ところが型を教えていく間に
内面ができるってくるっていうのが
やっぱり分かってきたんですよね
心を
整えさせて形にしようと思っても
なかなか難しい
人間って元気なので形を整えて
それが結果に現れると
心も良くなってくるんですよね
だから今のお話なんか
本当に通じる
ところですよね
根本さんにしろ僕らの恩師と言われる
根本力夫という高い人いないんですけど
大学の恩師
太田誠もそうなんですが
よく太田さんが言ってましたよ
姿即心
心即姿だということを言ってましたけど
そういう
取り組みが人を作るかも
ありませんけどね
それで石井さん
新井さんの話もありますけど
石井さん自身はどういう風になっていたんですか
そこで新人の時に
そんな姿勢あって
今度はそこに
お父ちゃんが出てくるわけですよ
1年目無我夢中でやった
3割1分1人ホームラン21本
打てた
冷静に考えたら
ここをもう少し克服すれば
3割1分打てるんじゃないか
プロ野球だったら
10割目指してもいいよなって
ふと振り返ったら
インコースが増えてた
インコースを克服すれば
3割1分一瞬で取れるか分からない
4割になれるか分からない
そこに目が行くわけですね
欲が出てきたと
高学審
高上審が出てくるわけですよ
そこにはまってしまうと
案外本末転倒で
自分の得意だったアウトコースが
今度は打てなくなるわけですね
2年目2割5分9人ですよ
2割2年目の
ジンクスと呼べるようなところですよね
だから案外
人間の高学審
高上審が
案外落とし穴に
はまってしまうこともあり得るなとは
反省しましたね
それでもまだ
311
打ったんで
こんなもんじゃねえという
うるおれも
あるかもしれませんが
結局そこでまた
アリ地獄に入っていくような
もがいてもがいてもがいて
わけが分からなくなって
今その時間を
振り返ると全く
頓珍かな連勝したということになっている
と思うんですけど
それで2年目3年目どうなっていったんですか
3年目はまた
頑張ってきました
こういうアレルギーで繰り返しだった
ちなみにその高学審とか
高上審の穴みたいなものは
高上審の中ではどうやって毎回抜けていった
いやいや
でもそれは
負けなかったですね
30:01
インコース増えてだった
アベレージが低かった
インコースを守るように頑張った
でもダメだった
だけどインコースプレイヤーが攻めてくるんで
打ってないとか攻めてくるんで
ここも克服しないといけない
打ち方じゃなしに今度は
山を張ればいいんだと
全部が全部
モーラーしようんじゃなしに
このケースではこいつがこっち来るようになったら
そこいっぱい山あってパチンと打ってやれと
そうしたらこいつインコース狙ってる
あれインコースモーラー打てるようになってきたから
じゃあいろいろ廃棄も
今度はいろいろ
バカ試合というか駆け引きになってくるんですけど
ということはどんどん成長していってるということですよね
そうですね
読み駆け引き
技術の身近なお人は山を張るという言い方しますけど
ちょっとそれを超えていくと
飲みだとか駆け引きだとか
自分の技術をある程度になると
今度は相手をどう攻略していくかということですよね
なるほど
あとはもうそれの
キツネとタヌキのおかげっこで
全てがこうあるんですよね
それがだから相手がいるから厄介だ
っていう触手なんでしょうけど
なるほど
じゃあそういう中で
現役を
一括にする
ではもったいないお話ですけど
そういう中で
40までやっていかれて
14年間は
すごい成績を
すごい成績ですよね
僕なんかには
ありがたい評価はチームリーダーなんて
その頃ね
正解のニューリーダー
ニューリーダーとかチームリーダー
なんて言葉が出てきたはじめでしたよ
その中で
一時期は
セーブランスのチームリーダー
なんて称号を言っていただけるよう
ありがたい評価をいただけるようになりまして
その時に僕は
気分がしっくり来なかったんですよ
プロ野球界というのは
個人事業主で
アマチュアと違ってチームの輪とか
関係ないと
チームワークなんてあまり考えないのがプロ野球なんですね
勝つことによって
一家制のチームワークができても
チームの輪ができても
森に取ろうという業界じゃないんですよね
そういう
人種の集まりの
職人の
集まりの中で
リーダーなんて正式に言わずに
リーダーがいるんだったら監督だと
思ったんですけど
そんな疑問を持って
根本理行という
その当時の管理部長に
我々が親父としたっている方に
質問したんですね
親さんちょっといいですかね
みなさんは俺のことを
チームリーダーなんて言ってくれてるけど
俺別にそんな仕事してるわけじゃないし
そんな実感何ひとつないんじゃと
なんか
過大評価で居心地が悪い
って言ったんですよ
根本さんがその時に
分かる石原ってお前の気持ち俺も分かるぞと
だけどなって
日本のプロ野球にお前何百人ちょっと居てたなって
チームリーダーなんて
言ってくれてお前くらいなもんだろって
33:01
ありがたい評価じゃないか
覚えとけって
人からして評価っていうのはある意味ではこういうものがあるぞと
人から見る評価っていうのは
枠があって
節制があって窮屈だと
多分お前はそれを感じて
なんか居心地が悪いって言ってるのはよう分かると
だけどこれからお前は
プロ野球人として社会人として
大人として生きていくためには
そういった感覚が
ものすごい必要なんだと
それは忘れるなって言われたんですよ
その時僕は
あったらそんなこと言われたって
だって景気盛んで
頑張れば金もなったし
優勝したし
金があって
体力があるから色々遊ぶし
枠なんて考えられねえって
なんで俺が枠に
はまらなきゃいけないんだと思ってましたから
でまた時間を経て
あの時は
スーツの似合う男になれって言われたこともあったんですよ
スーツの似合う男って
スーツの似合う男は野球人だろうって
しかし根本さんってすごいね
すごい方だと思います
選手の未来を
必ず見て
視察をしてるっていうかね
1位野球人じゃなくて
社会人としても話をしてるみたいですね
ちょうど僕が
31人の時に1億円もらった時があったんですよね
その時に
スーツの似合う男になれって言われて
お前の同級生おるだろ
今社会に出て
年分いくらぐらいだ
350からその辺でしょうか
お前いくらじゃ
1億円になりました
お前の野球人は
ビニールハウスの中にいてたな
お椅子の中にいてたな
外が暑いのか寒いのか
どんな風が吹いてるか分かんねえだろ
シーズンオフは同級生と飯を食えと
彼らは現実に生きてる
いっぱい社会できてるんだよと
外が暑いのか寒いのか
どんな風が吹いてるのか
それは感じねえがダメだ
その友達だったら話を聞け
って言われたんですよ
その時でも分かりませんでしたから
でも俺は
これ出す思いますよと
バカだろって思いましたけど
そりゃそうやわ
だけど
今でこそ思えば
大事なことだよな
多分出元さんは
32さんの血の経験を我々に
工藤でも清原でも
伊藤でも辻でも
そんな話をされたと思うんですよね
その当時
気がつかなかったコメントが
今は時折
親父の小言として
頭でも心にも響いてくれるような
そういうメッセージは
残してくれてましたね
じゃあそういうようなこともあって
将来のことも
そういうことを考えるような
考えさせてもらえるようなお話も
ありましたけど
自分の求人として
どういうことを
自分は得たというか
何かそういうようなことを
持てたというか
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学んだというか
そういうのはありますか
さっきの極めるというお話も
ありますけど
僕らが極めるということは
多分技術だと思ってますね
技術は集団ですから
投げて打って取る
これ全て技術を使う職業なので
極めたいという
ずっとそればっかり考えて野球やってきました
それでも極めることは
できなかったと思います
でも極めたいなという気持ちは
今でもILGとして持ってはいるんですけど
結局
いつかは引退をすることになるんですが
一番の
人生の転機だと
僕は思ってますけど
38の時に現役終わった時に
現役を
引退して監督をやれという
監督要請をもらったんですね
セーブライオンズから
その時に僕は競争社会に身を置いているものが
初めて競争というものに
意識したんです
それは37、8の時に
セーブライオンズの代わりに
優勝してきて
チームリーダー、キャプテンと言われた石井が
いたから多少優勝できたんだけど
自負があったんですよね上昇りが
その人間が37、8を迎えて
引退を考えている
その時に僕はその当時
意識が衰えてきたんで
メジャーリーガーから参入者を呼んできて
参入守らせようという
旧団と森監督の思惑が見えたんですよ
ふざけんなと僕は思いました
その37、8を迎えて
引退を考えている人間が
なぜ気分よく引退させてくれないのかなと
この年だって初めて競争しろというのかよ
分かったら競争してやろうじゃないか
競争をして
マイク・パグリアロールという
ヒースパニック系の
外国人がメジャーリーガーの人が
来て競争したんですが
それに勝ってレギュラーに出た
レギュラーに出てそこそこ
数十を残したんで
まだ現役ができると思ったんです
現役を辞めたいと思っても図もなかったと思うんですから
で、終わった時に旧団が
石原、もう辞めとけと
お前、クビじゃと
監督やれと言われたんですよ
え?って
旧団を俺に競争しろと言って競争して
勝ったのに、なぜその人間を辞めなきゃいけないの?
と思って
競争というものは魅力があったんだけど
まだまだ現役にできるという
うるぼりが、やっぱりその当時や
その時期は、大名的にも
そういう感じだったんで
いっぱい持っててしまったんですね
それが
だからFAを宣言して
西部ライオンズを出て
ダイーフォークスを拾っていただいて
残り2年はダイーフォークスで終わったんですが
王さんが
東京から福岡ダイーフォークスに
王さんは監督へと来られた
僕はFAでダイーフォークスに行って
2年間を監督の下で
焼き割らしてもらったんですが
1年目はなかなかゲームに出れなかった
2年目もほとんど出れなかった
その時1年目に
もう辞めようかなと思ったんですが
たまたまお世話になった
西部ライオンズの根本さんが
ダイーフォークスに行かれてて
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で、親父さんも辞めていいですかねって言ったら
お前なって
王長島が立派な指導者に
見えるかって言ったら見えませんって
いや正直そう思いました
その当時はね
僕たちは強い西部にいた
勝てるチームにいたんで
このやり方じゃ勝てないと思ってましたから
思いませんって
で、兄弟はなんて言ってんだって
いやもう1年元気でやれって言ってます
あれだったら話はないからやれって
いやゲーム出れない
野球してたらつまらないですから
それお前の感情論じゃ
それよりも一般の人は引退して
それから野球を見るって言ってたけど
お前運用向きでベンチで
運用向きの勉強しろっていい話じゃねえか
引退せずにやれって言われて
それ1年間まだ元気に残ったんですよ
で、さすがに2年目もなかなか
ゲーム出れなくて
8月に日本に行けって言われて
わかりましたって
で、福岡の夏は
クソ暑いんですよ
40歳でしたから
日本監督が
お前出るかやったら
いやいや、僕は出たいんですが
監督若手がいるんだからどうぞ使ってくださいよ
いやいや、お前出るんだ出るだと
喜んで出ますって
出たんですね
対戦相手の
33、35くらいのベテラン連中が
2軍にいて
ベンチで踏んずり返ってるんですよ
で、俺が40になって
暑い中ドロドロになって焼きあってると
ゲーム終わって
石川さんなんでもう1軍にも上がれないのに
俺変わったやん
俺がこうなったのは
野球のおかげなんじゃ
俺は野球というスポーツを
友達
大親友と捉えてるんじゃ
俺多分今年引退すると
引退するときに
大親友にはなって
不義をして焼き破りたくないんじゃ
できるうちは野球やって
野球と向き合って引退したいんだ
ただそれだけじゃ
お前たちもよ
野球人生がわからんけど
俺が言うのもおかしいけど
晩年どうやって野球選手が
過ごしたか球団見てるぞ
お前ら
その評価によって取り物実際
決まると思うぞ
計算しろとは言わねえけど
俺はただ単に野球に不器用
しないけど仕組みやってるだけなんで
俺だってこの球団にお世話になるとは
思わないけど
そういう風に言ったら
こいつらが翌日からゲーム出始めたんですよ
頑張れって
あれですね
スタートが感謝で始まって
最後もやっぱり感謝で
ずっと
石原さんの中にはそういうのが
やっぱあるみたいですね
だって
百姓の次男坊が
かならないうちに育って
野球やって
金稼げるようになって
いろんな業務で作らせていただいて
生んでくれた親がいたから感謝でしょ
って仲間がいて
野球というスポーツがあったからこうなったんで
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そうですね
今思えば
それが後ろ盾にあって
やっぱり
今ずっと時代がある
というね
やっぱりベースにそれがあるみたい
いやいや本当に
そうですね
今のここまででもまだ引退で
石原さん自身はね
先ほどもありましたけど
まだ行動中止となっている
すごいですね
これからまた一波乱ありますからね
そうなんですよ
よく痛んじて言われますけどね
ひしひしと感じる時間でした
もう時計がですね
ずいぶん
まさか青木さんが時計を気にされて
引退が起きるかは私も驚きですが
はい
そうですね
よろしくお願いします
本日もありがとうございました
いいお話でした
ありがとうございます
43:28

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