1. パリで学んだ「ブレない自分の作り方」
  2. Vol.149「ジャーマンドリーム..
2019-01-31 49:08

Vol.149「ジャーマンドリームを追いかけてドイツに飛び込んだ」

レストランÔYA Parisのオーナー大矢健治さんのインタビュー第1回目です。
今のようにインターネットでの情報が手に入らない時代に、どのような経緯でドイツに飛び込んでいったのか、また、ミュンヘンで自分のお店を開くことになったきっかけなどについてお話を伺っています。

オープニングでは、「フランスのアレルギー事情」についてお話しています。

オフィシャルサイトは、http://projectsparis.com/


00:15
こんにちは、あきです。今日もパリで学んだ「ブレない自分の作り方」の時間がやってまいりました。
今日もさゆみさん、どうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
2月になってしまいました。
早いですね。
本当ですね。
1月あっという間に終わり、雪も降り、
怒涛の1月でしたね。
怒涛の1月でしたね。
ちょうど1月って、ほら、イベントとか見本市とかいろいろ。
すごい多かったですよね。ファッション絡みのものも、インテリアとか、
あと学校関連、子ども関連のイベントもとても多かったですよね。
なんでですかね。
わかんない。
全部重なっちゃいましたね。
そういう時期なんでしょうね。昔からね。
ファッションウィークも、なんであんなインテリアの大きな見本市とかも、
全て同じタイミングですよね。
全て同じタイミング。多分、ついでに見てほしいみたいなのがあるんじゃないかしら。
だから時期を同じくして、時間がある時にこっちもあっちもみたいなのを狙ってるのかなっていう感じがね、ちょっとします。
ホテルはね、大変らしいですよ。
取れないんですよね。
飛行機も多分取りにくいと思うんですけど、多分ホテルはもっと取れにくくて。
我が家もお客様がだから、いましたもん。
ホテルに泊まれないお客様が。
流れ込んできたみたいな感じでしたよね。
今回はですね、ちょっと感想をいただいて、そこから話を広げていきたいんですけども。
アメリカに住んでらっしゃる方からで、前のポッドキャストの家事のしすぎのやつ、とても面白かったです。
数十年前のアメリカのランチは、ピーナッツバターサンドかオレオか林檎をランチで持たせていたら十分という感じだったと思います。
なのですが、お母さんの味のピーナッツバターサンドは、最近アレルギーの関係でデイケアなどで禁止されているところも多く、
ピーナッツだけではなく、お友達が木の実がダメ、小麦がダメなどの他のアレルギーがあると、
親として何を持たせるかに苦労するという話を友達から聞きました。
フランスのアレルギー事情はどうですか?
家でプレーデートに来てもらうのは楽しいのですが、うちはナッツ類をよく食べるし、
何かあったら大変なので掃除機を丁寧にかけたり棚にしまう前にちゃんと密閉したりとストレスになる部分もあります。
ということなんですけれども、ピーナッツバターなんか確かに大変ですよね。
そうですね。フランスってピーナッツバターの文化がないじゃないですか。
ないですね。まだわからないですよね。
あんまりそこまで言う親御さんは聞いたことはないんですよ。
サンドイッチにピーナッツバターを塗るということはまずないですからね。
だいたいサンドイッチだとチーズとハムとかね。
03:06
あんまりアレルギーにうるさく言う親御さんというのは私は今までほとんどいなかった。
お誕生日会をあれだけやっているオタクでも。
食べれなかったら食べれないでいいっていう感じ。
お子さんとかみんなケーキとかよりもボンボン。
お菓子みたいなものをするような。
キャンディとかそういうものばっかりみんな食べたりとかね、結局しちゃったり。
あんまり親御さんたちもケーキがこのケーキじゃないと食べれないとかそんなこと言ってくる人は一人もいませんでした。
言われても困りますよね。
何年もやっても誰も一言もそういうことを言ってくる方はいませんでした。
食べれなかったら水でいいみたいな。
とにかくきたがってるから楽しませたいけれども、
本人もね、ちっちゃい子以外はだいたい自分が食べれないのもわかってるから、
もう選ばないんですよね。
だからその辺は自由にさせる。
水とジュースでいいみたいな。
そんな感じでしたよ。
食べれなかったらもうそれは仕方がない。
優先事項は遊ぶことみたいな。
確かにお誕生日会を楽しむっていう感じはありますよね。
確かにアレルギーがある人は絶対いますよね。
フランスはフランスで。
卵とか。
絶対あると思います。
いますよね。
だけど例えばお誕生日会を学校でするときに、
自分の子供の分はということで、
例えば卵を抜いてますとか、
そういう風にしてわざわざ別にして持ってくる子とかもいるので、
うちだけこれにしてください。
うちの子は食べれませんっていうのはあると思うんですけど、
あんまりその他の親にこれしてください、あれしてくださいっていうのは
聞かないですね、確かに。
全然聞いたことないですね。
私もないんですよね。
学校でそういう話があるとか、
たまたま周りにあんまりいないとかね、
本当にアレルギーが。
だからあんまり事情としてはあるけど、
そこまで他のお宅に求めたりとかはしないですよね。
そこはもうなんか自分たちでコントロールするとか、
それでも遊びたいんだったら水だけとかね。
自分のおやつだけを持ってきてそれで何とかするとか、
そうじゃないと多分難しいですよね。
だからどこでもあると思うし、
多分日本でもあるとは思うんですけど、
日本は厳しいんですかね?
最近厳しいっぽい感じですよね。
多分ね、フランスもいろいろとカウンティング、
給食とか事前に言ってくださいとかあると思うんですけど、
06:00
私あんまり言ってるおやつ見たことないし聞いたことないんですよ。
それよりも宗教上の理由で食べれないものがあるとか、
そういう方が多いかな。
その方が数としては多いかもしれないですね。
多いと思いますね。
豚肉抜きみたいなね。
そういう方が多いかな。
アレルギーの子たちは、
私は自分で持ってきてるって聞いたことがありますね。
だから食べれるものは食べる、
食べれないものは代わりのものを。
それが卵だったら別のものとか、
ちょっと私は覚えてないですけど、
家でフォローできるのはフォローする。
だって給食のもの食べれないってなったら、
何も残ってなかったらそれを食べるものがないしね。
そういうフォローがあると思うんですけど、
あんまり細かく相手に要求するっていうのは、
確かにフランスではないかもしれないですね。
個人主義なんですかね。
国によっていろいろ違いますね。
それでは本編スタートです。
2月の今回のインタビューは、
大谷パリレストランのオーナーである大谷賢治さんです。
大谷さんは私の友人、
何とそれが数ヶ月前にインタビューに答えてくれたユキさん。
彼女がパリに来た時に、
行こうって連れてってくれたレストランのオーナーさんだったんですけども、
彼の話をいろいろ聞き、
インタビューを申し込ませていただいたという経緯です。
そうなんですね。
彼のすごいところは、
本当に聞いていただければわかると思うんですけども、
ドイツのベルリンの壁を見てテレビで、
ジャーマンドリームを夢を追っかけてみたいみたいな感じで、
ドイツに来てしまい、
そのまま26年お住まいになって、
そこから今回パリにレストランをオープンさせたという経緯をまず伺っていますので、
ぜひ聞いてください。
こんにちは、大谷です。
今日も素敵な方にゲストに来ていただいています。
今回はレストラン大谷パリのオーナーでいらっしゃる、
大谷賢治さんです。
大谷さんどうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
今、大谷さんのレストラン、
大谷パリに伺わせていただいてますけれども、
こちらのレストランはオープンしてどれくらいになるんでしょうか。
7月にオープンをしていますので、
去年ですね。
そうですね、去年の。
今ちょうど6ヶ月目くらいになります。
ですよね。
どうですか、このパリでレストランオープンされて。
そうですね。
やはり食の世界の中心地の場所で、
お客様もそうですけど、
やはりこのパリで営業していらっしゃるいろんなシェフの方々、
お店の方々がとてもレベルが高いので、
09:01
そこの中でこのよちよち歩きの状態で始めるっていうのはかなり不安もありましたけど、
少しずつお客様の方にも喜んでいただいていたり、
分からないことが逆に分かるようになったりとかっていうところを今楽しめている状況ではあります。
なるほどね。
このパリのレストランで、
例えばオープンして一番びっくりしたこととか、
逆にありますかね。
意外だったこととか。
意外だったことはいくつかあって、
まず一つは、僕ドイツの方から来たんですけど、
ドイツだと時間に対しての考え方が非常に日本的な部分があるんですよね。
例えば配送であれば何時から何時には来るとか、
開いているはずのお店は開いているとか。
当たり前といえば当たり前なんですけど、
その当たり前さが少し僕が住んでいるドイツとは違う部分があるかなと思うのがまず一つ。
なるほど。
あともう一つはですね、お客様の時間の楽しみ方っていうのが非常にゆったりしてますね。
ドイツの方とは違いますか?
コースメニューの流れで考えると、
例えばパリでこのお店でコースメニューをお客様がご注文をくださって、
だいたい3時間くらいゆっくり食べながら話しながら、
料理ひとしのひとしがテーブルの前に来ると、
まずはお皿を見て、そのお皿を見ながらチョコチョコチョコってコメントされて、
食べて食べられるとか、もちろんそうじゃない方もいらっしゃいますけど、
そういう一つ一つの僕たちが求める因を踏んでくださる、
求めるっていう言い方をするとあれですけど、やはり食べながらおいしいとか症状とかがね、
やっぱり現れると嬉しい部分がすごくあるじゃないですか。
ですからそういった部分で楽しませてくれる方々だなっていうのはすごく感じます。
なるほどね。
あんまり食べるだけじゃなくて、その時間を楽しむのがフランスの人たちっていう感じなんですかね。
そうなんですかね。そうだと思います。
食事を食べるために来て、その食事を食べることがむしろ話題の中のどこかに必ずあるような感じなんですよ。
例えば用事があってきて、目の前に料理があって、
それを食べることはそのための手段じゃないですけど、そうではない感じがしますね。
食べることが目的で、話すことはそこに寄り添っているみたいな。
なるほどね。その辺はドイツ的にはどんな感じなんですか。
12:03
ドイツももちろんそういう部分がすごくあります。
同じヨーロッパ人ということで時間の楽しみ方はすごく似てますんで、
ただ強く感じますね。
よりフランスの方がそういうのを感じるという。
面白いですね。
このカウンターっぽくしているのってすごく、ドイツではどんなのかわからないけど、
フランス人はすごく喜ぶんですけど、この辺は意図的にされたんですか、内装は。
やはりあまり広々と取り過ぎてしまって、お客様との関係が離れてしまうということよりも、
今回はパリで初めてになるんですけど、和牛の専門店という形でオープンするにあたっては、
どうしてもお客様の反応であるとか、
お客様にどういう形でこの和牛が育てられてきたのかであるとか、
そういったディスカッションもできれば密に、お客様が望まれるタイミングでできればなというのもあって、
この仕方カウンターで作っているところも、逆に大体とかもしやすいように設計しました。
なるほど。その辺の和牛の話も後でじっくりお伺いしたいんですけども、
先ほどドイツからいらっしゃったということなんですが、
ドイツでもレストランをやってらっしゃるんですよね。
いくつお店を持ってらっしゃるんですか。
今は3店舗になるんですけど。
それは和食のお店になるんですか。
和食のお店になります。
ちなみにミューヘンでしたよね。
ミューヘンにはどれくらい住んでらっしゃるんですか。
今26年住んでます。
26年。やっぱり26年もドイツに住んでらっしゃるので、
多分メンタリティも結構ドイツ的な部分もあるのかなと思うんですけども、
なぜまた、最初からミューヘンだったんですか。
初めの1年近くはフランクフルトだったんですよ。
フランクフルトっていう場所自体が金融の街で、
結構ドイツでいうと東京的な感じなんですけど、
やはりそこの時間軸っていうのが少し僕の中では違和感があって、
ミューヘンっていう場所はドイツの中で一番南に位置している場所なんですけど、
バイエルンというところで。
街もすごくのどかなのと、
あとミューヘンという場所はオクトーバーフェストっていうビール祭りが生まれた場所なんですけど、
ドイツの中にあっても自由の州ミューヘンってバイエルンって言われている場所で、
ドイツの中で唯一独立ができる権利を持っている州なんですね。
ですからドイツの中にあってバイエルン人はドイツ人だと思ってない部分が。
またちょっと独立心の旺盛な、また違った気質が入っているんですね。
ですからすごく大らかですし、自分の心もしっかりされているし、何せ街が綺麗なんですよ。
15:06
私もミューヘンは大好きです。
昔の昔なんですけど、一旦は。
いいイメージしかないですね。
緑が多くてね。
街もすごい可愛らしい街だし、すごくいい。
その街に移られたきっかけは何だったんですか?
もともとドイツにいらっしゃったきっかけを聞きたいんですけど。
日本に住んでいると、ドイツっていうものって、今でもそうですけど、やはりドイツのイメージは何ですかって言われると、
ソーセージとビールっていう感じじゃないですか。
僕なんかは、当時26、7年前って言ったらまだ10代なので、筋肉マンのブロッケン・ジュニアぐらいのイメージしかないですね。
あとはスーパーカー消しゴムですかね。
昔流行った。
ペンツとか、ベインベイとか、ポルシェとかね。
そのぐらいでしかドイツに触れる機会っていうのはなかったんですよね。
16歳の時、1989年なんですけど、ちょうどベルリンの壁っていうのが崩壊して、
当時戦後で東と西とアメリカ領とソ連領と分かれたときで、
ずっと東西の壁が隔てて、分かれて、ドイツは西ドイツ、東ドイツっていう状態だったんですけどね。
それが崩壊したニュースを、ちょうど宮崎で、実家が宮崎だから見てたんですよ。
そしたらそのときのナレーションが、夢を求めて東から西に行く人々、
それを歓迎しながらも不安で迎える西の人々、
この壁を越えた向こうにどんなジャーマンドリームが生まれるんだろうっていうナレーションで、
そこのナレーションの内容にやられてしまったんでしょうね。
それまではドイツは消しゴムとかそういうキャラクターぐらいで、
スーパーカー消しゴムかブロッケンマンジュニアぐらいしかないですもんね。
あとはビールとかまだ未成年なんでね。
そうですよね、ヒント来ないですもんね。
ヒント来ない、はい。
いきなりもそこで衝撃を受けて、どうされたんですか。
そこからまだ渡航できる年齢ではなかったんですから、
そこからはずっと頭の中にはお金が作って、
ドイツに行って向こうでジャーマンドリームじゃないですけど、
そこを自分で試してみたいって思う気持ちを持ったまま過ごしてましたね。
ホテルに一番初めに入社したんですけど、
ホテルに入社して、そのホテルの中にある料理場の方でずっと修行してました。
そうだったんですね。
18:00
実際にドイツにいらっしゃるまで何年間ぐらいあったんですか。
3年半ですかね。
その間は全然その気持ちが、行きたいっていう気持ちを衰えることはなかったんですか。
宮崎自体が本当に田舎なんですよ。
やはり外に触れる機会っていうのがテレビにしかない。
テレビも宮崎は民放2チャンネルしかないんですよ。今でもそうなんですけど。
ですからそこでしか外の情報を得られないし、
あとは都市部はこういうことはないんですけど、
地方だとよくあるのが、ほとんど県外の求人って乗らないんですよ。
宮崎県内。
県外の求人は季節労働員で分かりますか。
期間で部品を手作りとかそういうような、募集しか当時はないような状況だったので、
やはり外に向けて繋がるっていう、きっかけをくれたものって結構忘れないじゃないですけど、
選択肢が少なすぎる分、あまり他に意識が向くことはなかったんですね。
お金が貯まった段階で行ってみようみたいな感じになったんですか。
ちょうどホテルが新館に移管したんですよ。
その時のタイミングで、少し仕事の幅じゃないですけど、
そういうものを一旦変えられるタイミングがあったんですね。
それまではそれこそ朝から入って、夜中まで。
やっぱりああいう仕事っていうのは特に覚える時だったので、
時間も何もない状態じゃないですか。
ただ少しポッと一息つけるタイミングがあったんですよ。
そのタイミングでちょうどそういうことに対して準備ができるじゃないですけど、
そういうようなことができて。
行こうと。
その時はどのくらい行こうっていうふうに考えてたんですか。期間とか。
全く考えてなくて。
とりあえず行こうみたいな感じの方が。
インターネットも何もない時代だったので。
情報が全然違いますよね。
情報の収集するソースがあまりにもなさすぎて、
逆に行かなきゃわからないじゃないですか。
だから行って考えようっていうよりも、
行った後のことは一切イメージがなかったですね。
そこに怖さとか不安とかはなかったんですか。
怖くはなかったですね。
外国が怖いっていう前に、
怖い前例を見てないので。
イメージが全然ないってことですね。
そうですね。
ちなみにドイツ語はどうされてたんですか。
現地で覚えました。
行ってから。
最初フランクフルトについて、
ドイツ語を勉強されながらお仕事を探したんですか。
そうですね。
学校に行くお金もなければ時間もなかったので、
21:04
まずそれは不可能だったんですよ。
あとはビザが必要だってことを知らなくて。
知らなくてっていうか。
言っちゃったんですね。
あまりわからなくて。
なので、とりあえず住むところを準備してくれるレストランに入って、
そこで修行させてもらいながら住ませてもらって、
信用を築けばビザを取ってもらえるみたいな、
そんな感じのスタートだったんですね。
それはやっぱり日本のお店だったんですか。
一番初めに行ったところはちょっと違ったんですよ。
ただその後は和食に入りました。
そうだったんですね。
その後修行を積まれて、今度はミュウヘンに移られて、
またミュウヘンも和食のお店をずっと。
そうですね。
お店を作ったのが僕早いんですよ。
そうなんですね。
22歳で作ったのかな。
ドイツに渡ってどれくらい?
2年半で作りました。
そのきっかけは何だったんですか。
僕が行ったフランクフルトのお店が、
すごい高級店だったんですけど、
ただ高級店って、僕の中で思う高級店っていうのは、
お店の作り、あとは料理内容、サービス、
ここがお皿に紐づくっていうのが僕の中では、
高級店っていうことを謳える要素の中の、
いくつか大きな部分じゃないかなと思うんですけど、
そこに至って考えると、
お料理自体は一般的なお料理なんですけど、
とにかく高いんですよ。
その理由が、日本食は海外では調味料とか
いろいろ輸入しづらいからとか、
大変だからっていうのが理由で、
高級店っていうものの、
高級店と謳っていい内容の中で、
大きな部分ってお店の作りであるとか、
あとは料理内容であるとか、
あとはサービス、そういったものがあって、
お皿のお料理の金額が紐づいていくみたいな
イメージだったんですけど、
そこのお店に関しては、
とにかくそこに紐づかない部分、
紐づいていないのに高かったんですよね。
天ぷらが例えば8000円とか9000円とかするんですよ。
でもこれきっと日本で食べたら
800円とか1000円とかなんじゃないかなって思うもの。
24:02
日本のものだからっておっしゃるんですけど、
食材は現地じゃないですか。
調味料って言っても、
それほど醤油とかどこのものを使うわけではありませんしね。
それ飲むわけじゃないので。
考えたら、このままここで、
何に僕は意味を成して料理を作っていくべきなのか、
あとはそれをお客様がどう捉えるかっていうところを考えると、
僕の中で食べ物屋さんの原点って、
小さい時とか自分の親族とかみんな忙しかったので、
一緒に食卓を囲んでご飯を食べるタイミングとかってあまりなかったんですよ。
ですからお小遣いを握りしめて、
街の定食屋さんとかに行って、
お腹いっぱい定食で食べさせてもらって、
周りの大人たちも優しくて、
何を一人で食ってんだ、
じゃあ俺のお小遣いをお前で食わしてやるよみたいな。
そんな感じでわきあいあいと、
お腹いっぱいで幸せだったっていうイメージが、
僕の中では食べ物屋さんなんですよね。
原点なんですね。
そうなんです。
だからこれをずっと続けるのであれば、
自分で今もう独立してしまって、
自分で小さくてもいいからお店を作って、
自分で作って自分でご提供すれば、
何にも紐づかなくて済むじゃないですか。
そうですね。
全部自分なんで、
やっていく方が自分のドイツに来た目的に
もっともっと近づいていくんじゃないかと思って。
それでたまたま知り合った方がミュンヘンの方で、
フランクフルトから休みのときにミュンヘンに行ったんですね。
そのときにミュンヘンの街を見て、
10年後自分がここにいるイメージがあったんですよね。
ミュンヘンに。
僕10年後ここにきっと住んでるなと思って。
本当にいいところで。
そこで自分がお店をやっているイメージも湧いたんですよ。
なので、それからお金も貯めなければいけないから、
向こうのミュンヘンの料理屋さんで働きながら、
それだけだとビビったらお金にしかならないので、
休業ができないじゃないですか。
って思ってた矢先に、
当時はファックスですよね。
今本当に見なくなりましたけど、
ファックスがカタカタカタって来たんですよ。
ある旅行会社の方で、
朝6時に、
どこどこにおにぎり弁当を何十個か送ってくださいっていうのが来て、
注文が入ったところですか?
問い合わせが入って、
そこのオーナーがパッと見られて、
こんな早く作れるかよって言って、
グシャグシャグシャってやられたんですよ。
朝6時とか7時とか、
えらい時間じゃないですか。
27:01
やっぱりレストランどうしても時間が長いので。
ん?って思って、
その紙をカチャカチャカチャってもう一度取り出して、
これって、ちなみによく来るんですか?って聞いたら、
いっぱい来るよって。
バス移動だから昔は。
なるほど。
今でこそなくなりましたけど、
昔の日本の旅行者の方って、
バス移動されるんですよね、団体で。
空港に着いて、バスに乗って、
で、動くから、
朝早くに渡す朝食代わりの弁当とか、
昼食代わりの弁当って、
そのバスのルートを確保するにはすごく重要だったみたいで。
なるほどねー。
で、あーっと思って、旅行会社に自分で行ってきたんですよね。
で、お話を伺ったら、
いやもう、月で考えたら、
2000とか3000円平気で入りますよって言われたんですよ、注文が。
へー、それぐらい旅行者も多かったし。
個人旅行がない時代だったので、ほとんど。
そうですね、団体旅行ですね。
ネットとかで検索でき始めて、
だんだんだんだん個人旅行が増えてきましたけど、
それで、これ面白いなと思って、
今度はその話を聞いて、
レストランに戻って、
で、またそのレストランが結構時間が長かったんですよ。
10時、9時、10時ぐらいに来て、
で、仕事が終わるのが10時とか1時とかだったんですよね。
で、だいたい11時ぐらいになってくると、
厨房の雰囲気が著しく悪くなってくるんですよ。
もう疲れてる?
疲れてるから、片付けしたくないんですよね、みんな。
片付けして帰りたくないオーラが、
うわーって、こんもり淀んでるくらいの感じ。
そんなわかりやすくなって。
もうわかりやすくて。
当時自分も年が若いので、
これは面白いと思って、
じゃあ、僕がキッチン全部一人で片付けするんで、
帰っていいですよ、皆さん。
で、そこのオーナーに、
僕全部きれいに片付けするから、
最後におにぎりとか全部作ったりするために、
僕に貸してもらえませんかって言ったんですよ。
キッチンをね。
その代わり片付けとか全部やるし、
もちろん使った材料は材料分としてお支払いするんで、
貸してくださいって。
僕独立したい話はしてたので、初めから。
そしたら、NOという理由があまり彼らにはなかったみたいで、
やっぱりそこのオーナーも時間が遅くなるから、
帰りたいし。
そうそう。
でも本人もラッキーだし、
じゃあいいよということになって、
で、おにぎり作って、
それを持っていくのを始めたんですよ。
っていうことはもう睡眠っていうか、
30:01
初期の頃っていうか、
もうなかった。
そうですよね。
だって大体3時間くらいかかるんですよ。
片付けと、
あとそれを作って、
で、粗熱取って何とかってしてると、
かかるじゃないですか。
で、そこから3時間くらい加眠して、
で、5時とか6時とかに、
届けなきゃいけないんですね。
届けなきゃいけないんですけど、
またそれが遠いんですよ。
近いわけじゃないですね。
近いところが少ないんですよ。
みんなやっぱりバスが発着できるところで、
受け取りたいんで、
わざわざ僕らの街中のお店まではバスが来なきゃいけないじゃないですか。
で、大体の方々は、
ホテルに持ってきてくださいか、
バスの発着所に持ってきてくださいで、
で、立場も弱いので、
ノートも言えず、
そこに直接持って行って、
お渡ししてってすると、
3時間くらい加眠して、
お持ちして、
で、それが終わって、
また寝るんですよ、少し。
で、寝て、
3時間、4時間くらい、
寝れたらですね。
自分の中では、
面白いと思ってやってみて、
もちろん睡眠も少ない中で、
やってみたときにどう感じたんですか?
手の皮が、
熱ければいいなと思いましたよね。
ご飯がものすごく熱いんで。
数も半端じゃないですよね。
そうなんですよ。
だからもう、自分の手が、
さっきの筋肉マンじゃないですけども、
アシュランマンみたいに
6本くらい履いてればいいんじゃないか、ぐらい。
一人でやってるんですもんね。
って思うんですよね。
思ってて。
とにかくもう熱いから、
そのもう、熱さがストレスでしたね。
その熱さに耐えながら
握らなきゃいけないっていうのが、
日々の苦しみ。
そうですよね。
なんでこんな手の皮薄いんだって思ってました。
で、やっぱりそれをやってくださる方が
少ないわけだから、
注文はどんどん来ますよね。
自分しかいなかったと思いますよ。
自分ぐらいしか。
それここまでやってくれる人がね。
はい。で、また、
今度受け切れない数ぐらい来るんですよ。
これが。
一人じゃまかないないみたいな。
いやー、もうまかないなくなってくるんですよね。
はいはい。
でも、イコール収入も出てくるわけじゃないですか。
そうですね。はいはい。
そうなってくると、
逆にちょっと賢くなってきて。
はいはい。
そこの、僕たちは早く帰りたいって言ってた人たちも、
やっと寄り寄せられたんですよね。
え、じゃあやっぱり気にはなってたんですか?彼らも。
なんかやってる。
初めの何ヶ月かはきっと気にもしてなかったと思うんですよね。
はいはい。
まあ自分たちが帰れればいいやみたいな感じですもんね。
で、別にソーシャルメディアがあるわけでもないし、
まあそういうことしてることをね、
例えば書いてるようなこともないわけじゃないですか。
だから、でも、
まあ見るからに、
何かしてる、もしくは動いてるのはきっと伝わったと思います。
33:01
で、まあある日、
ちょっとあまりにも一人で受けるには、
もうどうしようもない風が来て、
聞いてみたんですね。
できれば一緒にやりませんかと。
で、まあいくらいくら時給を払います。
まあ副業ですよね、いわゆるね。
払うので、
っていう話をしたら、
ほんとコンマ2秒でOKでしたね。
ほんと?
はい。
あ、やるよ。
だって今まで彼ら片付けてた時間を、
またお金に変えれるわけじゃないですか。
そうですね。
確かに確かに。
で、それで分かりましたってことになって、
まあそれを乗り越えられて、
まあ人を雇うには、
まあ事業ではなかったので、
やっぱどうしても雇用する部分が少し難しい部分があって、
ですから、
まあ社例ベースで、
そういう方々の力を借りつつ、
でしたね、後半は。
で、そっからじゃあ独立、
完全独立してやってったんですね。
じゃあ原点はおにぎりにあったんですね。
原点はおにぎりでしたね。
で、起業するときも、
まあ年が若いので、
銀行とかと話をするのが非常に大変だったんですよね。
で、まあそれをまた伝える語学力がなくて、
なので絵に描いて、
どうしても自分がやりたい物件があったので、
その物件のやるしさんとかにも、
その自分がここでやりたいこととか、
自分が何をしたいかっていうのも全部絵に描いて、
その絵を見たい美子で来るじゃないですか、
そんな感じで、
紙芝居方式ですね。
そうですね、言葉と合わせて、
その絵で補足しながら、
プレゼンしたわけですね。
はい、プレゼンして。
そのレストランは、
おにぎりだけじゃなくて、
ちゃんとしたレストランでしたね。
ちゃんとしたレストランでした。
おにぎりはそこで終わったんですか?
おにぎりはそれだけです。
そこで終わったんですね。
そこからはもう、
お店を起動させるための段階に入らなきゃいけないので、
もちろん出すものはお寿司であるとか、
普通の日本食で当たり前に食べれるもの。
当時僕が考えていた、
自分の中のスローガンじゃないですけど、
っていうのが当たり前の追求だったんですよ。
それは今でももちろんそうなんですけど、
当たり前を追求したくて、
なぜかっていうと、
例えば当時のドイツ人の方々が、
ラーメンって言われても、
連想するラーメンって、
例えば日本人同士だったら、
頭の中で豚骨味噌醤油とかっていう違いはあるのも、
ラーメンのベースは想像つくじゃないですか。
牛丼って言われてもそうだし、
とんかつって言われてもそうだし、
でも当時のドイツ人ってそれがないんですよ。
その連想が。
ですから僕がやるのは、
当たり前を追求して、
当たり前のものを提供すること。
少しでも多くの品数に対応できるように、
あまり壁を作らないこと。
来たらどんなものでも食べれて、
どんなものでも出てくるっていうところに、
対応できるようにしたいと思って。
36:02
そこを一番大切にしました。
作ったお店ももちろん、
そういうものを幅広く、
どんなものでも食べれるっていう、
子供がお小遣いを持って、
昔の僕みたいに食べに行っても、
食べれるお店っていうのが、
僕のやりたかったお店だったので、
それを作りましたね。
当時のミュウヘンでは、
和食のお店ってあったんですか?
当時は2店舗かな。
2店舗か3店舗。
それも高級店で、
三船俊郎さんっていう、
俳優さんがいらっしゃったんですけど、
ミュウヘンオリンピックがあった時に、
札幌とミュウヘンが姉妹都市になったんですよ。
札幌から声をかけられて、
三船さんが出したお店があったのと、
あと大都会さんっていって、
キッコーマンさんグループがされてた、
鉄板焼きのお店がありましたね。
それだけ。
ぐらいでしたね。
本当におっしゃってたような、
日本人が食べてるような、
当たり前の和食屋さんってのは、
もうなかったってことですね。
始められてどうだったんですか?
ドイツの方の反応っていうのは。
お刺身に関しては、
お客様がお刺身を注文されて、
テーブルにお届けするじゃないですか。
そうすると、
うーん、
うーん、
じゃあこれを僕はミディアムレアにして、
これはなんとかでとかって言われるんですよ。
焼き方を言い出すんですか?
生魚を見せて、
こういう鮮度ですよ。
焼き加減どうですか?みたいな。
前もって見せてるだけって思ってるんですね。
そうでしょうね、きっと。
っていう方もいらっしゃるぐらいの、
まだ土壌だったんですよ。
認知度的にね。
例えばですけど、
とんかつとか、牛丼とか出しても、
これは牛丼じゃないよとか、
これはとんかつじゃないよとか、
とりあえず言われてしまう。
まず一言目に。
そんなことはないんですけど、
でも分からないから彼らも。
まだ疑心暗鬼なんですよね。
そういうスタートで、
お客様もすごく少なくて。
やっぱ苦労されました?
1店舗目の時は。
1店舗目の時は、
もう家に帰れないんですよ。
怖くて。
どういう意味ですか?
お客様がいらっしゃらない毎日だから、
もう1分でも長く店にいれば、
何かなるんじゃないかって思うような、
錯覚に落ちる、
ループに入っちゃってるんですよね。
だからもう家に帰れないんです。
怖くて。
でもメンタル的にきついですよね。
大変だったんじゃない?
おにぎりの厚さよりは全然大丈夫でした。
おにぎりの厚さよりはよかったんですね。
おにぎりの厚さよりは全然大丈夫でしたね。
なるほどね。
その状態をどうやって、
自分なりに打開っていうか、
克服していったんですか?
当時の。
続けることしかなかったですよね。
その続けること。
毎日。
39:00
組織になると難しいですけど、
どうしても自分のモチベーションだけでは、
人はついてきてくれないので。
その時スタッフは何人くらいいた?
1人です僕は。
やるしかなかった。
だからラッキーだったんですよ。
1人だったから無理も効いたし、
1人だったから周りの意見に流されなくて済んだんですよね。
なるほど。
やはりサービス業の仕事が好きだと、
どうしても
自分がっていうよりも
お客様がって思ってしまうじゃないですか。
だからあまりチームになりすぎてしまうと、
周りの表情とか、
周りのメンタルとか、
状況とかを考えて、
自分のアクセルとかブレーキを
踏んだりとか
なんとかってやりますでしょ?
ありますね。
それが当時は無いし、
考えにいとももなかったので、
そこはラッキーでしたね。
逆に孤独じゃないですか。
自分の考え次第ではあるけど。
でも仕込みとか考えたら、
時間があっという間に過ぎるんですよ。
そうなんですね。
いろんな料理を出さなきゃいけないので、
毎日仕込んで、
毎日準備して、
それを誰かから教えてもらって、
それができたわけではないのも多かったので、
どうしても自分でやらなきゃいけないじゃないですか。
やりそうですね。
だからそれ考えてたら、
時間が足らなかったですね。
悔しいのは、そうやってやっても
お客さんもいらっしゃらなかったら、
結局は自分で食べるしかないので、
それは辛かったですけど。
それはやっぱり、
どうやって上手くいったんですか?
ご自身がいろいろやったのか。
続けていったことが、
全てのポイントだったのか。
ある日、お客様に、
お寿司の巻物なんですけど、
お品書に、
巻物1本6貫って書いてたんですよね。
日本人だったら、
巻物1本6個って言ったら、
まず巻物1本の
細巻きの大きさのイメージって
付くじゃないですか。
お客様が、
これ6個って書いてるけど、
1個にできないって言われたんですよ。
日本人のお客様であれば、
細巻き1本6貫っていう
メニューの書き方でも、
すぐに頭に連想すると思うんですけど、
ただ、ドイツ人の方が、
僕に、
いやこれね、
6個は多いから、
1個だって、
できないのかって言われて、
なるほどと思ったんですよ。
ドイツ人の1個って、
ソーセージとか、
いやでも、
シュニッツェルとか、
向こうのとんかつですよね。
そういう感覚。
あの大きさをイメージしてるんですね。
あの小さいピースっていうのは、
想像つかないんですよ。
小さすぎますもんね、考えたらね。
なので全部写真にしたんです。
すべての料理、
すべて写真にして、
とりあえず店内すべて、
写真で埋めたんですよ。
見ればわかるっていう。
そう、見ればわかる。
で、周りを見渡したら、
42:00
これって指させる状態でした。
そこからは、
爆発しましたね。
やっぱりじゃあ、分からなかったからなんだ。
分からなかったんですよ。
興味はあるけど、
分からなかったんですよね。
その分からないものをやるには、
ちょっとチャレンジが大きすぎたから、
そうなんですよ。
価格がどうこうっていうことも、
もちろんあると思うんですけど、
それ以前に、
何が出てくるのか、
確かに僕も、
ピロ式とかいきなり言われても、
現物見なかったら、
ピロ式注文したいですもんね。
そうですね。写真があったら確かにわかる。
ボルヒチとかね。
名前だけだと全然わかんないみたいなね。
わかんないじゃないですか。
そう考えたら、テッカ巻とか言われても、
厳しかったなと思うんですよ。
カッパ巻とか。
名前だけじゃ全然わかんないですもんね。
それをわかりやすく、
伝わりやすく紐を解いて、
やることで、
環境は変わりました。
なるほど。
それが大きなきっかけになった。
お客様がいらっしゃり始めたきっかけとしては、
ものすごく大きな部分でしたね。
安心してお店に入れますもんね。
そうですね。
中から見ても、外から見ても、
その中の雰囲気もわかりますし、
その写真があれば。
それで家に帰るのが怖いみたいなものも、
だんだんなくなって。
忙しくなって。
でもそれは嬉しい。
そうですね。
そこから2軒目、3軒目と出して。
そうですね。
20代の時は、
すごく自分が
この場所の
輪の業態を
全部やるんだ、ぐらいの
変な使命感があって。
小さい日本通りを作りたかったりもしたんです。
なるほどね。
だから飲食以外に
美容室を作ったりとか、
パティスリーを作ったりとか、
日本のスーパーを作ったりとか、
同じ通りなんですけど、
っていうのをやったりとか、
いろんなことをしましたね。
なるほどね。
今では全然違うわけでしょ、当時と。
全然違いますよ。
街並みも。
街並みっていうよりも、
日本のものは増えてますね。
増えてる。
大谷賢治さん、
初めてのインタビューでした。
結構ドラマティックなお話を
いろいろ聞かせていただきましたけど、
本当にドイツに来ちゃったんだ、
みたいなね。
すごい行動力ですね。
若くして、
ドイツ語も喋らず。
私さすがにその年で、
それぐらいの年齢の時に、
全く知らない言語の
場所に
行ってみようとかって思わなかったですね。
すごいですね。
思いました。
もちろん来ることもすごいんだけれども、
来てから、
自分が感じていた
和食に対するイメージが違う
45:00
みたいなところから、
和食は高級みたいなね。
そこにちょっと
違和感を感じたみたいなね。
天ぷらは8000円みたいな。
でも当時のイメージだと、
お刺身自体も高かったから、
全部高いみたいな
イメージはあったかもしれないですよね。
そうですね。
私もね、
フランスに来たばかりの頃とか、
まだなんとなく和食って、
ここでもこのパリでも
ちょっと高めだったイメージがある
あんまりそんなに
簡単に食べられるものではない。
なんちゃって和食。
別の国の人がやってるね。
なんちゃって和食。
だったらどこでも適当な
お値段でいただけますけど、
そうじゃない、
やっぱり式が高いというか、
高かったですよ。
気軽になんか絶対食べれない
ってイメージでしたもんね。
そんな中で、
自分でレストランで働きながら、
おにぎり配達っていう。
朝6時にか。
可愛いんですけどね、
おにぎり配達って聞くと
可愛いじゃないですか。
でも実際はすごい労働ですよね。
睡眠時間を削って、
手が火傷しそうになり、
これがあるから
今つらくても
帰られるっておっしゃってましたからね。
すごいなぁ。
そういう中で、
自分で資金を貯め、
自分で紙芝居のようなプレゼンを銀行にし、
レストランをオープンさせて、
それでも最初は人が入らなくて、
写真をきっかけに、
わからなかった
ドイツ人の和食のイメージを
写真で見せる化して、
そこからうまくいき始めたっていう。
本当にドラマティックですよね。
本当に
その当時はまだまだすごく若かったからこそ
エネルギーが
行動力となったんだろうなと思います。
すごいですよね。
そういう意味では
こういう行動力って
本当にドイツ語もわからないまま
飛び込むっていうのは
確かにすごいし、
後でビザが必要だったって
わかったとかで
まず動く人なんですね。
すごいですよ。
確かに当時って
本当に地球の歩き方とか
ああいうのしかなかった。
紙に印刷された
情報しかなかったんですよね。
わかります。
だからインターネットで
今みたいに気軽に住んでる人の話とか
聞く機会もないので
行ってみなきゃわからないっていうのは
確かにその通りだなと
私も思ったし
私が来た時も
そんなに情報なかったですもんね。
ネット上にも。
ブログとかああいうのが
ばーっと広がってからだと思うので
だいぶ後ですよね。
そう考えると
逆に情報を知らないからこそ
飛び込めたみたいなところも
48:00
あるのかもしれないですよね。
2回目は
じゃあなぜパリなのかとか
どういうタイミングなのか
みたいなところの話を伺ってますので
ぜひ楽しみにしていてください。
ありがとうございました。
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次回もパリで学んだ
ぶれない自分の作り方を
お楽しみに。
秋でした。
49:08

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