1. イラストレーター原あいみの話
  2. #51 母ときちんとお別れができ..
2024-03-09 25:00

#51 母ときちんとお別れができました。

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4年前にくも膜下出血で倒れた母、
年末から色々な不調が重なり入院が長引いていました。先月にかなり容態が悪化し、何とか盛り返してほしいと願っていましたが、残念ながら先日、お別れとなりました。

blogの方では、倒れた当初から事あるごとにに母の事を綴って来ていたので、書くべきか迷いつつですが、今この時の事を書いておきたいと思い書き残しました。そして、最後の方は、私の声を聞いて欲しくて、実は母の話をしたこの音声配信も聞いてもらっていたので、声を聴いてもらうような気持ちで、母の横で収録してみました。
長いし、とてもプライベートな内容なので、こちらも公開するか迷いつつですが…(そのうち限定にするかもしれません)音声は文章とは違う、めちゃくちゃリアルな記録だという事も実感しました。


#母 #介護 #看取り
#親の看取り #親の介護

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https://stand.fm/channels/651cb17b0bc9d6e1d62d5e69

サマリー

イラストレーター原あいみは、母の話をしています。母は4年前に倒れて機能障害が残り、時間や空間の認識に問題があります。しかし、家族との時間を楽しむことができ、最後の4年間は喜びに満ちています。父は医師であり、家族との終末について話し合っています。彼女は結婚式前の日に母と一晩過ごし、感謝の気持ちを伝えることができ、とてもいい別れができたと感じています。最後まで母はチャーミングで、父のこともずっと愛していたような気持ちがあります。

母の倒れから回復まで
どうも、イラストレーターの原あいみです。
今日はですね、ちょっと母の話をしたいと思います。
この放送は、もしかしたら流すかどうかもわかりませんが、
ちょっと話しておきたいなと思ったので収録をしています。
昨晩、母が亡くなりました。
とても良い見取りができたんじゃないかなというふうに感じています。
すごく良い時間が過ごせました。
もちろん寂しいんですけどね、
満足っていう言い方があっているのかどうかわかりませんけど、
とっても良い時間を過ごせたなと思っています。
母はですね、4年前にクモマッカ出血で倒れまして、
なんとか一命を取り留めて復活して戻ってきてくれました。
そこから孔子の機能障害というものが残ってしまって、
少し時間と空間っていうんですかね、
ちょっとこんがらがってしまうことがあったりとか、
あと何か一つのことにものすごくこだわりを持ってしまったりとか、
そういった症状が残った状態ではあったんですけれども、
それでもちゃんと私たちのことはわかっていて、
しかも笑顔がね、ちゃんと出るっていうような状態で戻ってきてくれたので、
そこから4年間とても良い時間が過ごせたように思っています。
ちょうど4年前倒れた時、緊急事態宣言がコロナの出た時だったんですよね。
なのであの頃って本当に面会もできないままお別れをするというふうなご家族もたくさんいたと聞いています。
そんな時に倒れてしまったものですから、
もう本当にお母さんは戻ってこないかもしれない、
もう会えないかもしれないって思っていたところからの復活劇だったので、
この4年間でとにかく日に日にどんどんできることが増えていくっていう、
嬉しいがいっぱいの喜びにあふれた4年間だったなと思います。
最初の頃はちょっと過犬に近い感じで、
まだコロナ禍だったのでみんなでPCR検査などもしながら、
もしかしたらこれが最後になるかもしれないからということで、
一時退院をして家で全員で食事をしようというのを挑戦したんですね。
その時はまだ食卓の方には来られず、大きなベッドをレンタルで借りて、
しかもいろいろと点滴とかを抜いてしまうといけないので、
手袋、ミトンみたいなものもつけられて、
少し拘束みたいな感じも受けながら自宅でベッドで過ごす。
でも周りには家族がみんないて、お母さんが見える状態で食事をするということができまして、
そこからそれがもしかしたら最後の思い出作りになるかもしれないという気持ちで臨んだんですが、
かなりめきめきと回復をしていって、最初の頃は笑顔もなかったんですけど、
どんどんどんどん笑顔が出るようになって、会話もできるようになって、
いつしか食卓に車いすで一緒に座って、まるで普通に椅子に座ってご飯を食べているかのように、
みんなで食事ができるようになりました。
そのうち歩行の訓練とかもし始めて、少しキッチンに寄りかかりながら、
初めて包丁を使ってお野菜を切ったりする作業ができることができたり、
お皿を少し払ったりとか、そういうこともできるようになっていきました。
もともと歌が大好きな人で、めちゃくちゃ歌がうまい母だったんです。
父はそこに惚れ込んだと聞いています。若かりし頃。
20代くらいの話だと思うんですけど、若者たちで社員旅行かな、
行った時に夜、どういう状況なのかちょっと詳しくは聞いていないんですけど、
みんなで歌ったりとか、お酒も吐いてたんでしょうかね。
やいやいややってる時に、おい誰誰何歌えとか、そういうような感じになった時に、
これを歌ってほしいみたいなリクエストが出た時に、母がファッと手を挙げて、
一人で私歌うって言って立ち上がり、アカペラで歌い切ったらしいんですよね。
それが、なんだあの子みたいな感じですごく印象的だったっていう話をね、
父から聞いたことがあります。
なんかこのシーン、映画のワンシーンみたいだなと思ってね、
いつか漫画にしたいなと思った記憶がありますが、
そのくらい歌が上手な母だったんです。
なんですが、倒れてからはちょっとね、歌はあんまり歌えなくなってしまって、
ですけど、やっぱり音楽が好きな両親だったので、音楽に触れてほしいねということで、
オタマトーンだったら、手でね、簡単に音楽楽しめるんじゃないかって言って、
オタマトーンをね、みんなで買って、そしたらすごく面白かったんで、
私たち夫婦も買って、兄夫婦も買って、みんなでオタマトーン触ってみたいな日があったり、
あと鍵盤ハーモニカをやってみたりとか、ハンドベルをやってみたりとか、
いろんなことをトライして、音楽で遊んでもらえたらいいなというふうなトライもたくさんありました。
でもね、どんどんリハビリを重ねていったら歌も歌えるようになってきていて、
ほんと昔のお母さんの美しい歌声が最後の方はね、戻ってきたんじゃないかなっていうくらいなとこまで回復していました。
あとはね、諦めていた外食なんかもできるようになったりして、
愛知県に有名な、千田半島にある昔からの有名なお料理屋さんで丸葉食堂っていうのがあるんですけど、
いろんなところに今は店舗がねできてますが、丸葉食堂っていうのが原家はイベントごとがあると行くっていう、
誰かが何かに合格したら記念で行くとか、私も結婚が決まったら初めて旦那さんになる人を連れてきて、
みんなで丸葉食堂に行くとか、そういう記念ごとがあると行くっていうところだったんですけど、
もうまさかね、もうみんなで丸葉食堂は行けないねって思っていたのに、
母がちゃんと遠方のドライブも行けることになって、全員で丸葉食堂に行けたりとか、
もうそんなね、とにかく絶対もう無理だと思っていたことがどんどんどんどんどんできていく、
もう本当に楽しい4年間でした。
楽しい時間を過ごす
あと花火大会にも行けましたね。
そんな夜の時間に車椅子でね、結構人混みの中、花火を見るなんてことはね、絶対無理だと思ってたんですけど、
もううちの兄がね、とにかくかなりいろんなことに、兄はね、あの名古屋に住んでいるので、
すごくすごくあのいろんなことずっとトライしてくれていて、
それで計画してくれて、花火大会もね見ることができました。
あとね、ジブリが大好きな一家なんですけど、宮崎駿監督の君たちはどう生きるかをね、
映画館でちょっとずらーっと席取ってね、家族みんなで並んで見ることができたりとか、
もうとにかくね、無理だと思ってたことがたくさんたくさんできました。
で、すべてね、もうこれが最後かもしれないと言いながら、
家族の誕生日ごとに歌ってケーキ食べて、クリスマスごとに歌ってケーキ食べて、
兄のところに生まれた2人目の孫も抱っこできて、お食い染めとか記念写真も撮れて、
もうほんとね、もう無理だと思ってたあらゆることを、
お母さんがどんどんどんどん復活してリハビリ頑張ってくれたおかげで、
もう本当に笑いにあふれた、すごくすごく楽しい4年間でした。
父の介護と終末について
父はですね、あまりちょっと外で言ったことはないんですけど、親家のところで、
私の父は下界でして、
家のことはね、何にもしない、できないっていうタイプの人なんです。
まあ、世代もあると思いますが。
なんですが、この4年間はね、何もできなかった父がヘルパーさんの力を借りながら、
家のこと、母のこと、猫のこと、うち猫がめっちゃたくさんいるんですけど、猫のこと全部やって、
こうずーっとお世話してきたのが母だったんですけど、
お世話する人とされる人が逆転した日々でしたね。
基本車椅子なので、少し歩くときは父が両方の手を持って向き合って、
ダンスするかのように歩くっていう風に歩かないと歩行ができなかったので、
これをね、我が家ではジジババダンスって呼ばれてたんですけど、
そのジジババダンスしながらね、毎日毎日手を握って歩行をしてっていう、
そんな毎日でした。
普通ね、母が倒れてなければ多分手なんて繋がないと思うんですよね。
だから、まあ兄も言ってましたけど、
あの母がね、倒れたことで最後の、
これはもしかしたら贈り物だったんじゃないかなという気もしています。
あとこう、デイサービスにね、母が初めて行けるようになってきたときに、
初日にね、ちょうど帰ってこれたので実家に帰ってきてたんですけど、
母をデイサービスに初めて送っていく父の姿がですね、
保育園に初めてね、子供を預ける親にそっくりで、
あのプリントにね、持ち物とかタオル、名前を記入してとかいっぱい書いてあるんですけど、
それ全部、これも入ってるな、これも入ってるな、よしこれで大丈夫だなとか言いながら、
もうそわそわそわそわしてね、すっごいもう、
私が娘を初めて預けたときの状態にそっくりだと思って、
まさかね、まさか父のそんな姿が見れるなんて、
これもね、本当になんかいい機会だったんじゃないかなというような気がしています。
あとはですね、その母、孝児の機能障害っていうので、
結構こだわりが強くなってしまっていたので、
歯磨きとかしないときは絶対しないとか、
薬もね、いじでも飲まないとか、
なんかそういう頑固になってしまう時があるんですよね。
でも早く歯磨きしないと遅刻しちゃうんでね、
ほら早くしないと遅刻しちゃうよとか言いながら、
父がね、一生懸命声かけて歯を磨かせたりしてるんですけど、
そういう時もね、父はね、本当に一切イライラしないんですよね。
常にね、なんか笑いに変えてお世話をしているっていう感じでした。
歯を磨かない時は歯磨きの歌をね、替え歌で作ったり、
歩く練習の時は歩くね、ジジババダンスの歌を作って、
それを歌いながら歩かせたりとか、
なんかね、本当にね、普通だったらね、もういい加減しろよって、
声とか上げちゃうような状況なのになって思うんですけどね、
本当にこういつもね、その固くなんなっている母を笑いながら、
上手に面白がってね、お世話している姿を見て、
本当すごいなと思いました。
でもね、私自分が娘に対してそういうところあるんですよ。
なので、この父のこういう感じを私は受け継いだんだなっていう風にね、
その母のお世話をしている父を見て感じました。
先ほど父がね、医師だという話をしましたが、
父は外科医をしていまして、
たくさん、本当にたくさんの方の見取りを最後を見てきている人なんですね。
私が若い頃から、とにかくもうこれ以上よくなるっていうことが、
考えにくいと判断できた場合、
必要以上に面措置はせず、
その人らしく穏やかに最後を迎えるということがいかに大事かっていう話を、
とにかく進めてきたっていう人なんです。
なので、家族で割とそういう話も、
日常から結構会話で出ている家族だったので、
母が倒れる直前だったかな、
父が年齢的にも上がってきたので、
一度こういう話をしておきたいという風に、
家族が集まった時にね、お正月だったかな、
自分がもしこういう状態になったら、
必要以上の延命はしてほしくないと思っているとか、
そういったことをね、箇条書きにしたものをみんなにプリントで配ってね、
これは俺の意思だし、
お母さんもそう思っていると思うから、みたいな話をしてくれた時があったんですよね。
そういう会話が普通に日常としてできる家族だったので、
母もそういう状態になってきた時に、
これ以上、母がつらい状態で延命するっていうのは違うと思うっていう話を、
父からされまして、
私はもうずっとそんな父の下で生きてきたので、
父に賛同する形でした。
なかなかご飯が食べられなくなってしまって入院していた時に、
栄養をね、点滴で入れていたんですけど、
それがなんか不快だったみたいで、
母がもう無意識に抜いちゃうんですよね、その点滴を。
で、点滴抜かないようにやっぱり栄養は必要なので、
そうするとやっぱり、ミトンをつけられて拘束されてしまう、
みたいな状態になっている姿を見て、
父が、主治医の方が、
やはりこれ以上もう食べられるようになる見込みはないと、
感謝の気持ちを伝える別れ
結構きっぱりと言われたそうで、
それなのであれば、生きるためだけに、
命を長引かせるためだけに、
外で拘束されている、みたいな状態はおかしいと思う、
というふうに判断をして、
一旦ね、最後家に退院してきてみて、
もしかしたら家に帰ってきたら、いろんな刺激があったら、
孫にあったら、娘にあったら、
変わってちょっと食べられるようになるかもしれない、
という最後の奇跡を、望みを託してやってみたんですけど、
やっぱり食べられなくて、
むしろね、母が拒んでいるような感じもありました。
もう自分は無理には食べない。
味がすごくおいしく感じない状態だったみたいで、
飲んだりするのもつらいっていう感じみたいだったので、
もう食べることを自分はやめるっていう判断をしたかのような雰囲気にも見えていました。
なのでもう一切食べなくなっていってしまって、
それでちょっと自宅にいるのはなかなか難しいので、
最後やっぱりもう一度病院に戻ってしまったんですけど、
その時に点滴をするかどうかっていう、
もう一度話し合いをしたんですが、
兄はね、何とかもう一回点滴をして復活できないかっていうのを、
希望を持っていた感じでしたが、
じゃあ母に聞いてみようということで、
点滴したい?っていうふうに聞いたら、
もう絶対したくないっていうふうな意思を表明したそうなので、
私はちょっとその場にはいなかったんですけど、
ということで、最後点滴をするのはやめようというふうにみんなで決めました。
そういうのをしてしまうと、いつ抜くんだっていう話とかになるので、
とてもとても難しい問題だと思うんですけどね。
なんですけど、うちは本当に父の仕事のおかげで、
昔からそういう共通認識というかできていたっていうのは、
だいぶ判断をする時に気持ちの整理がつけやすかったかなというふうに思います。
そんな感じで自然にずっとゆったりと穏やかに弱くなっていく母の姿をそばで、
ずっと一緒にいられたわけではないんですけど、見れたかなというふうに思います。
最後実家に帰ってきていた時に、私は遠方に東京に住んでいるから、
もう最後の時に立ち会えることは難しいと思っておいた方がいいというふうに、
父にも兄にもはっきりと言われていたので、
お母さんの意識がちゃんとしている状態で話ができるのは、
これが最後だと思いなよというふうに言われたので、
でもね、とはいえ別にまだそんなにすぐに死んでしまうような雰囲気ではないんですよね。
だけど最後かもしれないと思って話すとやっぱり涙が出てしまうし、
私最後だと思っているってお母さんに思われるなみたいな、
そういうのもすごく複雑だったので、どういう感じでしゃべるべきかなという迷いもあったんですけど、
ちょうど少し前に話しましたが、新聞取材を受ける直前だったんですよ。
家族のことを話そうという取材を今度受けるんだよという話をしていたので、
それにちょっとカコつけてね、こんな話をしようと思っているんだっていう話をしようと思って、
この取材のおかげですごいいろいろ振り返ったんだよっていうのを、
全部母にゆっくり話すことができました。
もちろんボロボロ泣いてしまったんですけど、
ここで多分話さないと絶対降下するなと思ったので、
取材を受けるというようなことを使わせてもらって、
すべて考えたこと、今までのこととか自分の両親に対する思い、
今娘に対する子育ての思いとかも全部話してこれて最後そんな時間も取れました。
とても長くなってしまいました。
これは放送するかどうかわかりませんが、今話しています。
というのも、こうやって音声配信をしているよっていうのを、
本当は親には聞いてほしくなかったんですけど、
母がどんどん悪くなっていってしまっていた時に、
もう書いたり読んだりとかもあんまりしないし、
でも音だったら最後までね、死ぬ間際まで耳は聞こえてるってよく言うじゃないですか。
なのでこの音を聞いてくれたら、
勝手に娘がラジオに出てるって思い込んで喜んでくれるかもしれないっていうのもあって、
母の話をした回のことを父に伝えて、
よかったらこれ聞かせてみてっていう風に話して聞いてもらったんですよね。
そうしたら貧乳が母からの遺伝だみたいな回を聞いてくれて、
ペチャパイも悪くないって言ってるっていう返事が来て、
そういうのも嬉しかったですね。
そんな感じで、今音声の配信とかもやってるし頑張ってる。
いろんな方法で発信とか、これからも頑張っていくよみたいな話を最後に話した時にもしたので、
今日はおつやの前の日で、
今式場の控室みたいなお部屋で、
私が今日は母の横で一晩ついている役なので、
二人きりなんですよね。
こんな広いところで静かで一人だけ、
母はいますが二人だけでいるのもちょっと寂しいし、
それだったらお母さんに話しかけるみたいに、
ラジオとか頑張ってんだよみたいな話をしたので、
収録してみようかなと思って、
今この時、この日に思ったことを収録してみようかなと思い話してみました。
割と泣かずに元気に喋れてますが、
たぶんまだ実感がないからでしょうね。
まだ亡くなった気がしないんですよね。
実態もいますしね。
昨日も最後の日は反応は薄くなってたんですけど、
私も兄もたくさん話せて、
私が帰ってくるのを待ってくれてたのかなという感じもします。
たくさんの感謝と、私たちはずっと大好きだったということを伝えられました。
とはいえ、今晩いきなりってこともないかもっていう感じで、
一旦食事をしてこいというふうに言われ、
私と兄だけ病室を出て、
父と母と二人きりになったんですよね。
そしたらそこで、私たちがいなくなったことで、
父がたぶん母にいろいろ最後、ものすごい感謝を述べたって言ってましたけど、
話せたらしいんですよね。
そこでずっと寝てたんですけど、
父が感謝の言葉を述べたら、
最後に目を開けて、それでなくなったというふうに聞きました。
なので、最後は父と二人でいたかったのかなというふうに思います。
だから思いの丈は、子どもたちはちゃんとしゃべった上で、
最後二人きりになれて、
すごくすごくいいお別れの仕方ができたなというふうに思いました。
言葉が話せなくなっても、目とか手の身振りとかのリアクションが、
最後の最後までずっとチャーミングな母でしたね。
父のこともずっと好きだったんだなっていう雰囲気がずっとある母親だったので、
本当に最後素敵な別れをしたんじゃないかなというふうに思います。
素敵な最後の別れ
自分が亡くなるときどんな感じなのかなとか、
夫が亡くなるときどんな感じなのかなとか、
やっぱりいろいろ考えますね。
母にはね、うちはまだ娘が小さいので、
とにかくこの子が大きくなるまで、
私は筋トレしてしっかり長生きするし、
こういう仕事をしているから、まだまだできることがあると思うから、
もうちょっと頑張って書いていくよというふうに約束をしましたので、
もうね、母に筋トレするって約束しちゃったんで、
ここから結構ね、約束を守るために頑張れるかなという気がしています。
はい、ということで非常に長くなってしまいましたが、
今日は母のことを話してみました。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
イラストレーターの原江美でした。
25:00

コメント

いつも聞かせていただいてありがとうございます。今回も、ありがとうございました。話し方も内容もとてもすてきでした。 (コメントごと、この回がなくなっても気になりませんので!)

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